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暗転終幕

 細かい雨がさらさらと窓を打つ。その音が、すでに暗がりの中に沈んでいた部屋の中に静かに染み渡ってゆく。

 誰も喋ろうとはしなかった。動こうともしなかった。その気配も、息遣いさえも、徐々に徐々に強まってゆく雨音に掻き消されていた。

 部屋の暗がりもまた、その濃さを深めてゆく。

 影が深まる。雨が降る。

 遠くの空で風が鳴る。雨が降る。

 近くの街音が空しく響く。雨が降る。

 そうして、気だるげな停滞が続いたものの、やがてぼんやりとした人影が揺れ動き、部屋の中のまどろんだ空気をざわめかせた。そして、その影から小さな溜息が漏れ出る。

「あなたが、刺したんだね。ナイフを」

 影が発したのは女の声だった。張りのない、物憂げな声音。ただの独白であるようでも、また確認を求める問いかけのようでもあった。

 だから、それに応じた。同じように、独り言のようにして。

「そうだよ」

 ゆっくりと間を取り、落ち着いた声音に聞こえるよう努めながら、そう返した。その言葉に、また小さく溜息が漏れる。

 しばらく沈黙が流れ、また声が上がった。

「そして、切り落としたんだね。首を」

 もう一度、答える。

 やはり、ゆっくりと。落ち着いた声で。

「そう。その通り」

 その答えに、苛立たしげな呻き声が上がり、すぐさま舌打ちする音が響いた。

 またしても沈黙が流れたのち、声がする。

「あなたが殺したんですね。彼を」

 今度は、少し笑う。ようやく気づいたのかという呆れと、ようやく気づいてもらえたという嬉しさの混じった笑いだった。

「そう、わたしよ。わたしが殺したの」

 わたしが、彼を、殺したの。

 一語一語を強調しながら、そう繰り返した。

 ひゅう、と息を呑む音が上がり、部屋の空気が張り詰めたものへと変わる。声が上がることなく、雨の音だけが絶え間なく響き続ける。しかし、その無言が訴えっているものは明白だ。

 問うていた。

 なぜなのか、と。なぜ、彼を殺したのか、と。

「どうしてなのか、どうして彼を殺さなくちゃいけなかったのか。殺してしまったのか。理由、理由は――そうだね、説明するのが難しい、かな。ごまかしている訳じゃないよ。違う、そうじゃない。思い当たることはたくさんあって、そのどれもが正解であるようにも思えるし、そのどれもが間違っているようにも思えるからなの。そう、だね、たとえば――」

 と、言葉を切って、少し間を置いた。部屋の様子にも、この話を聞いている者たちの様子にも変化はなかった。ただ、暗がりと雨の音があるばかりだ。

 たとえば、と話を続けた。

「彼を憎んでいたから、というのは間違いではない。そう、わたしは彼が憎かった。他の女に手を出す彼のことが憎くて堪らなかった。だから、殺した。そう言い切ってしまうこともできるけど――理由はそれだけじゃない。それだけでは彼を殺した理由になっていない。だって、わたしは彼のことが好きだった、愛していた。だから、誰にも渡したくなくて、あなたたちの誰かに奪われる前に殺してしまった、と言うこともできるのね。そう、この説明もまた、わたしには正解。『憎いから殺した』という理由と『愛しているから殺した』という理由の、どちらもね。あるいは、こうも言えるよ。つまり、以前から殺そうと思っていた末に起こした計画的犯行だったとも、その逆に、殺してやろうだとか考える前に勝手に身体が動いて殺しちゃった、なんて言い方もできる。彼の一挙手一投足に我慢ができなくなったからでもあるし、彼の性格的、身体的な一部分が無性に許せなくなったからでもある。彼の持ち物、金品を奪いたかったから、なんて即物的な理由も追加できるし、あまり認めたくはないけれど、彼が死体になってくれたら、その身体のすべてをわたしのものにできるかもしれない、って願望も皆無だったとは言えないね。もちろん、他にもまだあるよ。彼とは関係のない、わたし個人の理由が」

 ここで暗がりの中から声が問う。

「あなたの、理由?」  

「そう、わたしの理由。たとえば、単純に疲れたから、だね。彼のことだけじゃない、色々なことにね、嫌気が差して面倒になって、それで殺した。邪魔なものをひとつ取り除けてやろうって、軽い気持ちでね。あるいは、人生に立ち塞がる大きな障害を打ち壊すつもりで。そして、またこうも言える、虫の居所が悪くて苛々していたからとか、気分がすぐれなくてその八つ当たりをしたとか、あまりにも精神的に辛くて前後不覚に陥ってしまったとか、そんな風に。太陽が眩しかったからだとしても、今日が曇りだったからとしても、風が吹いてきたからとしても、わたしがいまこうしてこの時代に生まれ、この国のこの場所でこうやって彼に出会い、そして彼を殺すことが運命だったから、としてもそれが間違いだとは誰にも言わせない。誰でもいいから人を殺してみたいという身勝手な理由からだったし、どこまでやったら人が死ぬのか実験してみたいという探究心からだったし、他人の命を好きなように弄んでみたいという征服欲からだったし、地球環境のために一人くらい人間を処分しておくべきと考えたから、なんて理由も少なからずあったと言えるよ。他にも理由を挙げるとすれば……そう、あなたたち。あなたたちだね」

 暗がりの中から、非難めいた声が上がった。

「はあ? わたしたち? わたしたちのせいだってこと?」

「それはそうだよ。あなたたちの存在があったからこそ、彼を殺そうと思ったんだから。あなたたちとわたしの関係性もまた理由の一つだったなんてことは、わざわざわたしが口にするまでもないことでしょ? それを認めるのは難しいかもだけどさ……ともかく、わたしから彼を奪おうとしたあなたたちが憎くて、その当てつけに彼を殺したの。あなたたちと彼を奪い合うその行為が不毛に思えたから、その元凶である彼を殺したの。とにかくあなたたちの何もかも気に入らなくて、あなたたちが悔しがって、困惑して、混乱して、怒って、たくさん嫌な気持ちになってもらいたかったからあなたたちが大事にしている彼を殺したの。そしてね、憎くて嫌いではあったけれど、わたしはあなたたちに同情もしていたし、共感もしていたから彼を殺した、なんて理由もあるんだ。まあ半分以上、わたしの主観が混じってはいるから、言い訳じみて聞こえるかもしれないけれど、あえてあなたたちと彼の関係が理由だ、とでも言っておくよ。例えれば、そうだね、決して分割できない一人の人間を奪い合うあなたたちがあまりに不憫だったから、その原因である彼を殺したの。ただ一人の男に弄ばれているあなたたちが可哀そうだったから、彼を殺したの。あなたたちが彼を憎んでいるようだったから、彼の死を願っているようだったから、彼を殺したがっていたから、代わりに彼を殺したの。わたしは、あなたたちのために、彼を殺したの。あなたたちがわたしと同じ気持ちでいるということに共感を覚え、喜びを覚え、そのことから使命感を覚えて彼を殺したの。やっぱり、言い訳っぽいかな? でも、わたしが彼を殺した理由を正確に述べようとすると、こういった無責任な――他人に責任転嫁してるような一面が皆無だったとは言い切れないからね。だからその辺りをもっと膨らませて、他の色々な人間にまで理由を伸ばす――わたしの親が、わたしの受けてきた教育が、わたしの周囲にいた人間が、あなたたちの周囲が、彼の周囲が、わたしたちの生きるこの社会が、この国が、歴史が、さらにいえば人間全部の歴史そのものがわたしが彼を殺した理由の一因子である、なんてことも言えそうだけれど……どうかな? 考えれば考えるほど山のように理由がある、と思わないかな? うん、でもあんまりどこまでも掘り進めると際限がないし、どんどん本質から離れていくだけから、そうだね、本当に決定的な理由を挙げるとすれば彼、なのかな。彼自身が理由だね」

 悲鳴のような喘ぎ声が、ひとつ。また暗がりから漏れ落ちた。

「彼自身? 彼自身が、彼を殺した理由なんですか?」

「そう。それはわたしの中にもともとあった殺意だとか、あなたたちの事情だとか、要するに彼以外の人間とは関係なく、彼自身が望んでいたから、わたしは彼を殺した。つまりね、これ以上惨めになる前にこの世から消えてしまいたいと彼が願っていたんだよ。自己嫌悪を重ね続けるくらいなら死んでしまいたい、と。終わらない不安に押し潰されるくらいなら誰かに殺して欲しい、と。そんなことをね、彼はわたしに話してくれたんだ。で、彼は頼んだの。わたしに。殺して欲しい、って。わたしに、殺してくれって、頼んできたの。自分という存在の全てを、その決着を、任せてくれたの。わたしに。この、わたしに」

 そこで話を止めて、息を吐く。口にした言葉は、ただ暗がりの中に飲み込まれていった。

 応じる声も気配もなく、その代わりに浮かび上がってくるのは、記憶の中に刻まれた声、自分が殺したあの男の声だ。

 声は言う。殺してくれ、と。終わらせてくれ、と。絶望に満ちた、惨めな声で。尊厳の欠片もない、哀れな声で。

 自然と口元に笑みが浮かぶ。そして、これもまた自然に「わたしはね」と言葉を継ぎ、話の続きを始めた。 

「わたしは、そんな彼の言葉を聞いたとき、わたし自身の気持ちだとか色んな事情なんかとは別に、ただ純粋に彼に応えてあげたいと思った。だって彼がわたしを頼ってくれた、という事実が嬉しかったから。どう考えても無茶な願いを、あえてわたしに託してくれた事実が。そして、なによりもわたしだけ――わたしだけに、ってところが。その気持ちを表すとしたら……喜び? 使命感? どちらでもある……ああ、そう、誇り、だ。誇らしく思えたんだ。誇らしさから、殺したんだ。わたしは誇りで胸をいっぱいにして、彼を殺したの」

 その時の高揚感が胸中に蘇る。記憶の中にも、そしていまこの瞬間にも、自分自身の行動を支えた誇りは間違いなく残ったままだ。

「それだけ?」そう問う声が暗がりからかけられる。「それだけなの? 彼に殺してくれと頼まれたあなたが思ったことは?」

 まさかね、と即答した。皮肉めいた笑みで唇を歪ませながら。

「違うよ。わたしはそこまでおめでたくなんかない。本当は、彼の一方的なお願いを聞いて喜んで、それでお終いにはできなかった。彼の身勝手さに腹を立てずにいられなかったんだ。好き放題しておいて、切羽詰まったら死にたいと言って逃げたがる。もうだめだと泣いて、八つ当たり気味に殺せと叫ぶ。それも、たとえ本心からではなかったにせよ、愛しているとか離れないなんて言葉をかけて、仮にも恋人扱いしていた相手に対して。最低最悪だね。どこまでもわたしのことを舐めきった態度だよ。頭にきた。心底から怒りを覚えた。だから、でもあったかな。わたしは、ふざけたことをぬかした彼を――あの男を、殺してやったんだ」

 胸の中には黒々とした不快感がべったりとへばりついている。裏切られた屈辱も、絶望的な怒りも、ひとりの人間を完全に否定する行為にまで及んだにも関わらず、消し去ることができないままだ。

「それで?」とまた声。「それだけなの? あの男に殺せと言われて、嬉しくて、悔しくて、それだけで殺したっての?」

 その問いかけに首を振る。その目に涙を浮かべながら。

「まだ、ある。まだあるんだよ。わたしは、泣きたかったんだ。誇らしさに感極まっていたからでも、腹が立って悔しかったらでもあるけど、目の前の彼が、さ。あまりに弱々しくて、情けなくてね、失望した。ねえ、少しは判ってくれるでしょ? 自分の恋人が、体面を保つことを捨て去って縋りついてきた時の気持ちが。好きになった相手が、惨めさを剥き出しにして泣きついてきた時の気持ちが。目の前にいた彼と、わたしの中の彼が、まったく重ならなくなった時の気持ちが。本当に、泣きたくなったよ。彼の、哀れ過ぎるあの姿を見ていられなかった。見ていちゃいけないと思った。あんな惨めな彼は生きていちゃいけないって思った。死んでしまった方が、彼のためだと思った。死にたがっている彼を殺してあげるのが、わたしができるせめてもの優しさだと思ったんだ。だからわたしは、悲しくて空しくて、自分まで惨めになった気がして、泣きながら彼を殺したんだ」

「そうですか」と声が言う。「あなたは、彼の最後の望みに対してそれだけの感情を抱いて、それで彼を殺そうと思ったんですね。でも、だからって、あなたは――」

 残念だけれど、と深く息を吐く。感情の抜け落ちた顔で、暗がりの只中を見つめながら。

「まだ終わりじゃない。彼を殺した理由は、もうひとつ。それはね、衝動だよ。暴力衝動。わたしはね、わたしより格下の存在になった彼に対して優越感を覚えたんだ。傲慢さも自信も失くしてすっかり小さくなった彼を、わたしが支配できるって思うと、笑いさえ込み上げてきたくらいでね――ただ都合よく扱われてたことの方が多かったわたしが、彼に仕返ししてやれる立場になれたってのはさ、わたしをたまらなくいい気分にさせてくれたよ。それでね、彼はもう弱り切ってるんだからなにをしたって構わない、殺してくれと向こうから頼んできたんだからわたしはなにも悪くない、負い目を感じる必要なんてないんだから、この状況を有効に活かして自分の素直な心に従えばいいんだ――って、そんな風に考えたんだ。だからわたしはね、命を奪うことを面白がって、好き勝手な暴力を振るう楽しみに浸りたくて、彼を殺したんだ」

 そして言葉を止め、息を止めた。

 部屋の中からは薄明かりさえ消え去り、暗がりが目の前に広がっていた。べったりとまとわりつく黒い影が、頭の奥から立ち上る記憶が、湧き上がってくる感情の渦が、暗闇の中で混ざり合いながらその重みを増してゆくようだった。

 恐怖を感じてなかった。

 後悔を覚えてなかった。

 罪の意識などなかった。

 ただ行為があり、ただ感情が浮かび、ただ認識があった。迷いなどなく、正しいと思った通りのことを、間違いを犯さずに遂行した。それが事実だ。

 それなのに、重い。

 身も心も重くなり、このまま暗闇の中に沈んでいってしまいそうな感覚に囚われる。

 息を吐く。息を吸う。重みを感じたまま。

 そして、もう一度、話し始める。沈み込みながら。

「つまりわたしは、彼に殺してくれと頼まれたから殺したの。殺してくれと頼まれたことで、喜怒哀楽を覚えて殺したの。どうかな? これがぜんぶ、わたしが彼を殺した理由だよ。ざっと挙げてみたけれど、わたしから提示できるのはこんなものだと思う。なぜ、わたしは彼を殺したのか――端的に言えば、わたしのせいであり、あなたたちのせいであり、彼のせい。こうしてみると、わたしたち全員のせいであるとも言えるね。わたしたち全員が、彼を殺した理由そのものだよ」

 なるほどそう考えることも間違いとは言えない、とひとり合点していると、暗がりから不満げな声が上がった。

「ひどい詭弁ね。自分を正当化するための言い訳に聞こえるよ」

「そうかな。わたしは事実をごまかしているつもりはないけど。自分が意識した感情や記憶の中から彼を殺した動機と言えるものを嘘偽りなく述べようとしたら、山ほど理由が出てきたという、それだけのことだよ。それにわたしは、まだ自分の行動について自分自身の評価を述べたつもりはないから、言い訳もなにもあったものじゃないでしょ?」

 そういって、暗闇の中――誰の目にも映らないだろうと知りつつ――肩を竦めてみせたところで、心底からうんざりしたような舌打ちが響いた。

「その理屈、聞いてるだけで苛々するよ。それに、その態度も。まるっきり他人事じゃないの。自分のことなのにさ」

「そんな風に反感買うのは、まあ、仕方がないだろうね。自分の行動について客観的に話そうと努めたら、他人事のような言い方になるのは避けきれないから。もちろん、だからといって、わたしの話したことが本当に客観的であると言い張るつもりはないよ。わたしがわたしのことについて話す以上、どうしたって主観が混じる点を否定はしない。あなたたちには、わたしが自分に都合の良いことばかりを喋っているように見えることも理解する。けれどもね、わたしの行動について、わたしが評価を下すとしたら――わたしは正しいことをした、と思うよ。少なくとも間違った行動は取ってない。袋小路に陥った状況を解決するために最も効果的で、最も合理的で、最も必然性のある行為としての殺人だったと、わたしは思ってる。そう、信じてる」

 信じているんだよ、と繰り返す。暗闇の中に向けて、暗闇そのものに向けて、暗闇そのもののように、頷きながら。

 束の間、引き攣ったような沈黙が流れ、やがて暗がりの奥から返ってきたのは弱々しく、それでいて明らかに非難を滲ませた声だった。

「やっぱり……言い訳じゃないですか。どれだけ、もっともらしいこと話したって。どれだけ、理屈を並べ立てたって。それはただ、あなたが自分に都合よくなるように話しているだけ。あなたの話をしているだけです。あなただけの話です。殺す理由? それがなんだっていうんです? そんなものがいくつあったって、理由になんてなりませんよ。だって、あなたにだってあったはずですから。彼を殺す理由と同じくらいに、彼を殺さない理由が。殺さない選択をすることだって、間違いなくできたはずなんですから」

「そう、だね。殺さない理由に、殺さない選択。どちらも否定できないね。彼を失いたくない、彼を愛している、彼を傷つけることそのものが苦痛だ――なんて感情的なものから、そもそも殺人は悪である、命を脅かす行為はなんであれ禁じられたものである、禁じられ行動は取ることは許されない――といったわたし個人に蓄積された社会性だとか、法を背いた場合に課せられるペナルティや実際に命を奪う行為そのものに抱く忌避感情なんていう結果に対する恐怖心だとか――とにかく、ええ、彼を殺さない理由ならわたしはたくさん持っていた」

 そう語りながら、ゆっくりと目を閉じた。感じ取る世界にはなんの変化もなかった。明暗の境は既になく、ただ暗闇から暗闇へ。

 溶けている、と実感できた。この空間に、この場所に、この部屋に。沈みながら、溶けている。

 増してゆく重苦しさに奇妙な心地良さを覚えながら、話を続けた。

「殺さない選択にしてもそう。そちらを選ぶこともできた。殺人を回避できない絶対的な事情があった訳ではないからね。なにもかも終わってしまったからこそ、いえることなのかもしれないけど……どこかで避けられたはず、どこかで思い留まれたはず、なんて、自分でもそう思うよ」

 そう述べた直後に声が上がる。外側も内側も曖昧になった、暗がりから。

「ずいぶんと身勝手だね。そこまで判っていて、自分の行為を正当化するなんて」

「殺したくないと思いながら殺した、殺さないこともできたのに殺した。くだらない。そんなのは、ただしくじっただけじゃないのさ」

「図々しいと思います。間違った癖に正しかった、なんて言い分は」

 変わらなかった。方々から届く声に対して、心が揺らぐことはなかった。再び目を開いても、暗闇があるだけだった。微かに漂う死の臭いも、心身が溶けているような感覚も。変化はない。もちろん、過去に起こったことも。過去を見つめる、いまこの時の心境も。

「それでも、わたしは」語気を強めて口にした。「たとえ、どれだけ殺人を犯さない理由があっても、殺人に至らない機会があっても、わたしは彼を殺したんだ。それは、わたしが選択を誤った結果の行為ではない。わたしが、激情に飲まれつつも理性的に、衝動的でいて計画的に、混乱に陥りながらも沈着冷静に彼の命を奪ったのは、確固たる理由があったからだよ。殺すべき理由、殺したい理由、殺せる理由――彼を殺さない理由より多くの殺す理由があったというそれだけなんだよ」

 ねえ、と声を上げて笑ってみせた。

「逆に訊いてみたいよ。彼を殺す理由がこれだけ沢山あって、どうして殺さないの? 殺さない理由よりも、殺す理由の方が上回っているのに、どうして? 殺さない選択をするのが馬鹿馬鹿しいくらいに、殺す動機も殺す機会もタイミング良く揃ったのに行動しないなんて、その方が訳が分からないよ」

 それは、と戸惑う声。

「理由、理由、理由。理由がすべて。ひとつひとつがどれほど小さくても、そのすべてが集まったら、それはもう必然なんだよ。あなたは、あなたたちは、彼を殺したくないってどれだけ強く願っていたの? それは彼を殺したいと望む気持ちより強かった? どんなことをしてでも、彼を死なせない、なんて強く強く望んでいた?」

 いいえ、と首を振る。問うもまでもないことだった。答えを聞くまでもなく、判り切っていることだった。

 そして当然のように暗がりから反論の言葉は返ってこない。

「違うよね。だって、殺したいと思っていたんだから。彼に、あの男に、この手で報いを受けさせてやりたいと思っていたんだから」

 答える声はなく、発した言葉がただ真っ黒な空間に染み込んでゆく。

 黙り込む部屋の外、雨音は先ほどよりも勢いを増して強まっていた。雨粒の群れが、屋根を叩き、窓を叩き、地面を叩き、絶え間なく滴り落ちてくる。街の音は掻き消され、街そのものが遠ざかってしまったかのようだった。

 ひとつ大きく息を吸い込み、そしてまた語りかけた。

 目の前を塗り潰す黒色に。目の前を覆い尽くす影の幕に。目の前にぽっかりと開いた暗い穴に。

「殺したかったでしょう? 彼のことを。なぜなら――」

 そこで言葉を止めた。

 躊躇うような間の後、やがて続きを引き取るかのように声がいう。

「彼を、許せなかったから。とても、許すことができなくなったから」

「そう、許せなかった。そして――」

「あの男が、憎かったから。憎くて堪らなくなったから」

「憎み切れないほどに、ね。でも――」

「愛していたから。なにもかもすべて共有できるほど、重なり合いたかったから」

「その通り。まったく同じ痛みを味わって欲しかったから。それ故に――」

 目の前の暗さに反するかのように、頭の中が真っ白になってゆく。

 心が軽くなった訳ではない。それどころか重苦しさが続くばかりだ。

 心の中に留まっていた感情を口にしていた。心の中を晒す言葉を発していた。心の中を空っぽにするつもりで声を上げていた。

 憂さ晴らしができたような爽快感はあった。肩の荷が下りたような解放感や、開き直ったことで得られた充実感のようなものも、確かにあった。ただ、それらは感じ取った瞬間に圧し掛かる重さに掻き消され、すでに曖昧になった余韻らしきものが残るのみだ。

 そこで気づく。ああ、そうだったのかと。

 圧し掛かるこの負荷、この重さが、苦しかった。それと同時に心地良さも覚えた。

 これは苦しみだ。心と身体を満たす苦しみだ。失ってしまった部分を、消してしまった感情を、否定してしまった事実を、殺してしまった過去を埋める苦しみだ。

 あらゆる空っぽを埋めて、満たしてくれる、あの男の代わりだった。

「それ故に、彼を殺したいと思った。彼を殺したかったから、殺した」

 そう口にして、俯いた。軽く目を閉じると、瞼の裏が真っ白に瞬いて僅かに意識が遠のいた。

 圧し掛かる重苦しさは、罪悪感とは違うものだった。後悔でもない。恐怖でもない。納得して行動した結果としての事実があり、その事実が意味もなく膨れ上がっているだけだ。

 殺したという事実が。

 彼を殺したという事実が。

 この手で殺したという事実が。

 そう、と頷いて顔を上げる。

「ナイフでね、刺したんだよ。彼のことを。あれはまだ彼に刺さったままだから、知ってるでしょう? こうやって――」いいながら両手でナイフを握るような真似をして、そのまま腕を押し出してみせた。「ナイフをぐっと彼の胸に押し込んだんだ。そうしたら、彼が呻き声を上げてね。すごく痛そうな顔、辛そうな表情だった。そしてね、わたしの顔を食い入るように見つめてきたんだ。まるで――」

 記憶の中にある男の顔を思い返し、身体がぴくりと痙攣したような震えを起こす。それは一瞬だけ通り過ぎただけではあったものの、後味の悪い、不快な感覚だった。

 まるで、と気を取り直して話を進めた。

「わたしを睨むように目を見開いてね。非難がましい目だったよ。で、彼は両手でわたしの肩を掴んできた。そのうち、どんどんと力を込めてきてさ、終いには握り潰されるんじゃないかって思ったけど、わたしもそのとき必死だったからね、こっちも力一杯ナイフを押しつけてやったんだ。だいたい自分で殺してくれって頼んできた癖に、恨みがましい顔をしてみたり、抵抗するような真似をしてみせたり、勝手な話だよ。そうは思わない?」

 男の目。睨みつけてくる、あの目。苦痛に歪ませた顔に浮かぶ怒りの色。痛みを受けた人間が抱く、本能的な怒り。死の恐怖を遠ざけるために備わった反射的な怒り。

 浅はかな怒りだ。その人間の価値観や、生きてきた間に得た経験や知識に基づくことのない、ちっぽけな怒りだった。そんなものは子供の癇癪よりも程度が低い。

 嘲りの感情が沸き起こり、自然と口元を歪ませた。

 すると暗がりから、同じように嘲笑的な声。

「身勝手な男だったからね。そして最後まで意気地のない男。自業自得ね」

「そんな風にさ、見当違いに怒ってみせながらさ――泣いてたんだよね、彼。刺された痛みに耐えれなくて泣いていたのもあったんだろうけど、人が裏切られた時に見せるような……そう、傷ついた表情だったよ、あれは。絶望しているみたいに、哀れみを請うみたいに、ただただ惨めを晒すみたいに、目に涙を浮かべてたんだ。最後の時くらい毅然とした態度をとることもできないんだから、情けないよ。本当に。ねえ?」

 男の目。涙を浮かべたあの目。信頼を打ち砕かれて、青ざめた表情。現実を受け止めきれずに、途方に暮れた顔。身体の傷の痛み、心の痛みに耐え切れずに流す涙。絶望した者の真っ直ぐな感情表現、歪みのない純粋な悲しみ。

 だらしのない悲しみだ。痛みや苦しさを堪えようともせず、堪える素振りさえ見せず簡単に屈服した末の、脆弱な悲しみだった。矜持をかなぐり捨てるような涙の垂れ流しなど、軽蔑すべきものだ。

 恋人だと思っていた男が晒した情けなさに、またしても唇が――先ほどとは逆に――歪む。

 そして、暗がりの奥から声。失望感たっぷりの忌々しげな声。

「弱かったからね、アイツは。泣きながら死ぬなんて、臆病な卑怯者には相応しいよ。ざまあみろ、だね」

「そしてね、あの人は、ちょっとだけ笑ったんだ。酷い顔で泣いていた癖にさ、震えながら無理して笑顔を作って、わたしにいったの。ありがとう、って。終わらせてくれてありがとう、ってさ。あんな風にさ、死ぬ直前にお礼をいうなんて、しかも刺した本人のわたしに笑ってみせるなんてさ、酷いよね。わたしは人を殺していたはずなのに、なんだか報われたような気分になったんだから。最後までずるい人だったよ、彼は」

 男の目。穏やかさに満ちていた男の目。感謝の眼差しを向けながら、微笑んでいた顔。自らの死さえも受け入れた人間が、最後に表す謝意。望みが叶い、安らぎを得た末の喜び。死の間際にあってさえ人が得ることのできる満足感。

 ささやかな喜びだ。死の直前に灯った小さな火であり、すぐに消えてしまった幻のような感情であり、無きに等しかったような喜びだった。そんな儚い感情など、こちらの錯覚に過ぎなかったかもしれないと思えるほどに曖昧な感情など、空しいだけだ。

 すっぽりと感情が抜け落ち、唇の歪みが消え去った。

 暗がりの隅から、諦めと安堵感を帯びた声。

「優しい人だから、あの人は。安らぎを得て、穏やかに眠れたんだよ。幸せだね、とても」

 さてどうなのだろう、とひとり肩を竦めて考えた。男が死の間際に考えていたことは、本当のところなんだったのか。怒りか、悲しみか、喜びか、そのすべてか。

 もしかしたら、と独り言のように呟いた。

「死にかけで朦朧としてたから、彼はおかしくなっていたのかもしれない。彼が思ってもいないこと、感じてもいないことを、錯乱した脳が勝手に出力していただけなのかもしれない。でも、ね。それでも、わたしは最後の最後、彼が意識を失う直前に頼んできたことだけは、彼の意思だったと信じてる。わたしに向けた、わたしにだけ向けられた最後の願いだったって、そう信じてる」

 願い、と怪訝そうに問う声がした。

 願い、と鼻で笑う声がした。

 願い、と恍惚とした声がした。

「そう、願いだよ。彼はわたしにいったよ、死に顔を誰にも見せたくないって。隠して欲しいって。他人からどう見られるか、外面を保つことだけは妙に気にする人だったからね、無様な表情のまま死ぬのは恥ずかしいとでも思ったのかな。笑えるよね。恥ずかしいどころか、どこまでも恥知らずだよ。最後の最後に頭に浮かんだのが自分が格好つけることなんて、さ。さすがにわたしも呆れたよ。自分が葛藤したことも、混乱したことも、満足したことも、みんな馬鹿馬鹿しく思えた。だけど、ね。そうだったんだけれどもさ、自分でもおかしいとは思うんだけれどさ、彼が事切れた時にまた色んな感情が沸き起こってきてね、ふと彼の気持ちが――死に顔を隠したいと思う気持ちが理解できような気がしたんだ。実際のところ、彼の死に顔は見れたもんじゃないほどに酷いって訳でもなかったけれど……締りがなくて、表情にも乏しくて、間の抜けた顔だったから。だから、わたしは――」

「首を切った?」と問い掛けられる。「彼の死に顔が無様だったから、彼に同情したから、彼の願いを叶えたくなったの? それで彼の首を?」  

「うん。切り落とした。あの顔を誰にも見られないようにしてあげたいと思ったんだ。ろくでもない頼みだけど、彼にとっては最後の願いだった訳だし……それにわたしだけ、というのが大きかったからね。わたしだけが聞き入れることができて、わたしだけが叶えてあげられる願い。だから、わたしは」

「ふうん、それだけで」遮るように影の中から声がする。「そんな理由だけで、わざわざ人間の首を落とせるものなんだ。簡単な作業でもない上に、首を落としたところでなんのメリットもないのにさ。それに表情を隠すだけなら、単に顔を潰すだけで済んだはずじゃないの」

「それは、その……ね。見たくなかったんだよ。表情だけじゃなくて、彼の顔、いえ彼の形そのものを見るのが嫌になったの。だから、消してしまいたい――と、そう思ったんだよね。それに、恨みもあった。刺しても、殺しても、消えてくれない恨み。死体になっても痛めつけてやりたいほどの恨みが、ね。だから、鋸と包丁を使って黙々と首を切断していてる間に、憂さ晴らしをしているような気分にもなったよ。つまりさ、否定してやりたかったんだ。彼のことを。あの、ろくでもない男を」

「嘘だよ」と上擦ったような声が響く。「彼に嫌気が差して憎んだから首を切っただなんて、そんなのは嘘だよ。最後の願いを託されたことに喜びを感じて、だからこそ願いを叶えようと考えた人間が憎しみの感情なんて持てるはずないよ」

「嘘だといわれてもね。事実、わたしは喜んだし、憎んだ。その両方の感情で、彼の首を切ったんだ。そして、捨ててきた。ちゃんと誰にも見つからないような場所にね。もしこの先、たとえ警察に捕まったとしても、わたしはその場所を喋らない。誰にも教えない。だって、ほら、約束は約束だからさ。ああ、でも」

 言葉を止め、掌を胸に押し当てる。身体の奥にある幸福な思いを、暖かな感情を確かめた。そして、どこまでも冷えて、振り切れたしまった心を。

「でも、捨てたといっても、まだわたしの手元にあるのと同じなのかな。誰にも見つからない以上は、捨て場所を知っている人間のもの、つまりわたしのものだからね。あの首は、まだわたしのものだよ。わたしだけのものなんだ」

 重苦しさが増してゆく。吐き気を伴う幸福感と、嫌悪感が押し寄せる。

 それでも、話し続けることを止められなかった。止めたいとも思えなかった。

「うん。よくよく考えれば、正確には捨てたのではなく、隠したことになるのかな……。そうだ。わたしの望みと彼の願いが首を消した――なんて言い方に変えれば、少し素敵かも。嘘はついてないし、事実の一側面であるのは間違いないんだから、そういうことにしておこうかな。うん。つまりね、わたしとね、彼がね、二人で首を消したの」

 返ってくる声はなかった。自分の言葉だけが、ただ暗闇の中に空しく吸い込まれてゆく。

 それでも喋り続けた。じわりと忍び寄ってくる不安と焦りの影を感じながら。

 そう、と頷く。

 ただ、ひとり。暗闇の中で。二度、三度と。

「うん、そう。二人で、首を。これはね、愛の力。わたしたちの絆の力。こんなことができるなんてさ、とても幸せだよ。それに気分もいいね。なんといっても、わたしだけってのがさ。わたしだけが叶えられた願い、わたしだけが知っている秘密、わたしだけのもの、わたしだけの彼――うん、凄く素敵。わたしと彼の、正に二人だけの世界だね。わたしと彼はいつでも一緒。いつもわたしと彼が繋がっている。ずっと、彼が離れない。そう……ずっと。ずっと、ね」

 迫っていた不安の影は、すでに周囲の暗闇と一体となっていた。そして、際限なく広がっているように思える不安の中にあっても、まだ黙ることはできない。

 沈黙すれば終わってしまう。そう思えたから。

 沈黙すれば終えられる。そう思えたのに。

「ずっと、なんだよ。離れられないんだよ。頭から離れてくれないんだ。彼のことが。死体のことが。特にあの首のことが。気になって仕方ないんだ。消えてくれないんだ。殺したのに。隠したのに。捨てたのに。わたしだけが知っているってことはさ、わたしだけが思い出すってことなんだよ、あの首について。忘れられないんだよ。どれだけ安心したくても、見つからないかどうか、本当に隠しきれたのかどうか、ううん、それだけじゃない、なんだかねあの首が勝手に動き回ってるんじゃないかって、馬鹿みたいだけど、そんなことまで考えちゃうんだ。まるでさ、呪いだよ。呪われてるみたいだよ。そして、この先も呪われ続けそうだよ。ずっと、ずっと……多分、死ぬまでね」

 そう言葉を漏らしながら、死ねないだろうな、と心の中で思う。

 ただ死ぬことなどできない。ただ自然に寿命を迎えて眠ることなどないだろう。確実にやってくる死をそのまま受け入れて終わることなどできないだろう。

 殺されるのだ。

 自分に殺されるか、他人に殺されるか、病に殺されるか、不運に殺されるか。人が死に至る原因のどれかによって殺されて、死ぬ。どんな死であっても、殺されたことを意識して最後を迎える。

 あの男の復讐だ、と考えながら。あの男を殺した報いだ、と感じながら。自分が殺した男の呪いだ、と悔いながら。

 殺されて、終わる。呪い殺される。

 そうした、ほとんど妄想であるような――そして頭の中に消えては現れ、揺らめき続ける幽霊のような――予感に、ぞくりと身体が震えた。

 にも関わらず、気がつくと顔には自然と笑みが浮かんでいた。自嘲気味な、それでいて幸福に歪んだ笑みが。

「判ってはいるんだ」笑顔に歪んだまま、上の空で呟いた。「わたしの考え方、わたしの感情、わたしの行動、その全部が矛盾してるって、判ってはいるんだよ」

 定まらない思考に、一致しない言動に、ずれてゆく自分自身に、感情が磨り減ってゆく。論理が零れ落ちてゆく。心が倦み爛れてゆく。

「わたしはとても幸せだよ。でも、このおぞましい幸福感がたまらなく嫌なの。わたしは間違いなく呪われてるよ。でも、その心地良い苦しさがたまらなく安心できるの。幸せだから苦しくて、苦しくても幸せで、幸せだけど苦しくて、苦しいからこそ幸せで、そんなわたしは、幸せに呪われてる? 呪われて幸せ? どちらだと思う? 選べると思う? いえ、無理だね。どちらでもあるんだからさ」

 でもね、と闇の中で両手を開く。掌で顔を覆った。目を閉じた。俯いた。

 部屋全体の暗がりから、自分自身の暗がりに。

 この部屋に集う影の中から、自分の影に。

 真っ暗から、真っ暗に。

「それが正しいんだ。嘘のない事実なんだ。どちらかが、どちらかを打ち消してはダメなんだ。一方を無かったことにして、残った方だけを信じ込もうとするのは、嘘なんだよ。嘘は、良くない。嘘は、間違い。嘘は悪いこと、否定されるべきもの。そして、誰にでも、何にでも、いつでも、どこでも、何であれ、正しいのは事実だけ。絶対的な事実だけなの」

 顔を覆った掌の隙間から、くぐもった声を吐き出した。

 か細くも、乱れつつも紡いでみせた。自分自身の理を。

 息を吸い、だから、と宣言する。

 この部屋に。暗がりに。影たちに。なによりも、自分自身に。

「だから、わたしは嘘をつかない。だから、わたしは事実だけを口にする。理由がなんであれ、経緯がどうであれ、関係ないんだ。絶対に変わることのない事実があるんだから。それだけで、充分なんだから。つまり――」

 もう一度、口にする。

 確かめるように。認めるために。

 確かめさせるように。認めさせるために。

 正しさを。事実を。

 揺るぎのない、真実を。

「わたしが、彼を、殺したの」

 ゆっくりと掌に埋めていた顔を上げながら、目を開く。

 視界には、つい一瞬前に沈んでいたものよりも深さを増した暗闇が、押し潰されそうなほどの真っ暗闇が広がっていた。ただただ重苦しい事実だけで、溢れ返っていた。

 語ったところで気が晴れる訳ではない。救われもしない。身体が重くなってゆくばかりだ。心が倦み、疲れ、削られていくばかりだ。

 そして、そうであっても語らなければならなかった。

 語るべき事実を。語りたくもない事実を。

 語らなければならなかった。

 犯人として。

 恋人だった男を刺し殺し、その死体を切断し、その頭部を持ち去った事件の犯人として。

「わたしはあなたとして、彼を殺したの。あなたたちとして、彼を殺したの。あなたたちが、わたしとして彼を殺したの。あなたがわたしとして、彼を殺したの。あなたたちが彼を殺したの。あなたが――」

 そこで言葉を切り、もう一度、はっきりとした口調で言い直す。いまここにある事実を。

「あなたが、彼を、殺したの」

 耳鳴りがした。遠いところで雨の音もまた鳴り続けていた。

 耳が鳴る。雨が降る。

 沈黙が続いた。

 耳が鳴る。雨が降る。

 やがて、影の中から呟く声がした。そうだね、と同意する溜息混じりの声だった。

「彼を殺したのはわたしではないけれど……タイミングが少し違っていたら、きっと同じことをしただろうからね。いえ、違うか。きっと、じゃない。間違いなく殺していた。わたしは彼を殺していた。わたしは彼を殺したかったから。殺したくない気持ちよりも強く、彼を殺してやりたかったから。彼が誰かに殺されるかもしれないと予想しながら、それを本気で止めようとは思わなかったから。殺されても仕方ないと諦めていたし、殺されるべきだとも考えていたから。うん。つまりね、あなたが彼を殺したことは、わたしが彼を殺したのと同じことなんだよ。わたしも、彼を殺したんだ」

「そうだね。あなたも、彼を殺した。あなたが、彼を殺した。そしてわたしも殺し、わたしが殺した。そう。その通りだよ。同じなんだ。あなたも、わたしも。ありがとう、認めてくれて。事実を受け入れてくれて」

 そう述べると、部屋の中はまたしても黙り込んだ。鳴り止まない雨の音は次第に遠く、遠くへと離れてゆく。そして、交わされた言葉の余韻すら消えてしまったころ、くだらない、と吐き捨てる声が上がった。

「わたしが殺した訳じゃないよ。わたしは手を下してない。放っておけば、わたしもきっと同じことをしただろうけど、それでもわたしはやってない。殺してない。殺したかったけど、殺してない。だから、憎いよ。無断であの男のすべてを奪っていった、アンタが。勝手にあの男を殺した、お前が。わたしより先にあの男に復讐した、あなたが。わたしが、殺してやりたかった。この手で傷つけて、殺して、捨て去ってやりたかった。だから、あの男を憎んだ上で、憎み切った上で、殺したんなら認めてあげる。それならわたしと同じだもの。わたしがやりたかったこと、わたしがやろうとしていたこと、わたしがすでにやったはずのことと同じだもの。わたしが殺したのと同じことだもの」

「そうだよ。わたしは、憎んで彼を殺した。憎み足りなくて首を切った。それでもまだ許せなくて、彼の首を持ち去ったの。同じだよ。わたしのやったことは、あなたのやりたかったこと。あなたと殺し、あなたも殺し、あなたが殺しんだよ。ありがとう、一緒に憎んでくれて。事実と向き合ってくれて」

 そう言い終えたものの、その感謝に対する反応は返ってこなかった。

 そして今度はほとんど間を置かずに、わたしは、と別の声が上がった。動揺と非難の混じり合う、震えた声が。

「わたしは彼を愛したの。愛していたんです。彼を憎んでなんかいませんでした。殺そうだなんて思いませんでした。ただ、愛したかっただけ。ただ、彼から受けた愛と同じものをわたしも返したかっただけ。わたしだけが、愛したかっただけ。そうやって愛した結果なら、彼が死んでも構わない、そう思っただけです。でもそれは殺そうと思って殺す訳じゃありません。だって、それは愛しただけです。愛の結果、ただそれだけですもの」

「愛したからこそ殺した、ううん、愛で殺したんだよ。そして、わたしの愛が彼を死なせたんだ。死なせてしまったんだ。わたしの好意が、彼のことを肯定するわたしの思いが、彼を死なせてしまった。でも、わたしは返して上げられたよ。彼から受けた以上の愛を返してあげたよ。あなたの気持ちと同じように。あなただけが返したかったように。ありがとう、一緒に愛してくれて。事実を見直してくれて」

 そうだね、と声がする。

「わたしたちが、彼を」

「あなたたちが、彼を」

「彼自身か、彼を」

「そしてなにより、わたしが彼を」

 僅かな間が開き、やがて忍び笑いが部屋を満たす。影のひとつひとつがゆっくりと溶け合ってゆくような空気が、暗闇の濃さをより深くした。

 笑いながら声が問う。

「どうしてかな。どうして、あなたに気づけなかったのかな?」

「さあ? わたしにも判らない。どうして気づいてもらえなかったのか、わたしにも判らない。ただ、彼を殺した上にあの時計を――」いまもまだ床に転がったままであるはずの時計に、ただ真っ暗に塗り潰されている空間に顔を向けた。「ウサギの時計を壁に叩きつけて壊してしまったのはわたしだったから、そのせいで時間を止められたのかもしれない。なんだか、そんな気がするんだ」

「時計のせいで? 判らないな。どうして、そう思うの?」

「だってほら、彼のお気に入りの時計だったでしょ、あれ。だから呪いでもかかったかなって、そんな風に思えてね。よくよく考えてみれば、ウサギと似た部分もあるしさ――ほら、生殖能力が高くて、いつも発情しているようなところとか、ね。彼そのものみたいじゃない」

「本当にそんな理屈で納得してるの? なにも判らないままじゃない」

「だって、さ」問い掛けに答えようして、思わず笑い声を上げた。「だってウサギに時計とくれば、行く先はひとつじゃない。おかしくて当然、訳が判らなくて正解、きちがいじみてて当たり前――そうじゃないかな? 死んだウサギに連れて行かれる先なら、なおさらに。ねえ、そう思わない?」

 そして、ただ笑った。

 ただひとり、笑った。暗闇の中、笑った。応じる声もなく、続く笑いもなく、なんの感情も送り返されてくることがない沈黙の中、笑い続けた。

 そうしてしばらく笑い続け、少しずつ少しずつその声を弱めて、そのまま黙り込んだところで、ようやく声が上がる。

「そう、だったら」その声は底抜けに明るくて――

「彼の首を切ったのも当然だよね」ねじが飛んだように弾んでいて――

「命令だったはずですものね、ハートの女王の」なにもかも振り切った心底からの喜びに満ちていた。

 頭が真っ白になるくらいの楽しさだけで一杯だった。

「そう『首をはねろ』ってね!」

 この部屋の、この暗闇の、全員の声が重なった。

「わたしたちも同じになった訳だね」誰かがいう。「ウサギが逃げる前に死んじゃって、女王の命令で首切りがあって、ぽっかり穴が開いてわたしたちもそこに落ちた、と。なら、この状況はさしずめお茶会ってところだね」

「うん、いいね、正にそうだ。気違いお茶会、ぴったりじゃないの。わたしたちが、わたしが殺した結果のパーティだ」また誰かが、先ほどとほとんど同じであるような誰かがいう。「お茶がないのが残念だけど……でも、そろそろここから出て行きたいね」

「わたしたちがここから出るには、夢から覚めないと。お茶を楽しむのは、そのあとですね」誰かが、やはり先ほどの誰かと同じでしかない誰かがいう。「夢は夢のままにして、なかったことにしなくちゃいけませんから」

「そうだね、なかったことに」

「殺人なんて、なかったことに」

「彼そのものを、なかったことに」

 そして、と頷いてみせた。ここにいる全員が――他ならない自分自身が――判り切っていることを確認するために。

「彼のことを、わたしだけの、わたしたちだけの彼にするために」

 そう呟いて息を吐く。

 穏やかな気分だった。身体に纏わりついたままの重さを頭の隅で意識しながらも。現実になかったことにする夢がこの先ずっと心にこびりついて離れないことを確信しながらも。

「これだけいれば作業に時間を掛からないね。じゃあ、まずは切り離すところから始めようか」

「それも念入りにね。砕いたり、潰したり、千切ったり、細かく細かく、だね」

「それから、どうしよう? 埋める? 流す? 溶かす? 燃やす? 煮たり焼いたりしてから捨てる? かき混ぜて液体にしてから撒き散らす? それとも? ねえ、それはやってもいいことかな? やってもいいかな?」

「なんだって構わないよ。ここでやれることならね。手元に置こうとしたり、判りやすい形で隠そうとしないで、確実に処分できるなら――跡形もなく消してしまえるなら、どんな方法でも」

「だったら、首は?」

「え?」

「彼の首は、どうしたの?」

「ああ。首、ね」

「隠したんですか? やっぱり、まだ残っているんですか? 彼が、彼のままで」

「そうだね、あなたたちになら教えてもいいのかな。もう赤の他人でもない訳だし。わたしは、彼の首を――」

 暗闇の中、周囲よりも僅かに黒い影が揺れ動く。ごそごそと床下を這う生き物が蠢くように。ひそひそと囁くような言葉や歯止めを欠いたような含み笑いを交わし合いながら。

 部屋のあちこちから、がたがたと動き回る音が響き始める。金属音。ビニールが擦れるような音。ぶつぶつと呟く声。

「包丁に柳刃包丁、果物ナイフ、それから一本は刺さったままで、ええと……」

「……鋸、金槌、桐、ドライバー、ペンチ……あとは……」

「ミキサーと……それと、ライターと、それと、それと、なんだろう……」

「ビニールシートはある。それから雨合羽か、レインコートか、とにかく作業着が欲しいね。マスクなんかもあった方がいいね。だってほら、色々とさ……」

 がたがたと動く音、這い回るような気配。

 ひそひそと囁く声、消え入りそうな呼吸。

 きりきりと、少しずつ少しずつ締め上げられてゆくようにきりきりと甲高さを増してゆく、引き攣った笑い。

 そして、ドアを開く。

 軋んだ音が鳴ると同時に暗闇の奥の奥からは血の臭い、肉の臭いが漂ってくる。その腐臭を嗅いでいると、小さな虫が飛び交う音が、その羽の小刻みな震えが聞こえてくるように思えてならなかった。

 身体が重かった。その思考も霞が掛ったように鈍く、重い。その原形が崩れ落ちるほどに掻き回され、混ざり合った高揚感と不安に吐き気を覚えた。それでいて、他人の行動を呆けて眺めているような感覚でもある。現実であり、夢であり、そのどちらでもあり、そのどちらでもない、頭の中がとろけてゆくような曖昧さ。いまこの場所に、いまこのときに生きているなどとは思えない、ふわふわとした覚束なさ。幽霊にでもなったような気分だ。

 死んでいるのだな、と思う。肉体が、記憶が、価値観が、微かにではあるが、しかし確実に削られている。消えている。この一瞬、一瞬で死んでいるのだと強く思う。そして実感する。

 いま正に死んでいる自分自身を。

 ドアの向こうにある寝室はまだ真っ黒に塗り潰されてはおらず、家具やらベッドやらの輪郭がほんのりと確認できた。その薄暗闇の中、床の上に目を向けると、その場所には一際黒々とした影の塊が横たわっている。それは血だまりの中に横たわる男であり、包丁を腹に刺したままの男であり、その頭部を失った男だ。男は当然動くことなどなく、当然変わることなどなく、当然消えることなどなく、当然のように死んだまま、殺されたまま、死体のままだ。

 そこには、ただ行為の結果だけが、ただ事実だけがあった。

 彼は死んでいる、そう考えて、その事実を改めて認識してひとり頷いた。

 そう、死んでいる。殺されたからだ。

「わたしは」声に出す。「わたしは、後悔しているのかな。悔いているのかな。いまになって、いまごろになって」

 身体に纏わりつく重さと鈍くなるばかりの思考に現実感を失いながら言葉を吐き出す。なんとも泣き言めいていると自覚していたが、喋らずにはいられなかった。妙に落ち着かない。ただの事実、ただの結果に改めて直面しただけなのに、心の奥底にざわざわと落ち着かないのだ。

 応じる声はない。薄暗い寝室がじわじわと黒く滲み始めた。

「殺したのは、わたし? 本当に? 本当に、わたし? それは間違いなく事実――なんだよね?」

 認めたくない。そう思った。心がざわめき、現実感が薄れてゆく中で、いま目の前にある事実を拒否してやりたくなった。自分の記憶も、いままでの言動も、この現実も、受け入れるのはまっぴらごめんだ。

 そして、理解する。恐ろしいのだ、と。ただの事実が、なにも考えずにもう一度向き合った事実が恐ろしい、と。

 声はない。寝室がじわじわと黒くなる、暗くなる。

「彼を殺したのは」震える声でいう。「あなたたちではないの? あなたではないの?」 

 背後で乾いた笑い声が上がった。

 もちろん、と声はいう。

「もちろんわたしだよ。わたしたちだよ」そして今度は悪意を滲ませた、粘つくような忍び笑いを漏らす。「そして、あなただよ」

 笑いを噛み殺して声は耳元で囁く。背中に誰かが――あるいは何かが――べったりと貼りついているのが判った。

「あなたが」

「彼を」

「殺したの」

 黒くなる。暗くなる。じわじわと視界が真っ黒に、真っ暗に。

 背中に張りついた圧迫感が強くなる。

「わたしたちが……」生温く、そしてその内側は冷えきっている嫌な汗が身体の奥から滲み出た。「わたし、が」

「そう、わたしが、ね」

 嬉しそうな――本当に嬉しそうなその声に、ただ愕然とする。ぽっかりと胸に穴が開いたような実感に。確実に自身の一部が削れて消えたという確信に。

 事実を拒否する気分が薄れ、諦めが襲ってきた。そうやって認めたくない事実を受け入れることで、なにかが死んでゆく。事実そのものに対する恐怖と、自らの行為への後悔を残したまま。

 足を踏み入れた。真っ暗な部屋から、真っ暗になってゆく部屋へ。

「わたしが、殺したの」

 なんどもなんども繰り返したその言葉を口にする。その言葉で、死なせるのだ。自分の一部を。いまさらの後悔を。遅すぎる恐怖を。男の記憶を。過去そのものを。 

 そしてもう一度彼を、殺すのだ。この先ずっと、何度でも、何度でも。

「わたしが、彼を――」

 ドアを閉めた。

 部屋の中から声が消え、音が消えた。窓から微かな月明かりが差し込み、真っ暗な影が引いてゆく。

 スツールの上には誰の姿もなかった。

 ソファの上には誰の姿もなかった。

 窓辺には誰の姿もなかった。

 リビングの中には誰の姿もなかった。

 床に転がっていた時計も消えていた。

 ただ寝室のドアに、閉じられたドアの前だけにべったりと影が貼りついている。真っ黒な穴がぽっかりと開いているように。

 その穴の向こうから届くのは、くぐもった笑い声と、忙しなく動き回る音。

 やがて朝が訪れ、リビンクに日の光が差してもなお穴は開いたままだった。

 ぽっかりと、真っ黒なままだった。

 

 〈了〉

『Rabbits』という短編映画に影響を受けて、この作品を書き始めました。影響を受け過ぎて、そのまんまなところがあるかもしれませんが……。


犯人を指摘することは可能です。

その先……については、想像できる余地を大きく残しましたが、そうした部分においても楽しんでいただければ、と思います。


読んでくださった方に感謝、感謝です。

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