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五幕 マイ 毒を吐く

どくはく


 ソファの上、身体を斜めに傾けながら、マイは胸元に下がるネックレスをぼんやりと眺めていた。薄明りを受けた一瞬、サファイアの青が鈍い光沢を放った。

 空っぽの気分だ。何かを考えようとしても、その何かは掴みどころがなく、まともな思考にならないうちにするすると逃げてゆく。考えられないことを考えている。何とも馬鹿げた話だと内心で自嘲したものの、単なる言葉遊びのような考えもろともにすぐに雲散霧消して、再び思考の空白へと投げ込まれた。

 そうして自己嫌悪に襲われる。

 もう、この繰り返しばかりだ。嫌悪感を紛らわそうと何かを考えて失敗し、その嫌悪感の正体を見極めようとしてもごちゃごちゃした考えにしかならず、いい加減考えることすら嫌になってきているにも関わらず、考えることを止められない。リセット、トライ、エラーの繰り返し。うんざりだ。

 ――嫌になってくる。

 マイはネックレスをその手に握る。握り締める。

「あいつのせいだ」

 そう呟きながら、眉間に皺を寄せる。

「あの男のせいだ。アイツが――」

「あの人が、死ななければ?」

「アイツが死ななければ、殺されたりなんかしなければ、こんなイラつくこともなかったんだ。気持ち悪い、この感覚」

 やり場のない感情、持て余すばかりの感情を少しでも減らそうとマイは力を込めて、そう吐き捨てる。煩わしく思えてならなかった。空しさのついて回るこの感覚が。胸にぽっかりと穴が開いているようなこの感覚が。

「あの人が死んで、悲しい?」

「腹が立つんだ。アイツが死んだのが許せない。悲しいだとか、わたしは思わない」

「あの人が殺されて、泣きたい?」

「いっそ、泣きたくなってくるね。悲しいからじゃない。悔しくてさ。こんな結果になったことが悔しいんだ。許せないんだ、わたしは」

「そう、だね。理不尽だものね」

「あんな奴に出会わなければ良かった。そう思うよ、本当に。いまさら、だけどさ」

 意識的に唇を曲げ、マイは小さく笑い声をあげてみせる。無理にでも苦々しい思いを表すことで自身のくだらなさを呆れてやらなければ気が済まなかった。たとえそれが形だけのものであっても。

「本当に? 本心からそう思うの?」

「後悔……そう後悔しているよ。しない訳がない。そりゃあ、あいつと会っててさ、まったく楽しくなかった訳じゃないよ。そうでなきゃ、進んで会いに行ったりはしなかっただろうからさ。でも――」

「うん、でも、何かな?」

「でも、さ。そんな思い出なんてさ、結果がこれじゃあ意味なんか、ないんだよ。時間の無駄だった、感情の無駄だった、金銭的には……まあ色々奢ってもらったりしたから得したと言えなくもないけど、何もかもひっくるめて考えれば、やっぱり損した気分だよ。ただ自分が擦り減ってしまっただけに思えてくる」

「それは、あなたにもう何の見返りもないから? あの人が、もう二度とあなたに何かを与えたりすることがなくなったから?」

「これ以上、何にも手に入らないことだけ完全に決定したってのが気に食わないんだよ。面白くもないことだけが絶対的に揺るがないなんてさ、空しすぎる。積み重ねてきたものがふいになった、なんて言い方をするのは未練がましく悲しんでるみたいに思われそうで嫌なんだけど、あえて言葉にしたらそんな気分だよ。やってらんないよ」

「空しい、ね。それは何の未練? あなたが欲しかったものは何? あの人から与えて欲しかったものは、何? 何を積み重ねて、その先に何を求めていたの?」

「何なんだろうね、この気分は。自分でも訳判んないよ。わたしは、どうしたいんだか。どうしたかったんだか」

「あなたは、嬉しくなかった? あなたがあの人に何かを与えることが。それは悔しくないかな。もう与える機会を失ってしまったことが」

「わたしは――」

 言葉に詰まり、マイの視線は宙をさ迷う。薄暗がりの中に求める答えがふわふわと浮かんでいる訳もなく、自身の感情がどんな形を成しているのか、どんな言葉によって表わされるのか、判らないままだった。表わせたとして、それを口に出したいのかどうかも判らなかった。判断の基準も、対象も、己すらも見失っているような感覚が、やはり漠然とした不安を生み出してゆく。

 ――むしろ、何も気づかないままの方がましなのではないか。

 そんな風に思った。

 アイが言う。

「そう、好きだったんだね、彼のことが。あの人のことが。だから苦しい。当然だね」

 ミイが言う。

「そう……ですね。判ります。マイさんも、同じだったんですね。わたしと、わたしたちと」

「それなのに、当の本人はそれに気づかない。いえ、気づいていない訳ではないのかな。気づいてて、認めようとしない。そんなところかしら。ミイといい、マイといい、なかなか自身を受け入れようとしない。事実を事実として捉えたがらない。頑固者ばかりだわ」

「認めたくないことを無理に認めてしまったら、折れてしまうもの。心が、消えそうになるもの。それに、失ってしまったあとで、自分の気持ちに気づくなんて辛すぎる」

「愚かだね。見てられないくらいに」

「可哀そうです。見ていられないくらいに」

 ふいに口をつきそうになった言葉を飲み込み、マイは唇に力を込める。何を口走ろうとしたのか、自分でも判らない。それでいい、そう思った。

 得体の知れない何かに具体的な形を与えてしまうことが恐ろしかった。

 ――恐ろしい? 

 自分の考えを反芻し、マイは呆然となり、それと同時に屈辱的な気分になる。羞恥心と怒りがこみ上げてくる。弱気になるな、とマイは自分に言い聞かせた。弱気になってしまえば、不安になってしまえば、判断の基準を間違える。現実と妄想の区別がつかなくなってしまう。

 ――いま考えるべきは、そんなことじゃない。

 自分を奮い立たせるようにして、マイは勢いよく身体を起こす。

「そう、わたしは……わたしはね、あの男のことなんてもうどうでもいい。死んでしまった奴のことなんて、考えてみりゃどうだっていいことじゃない」

 力を込めてマイは声を上げる。情けない思考を振り払うように、自分は挫けないと宣言するように。

「だいたいね、間違っているんだよ。わたしとアンタたちと一緒にしないで欲しいね。アイツは、わたしにとって金づるだった。それがいなくなって悔しかった。それだけさ」

「それは、本心なの? あなたの心からの言葉なの?」

「これがわたしの、そう、これが偽りのないわたしの本音だよ。それは間違っているだとか、自分の気持ちに気づいてないだけだとか、そんなことは言わせない。『本当の自分はどこにいるの?』なんて、くだらないことも言わない。わたしが思うわたし、わたしが思うこと、わたしが言うこと、わたしがわたしの意思でする行為のすべてが本物だからね。それ以外は、他の誰が何と言おうと知ったことじゃないね」

「あなたは――」

「まあ、さすがに死体なんて見たのは初めてのことだったから、動揺はした。でも、それも、もう終わりだよ。終わったこと、済んだこと、気にすることじゃない。いま大事なのは、この状況がわたしにとって、あまり喜ばしい状況ではないってことだよ」

「あなたは、それでいいんだね。それが、いまのあなたの望みなんだね」

「わたしはね、あの男を殺してなんかいない。何もしていないのにわたしらの関係だとか、殺す機会があっただとか、そんな理由だけで疑われるなんてまっぴらこめんだね。繰り返すけど、何度だって繰り返すけど、わたしは昨日の夜、あの男と会って話をしただけ」

 そもそも、とマイは続ける。考えろ、考えろと自身を鼓舞しながら。

「全員が疑わしい、なんて言うアイの話は何だか筋が通っているように思えるさ。けどさ、いくらもっともらしい理屈を並べたところでアイ自身の疑いはちっとも晴れてなんていないんだよ。犯人を見つけたい、なんて言ってたけどさ、考えてみればそれこそ怪しいじゃない」

 話しながらマイは、当たり前のことだと小さく頷いた。本来であれば、あれこれと言い合いを続けるような状況ではないのだ。

「わたしがこの部屋に来たとき、アイは死体の側に立っていた。普通に――アイの言葉を借りるなら、犯行の自然な流れってやつを考えれば、死体の第一発見者が最も怪しい人間だよね。それに加えて、その第一発見者は殺人事件が起こったってのに警察も呼ぶなって、わたしたちをこの部屋に足止めしている。それはつまり」

 ――そう、つまり、単純な話なのだ。

「この状況ってのはさ、最初からアイの計画通りなんじゃないかってわたしは思うんだよ。今日、わたしたちをここに呼びつけたのはアイだ。その目的は、話し合いをしようなんて、生温いことじゃなくてさ、あの男も、わたしたちも皆殺しにするつもりだったんじゃないかってことさ。これなら、自分の婚約者が殺されたってのに涼しい顔してるアイの態度も納得できるしね。ああ、それに――」

 マイはそこで宙を仰ぎ見て、にやりと唇を歪めてみせた。

「それにさ、こんな風も考えていくと、こんな推測もできるね。アイも初めはあの男を殺すつもりはなかった。けれど、わたしたちが来るまでの間、アイとあの男の二人しかこの部屋にいなかったときにトラブルが発生した。口論の末、頭に血が昇って殺しちゃった、って感じでね。殺したあとになってから、『うわっ、どうしよう殺しちゃったわ』なんて動揺して、途方に暮れた。で、次に考えた。『どうしてこんなことに?』『何が悪かったの?』『誰が悪かったの?』って具合でさ」

 三文芝居を演じるように、大袈裟な声音と身振り手振りを加えて頭に浮かんだ情景を再現しながら、マイは語り続ける。

「その先は逆恨み。『ああ、あいつらだ。わたしがこんなことをしでかしたのは、全部全部あいつらのせいなんだ』ってさ。お門違いもいいところのくだらない思考だけどさ、アイを真似て言うなら、この手の人間は決して少なくない、からね。それで、筋違いの皆殺し計画を考え出して、いまに至る、と。冷静ぶった顔して内心はらわた煮えくり返ったアイちゃんがわたしたちの隙を窺ってるって訳ね。どうかな? 案外、当たっちゃってるんじゃないのかなあ」

「考えとしては悪くないし、面白いよ。けど」

「まあ、とにかく、わたしはこれ以上この部屋に留まり続けるのは止めにしたいね。わたしの考えが当たっていなくても、無駄に怪しまれるし、当たっていれば殺されることになる。どっちにしても悪いことばかりだ。わたしは、ごめんだね。あの男のせいで、余計な疑い掛けられて捕まるのも、殺されるのも。わたしは、わたしが何も悪くないことを知っている。あの男を殺してもいないし、首を切ってもいないことを知っている。だったら、わたしは自分を守らなくちゃいけない。わたしが一番大切なのは、自分だもの。自分だけだもの」

 アイが短い溜息をつく。

「なるほど。らしい、と言えばらしい言葉ね」

 ミイが長い吐息を漏らす。

「心からの言葉のように聞こえますね」

「口だけだろうけど」

「聞こえるだけでしょうけど」

「そこまで強い人間ではないはずだからね」

「自分だけしかいない世界に耐えられるはず、ありませんから」

 マイは胸元に下がるネックレスを、今度は睨みつけた。今となっては忌々しい。こんなものさえも、あの男の欠片が僅かにこびりついていそうなものさえも、自分にとって害であるように思えてくる。

 虫に纏わりつかれているように感じ、慌ててネックレスを取り外す。握り締め、床に叩きつけた。だが、絨毯の上に落ちたそれは、拍子抜けするような音を立てただけで、僅かばかりは得られるかもしれないと期待した爽快さは少しも味わえない。清々しさも、満足感もない。

 あるのは、ただ空しさばかりだ。重く圧し掛かるような、空っぽが。

 なので、足元に転がったそれを踏みつけた。踏みつける足に力を込めた。

「わたしはね」

 マイは言う。

「わたしは、自分を信じてる。自分が大切だからこそ、信じてる。記憶が飛んで自分を見失ってる訳でもなけりゃ、自分を騙して都合のいい現実だけを見てる訳でもない。頭がいかれてる訳でもおかしな夢を見てる訳でもないんだ。まともなんだ」

 もう一度、踏みつける。また足を上げて、踏みつける。

「だからもう、あの男のことなんて、どうでもいい。わたしは、わたしの命が大切なんだ。あいつより、自分が大事なんだ。捕まりそうになっても逃げ切ってやる。殺されそうになっても生き延びてやる。いざとなったら、ここにいる全員を殺してでも。わたしだけは、わたしを救ってやるんだ」

 踏みつけたままのネックレスを足で転がす。前に、後ろに。後ろに、前に。

「どうだっていいんだよ、もう」

「あなたは、本当に自分を騙していない?」

「わたしは、自分のことだけを考えてればいいんだ。それでいいんだ」

「彼に対して抱いていた想いを、隠し続けているあなたが?」

「あの男、あんな男、死んだって構うもんか。むしろいい気味だよ、殺されるなんてさ」

「殺されて、嬉しいの?」

「殺されても仕方なかったんだよ、あの男。最初はもちろん、そんな風に思ってなかったけどさ、そんな印象もなかったけどさ、何度か会っている内に判ってきたんだ。気づいたんだ。あいつのくだらなさ、あいつの弱さに。ミイを殴ってるって知ったときは、ぞっとした。そっくりだったんだ」

 言いながら、マイは腕を抱く。踏みつけていたネックレスを蹴飛ばした。遠ざけた。踏みつけても、踏みつけても自分に纏わりついてくる。染みこんでくる。そんな風に思えたから。

 床に足を擦りつける。汚物を落とすように。これ以上、何も入ってこれないように。擦りつける。前に、後ろに。後ろに、前に。

「まるで兄さんみたいだったんだ。わたしの兄さんと、同じだったんだ。わたしを殴って、わたしを犯して、その癖、すぐにわたしに泣きついて縋りついた兄さんに。わたしのことを自分に都合のいいおもちゃ程度にしか扱わなかった兄さんに。ミイを殴ったあとのあいつの顔を何度か目にしたよ。吐きそうになった。泣きそうになりながら、それでいて満足そうにして、わたしに許しを乞うてくるあの顔。言い訳めいた言葉だとか、それらしく聞こえるような侘びの言葉をくどくど並べ立てたりするとこも、かと思えば、いかにも取ってつけたみたいな澄ました態度で接してきたりわざとらしく何事もなかったみたいに振る舞おうとするところも、みんなみんなそっくりだった」

「それでも」

「兄さんのことは嫌いだった。嫌いだったんだ。大嫌いなんだ。だから」

「あなたは」

「あの男のことも」

「あの人が」

「大嫌いだったんだよ」

「好きだったんでしょう?」

「憎かったんだよ。それこそ」

「あなたの、お兄さんと同じくらい」

「殺したいくらいに」

 殺したかったんだよ、とマイは薄く笑う。そして理解した。言葉にすることで、ようやく気づくことができた。これもまた偽りのない、自分の本心だと。

「わたしは、殺したかった。殺したいと思っていた。前みたいに、兄さんのときみたいに逃げ出したりしないで、今度こそ。そう思ってたんだ」

「それくらいに思いが深かった、そういうことだね」

「あんな人間は死ぬべきなんだ。生きていたらダメなんだ」

「それくらいに愛していたから、憎んでいたから」

「殺して構わないんだ。殺すべきなんだ。だって、それは正しいことだもの」

「でもね――」

「正しいことをしなくちゃいけないんだ。間違ってない人間は正しいことをしなくちゃいけないんだ。わたしは間違ってない。わたしは正しい。だから、わたしが――」

すう、と心が軽くなり、マイは安堵の笑みを浮かべる。今度こそ、本当の意味で何もかもがどうでもいいと思える気分だった。何もない。何もいらない。それでいい。そう思えた。

 空っぽになった。真っ白になった。

 音もなく、声もなく、ただ薄く暗く、薄く暗く、影に沈んでゆく部屋でただ一人、白くなる。

「彼を――」

 空白の中、曲ってゆく意識の隅で微かに響く声。

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