九幕 ミイ 告げて解かれて明かされて行き着くは純な白、空けの白、自らの白
告白、純白、空白、自白
窓の外に目を向ける。日が傾き始めた空は相変わらず灰色の雲に覆い尽くされたままで、ミイにとっては何の慰めにもならなかった。陰鬱な空模様の下に広がる街の光景もまた、いたずらに気分を落ち込ませる要因にしかなりえない。本来あるべき色彩を影の中に沈み込ませた建物の群れの中から生きた人間の躍動を感じ取ることなどできず、まるで何もかも終わってしまった景色を見ているような錯覚に陥りかける。
もう、いい加減終わりにしたい、とミイはカーテンを握り締める。心地よい布の手触りに僅かな安堵を覚えた。何もない平凡な日常に戻りたい。自分の部屋に帰りたい。
――でも。
いま、そんなこと考えても仕方ない。ミイは自分の耳にしか届かないくらいの小さな溜息をつく。感情に流されるままにしておけば、悲観的で救いのない想念の泥沼の沈んでしまうのは目に見えている。悪い癖だ、とミイは自嘲するように――しかし、これもまた自分にしか判らない程度に――唇を歪めた。
振り返り、マイを見つめる。
天井を見つめる彼女の顔は、ソファの背もたれにだらしなく傾けているその身体と同様に、すっかり弛緩したものになっていた。つい先ほどまでその表情に宿っていた刺々しさはきれいさっぱりけし飛ばされ、笑みさえ浮かべている。満ち足りたような、それでいて空疎に見える笑み。そんなマイの姿は、ミイの胸を痛めつけると同時に仄かな恐れを抱かせた。マイがいま立っている境地には辿り着きたくはない。そう思った。
「マイさん、あの……大丈夫、ですか?」
「大丈夫って? わたしは見ての通り、元気だよ。死んでない。生きてるよ」
元気元気、とやはり緩んだ笑みを浮かべたまま、マイは言う。
「なに、どうしたのさ。言いたいことがあるみたいだねミイちゃん。いいよ何かな聞いたげる、あげちゃうよ」
声を上げて笑うマイ。ただ脳の刺激に対応して、機械的に笑っているかのようだ。
判らない。彼女の気持ちが判らない。判らないことが恐ろしい。ミイの胸の中で恐れが膨らんでゆく。認めたくもない何かを認めたとき、人間の理性や感情はこうも粉々になってしまうものなのだろうか。
――それならば、アイさんは?
ミイはふと思う。アイもまたマイと同様に、認めたくはなかったであろう自分自身に向き合い、打ちのめされていた。それでもアイは動じない。変わらない。少なくとも、その様にしか見えなかった。彼女の境地もまた尋常ではないということなのか。
この場所はおかしい。歪んでいる。人が殺されただけでもおかしなことなのに、その死体の側でこうやって話を続けているなんて異常に過ぎる。それが判っていながら、その異常の中に身を置き続ける自分たちは――『赤黒い血を流し』――なおさらに。歪みが歪みを生み、その歪みが大きくなってゆく。人を――『苦痛に悶える彼の姿に微笑みかけながら』――おかしくしてしまう。狂わせてしまう。このまま、この部屋に留まり続ければ、自分も――『愛していると囁きながら』――間違いなく自分も、彼女たちのように。
「マイさんは……」違う、と自分の思考を断ち切って、ミイは言う。「悲しくないんですか? 彼が、死んでしまって、悲しくはないんですか?」
そりゃあ、とマイは考えを巡らすように宙を仰ぎ見ながら、腕を組む。その挙動は、いかにも取ってつけたようにわざとらしく、ミイはうそ寒さを覚えた。
ううん、と唸った後、目の前のマイらしき女は頷いてみせる。
「そうだね。悲しいよ。好きだった人が死んだんだもの。それは……うん、悲しいな。悲しいね。とっても」
言われてみればそうだった、といまさらに気づいたかのような口ぶりだった。
納得できる訳もなく、そうでしょうか、とミイは問う。
「だって、マイさんは笑っているじゃないですか。とても悲しんでいる態度には見えませんよ」
「だってさあ、嬉しくもあるからね。わたしは憎かったもの、あの男が。そう言ったでしょう?」
平然と言ってみせるマイ。
――憎かった。
これもまたアイと同じ言葉だった。それどころかアイは、ミイと同じ気持ちだと語った。あなたと同じ気持ちだった、と。
でも、とミイは考えずにいられない。本当に同じなのだろうかという疑いを拭い切れない。アイの言葉に共感を――いや、共感と呼ぶには曖昧に過ぎる、奇妙に捻じれた重なり合いを――覚えたのは確かなことだ。しかしアイやマイと同じく、自分もまた慕っていた人物に対して憎しみの感情を抱いていたとはどうしても思えない。
そもそも、憎んでいた実感がないのだ。いつであっても、どこであっても、許し難く思える存在、厭わしく思える存在、不快感を催さずにはいられない存在に向けて抱く思い――ミイにとってみれば、憎しみとはそうした感情だった。対象を心底から否定する意思であり、否定してやりたいと強く希うことだ。そんな感情を自分でも気づかずに抱いていたとはどうしても考えられない。
「そんなにも、憎かったんですか? 彼のことが」
「もちろん!」
そう答えるマイの声音は不自然なほどに明るかった。そして、その顔にべったりと貼りついた笑みもまた作りものめいている。
「でも、好きだった。そうでしょう?」
「それも、もちろん!」
「そんなこと、できるんですか? 好きなのに、憎むなんて」
「当然!」
一際大きな声を上げ、親指を立ててみせるマイの姿に、そして何よりもその答えに、ミイは困惑を覚える。
ますます不可解な話だった。マイは――そしてアイも――矛盾した感情を同時に抱えている。好きだったのに、嫌いだった。愛していたのに、憎んでいた。そればかりは自分と異なっている、異なっているはずだとミイは思う。
――いえ、違っているべきなんだ。違ってなくちゃいけないんだ。わたしとは。
そんな思考を見透かすかのようにマイは唇を舐めながら目を細める。貼りついていただけの笑みには生々しさが宿っていた。
「どうしたのさ、その納得がいかない、って顔はさ。好きだからこそ、嫌いになる。憎むようになる。誰でもそうだろう? ミイ、アンタだって」
同じでしょう、とマイは甘ったるい声を上げる。わたしたちと、同じでしょう?
「いまさらさ、隠さなくていいよ。繰り返すけどさ、ミイ、わたしはアンタのことが大嫌いだよ。心の底から、大っ嫌いだ」
「マイさん……」
「でも、それはさ、同族嫌悪みたいなもんさ。アンタに似ている自分が、わたしは大嫌いだ。いいように殴られて、汚されて、嬲られて、そこまでされた癖に、それでもそんな男を愛してるなんて言ってのけるところなんて、特にそうだ。腹が立つ、なんてもんじゃない。殺したくなるよ」
「でもわたしは、本当に彼のことが好きだったんです。そんな彼を憎んだりなんて――」
「認めなよ。アンタなら、昔のわたしと似ているアンタなら、判るはずだ。判っているはずだよ。アンタは、あの男が憎かった。そうだろう?」
囁くように、しかし、恫喝の響きを含ませながらマイが問う。ソファの肘掛けに両腕を乗せた彼女は、その身体を窓辺へと、ミイの側へと寄せてくる。斜めに吊り上がったマイの唇が艶々と濡れていた。
「大体さ、アンタはあの男の何が好きだったの? 周りのすべてに怯えながら暮らしているようなアンタが、あの男に惹かれるような理由なんてないと思うんだけど」
囁きながら迫り寄ってくるマイの姿に、ミイは反射的にカーテンを引き寄せて身を包む。しかし、それでも、マイから目を逸らすことはできない。濡れた瞳が、薄闇の中でギラギラと光る眼が、ミイを捕らえて離さなかった。
「それは……優しかった、からですよ。だから、嬉しかったんです。ただただ嬉しかった。優しい人、わたしに、こんなわたしに初めて優しくしてくれた人でしたから」
――いつもいつも泣いてばかり。本当に情けない。情けない娘だよ。
幼いころに両親から向けられた言葉がミイの頭に浮かぶ。何の間違いで生まれてきたのか、と愚痴を零す声。出来の悪い娘だとなじる声。その態度が苛々すると殴られた。明るくて活発で、何事につけても要領の良かった二つ年上の姉からも常に見下され、馬鹿にされた。
嫌われたり、疎まれたり、そんなことばかりだった。
だからこそ、ミイは自分はそうすまいと心に決めた。人を憎むようなことはすまいと。否定するようなことだけはしてはいけないと。自分だけで十分だと思ったからだ。
けれども、ミイが誰かに受け入れてはもらうことはなかった。誰も手を差し伸べることはなかった。それどころか、ミイが何を言われてもほとんど言い返さず、抵抗らしい抵抗もしないことに目をつけて、嘲笑の的にするばかりだった。小学生のころも、中学生のころも、高校に入ってからも、ずっとその繰り返しだった。
「不満がなかった訳ではないです。寂しかったし、悔しいと思うことも何度もありました。でも、それで周りの人を恨むのも筋違いだと思っていましたから、わたしは我慢しました」
どうして自分の生い立ちを語っているのか。ミイは喋りながら疑問に思った。マイがその顔から笑みを消し、口も挟まずに黙って耳を傾けているせいなのか。それとも、彼女の視線――まるで、もっと話してみろと言わんばかりの強い眼差しのせいなのか。
「ふうん。で、そんな中でアンタはあの男に出会った訳なんだ。なるほどね」
マイの言葉に、ミイは微笑みながら頷く。
「そうです。バイト先の喫茶店で、いつもみたいに失敗したわたしに声を掛けてくれたんです。それから少しずつ話をするようになって、二人だけで出かけたりするようになって、それで……」
「で、その優しい優しい男がアンタを殴った訳か。ふん。それで、アンタは、何を思った? 殴られて、裏切られて、どう思った?」
「痛かった、です。最初はどうして、こんなことをって、そう思いました。何かの間違いだと」
「あいつもアンタを憎んでた、そう思わなかったの?」
「本当は、嫌われているのかもしれないって、そう思いました。だって、こんなわたしですから。嫌われても仕方がないって。でも、あの人はそれでも、わたしと別れたくないって言ったんです。わたしが必要だと言ったんです」
殴りながら、愛していると。殴り終えたあとも、自分を抱きしめて、泣きながら、愛していると。
「本当にわたしが嫌いなら、憎いなら、そんなこと言うはずがありません。何度もわたしと会うこともなかったはずです」
そう。ただ事実にだけ目を向ければ、自分が憎まれていた訳がないのだ。憎んでいるのに離れないなど、そんな矛盾したことなどできるはずがないのだ。憎んでいるのなら、離れてゆくものなのだ。
かつて、両親がそうだったように。姉のように。クラスメイトの皆のように。
マイが肩を竦める。
「どうかな。人はさ、執着があるからこそ憎むんだ。無関心なものを嫌ったりはしないだろう? 少なくとも、わたしはそうだった。執着していたからこそ、わたしを軽んじるあいつが憎かった。アンタだって、そうでしょう?」
自嘲気味に語るマイの言葉に、その表情に、ミイはやはり大きな隔たりしか覚えなかった。
愛しながら憎む。それは一緒にいたいと願いながら、消し去ってやりたいと願うことだ。
違う、とミイは思う。自分とは違う。彼だって違ったはずだ。確かに、彼はミイを殴った。でも、それは憎しみがあったからではない。そうでなければ、ミイと別れなかったという厳然たる事実と重ならない。離れずいられたのは、愛があったからなのだ。
――だから。
ミイはきっぱりと言う。
「違いますよ、それ」
「違う? 何が違うって言うのさ」
哀れだ、とミイは考え、泣きたくなった。この人は、この人たちは、あまりに哀れだ。
自分が求めていたものが手に入らなくて駄々をこねていた。それだけなのに憎んでしまった。いや、憎んでいると思いこんでしまった。本当は求めていた癖に。
「ええ、勘違いです。マイさん、貴女たちが抱えているのは憎しみなんかじゃありません。それは違います。たぶん、それはわたしと同じです。ただ、愛していたんですよ、彼のことを」
判っていたはずなのに、判らない。愛していると気づかない。憎んでいると思い込む。
――悲し過ぎる。本当に。悲し過ぎる。
「あなたたちは、ただ気づけないでいるだけです。それで、色々と見失っているんです。でも、わたしは違う。違います。彼が、わたしを愛していたことをわたしは知っていた。いまだってそう思っている」
そして、とミイは言う。
「そしてわたしも彼を愛していました。愛には愛を返したい。そう思っていたんですよ」
――愛されたい。愛したい。ただ、それだけ。
アイが小さく呟いた。
「違った、のかな。ミイと、わたしたちとは」
「そう、違うね。彼を好きだった気持ちは同じ。でも――」
「彼を、憎んでいた訳じゃなかったんだね」
「彼を愛しているという、その意味が違うんだよ」
ひとり納得したように言い切ってみせたミイに訝しげな眼差しを向けながら、マイは問う。
「あの男は嘘をついていたのに?」
「彼は嘘なんてついていませんでしたよ。迷ってはいても、悩んではいても、騙そうなんて気はなかったはずです。少なくとも、わたしを騙そうなんてつもりはなかったんです。彼のことを愛して、自分のことを疑ったりしなければ、判りますよ。わたしと同じように、彼のことを愛していたあなたたちになら、きっと」
「なら、あの男が振るっていた暴力は?」
「暴力なんて、彼は振るってませんよ。判ったんです。あれは、そんなものじゃないんです」
「まさかあれが愛情の表れだったと、そう言うの? アンタは」
「そうですよ。そうに決まってるじゃないですか」
彼は言った。愛していると言った。
ミイを殴ったあと、泣きながら、悔みながら、愛していると繰り返してくれた。痛かっただろう、辛かっただろう、と優しく囁いてくれた。
ミイが苦痛を訴えたとき、非難めいた表情を浮かべたとき、そんな顔はやめろとまた怒り出すことはあっても、最後には謝りながら愛していると抱き締めてくれた。彼が激しい怒りや、憎しみだけに囚われていたのなら、ミイの元からとっくに去っていたはずなのに、決してミイから離れたりはしなかった。
愛があったからだ。彼が、愛してくれていたからだ。
お互いが痛みを伴う、力強くもあり、厳しくもある愛情表現によって。
マイの表情が複雑に歪んだ。信じられないものを見ような目つきだった。まるで何かを恐れているかのようでもあり、ミイにはそれが不思議で堪らなかった。
「わたしは、返したいと思っていただけです。同じだけの愛を」
「同じ?」
「ええ。わたしも、彼と同じように、彼を愛してあげたいって」
同じように。
そのままに。
そして、きっと、それ以上に。
その言葉に、マイは息を呑む。しばらく黙ったままミイを見つめ、その場に固まっていた。やがてその顔が、ぴくぴくと引き攣り始め、マイは笑い出す。
大声で笑った。
「ああ、そうなんだ、ミイ。やっと判ったよ。アンタがやりたかったこと。同じ、同じね! アンタがされたことを、そっくりそのまま、あの男に! あの男を同じ目に遭わせてやりたかった――いや、同じように愛したかった、ただ、それだけだなんてね!」
アイが深く吐息を漏らす。
「そう、こんな愛し方もあるのね」
「愛する、ってことは、いつだって一方的だからね」
「それが報われてなくても、愛だと信じられるのね」
「もちろん、愛されていると考えることだっていつも一方的だしね」
「でも。そうだとしても。わたしたちとは異なるミイの愛し方でも――」
「だから、わたしも一方的に――」
「彼を殺すことは可能だね。ああ、でも――」
「彼を愛して――」
「それなら、やっぱりわたしたちと同じだね」
「彼を憎んで――」
「だって、憎しみを伴った愛情から生まれる殺意は」
「彼を殺して――」
「純粋に、より愛したいと願った末に生まれるものだもの」
「首を切って、もう二度と彼の顔を見たくないと思った。だから――」
傑作だよ、と声を張り上げて、マイは笑い続けていた。
ミイにはそれが泣いているように思えた。哀れだ。本当に可哀想な人だ、とミイは首を振る。
「ええ。わたしは、彼を愛していましたから。とてもとても。だから、わたしは、彼と同じように彼のことを愛してあげたかった。いえ、彼以上の愛を」
彼以上に強く。
彼以上に激しく。
彼以上に力を込めて。
彼を殴ってやりたかった。痛みを与えてあげたかった。愛していると言いながら。愛していると泣きながら。そこまでしても相手を憎むことなく、愛し続けることのできる自分になりたかった。
自分の行為を悔みながらも。
自分の行為に脅えながらも。
愛する人が浮かべる非難も、恐怖も、怒りも、悲しみも、すべて受け止めて。愛する人が感じるであろう痛みも、すべて我がことのように受け止めて。
それでも。
愛している、と言ってあげたかった。
それは彼への憎しみではない。愛だ。
愛そのものだ。
――わたしは、彼を憎んでなんかいなかった。
愛していたのだ。心から。
ミイは自分の手をそっと開き、見つめた。
とても小さく、頼りのない手だけれど。
それでも、力強く。
「抱き締めて上げたかったの。いつの日か、きっと。そう思っていたの。だから、わたしは――」
両腕を上げ、前方の、何もない空間に差し出た。
抱き締める相手を求めてさ迷う、その手をじっと見つめた。
「彼の首を捨ててきたんだ」