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八幕 マイ 決して壊れて告げ白む

決壊告白


「憎かった。そう、憎かったよ、あの男は。ああいう男は、大嫌いなんだ」

 一語一語を噛み締め、自らに何度も問い直しながらマイはそう口にする。そしてそれは、間違いようのない事実のはずだった。

 けれどもアイは訝しげに眉根を寄せ、ゆっくりと問い掛けてきた。 

「それは、本当?」

「当然。アンタだってそうでしょう? あんな男」

「あなたも、彼に何かされたの? ミイがされたようなことを」

 その問いかけに、マイは一瞬言葉を詰まらせる。何の心当たりもないことだったにも関わらず、即答できなかったことに釈然としないものを感じた。もどかしさとも違う、忘れ物をしてしまったかのような、居心地の悪さを。

「まあ、何もされてないよ。わたしはね。でも、時間の問題だったかな。いつかきっと、ミイと同じ目に遭ってたよ」

「どうして、そう思うの?」

「同じだからだよ」

「同じ?」

「あの男の目と、わたしの兄さんの目が」

「あなたの、兄」

「ああ、そっくりだったよ。わたしを殴るとき、兄さんの目は、いつもギラギラしてた。他人に対する思いやりなんて欠片もない、自分の欲望しか頭にない、そんな目だよ」

 そうかな、とアイは首を振る。

「わたしには判らない。彼に弱い一面があることは認めるけど、あなたにまで暴力を振るう度胸があったとも思えないよ。弱い人間は、自分と同等か、それ以下の人間にしか噛みつかない、違うかな」

「アンタこそ判ってないね。弱い奴ってのは、いや、人間なんてものは皆、いつだって他人に隙が出来る機会を窺ってるもんだよ。自分が優位に立てる瞬間ってやつをさ。親しげな顔をしながら、素直に従う振りをしながら、じっとね」

「よく、判らない」

「アンタだって、同じだよ。アンタ自身、そんなこと意識しちゃあいないかもしれないけどさ、あの男をぐうの音も出ない状況に追いやって、従わせたんだろう?」

 アイは目を細め、唇を引き結ぶ。思い当たった何かを堪えるかのように。

「アンタもいつか寝首を掻かれたかもしれないね。まあ、アンタみたいな女が隙を見せる姿なんてちょっと想像はし難いけど。いや――」

 マイは唇の端を吊り上げてみせる。

「実際のところは、もう立場は逆転していたのかな。男と女の力関係なんて、優劣の表と裏がくるくるくるくる変わって、どっちが本当に強いのか弱いのか、傍目にはそうそう判るもんじゃないからね。違うかい?」

「かも、ね。だとしても」

「うん?」

「わたしはそうだったとしても、あなたは? あなたと彼の関係は、どちらが主導権を握っていたの?」

「わたし、だったろうね。一応は。でも、さっきも言った通り、そんな力関係なんて当てにならないから、いつ立場がひっくり返ってもおかしくなかっただろうね」

「そう……なの? そういうものなの?」

「そんなもんさ。たとえばわたしはあの男がミイを殴ってたことを知ったとき、とんでもなくイラついた。ムカつき過ぎて吐き気がした」

 マイは思い出す。男の部屋から泣きながら出てきたミイの姿を。片目が塞がるほどに腫れ上がったミイの顔を。部屋の奥で、泣き笑いのような表情を浮かべて呆けている男の姿を。

「でも、そのムカつきが不安の裏返しだってことも、判っていたつもりだよ。怒りってものの根っこにあるのは恐怖だって、アンタなら判るだろう? 実際のところ、わたしは怖くて怖くて堪らなかったからね。あの男の暴力が、いつわたしに向けられるか判ったもんじゃなかったからさ」

「一度、あの人とあなたが二人でいるところを見たことがあるけど……とても怖がっているようには見えなかったよ。彼は、あなたに対してすっかり頭が上がらないように見えたけど?」

「そりゃあ、そうだよ。わたしは誰に対しても、少しでも弱味を見せないよう振舞っているから。舐められるのはムカつくからね。もちろん、あの男にだって最初からそんな態度だったし、ミイの一件を知った日からは特に徹底したよ」

「ふうん。でも、不可解だね」

「アンタには判らない……かもしれないね。アンタみたいに、頭の回路が少し飛んでる女にはさ」

「違う、わたしは」

 どっちにしろ、とマイはアイの言葉を遮った。

「どっちにしろ、わたし自身、あの男との関係が危ういものになりつつあるとは感じていたんだ。不安を抱えたまま誰かとおつき合い――なんてのは、気持ち悪いったらないからね。だからアンタが横槍入れてきたときは、ラッキーだと思ってたんだ。喜んでくそ面白くもない舞台から降りてしまおう、ってね。それなのに、アイツ、あの男、わたしと別れようとしなかったんだ。わたしを離そうとしなかったんだ」

 身体の奥から這い上がってくる寒気に、マイは腕を抱く。

「冗談じゃない、そう思ったよ。別れられないなんて。逃げられないなんて」

 と、そこでアイが淡泊な声音で、それ、と口を挟んだ。

「それだよ、わたしが不可解だって言ったのは」

「え?」

「どうしてそこまで判っていて、さっさと逃げ出さなかったの? 怯えていたのに、彼と接触し続けたの? 判らないな。あなたなら、さっさと見切りをつけることができたはず。違うかな?」

「え……それは……」

 ――あれ?

 ずれている、とマイは気づく。いま考えている自分と記憶の自分が噛み合わない。一致しない。重ならない。

 ああ、とミイが息を呑む。

「それなんですね、それがマイさんの抱えている歪みなんですね」

「そう、みたいだね」

「マイさんが見たくないマイさんの姿なんですね」

「誰でも見たくはない、自分自身の姿だね」

「何が、潜んでいるんでしょうね。わたしは見たくありません」

「同感だね」

 違和感の中、マイは無理矢理に口を開く。自分自身でも何を言いたいのか理解できないままに。それでも言わなければ、という焦燥感に駆られながら。

「それは……だって、わたしは見捨てられなかったんだよ、あの人を」

「見捨てられない? 彼を怖がっていたなんて言っておきながら、ずいぶん矛盾したことを言うんだね」

「だってさ。だって、あの男は、ほら、縋りついてくるように、わたしを見たんだよ。わたしに、泣いて頼んだんだ。あんなことされてさ、見捨てるなんて、放っておくなんてさ」

 喋りながら、マイは自分が喋っている訳ではないような、心許ない感覚に囚われる。いま言葉を発している自分と、それを考えている自分とが乖離してゆく。

 ――あれ? あれあれ?

 逸れてゆく。自分自身が逸れてゆく。

「できなかったんだ、わたしには。どうしてだろうね、笑っちゃうよ。嫌いだったのに。虫酸が走るくらいに、大嫌いだったのに」

 そんなマイの様子に、アイは僅かに目を伏せ、小さく溜息を漏らす。

「判らないよ、マイ。わたしはあなたの言っていることが判らない。あなたが判らない。いえ、それどころか、どんどん判らなくなっていくみたいだ」

「判らないって、そんなことはないはずだよ? だって、そうでしょう? アンタとわたしの気持ちは同じだ。なら、判るはずだよ。たとえ嫌いでもさ、あの哀れみを乞う目とか、そんなところまで兄さんとそっくりだったんだ。放ってなんておけないよ、無理だよ、そんなこと。わたしの気持ちとか、そんなのどうでもいいんだよ。わたし自身がどうなっても、兄さんを助けてあげなくちゃいけないんだ。わたしは、兄さんが」

 ――誰だ、これ? 誰、これ? あれ?

 マイには判らなかった。いま喋っている自分が誰なのか、判らなかった。間違いなく自分であり、自分ではない。

 離れてゆく。重なって、離れてゆく。重なりながら、離れてゆく。重なっていながら、離れている。

「だけど、こうも思ったんだ。飲みこまれるって。このままじゃ、わたしはまた同じことを繰り返すって。今度こそ、本当に逃げられなくなるって。ねえ、判るでしょ? アンタなら? わたしとアンタは同じなんだから、判るでしょう?」

「いいえ、判らない。判らないよ」

 アイはゆっくりと首を振る。まるで憂いを帯びているかのような顔で。

 マイにはその表情が苦しそうに思えた。あるいは悲しそうにも。気まずくなったので、無理に笑ってみせた。乾いたような声を上げながら。

「うん、そう、だね。そうだよね。何を言ってるんだろうね、わたしは。判る訳ないよ、うん。けど……さ、そう、今度こそちゃんとやらなくちゃって、思ったんだよ。あの男に、兄さんに捕まる前に、逃げられなくなる前に、自分で始末をつけなくちゃいけなかったんだ」

「始末? どういう意味かな、それは」

「あのね、わたしはね、兄さんから逃げるときに兄さんを殺し損ねたんだ。あれだけ殴ったのに、あれだけ叩いたのに、殺せなかったんだ」

 忘れようとしても忘れられない。兄を殴り倒した夜の出来事は、マイの脳裏に焼きついていた。いつものように、マイのベッドに忍び込もうとしてきた兄。顔に近づいてくる影が見える。影が身体に圧し掛かってくる。影の、兄の息遣いが迫ってくる。夜の間、ずっと握りしめていたハンマーの柄はすっかり汗ばんていた。兄の手が毛布を払い除ける。マイはハンマーを握り直す。強く、強く握り締める。兄の手が、マイの肩に乗る。妙に優しげで、だからこそおぞましいその手触り。マイは勢いよく起き上がり、目を瞑りながら、ハンマーを振り下ろす。肉と骨を潰す感触がマイの手に広がった。その感触を振り切るように、影に向かってハンマーを振り下ろす。悲鳴にもならない呻き声がマイの耳に届いた。その声を聞きたくなくて、兄にハンマーを振り下ろす。振り下ろす、振り下ろす、振り下ろす。

 それでもマイの兄は死ななかった。苦痛に悶え、唸り声を上げていた。マイはベッドから抜け出し、用意しておいた手荷物を引っ掴んで自分の部屋を飛び出した。自分の家から、何よりも兄から、ただ逃げ出した。当てもなく、夜の街へ。ハンマーを握り締めたまま。

「逃げ出したあとはさ、友達の家だとか、その辺で知り合った連中だとか、とにかく色んな奴らの部屋に泊めてもらったよ。たまに売りやったりして、小銭稼いだりしながらさ、それでもどうにか生きていけたんだ。なのに結局また同じことを繰り返した。逃げ出した先でまた兄さんに捕まっちゃった。だからさ、あの男をちゃんと殺せば、今度こそ逃げられる。もう二度と、兄さんに捕まらない。そう思ったんだ」

「あなたは」伏せていたその視線を真っ直ぐマイに向け直して、アイが問う。「それで逃げられると本当に思ったの?」

「もちろん。わたしがこの手で兄さんさえ殺せば、あの男さえ殺せば、それでわたしは自由だよ」

「本当に、そう思った? 兄を殺し損ねたあなたに、あの人を殺すことができたとは思えないけれど」

「何を、言ってるのさ」

「だって、そうでしょう。あなたが兄を殺し切れなかったのは、殺したくなかったからではないの?」

「違うよ、違う。それは違う」

「嘘でしょう? 本当のところ、あなたは兄を失いたくなんてなかったんでしょう? だから――」

「違う!」

 その叫びは、マイにとって自分自身の声であり、また、まったくの他人の声でもあった。そもそも、何が違うのか。兄を殺したいと思ったことか。殺したくないと思ったことか。あの男を殺したいと思ったことか。あの男を殺したくないと思ったことか。そもそも、そんなことは考えたこともないということか。

 ――わたしは、「このわたし」は、決して記憶を捻じ曲げたり、自分に都合のいい夢を見たり、事実ではない妄想を信じ込んだりはしない、極めて真っ当な人間であり、いまこの部屋にいる女たちみたいに異常ではなく、冷静に思考し、冷静に物事を判断し、冷静に行動することが可能であり、だからこそ殺人などに手を染める訳もなく、自分にもたらされる利益と不利益を測り、余計な危険を冒すことなく、より安全に、より実現可能な手段のみを用いて生き抜くことを信条とし、それ以外の不合理な言動の一切を忌み嫌う者であり、ただそれのみを貫徹することを誓った者であり、自分自身に一切の不安はなく、自分自身を疑わず、自分自身こそが全てであると宣言する者であり、わたしは、だからこそ、「このわたし」は――

「わたしは殺したかった! あんな奴! 兄さんのことなんて大嫌いだったんだ! 兄さんは、運よく生き延びただけだ!」

「そうかしら。疑わしいね」

 アイが冷たく言い放つ。その顔に浮かんでいたように見えた微かな感情らしきものは、もう欠片も残っていなかった。

「そうだよ! わたしは、わたしは兄さんにそっくりなアイツなんて大嫌いだった! 憎かった! 殺してやりたいくらいに」

「なら、殺したの? あなたが。彼を。あの人を」 

 ミイが泣き声を漏らす。

「どうしてなのかな? どうしてこんなことに」

「ウサギが死んで――」

「たとえ事実だとしても、こんな光景、わたしは見たくない……見たくないよ」

「不思議の国への穴だけ空いて――」

「誰かの心なんて、本心なんて、掘り返せば掘り返すだけ、悲しいものしか出てこない本心なんて、そんなもの、ずっと閉じ込めておけばいいのに」

「時計が壊れたままだから」

「もう、見たくない」

「壊れる前にウサギは死んでいて――」

「何も聞きたくもない」

「それでも願いだけは叶えてあげたくてね。それで――」

 マイは両手を開いて、じっと見つめる。簡単にへし折ってしまえそうな細長い指。頼りなく、決して力強さなど感じられない、ちっぽけな手。しかし、血で汚れたことのある手。人を殺そうとした手。殺すことのできる手だ。

 ――ああ、そう。そうだね。そうだった。

「殺せるんだ。わたしは。いつだって、誰だって。だから、わたしは――」

 強く手を握り、もう一度、ゆっくりと開く。

 その手をじっと見つめた。

「彼の首を切り落としたんだ」

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