プロローグ:魔族
西方の地、ネフィリム。
そこに広がるのは、生命の息吹を拒絶するような灰色の荒野だった。
「……今回も、砂を噛むような勝利だな」
軍靴を響かせ、魔王カルマ・ノクティスは魔王城の長い廊下を歩いていた。その背にある漆黒の翼は、戦火の煤と勝利の返り血で重く汚れている。
廊下の先、玉座の間へと続く扉の前で、一人の男が深く頭を下げて待っていた。魔王四相の一人「智相」のボウマンである。
「お帰りなさいませ、魔王様。此度の聖王国との一戦、見事な采配でした」
「ボウマンか。出迎えご苦労」
カルマの歩調に合わせ、ボウマンがその斜め後ろに付き従う。
「戦果の報告は既に。敵聖王国の南部、穀倉地帯へ繋がる要所を確保できたのは大きい。あそこの農作物を押収できれば、民の飢えを半月は凌げるでしょう」
「だが、焼け石に水だ。民の飢えを完全に癒すには、聖王国の懐まで食らいつくす他ない」
「ええ。幸い、ベリナスが敵騎士団の副団長を仕留めました。一週間の休息の後、戦力が立て直される前に次を決めましょう」
事務的な会話が続く。だが、カルマの漆黒の瞳には勝利の悦びなど微塵もなかった。
玉座の間が近づくにつれ、その足取りは目に見えて重くなっていく。
「……娘の様子はどうだ」
その問いに、ボウマンの表情が微かに曇った。
「依然として、良くはありません。意識があるのは一日のうち八時間ほど。残りは深い眠りの中にあります。呼吸も、日を追うごとに浅く……」
「くっ、まだ原因がわからぬというのか!」
カルマの脳裏には、かつての愛娘の眩いばかりの姿が浮かんでいた。
セラフィナ・ノクティス。彼女は慈愛に満ちた、美しくも芯の強い女性だった。こめかみから伸びる二本の小さな角は、透き通るように白く、それは魔族たちの憧れの象徴でもあった。彼女と親しくなりたいと願う者は、魔王城の中で後を絶たなかったのだ。
そして、彼女は何より平和を愛していた。
『お父様! なぜ、魔族は人間と争い続けているのですか!?』
『このまま双方が血を流し続けていても、魔族も、人間も、この大地すらも疲弊していくだけです!』
『戦争ではなく、対話をしましょう。知能を持つ者同士、必ず歩み寄れるはずです!』
涙ながらに訴えた娘に、カルマはただ戸惑い、なだめることしかできなかった。
これほど強い言葉で反抗したのは、彼女にとって人生で初めてのことだった。かつての玉座の間では、威厳を忘れて必死に娘をなだめるカルマの姿を、仏頂面揃いの魔王四相たちでさえ「魔王様の初めての反抗期対応だ」と笑って見守っていたほどだったのだ。
そんな幸せな日々が暗転したのは、半年ほど前のことだった。
セラフィナが「透明な女性と見つめ合い、最後に微笑みかけられた」という奇妙な夢を見てから、彼女の体調は崩れ始めた。
最初は軽い立ちくらみ程度だった。だが、次第に彼女は呼吸を苦しませ、急に意識を失うことが増えていった。
そして何より恐ろしかったのは、彼女の存在そのものが「希薄」になっていくことだった。
カルマや側近の四天王ははっきりと覚えている。しかし、城の外にいる魔族たちは、彼女の名前すら思い出せなくなっていた。「魔王には娘がいたはず」という、朧げな認識しか残っていないのだ。
「……魔王様。一点、聖王国の文献から気になる記述を見つけました」
ボウマンが眼鏡を押し上げ、重々しく切り出した。
「『聖の女神と無の女神』……そこに記された禁忌の名は、『無神ニヒリス」
「無神……。それが、娘に何の関係がある」
「聖の女神が力を『与える』のに対し、無神は人の存在や力を『奪う』存在。セラフィナ様の症状……周囲の認識が歪んでいく現象は、この女神の権能と一致します。恐らく――セラフィナ様が無神の加護を受けた者に狙われているか。あるいは……」
「あるいは、なんだ」
「彼女自身が、無神に『見初められ』てしまったか。そのどちらかかと」
カルマの瞳に鋭い光が宿る。娘の慈愛が、すべてを奪う無神に目をつけられたというのか。
「確かめる術はあるのか」
「明朝、最高純度の魔力水晶を用いた実験を行います。かつて彼女が示した『紫』の魔力が、無の力に変質していないかどうかを。文献には載っていなかったため確かなことは言えませんが、もし色が透け、透明にでもなれば、それは……」
「……続けなくてよい。明朝、私も立ち会う」
ボウマンは一礼すると、転移魔法陣の中へと消えた。
一人残されたカルマは、重い扉を開け、玉座の間へと入る。
そこには二つの椅子がある。主である自分の椅子と、その隣に置かれた、主を失いつつある小さな椅子。
かつて平和を訴える彼女の声が響いたその場所は、今や刺すような静寂に包まれていた。
「セラフィナ……」
愛しき名を呼んでみるが、返る声はない。
窓の外、新月の夜はどこまでも暗く、魔族の未来を飲み込もうとしているかのようだった。魔王は玉座に深く背を預け、娘を救えぬ己の無力さを噛みしめながら、深い闇の中へと眠りについていった。




