オーガのおまじない
このお話は、やや同性・兄弟同士の恋愛表現のようなものがございます。閲覧の際はご注意ください。
事前に知らされてはいたものの、『その日』が近づいてくると思うと、ジンは何だか複雑だった。
一年と少し前、ジンは兄のオーガと共に、ネルに連れられて極東の島国へたどり着いた。
追手から逃れる為、長い道のりを歩んできた。そして人生のほとんどが逃亡で埋め尽くされていた。
平穏も安心も程遠い道のりだったが、不思議とジンはそれが嫌ではなかった。オーガとネルがいたからだろう。
日本という極東の島国に存在する死者の国・黄泉へ転がり込んで、一年と数月をそこで過ごしていた。
というのも、追手が死や血といった穢れを嫌うからだ。黄泉は死者の国である。穢れのたまり場であるその場に近づこうなどとは思うはずもないだろう。
だが、追手も知恵を付けた。
ジンの主人であるネルは、日本の人間たちを大切に思っていた。その心をうまく利用した。
人間は原則として地上である中つ国に暮らす。ここは生者の国なので、穢れ自体が少ない。
その人間を手にかける、とネルに牽制したのだろう。そうなっては、ネルも日本から出て行かざるを得ない。
そこで、ネルはジンに話をもちかけた。
「私の代わりに、日本を守って」
その言葉はつまり、自分は日本に残れと言うことだ。
ネルとオーガはまた逃亡の旅に戻る。自分だけ、日本に居残りだ。
口では「分かったよ」と答えても、心はそれに反抗した。
自分だけがここに残るのが、どうしても嫌だった。
トラと人間の半人半獣は、『その日』が永遠に来なければいいとさえ、思っていた。
ジンは日本に来てから、ほとんどトラの姿で過ごしていた。その方が楽だし、拾ってくれたカグツチに人の姿を見せるのが何となく癪だったからだ。
そんなジンが、今は珍しく人の形をとっている。もちろんカグツチのいない場所で。夜も更けたこの時間、カグツチは既に寝ている。
ぼろぼろのカグツチの屋敷の、奥の一室で、ジンは黙々と愛刀の手入れをしていた。刀身を拭い、鈍く光るそれを見つめる。
よく磨かれた刀身には、人間である自分が映っている。
くせ毛の黒髪に、ひとふさだけ金色に光る髪が混ざっている。橙色の瞳は、何だか元気がない。やっぱり、自分は居残りが嫌なんだろうな。
ふと、ふすまの開く音がした。とん、とん、と静かな足音が近づいてくる。ジンは振り向かない。愛刀を鞘にしまう。
とん、と背中に誰かがもたれかかった。振り向かなくてもわかる。こんなことするのは、オーガしかいない。
「太刀の手入れしてるから危ないぞ」
ジンは背中にもたれる兄にそういった。
「もう手入れは終わってるじゃないか」
優しい声が、答えた。
ジンは愛刀をそっと置き、そこでようやくオーガの方を振り向いた。
そこには、自分と瓜二つの青年が優しく微笑んでいた。黒髪も、ひとふさまじった金色の髪も、橙の瞳も、まるで同じ。違うのは、表情の柔らかさと服装くらいなものだ。
「で、どうしたんだよ」
「ネルがね、困ってた。ジンには悪いことした、ってさ」
オーガの言っていることは、おそらく自分を日本に残す件であろう。
自分はうなずいたつもりだったが、本心は見通されていたわけだ。長年、苦楽を共にしてきたネルだからこそ、それを読み取ることができたのだろう。
「……別に、ネルがそうしろっていうなら、それに従う」
「でも心は嫌だって言ってる」
「俺でもないのによく言う」
「分かるよ。だって君の兄だもん」
ジンとオーガは、双子の兄弟である。見た目を除けば性格や戦い方など表面上の差はあれど、この二人は魂とか心といった根本では、似ていた。似ているというより、同じと言っても問題ないほどに、二人はお互いをよく知っている。
「……ねえ、ジン。ジンは残るのが嫌なの?」
「嫌だよ。ずっと一緒だったのに。俺だけここに残れなんて」
「じゃあ、僕と代わる? 僕がここに残って、ジンがネルについてくの」
「そうじゃない……!」
ジンの声に苛立ちが交じり始めた。
「やっぱり」
オーガはそれを聞き取り、確信を持ってジンにたずねた。
「ジン、僕と離れるのが嫌なんでしょう?」
あくまでやさしく微笑む兄に、ジンは唇を引き結ぶしかない。違う、と否定できない。
その通りだった。ネルと一緒に行けないことが嫌なんじゃない。日本に残るのが嫌なんじゃない。
ただ、自分だけ残って、オーガと離れ離れになることが、何よりも耐えられなかったのだ。
ネルよりもずっと一緒だった。生まれる前から一緒だったこの兄と、物理的に離れることが考えられなかった。
意識しなくても、傍にはオーガがいたのだ。これからは意識してもオーガが傍にいない。
オーガのことを誰よりも大切に思っているから、誰よりも信頼しているから、誰よりも心を許せるから、その存在が自分から離れるのが、どうしようもなく嫌だった。
膝に置いた手が、自然と握り締められる。オーガを真っ直ぐ見ることができず、視線が下に落ちる。何も言えない。否定も肯定もできない。ただ、オーガの言葉に間違いがないのが悔しい。認めたくないのだろうか。認めてしまうと、オーガに負けてしまう気がしたから? 兄に、一歩先を行かれそうで怖いから? どちらにしても、なんとも幼稚な抵抗だ、とジンは心中自嘲した。
「ジン、分かってくれとは言わないけど、大丈夫だよ。逃げてるうちに、またこちらへ戻って来るから」
「戻ってくるっていつだよ。そんな遠い先のことなんてわかんねえだろうが。戻る前に、もしかしたら力尽きるかも知れない。一生会えないかもしれない。ずっとずっとあんたを待ってなきゃならないかも知れない。……そんなの嫌だよ」
ジンは八つ当たりのようにオーガをせめたてる。オーガの胸倉をつかんで、強引に揺さぶる。される側のオーガは、困ったように苦笑するだけで、何も慌てることがない。
「あんたは違うかもしれないけど、俺にとってのオーガは双子の兄である以上に、俺の半身なんだよ。半身を引きちぎられるような思いなんだよ。ネルがそうしろっていうなら従う。だけど、何でこうなるんだよ……。日本のことなんて、どうなったっていいじゃねえか」
「ジンはそうでも、ネルは違うからね。僕もネルと同じ気持ちだよ。僕は人間好きだし、よくしてくれた彼らを守るためにも、彼奴らを退ける術を知る者がどうしても日本にいる必要があるんだ」
「簡単に言うな!! 俺はこんなとこどうだっていい! オーガと一緒にいられるなら、こんなとこ捨てたっていいんだ……。離れたくない。オーガと一緒にいたい……!!」
荒れた声になる。どこまでも冷静で論理的で、オーガの言葉にはこちらの反論などつけ入る隙もない。ジンはがくりとうなだれて、いつの間にか手の力も抜けていく。ずるずると、下へ落ちて、オーガがその手を優しく受け止めた。
「…………そう」
ふいに、オーガの声が低くなる。
「離れたく、無いんだね」
ジンは小さくうなずいた。
「じゃあさ」
オーガの声が、少しだけ怖くなる。ジンは本能でばっと頭をあげて、距離を取ろうとする。が、遅かった。
手を掴まれて、逃れられない。
「ずっと一緒にいられるおまじない、してあげる」
そう言って優しく微笑むオーガが、怖かった。
後ろに押されて、どっと押し倒される。癖っ毛の髪が畳に散らばった。
オーガが馬乗りになって、ジンの手を緩やかに拘束する。
「オー、ガ……?」
「離れていても、ずっと一緒だっていうおまじない。最初は痛いけど、すぐに終わる」
「なに、言って」
「あ、大声出しても大丈夫だよ。皆寝てるし、この一室は誰も近づかない。そういう術をしかけたから」
それは裏を返せば、大声を出すほどの『おまじない』ということだ。
「大丈夫、怖くないよ」
オーガが、ジンの服を肌蹴させた。シャツのボタンをぷつぷつ外して、ジンの胸をあらわにさせる。
二の腕あたりをぐっと押さえつけられて、ジンは身動きが取れない。馬乗りされた状態だから、足をばたつかせても意味はない。
「ジン、ちょっと痛いからね」
そういって、オーガはジンの左肩に、牙を刺した。
「いッ!!」
噛みつかれた肩が、びりっと痛む。相当深く噛まれた。トラの状態の自分やオーガは、敵をこうして牙で噛み殺していたが、自分が噛まれる側になるとは思わなかった。
じんわりと左肩に痛みが広がっていく。オーガの牙が食い込んで、皮膚を食い破った。
牙が、まだ刺さっている。肩が熱い。焼けるように痛む。
「オーガ、なに、を……」
切れ切れとしたジンの問いに、オーガは答えない。さらに牙をくいこませて、ジンに苦悶の声を漏らさせるだけ。
「ぁ……ッ」
「……」
痛みにこらえ、ジンは歯を食いしばる。いつまでこんな時間が続くんだろう。感覚が麻痺して、オーガに喰われていることが心地よくさえ思えて来た。
体が肩を中心に熱を帯びて来る。息が苦しい。肌蹴た胸にひんやりと風が入り込んで、少しだけ涼しい。
かぱ、と牙が引き抜かれた。相当深く食い込んだそこは、小さな穴が開いており、たらたらと鮮やかに血が流れていた。
「う、く……」
「……よくできました。いい子」
オーガはそう言って、ジンの傷口に舌を這わす。
ざわっ、と悪寒が走った。生ぬるさが痛みと合わさって、わけのわからない感覚が伝わる。
「ひ、や……」
「ジンの血は、甘くておいしいね」
オーガは一滴残すことなく、ジンの血を舐めとる。愛おしそうに、飢えた者のように、舌でそれを受け取ってゆっくり飲み込む。
ようやくオーガがジンから顔を離した。いつもの優しい微笑が、月の光に照らされて、恐怖を醸し出していた。いつもと変わらないはずの微笑なのに、ジンは今だけこの兄が、兄の皮をかぶった怪物のように思えてならない。
ふいに、オーガが自身の指に、愛用の双剣一振りの切っ先を突き立てた。ぷつっ、と人差し指から血があふれ出る。剣を鞘にしまい、流血したその指を、ジンの唇に当てる。
「飲んで」
ほら、とオーガが促す。ジンは怖くてその場しのぎのように従った。
牙を立てないように、できる限り慎重に。オーガの指先に舌をそっと当てる。ちろちろと舌を動かして、オーガを傷つけないように、血を舐める。
「飲んで」
オーガが再び促す。ジンは舌で拭った血を、喉に流し込んだ。こくん、と喉が鳴る。すっ、とオーガが指をようやく引き抜いた。
「……うん、いいこ」
オーガは優しくジンの頭を撫でる。が、ジンを解放しない。まだ『おまじない』は続くのだ。
「これが、離れなくなるおまじない……?」
「そう。お互いの血を分け合うとね、心がずっと一緒にいられるんだ。理屈じゃないんだよ」
「……そ、か」
「忘れないで。体が離れても、心はいつだって君と一緒にいるよ、ジン」
オーガがジンを抱き締める。
ふいに、体が熱くなる。鼓動が早くなって、体の奥の方がうずいている。
ジンは息苦しさを覚えて、無意識にオーガに縋りつく。
「オーガ、オーガ……」
「ああ、おまじない、効きすぎたんだね。僕らの血って、神獣の血もまじってるからわずかの量でも効果が大きいんだよ」
「はぁ……はぁ……オーガぁ……」
頬を赤らめて、涙目で必死に助けを求めるジンに、オーガは相変わらず優しい微笑を向けた。
「大丈夫、ちゃんと冷ましてあげるから」
そこから先の記憶を、ジンは覚えていない。
ふっと目を覚ますと、すでに夜が明けていた。
ジンは寝ぼけた頭を叩き起こし、上半身をゆっくり起こした。
左肩に触れてみる。オーガに噛まれた痕が残っている。塞がってはいるものの、痕が残った。
体がだるい。鉛が仕込まれたかのように重く、体のあちこち……特に腰あたりが痛かった。
爪に皮膚が食い込んでいる。知らないうちに、オーガに爪を立ててしまっていたのだろうか。
服の乱れはない。綺麗すぎるほどに整っている。
体が痛いのと頭がぼんやりするのを除けば、あとは何もない。ただ、記憶が一部飛んでいるだけだ。
そういえば、とジンは考えを巡らせる。
今日は、ネルとオーガが日本を出ていくんだった。
きっとカグツチはそれを止めるだろう。自分は、それを阻止しなければ。
ジンはトラに化身し、一室を出た。
オーガのおまじないによるものだろうか。心がすとんと落ち込んで、納得してしまっていた。
物理的に離れていても、心はずっと一緒だと。
そう思うことで、オーガと別れることが、さほど苦ではなくなっていた。
「……しかたねーな」
飛んだ記憶をゆるゆると思い出そうとしながら、ジンはカグツチのもとへ向かう。
『カグツチ、トラを飼う』の時間軸でジン視点のお話でした。ぶっ飛んだ記憶でジンがオーガに何をされたかは……あれです。