四幕 アイ 疑って、戯れて、偽る
ギ、ギ、ギ
「ミイ、本当の所を言うと、わたしはあなたが彼を殺したなんて思えないし、思いたくない。けど、その願望と本当のことを知りたいと思う気持ちを比べたら、悪いけれど優先されるのは後者。わたしは、自分を偽ってまであなたを信じ切ることなんてできないし、そうしたくもないから」
アイは慎重に顔を上げ、決してドアへ――いまもなお首無し死体が転がる部屋へ――と目を向けないようにしながらミイと顔を合わせた。窓辺に立つミイの顔はすっかり青褪めており、部屋の薄暗さと相まって、ぼんやりと霞んで見える。彼女という存在そのものがあと少しで消えてしまいそうな影のように思われた。
ミイはアイの視線から逃れるように顔を逸らし、当惑と怯えの滲んだ掠れ声で言う。
「わ、わたしは別に、気にしてません。こんな状況なんだし、アイさんがわたしをどう思ってもそれは仕方がないと思い……ます。それは判ります。理屈では、判ってるんです」
身を守るように肩を抱くミイの姿に、アイは軽く溜息をつく。ミイが何を言おうとも、白々しいものしか思えなかった。その頑なとも言える態度から窺えるのは、僅かでも都合の悪い事柄を徹底的に無視してやろうとする主張だ。
単に穿った見方でしかないのかもしれない。ミイの本心はまた違うのかもしれない。アイはそう考え、できるだけ感情を薄めよう、ただただ事実のみを見つめる冷静な視点を持とうと努めるが、それでも頭の奥がチリチリと焦げつくような感覚に襲われる。いま目の前にいるミイの姿に忌わしさを覚えずにいられない。マイではないが、苛立つのも当然のことのように思えた。
「繰り返すようだけれど、ミイ、わたしはあなたにだって犯行に及ぶチャンスがあったと考えている。彼の死は自殺によるもので、それと首の切断は無関係、なんてことも、まあ考えられなくはないよ。でも、それは仮定としてあり得るというだけの話。現実に何が起こったのかを考えれば、殺人者がいて、その人物が首を切断したとする方がよっぽとシンプルで起こる可能性の高い話だもの。それは、判るよね」
アイの放ったその言葉に、ミイはぎくしゃくとした動きで顔を逸らす。
「そう、だね。そうなんだろうね」
「そこでね、これもまた繰り返しになるけれど、あなたという人物が怪しいと睨んで考えを進めるとね、思いつくことは二つ。一つ目、あなたはマイが部屋を出てくるまで待ち伏せして、その後、彼を殺した。二つ目、あなたとマイが手を組んで彼を殺した。前者ならマイに――保険としてわたしにも――疑いを向けさせることができる。後者なら、完全にわたしを陥れるため、だね。さて、そこであなたに質問。彼を殺したのは、あなた?」
問いかけに対して、ミイはちらりと視線を寄こしたものの、すぐに目を逸らし、消え入るような声で否定の言葉を口にした。
「違う……違います。わたしは、彼を殺してなんて、いません」
「そう言うだろうね、あなたが殺したんだとしても、本当に殺していなかったんだとしても、まあ、否定するのが当然だよね。殺しました、なんて白状するなら、最初からそうするだろうからね。いまのところはそれでいいよ。あなたは彼を殺してはいない、ということにして、また質問ね。それなら、あなたは彼の死後、その首を切断したのかもしれない。どうかしら」
「首切り……なんて、そんなことはしていません。したくもありません! そんな恐ろしいこと……。それどころか、わたしはあの死体に指一本だって触れてないです」
「首切りも否定する、なるほど。でも、まだこんな風にも考えられるよ。あなたは殺人にも首切りにも関わってはいない。けれども、あなたは犯人を知っている。知っていて、隠している。犯人との共謀であれ、あなただけが一方的に知っているのであれ、ね。どうかな」
「知りません! わたしには何も判りません!」
言いながらミイは、目を閉じ、耳を塞ぎ、大きく首を振ってみせた。説明をしようとする努力を放棄した幼児並みの態度だ、とアイは思う。滑稽だ。哀れみさえ覚えるほどに。
そして、おぞましいと思えるほどに。
アイは目を細め、こめかみを指先でこつこつと三回ほど軽く叩いた。そして、ゆっくりと一つ、息を吐く。
「何も知らない、判らない、か。何も考えたくありません、考える知能も持たない馬鹿です、って自己申告しているみたいだね。もしこれであなたが嘘をついているんだとしたら、本当に大したものだよ。弱さを装って、何食わぬ顔をし続ける――なんて、マイみたいな言い方を借りれば鳥肌ものにぞっとする、ってところだね。驚きを通り越して空恐ろしくなってくるよ」
「わたしは……違う。そんな人間じゃ、ありません」
苦痛に耐えるかのように顔を歪め、窓辺の女はいまにも掻き消えてしまうそうなほど掠れた声を絞り出す。いかにも弱々しく、いかにも儚げに。
もしも、とアイの頭に疑念の塊が浮かぶ。もしも不安通りにミイの態度の何もかもが演技なのだとしたら、ただ揺さぶり続けてもこれ以上の効果はできそうにない。
アイはまたしてもその指先でこめかみを叩く。こつこつと。何度も、何度も。幾度目かで背筋を伸ばし、居住まいを整えるとすぐに、それなら、と口を開いた。
「ミイ、あなたにあなた自身の正しさを証明してもらおうかな。あなたはこの殺人に一切関わっていないと、誰が見ても――とは言わないまでも、そうね、大半の人間が信用できる何か、少なくともこの場にいるわたしたちを、わたしを納得させてくれる話を聞かせて欲しいな」
「そんなこと言われても、わたしは」
か細い悲鳴のような声を上げてミイはそのまま口籠る。薄闇の中で俯き加減に佇む彼女の姿は、さらに儚げで、頼りのないものになっていた。その姿が透き通って見えたとしても、あるいはいますぐに消えてしまっても、そう驚くことではないのかもしれない。そんなことをアイは考える。そして、その考えにちっとも心が動かないことに気づいたが、それでも自身の感情から揺らぎめいたものを掴み取ることはできなかった。言葉を探しているのか、切羽詰まったような悲愴な面持ちで唇を歪めるミイを見つめていても、何も思うところがなかった。憐れみを覚えることもなければ、先ほどのような苛立ちを覚えることもなく、見つめるという行為をただ静かに、淡々と続けていた。どれだけ時間が経っても待っていられる、そんな風に思えた。
心が冷え固まる、とはこのような心境を指すのだろうか。そんな、ほとんど他人事のような感想がアイの頭に浮かぶ。特別な感慨は湧き起こらない。戸惑いもなく、驚きもなく、新鮮さもなければ、心地良さもない。ただ黙したまま、アイは待ち続けた。ミイの言葉を。
「い、意味があるんですか?」
やがて、弱々しい口調でミイがそう切り出した。その瞳に、弱腰の非難の色を浮かべて。自分は一方的に理不尽な状況に追いやられているのだとでも言いたげな被害者の顔で。
見苦しい、とはこのような態度のことを指すのだろうな、とアイは無感動に考えながら肩を竦めてみせた。
「意味? 意味ね。それは何に対する意味かな。答えの候補が色々あり過ぎて、見当がつかないわね。話の流れからすると、首を切ることの意味かしら。それとも殺人の意味かな。罪をなすりつけることの意味かな。弱いことの意味? わたしという人間の『わたし』――つまりあなたにとってのわたしの意味? あなたにとっての『わたし』――つまりわたしにとってのあなたの意味? 人間全体にとっての自我と呼ばれるもの、それを指す『わたし』の意味かしら。それとも自我であるところの『わたし』とは別の『わたし』、他者を指し示す『あなた』の意味? 意味の意味? どれなのかな、判らない」
ミイはすぐに反応を示そうとはせず、放心したように立ち尽くしていた。不意を突かれた表情。状況を理解できずに呆けている、愚か者の顔だった。
「冗談だよ。ただの冗談。どうぞ、続けて」
アイは表情も変えず、ただ淡泊にそう述べて先を促した。そこでようやく自分がからかわれたことに気づいたのか、ミイは微かに怒りの表情を見せたものの、そこに浮かんでいるものの大半は困惑と動揺ばかりだ。
――怒りでさえ、これっぽっち。
アイはもう溜息をつく気にもなれなかった。純粋な怒りにすら愚鈍さがつき纏う人間など哀れとしか言いようがない。見る耐えないほどの惨めさ、愚かさだ。
アイを睨みつつ、それでいて怯えながら、ミイは言う。
「わたし……は、こんなところで、わたしたちが話すことに、意味なんてないって、そう言ってるんです。無意味でしょう? 誰が人殺しなのか? いつ? どうやって? そんなこと……わたしたちに判るはずがないですよ。そんなの警察の仕事じゃないですか。だから、呼びましょうよ。たとえ、警察でもなくても、今は誰かを呼びましょうよ。呼んできましょうよ、いま、すぐに!」
「嫌だね」
アイはそう言い放った。愚か者の吐き出す泣き言を切り捨てた。鬱陶しい。そう思った。本当に、鬱陶しい。目の前の、こいつが。この女が。
言葉を失くしたミイは、ありえないものでも目にしたかのよう表情でその場に固まっていた。アイは目を細め、もう一度、今度は噛んで含めるように、ゆっくりとした口調でミイに語りかける。
「嫌だ、と言ったの。却下すると言ったの。拒否すると言ったの。理解、できたかな」
「ど、どうして……」
「警察を呼ぶ? 誰かを呼ぶ? この場所に何も知らない第三者を招き入れる? そんなことお断りだね。なぜなら、犯人はここにいるからよ。彼を殺した人間がいま、ここにいるからよ。それ以外には考えられないの。それ以外の可能性を考える必要はないの。そして、そうであるなら、犯人がここにいるなら、わたしはそいつを――あるいはそいつらを――突き止めなければならないの。いえ、違うわね。突き止めたい、そう、突き止めたいの。それがわたしの望みなの」
「そんな、そんなの判らないでしょう? いま、ここに犯人がいる、だなんて。あなたがそう思うどんな理由があるって言うんですか」
「犯人がこの部屋にいる、わたしがそう思うのはそれしか考えられないからだよ。ええ、もちろん、理解はしている。わたしがただそうしたいだけ、そういうことにしておきたいだけかもしれないってね。確かにその願望があることは否定しない。でもね、そうであったとしても、偶然の積み重ねによって彼がここで死体になっている、なんて馬鹿げた仮定を受け入れるよりは理に適っているもの」
言いながらアイは自分がこれから導こうとしている結論と、自身の欲求について素直に納得した。こうして自身の思考を並べ立てても、揺らぐことのない確信がある。疑問を差し挟む余地がないという確信が。
胸の奥が僅かに高鳴るのを感じつつ、アイは天井を仰ぎ見る。頭上では薄く、ぼんやりとした影がじわじわと広がり続けていた。
「考えてもみて。わたしたちは、いまどうしてこの部屋にこうして集まっているの? わたしは今日、彼に呼ばれていたからここに来た。それはあなたたちも同じよね。彼に呼ばれたからここに来た。それぞれが到着した時間がぴったり同じではなかったにせよ、ね。なら、なんのために集まったのか――それは、あなたたちにも大体の予想はついていたでしょう? 彼が話していたとしても不思議じゃないしね」
流れるように口をつく言葉を、アイは躊躇うことなく紡ぎ続ける。頭上に広がる影が揺らいで見えた。
「ええ、そう。もともとあなたたちを彼に呼んでもらったのは、このわたし。いい加減ね、はっきりさせるべきだと思ったの。彼とわたしたちの関係をね」
「関係……って、わたしと彼は、その」
「もちろん、それぞれに事情があるのは判ってるよ。元を正せば、何人もの女に手を出していた彼に責任がある訳だから、わたしがあなたたちに何かを要求するのは筋違いなのかもしれない。けれどもね、彼と正式に結婚すると決めた以上、わたしも黙っている訳にはいかなくなってね。この際だから、きっちりと白黒をつけるつもりだったのよ。あなたたちがもう二度と彼に近づかないように、ね」
アイはそこで言葉を止め、目を細めてミイを見つめた。窓から漏れる頼りない明りが、青褪めた顔の女を照らしていた。怯えたように腕を抱く、朧げな存在の女を。その光景に、冷え固まったと思っていた胸の中が奇妙な心地良さに――ちっぽけで、厭わしいだけの虫を意識的に踏み潰す時に感じるような暗い喜びに――満たされてゆく。影が、自分の中に落ちてきたかのように思えた。
ミイは何かを言おうとして口を開きかけた。が、すぐに目を逸らして押し黙り、その唇を強く噛み締める。何かを言いたいのに、言い出せない。話したいけれども、話したくない。彼女の仕草からそんな印象を感じ取ったアイは、そこで自らの口元が僅かに緩んでいることに気がついた。
――うん、それもいい。いえ、そうであるべきなんだ。わたしは。
アイはひとり頷いて言った。
「改めて言うまでもないことだとは思うけれど、彼も納得していたことだからね。特に口論になることもなく、渋るでもなく、それどころかむしろ喜んで首を縦に振ってくれたよ。『アイの好きなようにしたらいい』ってね。判るよね、この意味?」
あなたにも判るよね、とアイは繰り返す。口元の緩みが、いまやもう完全に笑みの形を取っていることを自覚した。
やがてミイが声を絞り出すようにして、言った。
「ちが、う」
「ん?」
「違い、ます。違うんです」
「違う? ミイ、あなたはわたしの言うことが事実とは違っていると、そう言いたいのかしら。ふうん、なるほど。それはつまり、あなたはわたしが知らないことを知っていると、そういった理解で構わないのかな。興味深いね。何が飛び出してくるのか、少しワクワクしてくるね、うん」
喉の奥からくすくすと笑い声が漏れ出す。
――ああ、笑っている、わたしは笑っている。
笑っているのが自分自身であるにも関わらず、アイはそんなことを改めて考える。自身の感情が、湧き上がってくる感情が愉快なものであることをワンテンポ遅れて気づく、というのも妙な気分だったが、そうしたある種乖離した状態そのものに滑稽さがあるようにも思え、やはり愉快だと判断した。面白い、ええ、本当に面白い。
それじゃあ、とアイはわざと猫撫で声を上げて、ミイに尋ねた。
「ねえ、教えてくれないかな? わたしに。あなたから見た事実がわたしの事実と、どこが、どんな風に違うのか、良ければ説明してくれないかな? 何も時間制限だとか、語数制限だとか、禁止語句だとかは設けないから、さ。ね?」
アイはそう言って、さあ、とミイに掌を差し出して催促する。さあ早く、さあ早く。今度は自分の意思で大きな笑顔を作った。
そんなアイの挙動に身体を縮めるようにして戸惑いの表情を浮かべて固まるミイ。それでも、アイはそれ以上は何も言わず、手を差し伸べたまま、笑顔のまま動かなかった。
薄暗い部屋の中、ぎい、とソファの軋む音がする。強い風が吹き、かん高い音が駆け抜ける。窓の向こうに見える空に、灰色の雲が群れてゆく。部屋の中に、暗く薄い膜が一枚、ゆっくりと重なってゆく。ゆっくりと、少しずつ、また一枚。
「だ、だから、違うんです」
やがてミイは、躊躇いがちな口調で言葉を発した。
「その、あの人は、納得なんてしていませんでした。アイさんが、その、えっと、しようとしていたことに……同意していたはずがないんです」
その言葉に、アイは差し伸べた手を僅かに突き出し、続けて、と促した。その顔に笑みを張りつけたまま。
「あの、だから、あの人は言ったんです、昨日……、この部屋で会ったときに、言ったんです、わたしに。『本心なんかじゃないんだ』って。『仕方がないんだ』って。彼は、とても、とてもとても辛そうな顔で、そう言ったんです。そう言って、くれたんです。だから、わたしは――」
「だから、あなたは受け入れた」
アイがそう言葉を継ぐと、ミイは息を詰まらせて目を見開いた。
「彼が迷っていたからこそ、あなたはそれを受け入れた。違うかな? 彼が迷っていたとすれば、ミイ、あなたならその隙にどうつけ入るでしょうね。『わたしは嫌だよ』とか『あなたも嫌でしょう』とか、別れるなんてまっぴらごめんだと彼に詰め寄ったのかな。そして、わたしがあなたたちに何を言おうと、わたしがあなたたちをどれだけ非難しようと、無視するとか従わないと息巻いたのかな。ああ、そうか、そうだよね、だから彼に殴られたのよね」
見開かれたミイの目が揺らぎ始める。
「彼が迷っていた、という事実はつまり、彼自身、自分を改めたいと考えていた証拠。強くは意識していなかったにせよ、少なくともあなたたちとこれ以上つき合うのは良くないことくらいは理解していたはずだからね。そこにあなたは横槍を入れた。迷いの中にいる彼をさらに迷わせるように仕向けた。あわよくば、彼の気持ちがあなたに向かうかもしれないと期待を込めて。だから彼を怒らせた、彼に殴られた――どうかな、違うかな。わたしの言っていることはどこか間違っているかな。何せこれはただの推測、根拠もなく言いたい放題に言ってるだけのわたしの妄想みたいものだからさ、事実と異なるところがあるなら遠慮なく否定して欲しいな。ねえ、ミイ」
その問いに答えは返ってこなかった。
マイが蔑みの言葉を口にする。
「はん、やっぱり気色悪い。おぞましい、って言葉がぴったりだ」
「そう、だね。そうかもしれない。けれど」
「何て言うのかね、同じ空気を吸ってると思うだけでも身体中が痒くなってくる。いまこの瞬間に生きてるってだけで死んで欲しくなる。死ねばいいのに。いまここで、いますぐに」
「けれど、それは多分、この場にいる皆に言えることだよ。きっと」
ミイは何も言おうとはしなかった。その身体が小刻みに震え出す。
そんな彼女の様子に、アイはいかにもわざとらしく見えるように小首を傾げた。
「あら、どうしたの? どうして黙るの? もしかして、わたしの言ったことは間違いではなかったの? そう受け取って構わないのかしら?」
ミイは答えはない。小刻みな震えは止まらなかった。
「へえ、正解だったの。それは……驚きだね。びっくりだよ」
笑顔のままそう言ってみせたアイだったが、内心ではやはりそうか、と納得していた。目の前のミイに向けていますぐにでも嘲笑と侮蔑の言葉を投げかけてやりたい気分だ。
最初からある程度は予想できていたことだった。ミイの頬にできた痣から、彼に殴られたであろうことはいままでの経緯を考えればすぐに推測がつく。殴られた理由についても、互いに依存し合っている彼とミイの関係、それぞれの性格、彼らを取り巻く状況を考えれば大方のことは想像できた。
――とは言え、本当にその通りだったとはね。
自分の予想に間違いはなかったことに小さな驚きを覚えつつも、アイの胸中は優越感で満たされてゆく。隠し事を暴いてみせたこの状況に、気分が高揚してゆく。本当に、単純だ。ミイも、彼も、あまりに浅はかだ。
一方で、それをじっと見つめている自分自身もまた認識することができた。心の片隅で急激に冷めてゆく感情を。ああ、何だろう、この違和感は。気持ちの悪い、不愉快な感覚は。
笑みを消し、話を続けた。
「さて、ミイ。あなたは、彼を引き留めたい一心で彼に縋りついた訳だね。そして、拒絶された。あなたはそれは違う、拒絶ではなく迷いの表れでしかない、なんて言いたいかもしれないけどさ、自分でも感じているでしょう? 少しくらいは。本当に拒否された、心からの否定を突きつけられた、って」
ミイは何も言わなかった。震えたまま、その身体を縮めてゆく。そのまま小さくなろうとしているかのように。消え去ろうとするかのように。
「だとすると、どうなるのかな? 拒まれたあなたは、どうしたのかな? わがままが通らなかったとき、人はどんな行動を取るのか――諦める、ほどほどの妥協点を探す、何も諦めずに色々な方法を模索する実践する、考えなしに闇雲に突っ込み続ける――様々だけれど、中にはこんなのもあるよねえ、つまり、『思い通りにならないなら、ぶち壊してしまえ』とか。自暴自棄でしかなくて、単なる子供の癇癪みたいなものだけどさ、最終的にこの手段に訴える人間は決して少なくないんだよね。ねえミイ、言っている意味、判るよね?」
「わたしが、そ、その手段を取ったって、そう、言いたいんですか?」
「あら、ちゃんと答えてくれたんだ。また何も言ってくれないとか思っていたから、わたし、少し感激しちゃうなあ。その上、ぴったり正解だもの、泣いて喜びたい気分だね。ええ、その通り、あなたは自己中心的な感情のおもむくままに、短絡的な行動を取った――いえ、少し違うわね、その行動を取った可能性が極めて高い。彼とあなたの置かれていた状況と、二人の間で起こった出来事を考えれば、ね。彼が憎かった、彼を殺したかった、とあなたが思ったとしても、ちっとも不思議ではないし、むしろ自然なくらい。もちろん思った通りに行動したとしても」
「アイさん、わたしは……アイさんがそんな風に考えるのは仕方ないのかもしれないし、疑いたくなるのも当然なのかもしれないけれど、わたしは、何も」
「怪しいよね、本当に」
ミイの言葉を遮り、アイは語気を強めてそう言い切った。
「そう、怪しい。いまの話をするまではね、わたしはあなたを疑いたくないと思っていた。たとえ、あなたに犯行のチャンスがあったとしても、ただそれができたかもしれないってだけであなたを疑うのは胸が痛い、そう思っていたの。あなたが殴られた理由だとか、そこから続けた推測だとかは、さっきも言った通り妄想みたいなものだったから、それを判断材料に加えるつもりもなかった。でもね、彼とあなたの間にあった軋轢がわたしの思い込みではなく事実だと判ったいまとなっては、わたしは積極的にあなたに疑いの目を向けたくなったね。疑わなければならないと、そう思う」
言い終えたアイはそこで認めた。話しているうちに、苛立ちを覚え始めていたことに。片隅にある違和感が、不愉快な感覚が、怒りであったことに。
アイは心を鎮めようと、深く息を吸い込んだ。ゆっくりと吐き出す。余計なもの、邪魔な感情を冷静な判断の邪魔になる不純物を、吸い込んだ息と共に吐き出す。深く息を吸う、ゆっくりと息を吐く。息を吸う、息を吐く。息を吸う、息を吐く。単調に、機械的に、感情を挟まない純粋な行動としての呼吸を繰り返す。
「とは言っても」
そうして、アイは言う。大丈夫、もう何もない。不要なものは何もない。そのはずだ。
「疑いが強まったとは言っても、それはミイ、あなただけに当てはまる話じゃあない。いまこの部屋にいる全員に当てはまる話だよ。彼とは二度と会うなと通告するために、わたしはあなたたちを今日、この部屋に呼んだ。そして、あなたたちは彼自身の口から呼びつけられる理由を聞いていた。そんな前提があって、今日になったら彼は殺されていた。おまけで首まで切られて持ち去られた。全員に彼を殺す動機があり、チャンスもあった。わたしにも、ね。もちろんわたしは、わたしが犯人ではないと――」
――本当に?
「自分が犯人ではないと知っているけれど――」
――本当にそう思う? 思える?
「この状況じゃあ第三者の目からすればわたしたち皆が皆、疑わしく見えるでしょうね。それはもう真っ黒に映るはずだよ。たぶん、いえ、かなり高い確率でこんな風に思われるんじゃあないかな。つまり、わたしたちが全員で彼を殺したのではないか、ってね」
「そんな、まさか……」
ありえない、と口にしながらミイは首を振る。気づいていても認めない。理解していても見ない振りをする。自分の希望にそぐわないものは拒む。彼女の弱さ故なのだろうか、自身を守るためには客観的な理屈さえも押し退けようとする頑なな態度に、アイは呆れるのを通り越して、ある種の羨望さえ抱いた。羨ましくなる生き方だ。自分ひとりだけが幸福になりたいと願う純粋な姿だ。皮肉ではなく、本心からそう思った。
それでも、アイは口にする。
「残念だけれど、決してありえない話ではないよ」
ミイの願いを否定する。どうやっても、自分には真似できない生き方だから。憧れと呼ぶには遠く、決して届かない夢想でしかないから。
また胸の中が冷えてゆく。冷えてゆく。空っぽになってゆく。
「それくらいにわたしたちは疑わしく見える。これが事実。どんなに認めたくなくてもね。ああ、うん、もしかしたらさ、わたしたちは、わたしたち皆で彼を殺した現実を認めたくないあまりにいまこの場所でこんな茶番を演じているのかもしれないね。だとしたら、少し、いえ、かなり面白い話だよね。大笑いしたくなるくらいにさ」
そんなアイの言葉を、笑おうとする者はいなかった。
笑わずに、無感動にマイが言う。
「素敵だよ、この疑い合い。疑って疑って、疑り深さが極って、その先はどうなるんだろうね。また殺人が起きそうじゃないのさ。この調子なら」
「本当は、それを止めたかったんだけどね」
「殺したり殺されたりが起こったばかりで、また繰り返しそうじゃないのさ」
「このままだと不毛な殺し合いになるのは目に見えていたから」
「うんざりだよ。笑うしかないくらいにくだらなくて、もうここにいる全員を――」
「わたしはそんな状況になるのを避けたかったんだ」
「――皆殺しにしてやりたいくらいだよ」
「だからなんだよ。だからでもあるんだ。殺し合いの連鎖を引き起こす元凶を――」
沈黙が重みを増そうとする気配に微かな不快感を覚え、アイは冗談だと手を振ってみせる。
「ただの冗談。自分で言っておいて何だけど、つまらない話よね」
――本当に、冗談? わたしはわたしを信じてる?
「この状況で言うことじゃなかったね。ちょっと趣味が悪かった。謝るよ。まあ、それはともかくとして――」
――大丈夫、わたしはわたしを信じてる。
アイは自身に言い聞かせると、足を組み、身体を前方に――ミイの立つ場所に向かって傾ける。
「わたしたち全員が疑わしく見えてしまうこの状況に第三者を招き入れるのが得策とは言えないことは判るでしょう。最悪全員が捕まって、真相がうやむやになってしまうかもしれない。わたしはそんなのごめんだわ」
「そんな……そんなの、判らないじゃないですか。どうなるか、なんて。わたしたちがいまここでいがみ合うよりは、誰かを呼んだ方がずっと助けになるはずでその方がわたしたちのためになるはずで……その」
「へえ、あの人以外の他人が助けになる、だなんてあなたらしくもない言葉だね。それほどまでに、この場にいるわたしたちが信用できない、ということかしら」
「ち、違います、そうじゃなくて」
「いいのよ、それで。その態度で正解。この状況で自分以外は誰も信用できないのはわたしも同じだもの。でもね、この状況だからこそ、無関係の人間からすれば怪しく見える人間がこれだけ集まっているこんな状況だからこそ、わたしはチャンスだと思っている。彼を殺した人間が誰かを突き止める、ね」
「アイ、さん……」
「わたしは、いまこの場で、わたしたちしかいないこの場所で、彼を殺した人間を見つけたいの。見つけられると信じている。この殺人、しかもご丁寧に首を切って持ち去る行為に、彼とは関係の薄い人間や、まったく無関係の人間が関わってはいないという自分の判断を信じているの。だからね、ミイ、もし誰かがこの場所を離れようとしたら、わたしはその人物を無条件に犯人と見なす。そして――」
そこで言葉を切った。アイは薄く笑い、怯えた目でこちらを窺うミイの視線を受け止める。
薄闇の膜がまた一枚、重なってゆく。
アイはただただミイを凝視し続ける。声もなく、音もなく、時間の流れさえも曖昧になってゆく。そんな沈黙の中にあっては、自分の行動の意味さえも、自分自身が確固として存在している事実さえも、霞んでしまうように思えた。
ただ一つ、かろうじて明確なのは自身の決意だけだ。
――わたしは彼を殺した人間を、この手で。
軽い眩暈を覚える。
――わたしは、彼を、この手で。
歪んでいた。自分自身に、自分以外に、歪みを感じていた。
「わたしが――」
歪み捻じれた意識の中で、微かに響く声。