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二幕 マイ 軽んじて蔑み対話する

軽蔑対話

 いけ好かない女だ。内心で毒づきながら、マイはスツールの上で足を組むアイから目を逸らした。切り揃えた前髪に、目鼻立ちの整った顔立ちと大きな瞳――そうした、まるでマネキン人形を思わせるような外観だけでも気に入らないのに、感情の起伏に乏しい平坦な喋り方をするものだから薄気味悪さえ覚えてしまう。いちいち理屈っぽい言葉を並べたて、賢さをひけらかすようなところも気に食わない。

 ――くだらない。まったく何もかもがくだらない。

 マイは内心でそう吐き捨てる。視線の先にあった薄型テレビの真っ暗な画面に、自分自身の姿がぼんやりと浮かんで見えた。それもまた面白くない。はっきりとしない自分の存在を、曖昧に歪んだその姿を暗に示めされているように思えて胸が悪くなる。

 そこで窓辺に立つミイに目を向けたものの、落ち着くどころか内心の苛立ちをますます強める結果にしかならなかった。

 ミイが女子大に通う学生で、つい最近二十歳になったばかりという話を聞いていたが、彼女はとてもそうは見えないほどに小柄だった。丸みを帯びたその顔立ちは幼さを感じさせ、肩口まで伸ばした栗色の髪を内側にカールさせている様は、彼女の子供じみた印象をさらに強めていた。かなりひいき目に見て高校生、ぱっと見では中学生かと思うくらいだ。

 窓の側、カーテンを握り締めながら、視線を床に落とすミイは、灰色のニットワンピースに黒のレギンスといった服装に身を包んでいた。地味な色合いにアクセントをつける目的だったのだろう、首には白いベルトチョーカー、その腰にはエナメルの赤い細ベルトが緩く巻かれている。

 だが、青黒く腫れ上がったミイの頬は、本来なら演出されているはずの明るさや可愛らしさといった要素を台無しにしていた。その腫れ具合は痛々しいばかりであり、なまじ肌が白いためにグロテスクな雰囲気さえ漂っている。

 みすぼらしいといった表現がぴったりだ、とマイは思う。こんな様ではいくら着飾ったところで無意味であり、せいぜい陰鬱な印象に僅かばかりの滑稽さを加える役にしか立っていない。だが、ミイの惨めさを強調するのは、何よりも彼女の浮かべる表情だ。彼女の顔にべったりと貼り付いた怯えの色が、見た目以上の暗さを醸し出しているのだ。

 そして、マイが苛立ちを覚えずにいられないのも、こうしたミイの態度――まるでそれが常態であるかのように不安げな表情を浮かべ続けるミイの弱々しさのせいだった。

 マイは他人に媚びる生き方をする人間を心の底から嫌っていた。弱いだけならばまだいい。問題は、その弱さに甘んじることだ。弱さを利用して立ち回り、弱さを盾に自己保身に走り、弱さを武器にして多くの言い訳を作り出しておきながら、自らの弱さに気づかない連中、気づかない振りをし続ける連中の厚かましさときたら、唾を吐きかけてやりたくなるほどにくだらない。

 マイにとってそのくだらない人間たちの中でも、よりくだらない人間がミイだった。ミイが臆病者の姿を取り続けるのは、他人に媚を売り、他人の同情に縋ろうとする浅ましさの表れでしかない。弱々しい態度を取ることで、自分がさも可哀そうな人間であるとアピールし続ける卑しさに腹が立つ。不健康に青褪めた白い肌も、少し刺激を加えてやればすぐでも泣き出してしまいそうなほどに潤んだ瞳も、自意識過剰なくらいに身を縮めている様も、すべてが腹立たしい。くだらなさの最底辺にいる女、人間以下の屑だ。

 ――虫酢が走る。

 ふいにあの男の顔がマイの脳裏に浮かぶ。最後に出会ったときの顔、まだ生きていたときの顔、今はもう消えてしまった男の顔。泣き出しそうな顔だった。卑屈さを露わにした、ミイとそっくりな顔だった。

「あの、マイさん、わたしは……」

 おずおずとした口調でミイが切り出す。その右手は、窓横に纏められたアイボリー色のカーテンを握り締めていた。

「わたしは、別に、その、マイさんのことを疑わせようとか、不意打ちをしてやろうとか、そんなつもりでアイさんに話をした訳じゃないんです。悪気があった訳じゃないんです。それだけは、その、誤解しないでください」

 その言葉に、マイは思わず拳を握り締めた。他人のことを勝手に喋っておきながら、真っ先に口にするのが謝罪ではなく、自己正当化のための言い訳である。それに、神妙な顔つきしているところも腹が立つ。上っ面だけ詫びるような形を整える――そんな逃げ腰の態度をされるくらいなら、自分は欠片も悪くもないと開き直って堂々とされる方がまだましというものだ。 

 いますぐにミイを殴りつけてやりたい衝動に駆られたものの、平静を装ってマイは言う。

「ふうん。随分と可愛いこと言ってくれるじゃないの。いまさらさ」

「マイさん、わたしは――」

 大体さ、とマイは声を張り上げ、ミイの発言を遮った。

「真面目で、優しくて、人間のできたミイちゃんがどうしてわたしに一言も断りなく、わたしのことを喋ったりしたのかな? どうして告げ口にしか見えない、卑怯としか思えない真似をしたのか。教えて欲しいな」

 皮肉を込めた言葉のつもりだった。しかし、すぐに空しさに襲われ、マイをうんざりさせた。意味がない。何を言ったところでミイから返ってくるのは身勝手な自己弁護の言葉だけなのだ。相手に投げたつもりの皮肉が自分自身に跳ね返ってくるなど、まさに皮肉そのものだ。

 ミイが唇を噛みつつ、もどかしそうに首を振ってみせた。

「本当に悪気があってアイさんに話した訳じゃないんです。だって、こんなことになっちゃったんだから、本当のことを言った方がいいって、それが正しいことだって、そう思っただけで、わたしは……」

「本当のこと? 正しいこと? この状況で何をぬかすかなあ、アンタは。そもそも、この中で一番怪しいのがアイだってことくらい、アンタにだって判るでしょう? それも理解できないくらいに脳みそがスカスカな訳なの?」

「わたしは、信じてます。アイさんのことを。人殺しなんて、まして彼のことを殺すなんて、する訳がありません。だから――」

「へえ。そうなんだ。わたしを無視して楽しくお喋りできるくらいにあの女を信じられる訳ね。て、ことはだ。少なくともアンタにとってはわたしの方が疑わしいと、つまりはそう言いたいのね」

 酷い女だなあ、とマイは鼻で笑ってみせた。自己保身ばかり考えている癖に自分のことが一番見えていない。こうしたミイの愚鈍さもまた胸をむかつかせる。

 違う、とミイが身を乗り出す。引っ張られたカーテンが揺れ、部屋の中に微かな震えが走った。それでもなお、ミイの手はカーテンを握り締めたままだ。

「違います! わたしはマイさんのことだって疑ったりなんてしてません! だからこそ、誰も疑っていないからこそ、本当のことを話したんです。話したことだって、この部屋にマイさんがいたっていう事実だけです。それの何が不都合なんです? それともマイさんは、その事実を話されると都合が悪いんですか? 隠さなければいけない理由があるんですか?」

「ふうん。ずいぶんな物言いだこと。いつもビクビクして、わたしたちにも、あのくだらない男にも、まともな意見の一つも言えないような臆病者のアンタが、脊髄反射で怯えることしか能のない虫けら以下のアンタがさ」

「か、彼の、あの人のことを悪く言わないでください」

 苦痛に耐えるかのように顔を歪めて、ミイは言う。その目には涙が溜まり、その声は憐れみを誘うかのように掠れていた。

「わたしの……わたしのことはともかく、彼のことを悪く言うのは止めて……」

「自分よりもあの男の名誉を守ろうなんて、アンタにしてはご立派な態度だって誉めてあげるよ。でも、それはそれ。話が違うよ。わたしが問題にしてんのは、そこまで人間のできていらっしゃるミイさんが、生意気にもこのわたしを疑ったことだよ」

「それは、その、だから」

「口籠るくらいだったら、最初から喋るんじゃないよ。この虫女」

 その言葉にミイは目を見開き、顔を逸らせた。悔しさを堪えているのか、閉じられた唇が震えている。

 反論の言葉が思いつかない、思いついたとしてもそれを口にする勇気がない、といったところだろうか。ミイの様子を眺めながらマイはそう考え、顔を顰めた。まともな反論もできない癖に、中途半端に生意気な言葉を吐き、大した覚悟もないからすぐにまた黙り込む。くだらない。本当にくだらない人間だ。

 窓の外を見た。灰色の雲が空を埋め尽くしている。雲の群れが織り成す層は先ほどよりも――この部屋に入ったときよりも――厚みを増しているようだった。部屋の中に差し込む光は、頼りないくらいに弱々しい。まるで、とマイは思う。まるで、影が差し込んでいるかのようだ。薄明かりではなく、薄い影が、影そのものが、直接――

 嫌になってくる。マイは余計な感情に囚われる前に目を瞑り、小さく舌打ちをする。自身の感性のつまらなさ、意味のない考えに囚われる危うさに胸くそが悪くなる思いだった。

 ひとつ息をつき、改めてミイに目を向ける。翳りを帯びた明かりの下で縮こまり、黙り続ける彼女の姿は、ますます貧弱なものに見えた。気を取り直し、マイは言う。

「ふん。まあ、いいよ。それじゃあ質問するけどさ、わたしのことも、あの女も疑わないって言うアンタの言葉を信じるとして――それなら、誰があの男を殺したと考えているのかな?」

 ちらりとマイを見返すミイ。しかし、すぐにまた視線を逸らし、躊躇いがちに声を発した。

「わ、わたしには判らないよ。そんなこと。判る訳、ないじゃないですか」

「なら、誰があの男の首を持ち去ったんだろうね」

「判ら、ない」

「判らない判らない。判らないことばかりだね、ミイ。でも、信じているよ、って? よい子ちゃんを演じるのって、そんなに楽しいことなのかしらね。わたしにはさっぱり理解できない。したくもないね」

 溜息をつく気にも、笑う気にもなれない。マイは肩を竦め、首を振る。

 そして、ミイを指差して、口の端を思いきり吊り上げてみせた。

「大体ね、考えようにはよっては、ミイ、アンタだって怪しいよねえ」

 ひゅ、とミイが息を鳴らす音が聞こえた。

「つまりさ、アンタは知っていた。自分が出ていったあとに、わたしが一人でこの部屋に入ってあの男と会ったのを見ていた。だからこそ、そう、だからこそ、その状況を利用できたんじゃないないかな。隠れて待ち伏せして、わたしがこの部屋を出てきたら、こっそり部屋に侵入して、あの男を殺した。あとは首を切り、持ち去る。で、時間が経ってから、アイが来る時間辺りを見計らって、何食わぬ顔で戻ってくる、って感じでね。どう、ミイ? こんな方法なら、たとえアンタみたいな愚図にだって簡単にできそうだよねえ」

「そんな……そんなのは、言いがかりです!」

 再び顔を上げ、ミイが叫ぶ。その表情には驚愕と非難の色が込められていた。自分だけは疑われない、自分だけは無関係だと信じ込んでいる被害者の顔だ。

 ――救えない。救いようのない頭の悪さね。

 もう一度、今度はミイの言葉を否定する意味を込めて首を振り、マイは話を続ける。

「さて、どうかしらね。ミイ、アンタならできそうだけど。大体、首を切り落とすって行為だけでもとんでもなく陰湿なのに、それを持ち去っているんだからね、本当におぞましくて気持ち悪い。いかにもって感じだよねえ、ミイ。アンタみたいにさ、妄想じみた夢ばかり見てるような痛々しい人間のやりそうなことだよね。ぴったりじゃない。『首だけでもいいから、ずっとずっとあなたと一緒にいたいの!』とかさ」

「わ、わたしが、そんなことするはず、ないでしょう!」

「あら、怒ったの? 優しい優しいミイちゃんが、怒っちゃったの? ん? それは図星だったからかな。それとも、一回くらいはそんなこと考えちゃったことがあるからかな。どうなんだろうねえ」

「わ、わたしは! わたしは、彼のことを愛していたもの。彼だってそうだった。愛し合っていたんだもの! 殺したりなんて、する訳がないじゃない!」

 どうだか、とマイは溜息をついてみせた。そして、ミイの顔に、腫れあがったその頬に指を向ける。暴力の痕だ。あの男、いまはもう死体となった男がミイを殴りつけていた証だった。

 声を詰まらせ、ミイは慌てたようにその頬を左手で覆う。その瞳には、彼女に不釣り合いな感情が、ただの非難ではない強い感情が込められていた。

「愛し合っている、ふん、あれを愛し合っていたなんて言えるのかしら。一方が感情のままに相手を殴りつけ、もう一方はただそれを黙って受けて入れる関係が愛、だなんてね。もちろん世の中には、そういうのを嬉しがる人間もいる訳だし、互いに納得の上でそうしてたんなら構わないんだけどさ――でも、アンタら二人は違ったよね。ちっとも喜んでいる風じゃなかった。快楽に溺れてた様には見えなかった。あの男も、アンタも、苦しそうだった。あの男は悲痛な顔でアンタを殴って、アンタはただただその暴力に耐え忍んでいただけだった。すっかり怯えきった表情になりながら、ね」

「それ、は」

「あれが愛し合っている、なんてね。それとも何かな、わたしが勘違いしてただけで、ミイ、アンタは喜んでたのかな?」

「違う……」

「あの男の暴力が気持ち良くて気持ち良くて、それですぐにでも死んじゃいそうな顔をしてたのかな?」 

「ちが、う」

「うん、さすがだね恐れ入るね感服するね尊敬しちゃうね、スゴイよホント。暴力も、理不尽も、苦痛だって受け入れる――」

「ちが」

「慈愛ってやつかな。正に真実の愛、だね」

 マイは一息つくと、そこで精一杯の笑顔をミイに向けてみせた。

 そして、吐き捨てるように言う。

「くだらない」

 いつだって良い子を演じ続けようとするミイ。薄っぺらい感情を真実と思い込み、偽物の満足感に酔い続けるその欺瞞。

 ――偽善者め。

 吐き気すら覚えるほど嫌悪感が込み上げてくる。胸がむかつき、全身に痒みが走る。マイは露骨に顔を歪めてみせながら、ミイを睨みつけた。

「わたしはね、ミイ。アンタみたいな人間こそ信用できない。いつ本性を剥き出しにして襲ってくるか判ったもんじゃないからね。あの男が正にそうだったでしょう? 弱いやつほど牙を剥く、弱いからこそ理不尽なことをしでかす――で、同じように弱いアンタはそれを受け止めてた。さぞ、優越感を得られたでしょうね。『弱い自分よりも弱い存在がいる』『弱い自分が誰かを慰めてやれる立場にいる』――みたいにさ。そんな傷の舐め合いみたいな生き方してたら、互いに傷つけ合うのも当然だね。うわあ、気持ち悪い」

 そう言ってみせると、ミイが首を傾げる。眉を曲げ、困惑したような表情を浮かべていた。

「なに、それ。どういう、こと?」

「あら、気づいてもいなかったの? 少しくらいは自覚があると思っていたのに」

 ただの虫ではない、とマイは思い直す。

 ――害虫だ。

 自覚なしに他人を蝕む女、生きているだけで迷惑な害虫だ。

 声を弾ませながらアイが言う。

「ミイはそんな人間じゃないよ。優越感を得たくて彼に接していた訳じゃあない。そこまで頭が回るタイプじゃないからね。彼がわたし以外の女に何かを求めていたなんて正直な話、とても不愉快だけど……ミイ自身は、その求めに応じただけなんだと思う。それも他意は持たず、ただ素直によいことをしてるんだ、と考えていたんじゃないかな。まあ、だからこそ――より悪質でもあるんだけど」

「確かに、そうだね」

「悪意がなければよいこと、ではないもの」

「邪悪、とも言えるね」

「ミイにはミイの罪がある」

「そう。ここにいる――」

「わたしにも、だけど」

「――全員に、ね」

 僅かな沈黙の後、ミイが口を開いた。

「何を……言っているの? 判らない、わたしには、わからな」

 マイはそこで笑い声を上げ、ミイの言葉を断ち切る。欺瞞たっぷりの言い訳など聞きたくもなかった。判らない振り、気づかない振り、見ない振り。うんざりだ。

「性質が悪いね。無自覚な優しさ、ってさ。臆病者のそれは、特にそう」

「わたしは、あの人を」

「傷つけてたね、アンタは。あの男を。アンタが、あの男を受け入れれば受け入れるほど」

「そんな、わたしは――」

「誰かに受け入れられる度に自分の弱さ、醜さ、汚さが浮かび上がってしまうものだからね。耐えられないほど、大きく育ってしまうからね。弱いまま、変われなくなってしまう。だからアイツは、あの男は、あの通りだったんだよ」

「わたし、は」

「よく愚痴を零してたよ、わたしにさ。自分は惨めだ、惨めなままだ、ってね。ふん。それでいて、アンタから離れられないってさ。くだらないね、本当」

「わたしは、そんなつもりは――」

「あの男は、アンタから離れようとしたんじゃないの? アンタとの爛れた関係を断ち切りたかったんじゃないの? で、アンタはそれを受け入れなかった。自覚があろうがなかろうが、あの男は弱いアンタが唯一、優位に立てる相手だったろうからね。だから、失いたくなかった。許せなかった。殺す動機だけなら、これで十分だよね」

「わたし、じゃない。わたしは、あの人を殺したりなんか、そんな恐ろしいことなんか、できないよ」

 誤解です誤解です、とミイはか細い声で訴えながら、必死に首を振る。窓から差し込む薄い明かりを背景に、首を振り続ける。影に包まれた女が一人、カーテンを掴みながら、繰り返し繰り返し。

 アイが言う。

「ミイではない、わたしは、そう思う。いえ、そう思いたい。そう信じたい。でも」

「違うよ」

「でも、そうね、ミイが殺したって別に不思議ではない、よね」

「違うんだよ」

 首を振り続けていたミイの動きは、ゆっくりと小さくなってゆき、やがて発条の切れた人形のようにぴたりと止まる。そして俯き、黙り込んだ。

 その光景にマイは微かな哀れみと、それ以上の嫌悪感を抱いた。

「わたしからすれば、ミイ、アンタは相当にうさん臭い女だよ。アイなんかよりずっとね。怪しい、なんてものじゃない。悪質なんだ。他人を引きずり込む沼みたいにさ。本当に、最低だよ」

 最低の女だよ、とマイは呟いた。その言葉に応える声はなかった。誰も喋ろうとはしなかった。

 部屋の中に沈黙が満ちてゆく。

 最低の女。自分の放った声の残響が、じわじわと頭の中に染み渡る。どうなのだろうか、とマイは思う。自分自身はどうなのだろうか。自分にとってあの男は、どういった存在だったのだろうか。あの男にとって、自分はどういった存在だったのだろうか。

 暇なときや憂鬱なとき、気を紛らわそうと共に酒を嗜む仲間か。物や金銭と引き換えに肉体関係を結ぶ、客と情婦か。よく判らなかった。あの男に対して何か特別な感情を持ち合わせていたつもりはない。それなのにどうして、とマイは疑問を抱かずにはいられなかった。

 どうして、ミイのことが腹立たしく思えてしまうのだろう。あの男を弱いままの存在に仕立て上げたことについて、許せなくなるのだろう。あの男の目が、心が、他の女を語るときに、苛立たしさを覚えたのだろう。

 胸元に下がるネックレスに目を向ける。重々しい空から部屋に差し込む貧弱な光が、サファイアの青を深く、物憂げに照らし出す。あの男からの贈り物だった。女に媚を売りたがる男が渡すつまらない好意の証。小奇麗に装飾されているものの、本当は女を繋ぎ留めておくための首輪代わり。そんな、はた迷惑な代物でしかない。

 そう思っていた。その程度のものでしかないと信じていた。

 ――それなのに。

 それなのに、それなのに、それなのに。

 自身の認識とはまったく無関係に湧き上がってくる感情に、マイは胸を抑えつけた。死んでしまったから、なのだろうか。失ってしまったからなのだろうか。

 だからこそ、あの男を殺した誰かが、殺したかもしれない誰かが許せないのか。

 認めたくない、とマイは胸を抑える手にぐっと力を込めた。認めるものか。あの男を、わたしが、なんて。

 でも、と頭と片隅から自分自身が囁いた。

 ――でも、それなら、そうだったとしたなら。

 あるはずだった。当てはまることだった。間違いなく。自分にも。

 ――わたしにも。

 あの男を失いたくない、という思いが。

 あの男が離れていくことが許せない、という思いが。

 あの男を殺す動機が。

 男に向けて置時計を投げつけた光景が頭に浮かぶ。男が妙に気に入っていた、そしてマイにとっては見るだけで不愉快だった古臭い置時計。そのときに見せた男の顔。驚き、放心したようなあの顔。その直後に見せた悲しそうな顔。

 手に込める力を強くした。強く、強く。考えを打ち消すように、頭の中を空っぽにするように。ソファが軋んだ。

 やがて、声が上がる。

 その声が、他人のものなのか、自分のもなのか、いや、本当に声がしたのかどうかさえ、マイには判断がつかなかった。

「彼を殺したのは、わたし――」

 ――そう、わたしではなく――

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