六幕 ミイ 逆らって襲い、逆らわれて襲われて、逆さまに
逆襲
誰も動かなかった。喋ろうともしなかった。皆、黙したまま俯いている。風の音は小さくなりつつあり、小刻みに揺れていた窓の音はすでになくなっていた。
沈黙に耐えかねてミイは顔を上げ、声を出す。
「アイ、さんは」
呼びかける。カーテンを握る手は離さなかった。
「アイさんは、どう思っていたんですか?」
その言葉で、床に視線を落とし、放心しているのかそれとも熟考しているのかも判然としない表情を見せていたアイが、ちらりとミイを見つめ返す。そしてすぐに取り澄ました声で応じた。
「思っていたこと、と言われてもね。思う対象はそれこそ山のようにあった訳だし、現にいま思考の真っ只中にある訳だから、何とも言えないかな。もう少し具体的な質問にしてもらえると助かるんだけど、どうかしらね」
嫌な人だ、とミイは思う。こんな風に人のことを見下し、からかうような物言いしかできないのか。たとえそうではなかったとしても、アイに悪意などなく、ただ純粋に曖昧なものを排除した会話を求めているだけだとしても、やはりいい気分はしない。向こうの意思と無関係に自分の愚さを浮き彫りにされているようで、余計に性質が悪く思える。
「いえ、その」
ミイは口籠り、自身の情けなさに思わず顔を伏せた。気分を害したのは自分のはずなのに、それが自分のせいだと思えてしまう。自分の愚鈍さを詫びたくなる。
「その、あの人のことを、本当はどう思っていたんですか?」
「それもまたよく意味が判らない質問だね。いえ、言わんとしていることは判るけど、質問の意図が判らない。そんなことをわたしから聞いて、あなたは何をどうしたいの? わたしの言葉から何かを理解した気分になりたいのかな。上っ面だけの共感を得たいのかな。そうやってわたしに近づいて、自分のスペースにわたしを引きこみたいと、そういうことなのかな」
「ち、違います。わたしは、ただ」
アイの言葉をミイは慌てて否定する。小さく首を振りながら、違う人だ、と改めて思い知る。自分とは何から何まで異なる人間だ。言葉の裏に何かが隠されているといちいち考えてみせるところも、感情をほとんど表に出すこともせずに落ち着いた態度を取り続けるところも。
「ただ、知りたかっただけなんです。そんな、アイさんに対して何かしてやろうとか、自分の都合のいいようにしてやろうとか、そういうことを考えて言っている訳じゃないんです」
どうかしら、とアイは目を細めた。
「たとえあなたがそれほど深く意識していないにしても、わたしがいまここであなたの質問に答えたとすれば、結果として現れる効果は似たようなものだと思うけれどね。共通する部分を探りたい、思考を探りたい、どの言葉が特定の反応を、あるいは無反応を引き起こすのかを知りたい、ありとあらゆる様々な情報を相手から引き出したい――そうした願望を叶えるための手段が、会話するということだもの。違う?」
「それは、そう、なのかもしれません……けど、わたしは」
「そこに『かも』も『けど』もいらないよ。だって事実だもの。そして、あなたはその辺の理屈を無自覚に実行していたの。これも事実。そうでしょう? 自分がただそうしたいから、できるだけ考えなしに生きたいから、なんてわがままな理由でね。だから始末に悪い。いえ、悪かったと言うべきかな、この会話によってあなたもいい加減学んだでしょうから。会話する、ただそれだけで他人の意思をある程度は自分の支配下に、つまりいいように操ったり、翻弄したりすることができるってことが。そして、たとえ意図がなくてもそれと同様の効果をもたらす危険性があるってことをね」
どうかな、と口元に笑みを浮かべ、肩を竦めてみせるアイの態度に、ミイは居心地の悪さを覚える。それと同時に不満も。
こちらを非難するような物言いそのものに対する恐れだけではなく、納得できないという気持ちがふつふつと沸き上がる。
「それは何の皮肉ですか。わたしが彼を操作していた、って言いたいんですか」
「あら、ちゃんと皮肉だって気づいてくれたのね。嬉しいな。自分の意図が相手に通じる――これこそ人と人のコミュニケーションから生まれる素敵な効果だよ」
「誤解ですよ。彼が殺されるなんていう酷い状況になってしまったんですから、あなたがわたしを非難したくなる気持ちは判ります。でも」
「非難? おかしなことを言うのね。わたしは非難なんてしていないよ。あなたをからかって遊んでいるのは認めるけどね。怒らせちゃった? だとするとさすがに、少しおふざけが過ぎちゃったかな。優しくて情け深いあなたが、これくらいで気分を害するとは思わなかったものだから」
ごめんね、と頭を下げるアイだったが、ミイがその言葉を素直に受け止めることなどできるはずもなかった。本当は謝るつもりなどこれっぽっちもないのだろう。俯くアイの顔に薄ら笑いが浮かんでいる様が容易に想像できた。
遣り切れない。これではあまりに遣り切れない。憎しみを、怒りを、一方的にぶつけられてばかりのこの状況にミイの胸はじくじくと痛み出す。理解されないことに対する不満が、すれ違うばかりで重ならないやり取りに対するもどかしさが、ただでさえ重い気分をさらに底へ底へと沈みこませてゆく。
――どうしてわたしばかり。
気性が荒く、最初から自分を毛嫌いしているマイだけならばともかく、常に冷静だったアイまでもが敵意を向けてくるのは堪らなかった。何も反論しないからなのだろうか。言われるがまま黙っているだけだから、責められるのだろうか。自分は望んでいないのに、誰かを傷つけるようなことなど、望んでいないのに。そうした態度こそが誰かの怒りを助長させてしまうなど、あまりに理不尽だ。
と、そこでミイはふと気づく。
――怒り?
改めて、アイに目を向ける。すでに頭を上げ、こちらを見据える彼女の眼差しは底冷えのするような光を放っていた。
――この人が怒る?
それはミイが抱くアイの印象とは噛み合わない出来事と言えた。いまのいままで、アイが苛立つのも仕方ないことだと当然のように考えていた。婚約者と関係を持った自分以外の女性たちを気に食わないと思うのも、殺しただろうと疑いたくなるのも、普通の人間の反応としては自然なことだからだ。
だが、アイに限ってみれば、それはちぐはぐな話でもある。
「いえ、いいんです。わたしは、気にしてません。それよりも」
ミイはそこで一拍置くと、少しだけ目を伏せて、口元に笑みを浮かべてみせる。心に余裕が生まれたような、悪くない気分だった。
「それよりも、聞かせてくれませんか。わたしは、まださっきの質問の答えを聞いてないです」
「あら、まだこだわっていたの? さすが粘着質な性格だけあって諦めが悪いね。それに、飲みこみも悪い。頭の回転が鈍い人間は本当に罪深い、といま初めて心から思ったよ」
「答えになっていませんよ。それとも、答えたくないんですか?」
「そう言っているつもりだけど? それに、もう一度、色んなところの不具合が多すぎてそれはそれは可哀そうなあなたのために、判りやすく、噛み砕いて説明してあげるけどさ、わたしは初めからあなたの質問に答えるつもりはない、答えなくないって言ったつもりだったよ。あなたの期待なんて、これっぽっちだって叶えてあげたくないの。理解できたかしら? それとも、やっぱり難しい? ん?」
芝居かがったように目を大きく見開き、わざとらしく確認を求めるアイの挑発的な態度を無視して、ミイは重ねて問う。
「答えたくないのは、本当にそれだけですか?」
「また意味の判らないことを言い出すのね、あなたは。何が言いたいのか、具体的に――」
「答えられないからじゃないんですか」
アイは眉間を微かに寄せて黙り込んだ。その顔が警戒の色に染まってゆくのが目に見えるようだった。一矢報いてやったような気分になり、ミイは内心でほくそ笑む。
「なぜ答えられないのか、それはアイさんが、あの人のことを本当は何とも思っていなかったから。違いますか?」
「言ってくれるわね。あなたがそんな物言いをできるなんて、少し意外だよ」
「どうなんですか?」
「違う、と否定させてもらうよ。見当違いも甚だしい推測だからね。なぜなら」言いかけてアイは唇を窄め、大きく息をつく。「ここで答えれば、あなたの思惑通りって訳だね」
「いいじゃないですか。さっき、わたしはアイさんの期待に応じました。今度はアイさんがわたしの期待に応じてください。お互いがお互いの期待に応じ合う――きっと、これもまた会話することの喜び、だとわたしは思います」
「ふうん。何を企んでいるのか判らないけど……あなたにしては面白いことを言うのね。いいよ、判った。ちゃんと応じるよ、あなたの期待に。どうしてあなたの言葉が間違っているのか、それはね、わたしがあの人のことが好きだったから、だよ。自分の婚約者に何の感情も抱いていない訳がない。それくらい、考えなくても判るでしょう?」
「好き、だったんですか?」
「ええ、好きだったよ、もちろん。好意を抱いていた、愛情を持っていた、思いを寄せていた、大切に思っていた、懸想していた、色々な言い回しがあるけれど、そのどれにも当てはまり、そのどれにも当てはまらないくらいの感情をわたしは有していたの。あなたにも判るでしょう? 当たり前のことだもの」
「それは……どうでしょうね」
ミイがそう呟いてみせると、アイの眉間に浮かんだ歪みが大きくなった。
「どう、って。何が判らないの?」
「わたしとアイさんの考える、『好き』の気持ちはまったく違うものに聞こえるんですよね。いえ、それどころか、アイさんの言っていることに中身なんかないって、わたしには思えます」
「中身が、ない?」
「ええ、空っぽなんです。言葉だけ、形だけ、何か感情が伴っていそうな気がするだけで、本当は何も感じてなんかいないんでしょう」
「ずいぶんな――」大きく息を吸い込みながら、アイは言う。「言い方してくれるのね。あなたに、わたしの何が判るのかな」
「だって、アイさん、あなたに他人を思い遣る感情があるようには見えないですからね。自分のことしか考えていないとか、そんなのじゃなくて、他人のことなんて理解できない人だって、そう思うんです。あなたは普通の人間なんかではありませんから」
その言葉にアイは何かを言いかけたが、ミイはそれを遮って話を続けた。
「誰かを思うことのできないあなたが、彼を思っていた振りをする。それに何の意味があるんでしょうね。いえ、意味があるからやっているんですよね。あなたが意味のないことをするはずがありませんから。だとすれば――こんな風に考えてみると、わたしにも判るような気がするんですよ。アイさんが何をしたいのか」
そこでミイは言葉を切って、相変わらずの無表情に戻っている女を見つめたが、無言が返ってくるだけだった。いまはもう口を挟むつもりがないらしい。ただ次の言葉を待っている、そんな風に見えた。
「マイさんが言っていましたよね、アイさん、あなたがわたしたちを逆恨みして皆殺しにしようとしているんじゃないか、って。でも、わたしはあなたが、感情なんてないあなたが逆恨みをするだなんて思えない。アイさんの行動には何よりも理屈が優先される。いえ、理屈だけで行動している。その理屈の基準は、人間として常識的な振る舞いかどうか、当たり前に見えるかどうか、それだけなんだとわたしは考えます」
そうして、とミイは顔の前で人差し指を立てる。
「いまの話を踏まえてマイさんの語った説を捉え直してみるとですね、アイさん、あなたは恨みだとか怒りだとか感情に突き動かされてわたしたちを殺そうとしている訳ではありません。ただそれが『普通の人間の反応として、当然のように見える』からです。恋人が死ねばそれが八つ当たりであれ何であれ、自分以外の人間に恨みを持つのは、ある意味で当然のことだとわたしも思います。大切な人が死ぬなんて理不尽なことだし、その理不尽の責任を誰かに、何かに負わせたくなるもの。そして、あなたもまたそんな風に考えて『普通の人間なら当然のこと』として『怒らなければならない』と決めた。決めた以上、それらしく振る舞わなければならないから『全員を殺す』と判断した。どうです?」
マイが笑う。
「面白いことを言うじゃない、ミイにしては」
「疑い始めたらどこまでも止まらないからね。底に向かう筋道はそれこそ――」
「それにアイも面白いよ。何だか、らしくない反応だ」
「――無限にあるからね。憎む理由と同じように」
「でも、やっぱり堪らないね、こんなのは。胸がむかついてくる」
「ええ、堪らなく嫌になってくる。だから、判っていたから――」
どうなんです、とミイは詰め寄った。
「無茶苦茶な理屈だわ」
そう言って、アイは首を振る。その顔にはしかし、怯えも、怒りも、呆れも、何の表情も浮かんではいなかった。その無表情にミイは僅かに気圧され、反射的に身を引いた。
「だいたい、その理屈ならどうしてわたしは彼を殺すことになったの? わたしには何の感情もないんでしょう? なら彼を殺さなければならない理由もないでしょう」
「そんなことはありませんよ。あなたが『普通の人間なら、ここは怒るべきところ』とか『当然の反応として殺すべきだ』と頭に浮かべて行動したとか、いくらでも考えられますから。それに……あまり考えたくはないですけど、彼の方があなたを襲ってきて、揉み合いになったところで、刺し殺してしまったなんて話もあり得なくはないですから」
「首は? どうして切断する必要が?」
「それは……錯乱した振り、と言うことができますね。意図的にであれ事故であれ、彼を死なせてしまったあなたは、『普通の行動』として『動揺しなければならない』と考え、彼の死体をバラバラにして隠すことに決めた。そして、それを実行している最中に、『恨まなければいけない』と判断するようになった――こんな流れだったのではないでしょうか」
それに、とミイは慌ててつけ加えた。アイの言う通り、自分は無茶な理屈を組み上げているという思いが急激に強まり、焦燥感が募ってゆく。
――違う、違う、そんなはずはない。
「そ、それに……そう、動揺するなんて過程は抜きにして、もっと直接的に『殺人を犯してしまったなら、この犯行を隠すのが当然の反応』と判断して死体をバラバラにしようとした、ってことも考えられますよ。いえ、うん、あなたなら、理屈だけで動くあなたなら、そっちの方が可能性が高いんじゃないかとわたしは、思います」
間違えている、とミイは考えずにいられなかった。わたしは、間違えている。目の前の、冷やかな眼差しを向けてくる女の姿が、その思いをさらに強めてゆく。
もしも、と女はやはり冷やかな声を上げた。
「わたしの行動基準が『人間として当然のこと』だけなら、さっさと警察に知らせるとか、自首するだとか、結論づけると思うけどね。その方が『当然』であると、あなたは思わないの? 人を殺してしまったときの行動として、あなたにとっての『当たり前』は、自分の罪を隠したり、誰かのせいにすることなのかな」
「そ……それは、そんなことが当たり前だなんてわたしは思わない……ですけど。でも、あなたは、理屈だけで行動するあなたは、だからこそ自分にとって都合の悪くなるような事態は避けようとするはずです。警察に捕まるとか、犯罪者として生きていく、なんて不都合を背負うなんて、そんなこと」
「するはずがない?」言って、アイは呆れたと言わんばかりに宙を仰いだ。「犯した罪を贖いたい、許しを乞いたい、反省することで人として正しい姿を取り戻りたい――ごく普通の人間なら普通に抱くはずの願いがあれば、自首することに不都合なんて何もないと思うけれど。いえ、むしろ、贖罪を求めるなら困難が多い方がある意味で好都合、とも言えるでしょうね」
沸き上がる感情に顔が熱くなり、ミイは唇を噛む。強く噛む。単なる怒りではない。羞恥心だけではない。胸の中が真っ黒に塗り潰されてゆく。劣等感に塗り潰されてゆく。
「あなたに、あなたみたいな人に、そんなまっとうな考えができるだなんて思えません」
苦し紛れに言い放ったものの、相対する女は少しも揺るがなかった。その顔に浮かんでいるのはつまらなそうな表情だけだ。
「そう? なら、好きにするといいよ。あなたがどう思おうとあなたの自由ですもの。想像力にも理解力にも大きな欠陥があるみたいだから、どれたけ思考したとしても何の役にも立たないでしょうけれど」
「欠けてる部分が多いのは、あなたの方じゃないですか」
勢いだけで述べたミイの言葉に、アイの顔が微かに強張る。
「何が、欠けていると言うのかしら? このわたしに」
能面に小さな罅が入ったことに手応えを覚え、ミイはそのままの勢いで喋り続けた。
「人間味に欠けていますよ、十分に。婚約者が死んでいたのに、殺されていたのに、あなたは涙ひとつ見せやしない。怒りも見せない、動揺の欠片も見せない、その素振りさえも。あなたに本当の意味での感情があるなんて思えない。言葉だけ、理屈だけ、実感を伴った感情なんて少しも持っていないから、落ち着き払っていられるんですよ」
「わたしは――」
「それにあなた、言いましたよね。『彼を殺した犯人を見つけてやる』って。あの人を殺したのはあなたではない――そう信じたとして、あなたは、何のためにそんなことをするんですか? どうして、彼を殺した人間を見つけたいなんて思うんですか? 見つけたあと、どうしたいんですか? 本当は何も考えずに、ただそう言っているだけなんでしょう。そう言ってみせることで、恋人だった振り、婚約者だった振り、好きだった振りをしているだけなんでしょう。あなたこそ、自分をごまかしている。彼に対して何の感情も持っていなかった癖に」
空っぽだった癖に。
「わたしは」
「あなたが彼のことを好きだったのなら、あなたは悲しむべきなんです。泣いてなくちゃいけないんです。取り乱しているべきなんです。それが当たり前なんです、人間として。それを僅かでもみせないあなたは、もう異常としか言えません。薄情なんてものじゃない、冷血なんてレベルでもない、人間の振りをしてるだけ。振りだけの――」
――人形ですよ。
人形です、とミイは繰り返す。
「ねえ、どんな気分なんです? 他人を僅かも理解できない、他人と少しも重なり合えない、できることは理解した振りをし続けるだけ、なんて。形だけ真似をして生きているのは、どんな気持ちなんですか?」
「わたしは人形なんかじゃないッ」
アイが立ち上がり、吠えた。
「人形なんかじゃない! 人間よ! わたしは! あなたに、あなたにまで、そんなこと言われたくないわ! 彼みたいなことを、彼と同じことを言って、わたしを侮辱するのは止めなさい!」
「それも……振りですよね? 怒った振り」
「ふざけないで」
「わたしは真面目に言っていますよ。人形がどれだけ叫んでみても、偽物しか見えないですもの」
「わたしは人形なんかじゃ、ない」
「あの人も、彼も、あなたにそう言ったんですか? 人形だって。あなたが人形だって」
「ええ、言った。言ったよ。あの人は、あの男は、わたしを」
「そう言われて、どんな気分でした?」
「言いたくないわ、そんなこと」
「わたしは聞きたいです、とても。彼の言葉は、あなたをどんな気分にさせたんですか? あなたはどんなことを思ったんですか? 聞かせてください」
ね、とミイは静かに語り掛ける。温かく、穏やかな感情に満たされてゆく。
アイが、目の前の女が、人形のようだった女が、ぽつりと呟いた。
「それは、きっと同じ――」
「え?」
「きっと、あなたと同じだよ。あなたが、彼に殴られたときに感じた気持ちと、同じだよ」
同じ。
その言葉に、ミイは目を瞬いた。その視界で、瞼の裏で赤い色が明滅する。脳裏に浮かんだ光景が、赤い光景が、ナイフを握った自分が恋人を刺す光景が流れた。男にナイフを刺す。彼の腹部から血が滲み出す。赤い血が。赤い赤い血が。ナイフを強く押しつける。その刃を何度も何度も捻じり上げ、肉の中へとめりこませてゆく。赤くなる。赤く赤くなる。男は苦痛に喘いでいた。その姿に自分は微笑みを浮かべる。愛していると呟く。繰り返し、繰り返し、呟き続ける。赤くなる。赤くなる。その光景が真っ赤になって、頭の中が真っ赤になって、思考そのものが赤に染まってあらゆるものが目の前が赤く。赤く。赤く。倒れた男の首に刃物を突き立てる。また赤くなる。男の、生気のない目がこちらを見つめていた。微笑み返した。愛していると呟いて、刃物を突き立てた。赤くなった。赤くなった。赤くなった。
「わたし、と」
「ええ、あなたと」
――ああ、重なった。
胸に小さな喜びが芽生え、ミイの口元が綻ぶ。人形と、心が重なった。
「ねえミイ、同じでしょう? わたしと同じように、彼を」
「彼を――」
両の掌を見つめる。視界にこびりついたままの赤い残像、鼻腔に漂う血の臭い、耳の奥に繰り返し流れる自分の――愛していると囁く――声、そして、手に残る肉の感触。
徐々に、徐々に、暗さを増してゆく部屋の中、ミイの目には赤い膜が重なる光景が映し出されていた。交互に重なってゆく、黒い膜、赤い膜、黒い膜、赤い膜。赤黒く、赤黒く。
チカチカと光が瞬き、目を瞑る。
「――殺したの」
赤い思考の中、霞んでゆく現実の影で微かに響く声。




