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第二話 完璧な人ほど、好意の隠し方が下手だ

人は整っているものを見ると、安心する。


 机の上にきちんと揃ったノート、端がずれないプリント、時間通りに鳴るチャイム、乱れのない言葉遣い。そういうものは、見ている側に「ここはちゃんとしている場所です」と教えてくれる。


 たぶん柊木星彩という人間は、そういう安心を周囲に与えることで成り立っている。


 そして、そういう人ほど、ひとつ乱れたときの揺れが目につく。


    ◇


 翌朝、俺はいつもより二本早い電車に乗った。


 日立の朝は早い。特に駅に近い側の人間は、時間の感覚がわりとはっきりしている。海沿いを走る電車の窓から朝日が差し込み、まだ人のまばらなホームに制服姿が少しずつ増えていく。眠そうな顔、もう元気な顔、イヤホンのコードを指に巻いているやつ、単語帳を開くやつ、パンをくわえて階段を下りてくるやつ。


 その中に、見慣れた横顔を見つけた。


 柊木星彩は、改札を抜けたところで足を止めていた。通学用の革鞄を左手に、右手でスマホの画面を一度だけ確認し、すぐにしまう。その動作に無駄がない。身だしなみは完璧。髪の乱れなし。シャツの襟も整っている。なのに、今日は歩き出す前にほんの半秒だけ深く息を吐いた。


 早起きの疲れ、ではない。緊張か、気負いか、そのどちらか。


 昨日の件で、彼女も早く来たのだろう。


 俺が少し離れて後ろからついていくと、星彩は駅前の横断歩道を渡り、高台の学校へ向かう坂へ入った。その背中に、不自然さはほとんどない。ただ、いつも一定の幅で揺れる鞄のストラップが今日は少しだけ大きく振れる。歩幅を保とうとして、微妙に力んでいる。


「……おはようございます」


 声をかけると、星彩はぴたりと振り向いた。


 驚いた顔は一瞬だけで、すぐにいつもの整った表情に戻る。


「鷹取くん。早いですね」

「そっちも」

「見張ると決めたのは昨日でしょう」

「まあ、そうですけど」

「なら不思議ではないかと」


 たしかにその通りだ。


 星彩は少しだけ視線を横へ逃がしてから、またこちらを見る。


「名塚さんは?」

「今日はまだ見てません」

「そうですか」

「……残念そうですね」

「何がですか」

「いや」


 今の返しは、わざとだった。


 星彩はわずかに眉を寄せた。怒った、というより警戒した顔。自分が読まれかけていると察したときの表情だ。


「鷹取くん」

「はい」

「あなた、朝から人を試すのはやめたほうがいいと思います」

「試したわけじゃ」

「試しています」

「……すみません」

「きちんと謝るのはえらいです」


 言いながら、星彩は歩き出す。俺も並ぶ。


 海の見える坂道は、朝だと影が長い。家々の塀、電柱、自転車を押して上る中学生、全部が斜めに伸びていて、空だけが妙にまっすぐ高い。


「柊木さん」

「はい」

「昨日の件、誰か心当たりありますか」

「あります、と言うと決めつけになります」

「じゃあ、候補」

「あるにはあります」


 星彩はそう答えたあと、少し間を置いた。


「でも、たとえばその子が本当に置いていたとしても、責めたいわけではないんです」

「有馬さんが困ってるのは事実です」

「ええ。だから止める必要はあります」

「なら」

「けれど、不器用な善意を大勢の前で断罪するのは違うでしょう」


 そこだけ、声が少し柔らかくなる。


 昨日も思ったが、この人は他人に厳しいようでいて、厳しいのはむしろ“ことの扱い方”に対してだ。人そのものを雑に切り捨てる感じがない。


 たぶん、そういうところが周囲から信頼される理由なのだろう。


「優しいんですね」

 思わず言うと、星彩は露骨に顔をしかめた。

「そういう決めつけも苦手です」

「すみません」

「あなた、今日ずいぶん謝りますね」

「朝から二回目です」

「数えているんですか」

「なんとなく」

「そういうところです」


 言葉は少しきつい。でも、口調のわりに歩幅は合わせてくれている。完全に拒絶されているわけではない。


 学校に着くと、校舎はまだ静かだった。早朝の廊下にはワックスの匂いと潮の湿り気が少し混ざっていて、誰もいない教室の窓だけが明るい。


 二年三組の教室前には、すでに星彩のクラスメイトらしい女子が一人来ていた。有馬さんではない。掃除当番か何かだろう。星彩が軽く声をかけ、自然な会話のついでに有馬さんの到着時間を聞き出す。抜け目がない。


「有馬さん、いつも七時四十分くらいですって」

「今、七時二十五分ですね」

「ええ」

「じゃあ、それまでに置くなら、もう来てるやつがいるかも」


 俺たちは教室の正面ではなく、廊下の角から中が見える位置に立った。いかにも見張っています、では逆効果だ。早く来た生徒に無用な警戒を与える。


 十分ほどして、一年の男子が数人、掃除用具を取りに上がってきた。二年の部活勢もぱらぱら現れる。誰も不自然な動きはない。教室の前を通りはするが、二年三組の中まで入る生徒はいない。


 さらに五分。


 廊下の向こうから、小走りの足音が聞こえた。


 振り向くと、澪菜だった。


「はあ、間に合った……っ」

「遅い」

「うるさい、今日に限って母親にゴミ出し頼まれたの!」

「髪、少し乱れてるぞ」

「うわ最悪、今それ言う?」

「言ったほうがいいかと思って」

「ありがとうとは言わないからね」


 そう言いながら、澪菜は慌てて前髪を整えた。指先の動きが普段より少し雑だ。本当に急いできたのだろう。


 星彩が淡々と言う。


「名塚さん、おはようございます」

「お、おはようございます。すみません、遅れました」

「責めていません。まだ何も起きていないので」

「何も起きてないのも、それはそれで緊張しますね」

「そうですね」


 澪菜は俺の隣に滑り込むように立ち、こっそり小声で言った。


「委員長さん、朝から完成度高くない?」

「何の」

「存在の」

「人を家具みたいに言うな」

「家具は完成度で語られるでしょ」

「それはそうですが」


 そこへ、二年三組の教室の中へ、ひとりの男子が入った。


 背は低め。痩せ型。制服のズボンの裾が少し余っている。一年かと思ったが、名札の色は二年だ。手にはスポーツドリンクのペットボトル。未開封。


 教室に入る前、彼は廊下を左右に見た。大げさではない。確認というより、癖で周囲を見る感じだ。悪事を働く人間の挙動ではなく、怒られ慣れている人間の動きに近い。


「……あ」

 澪菜が小さく声を漏らす。

「誰」

「二年三組の大貫くん。図書委員、だったはず」

「有馬さんも?」

「うん」


 なるほど。


 大貫は教室の中で、有馬さんの机へまっすぐ向かう。ほんの一瞬だけためらい、それからそっとスポドリを置いた。丁寧に。倒れないよう、机の右上へ。置いたあとで、少し満足そうに机を見て――次の瞬間、俺たち三人と目が合った。


 止まる。


 固まる。


 俺たちも一瞬、動かない。


「……おはようございます」

 とりあえず俺が言う。

「お、おはよう、ござ……」

 大貫の声が裏返った。


 澪菜が顔を背けて肩を震わせる。笑うな。


 星彩は一度だけ深く息を吸い、それから教室へ入っていった。


「大貫くん」

「は、はい」

「少しお話を聞いてもいいですか」

「え、あの、これは、その」

「分かっています。だからこそ、ここで大きな声にしないようにしています」

「……はい」


 その言い方がうまい。


 責めるでもなく、逃がすでもない。“あなたを潰したいわけじゃない”が、ちゃんと伝わる言い方だった。


 俺と澪菜も後から教室へ入る。大貫は完全にしょげた犬みたいな顔で立っていた。ペットボトルはまだ机の上だ。朝日を受けて透明な水滴がきらきらしているのが、妙に場違いだった。


「えっと」

 大貫がうつむいたまま言う。

「有馬さん、最近ちょっと元気なかったから……」

「それで毎朝飲み物を?」

 星彩が確認する。

「はい……」

「どうして直接渡さなかったんですか」

「いや、その、図書室だと他の人いるし、なんか急に渡したら重いかなって……」

「机に毎日置くのは重くないのか」

 俺がつい言うと、大貫はさらに小さく縮こまった。

「す、すみません……」

「いや、責めてるわけじゃなくて」

「責めてるよ今のは」

 澪菜が小声で突っ込む。

「そうか?」

「そうだよ」


 星彩が俺をひと睨みしてから、大貫へ向き直る。


「大貫くん、有馬さんは困っています」

「……はい」

「あなたが嫌いだからではありません。あなたが何か悪質なことをしたい人だとも思っていません」

「……はい」

「でも、相手がどう感じるかを飛ばして、自分の“してあげたい”だけで動くのは、やはり違うでしょう」

「はい……」


 大貫は耳まで赤くしてうなずいた。


 怒鳴られたわけでもないのに、こういうときのほうが人はきつい。自分がひどい人間だと決めつけられるより、自分の善意が空回りだったと正面から知らされるほうが、たぶん痛い。


 澪菜が少しだけ前へ出る。


「ねえ大貫くん」

「は、はい」

「有馬さん、飲み物の好み分かってた?」

「え」

「たとえば甘いの好きとか、炭酸平気とか」

「……あんまり」

「じゃあまず、そこじゃない?」

「そこ」

「元気ない人に何かしたいなら、せめて相手の好きなものくらい聞いたほうがよかったかも」

「そ、そうだよな……」


 澪菜の言い方は、星彩よりずっと柔らかい。でも、核心は逃がさない。


「あと、置いたこと自体より、誰が置いたか分かんないのが怖いんだよ」

「う……」

「たぶん有馬さん、毎朝『今日もある』ってなってたと思う」

「……はい」

「それ、優しさとしてはかなり失敗」

「はい……」


 大貫が今にも床に溶けそうな顔をする。


 でも澪菜はそこで突き放さなかった。


「でもまあ、これ以上続けなきゃ取り返しつくよ」

「え」

「ちゃんとやめて、もしほんとに気になるなら、図書委員として普通に話せばいいじゃん」

「普通に……」

「そう。普通に。飲み物じゃなくて、まずおはようとかから」

「ハードル高い……」

「そこは頑張りなよ」

「はい……」


 そのやり取りを横で聞きながら、俺は少しだけ驚いていた。


 澪菜はこういう場で、人の逃げ道の作り方がうまい。


 星彩が正しい道筋を敷き、澪菜がそこで息ができる余白を作る。そうすると、相手は必要以上に潰れない。


 たぶんこれは、小さい頃から誰かの気持ちの間に入ってきた人間の手つきだ。


 俺がそんなことを考えていると、星彩が静かに結論を出した。


「では大貫くん、今日はこの飲み物を持って帰ってください」

「はい」

「今後、同じことはしないこと」

「はい」

「有馬さんへの説明はこちらで考えます。あなたの名前を勝手に出すことはしません」

「……ありがとうございます」


 大貫はぺこりと頭を下げ、ペットボトルを回収した。その背中が教室を出ていくまで、誰も余計なことは言わない。


 扉が閉まったあと、澪菜が大きく息を吐いた。


「解決、かな」

「一応は」

 俺が答える。

「思ったより不器用案件でしたね」

 星彩が言う。

「かなり」

「悪人じゃなくてよかった」

 澪菜が言う。

「よかった、で済む話でもないですが」

 星彩の返しは厳しい。

「でも、有馬さんにとっては嫌だったわけだから」

「それはそうです」

「ただ、あそこで吊るし上げても、たぶん何にもならなかった」

「……ええ」


 星彩は小さくうなずいた。


 その横顔を見ていて、俺はふと気づく。


 彼女は、今の一件で大貫に対して冷静だった。正しい距離で、正しい言葉を選んでいた。なのに、最後に「名前を勝手に出さない」と言ったときだけ、声がほんの少し低くなった。


 誰かの好意が、本人の知らない場所で雑に扱われることに、敏感なのだ。


 昨日から感じていた輪郭が、少しだけ濃くなった。


「柊木さん」

「なんでしょう」

「……こういうの、嫌いなんですね」

「何がですか」

「本人の知らないところで、気持ちが勝手に机の上に置かれるみたいなやつ」

 

 星彩の睫毛が、ぴたりと止まった。


 澪菜が横で「うわ」とでも言いたげな顔をする。


 しまった、と思ったときにはもう遅い。


「鷹取くん」

 星彩はごく静かな声で言った。

「あなたは時々、本当に失礼です」

「……すみません」

「三回目ですね」

「数えてたんですか」

「ええ」

「そこ数えるんだ……」

 澪菜が呟く。


 星彩は少しだけ視線を伏せた。


「嫌いです」

 はっきりしていた。

「人の気持ちが、本人の意思を置いていく形になるのは。たとえ善意でも、趣味が悪い」

「……そうですね」

「だからといって、あなたが今わざわざ言葉にする必要はなかったと思います」

「それも、その通りです」

「でしょうね」


 きつい。きついが、正しい。


 俺は反論せずにうなずくしかない。


 澪菜が間に入るように、ぱん、と手を叩いた。


「はい、この話終わり! とりあえず有馬さんに何て説明するか考えましょう!」

「名塚さん」

「なんです?」

「助かります」

「でしょ」

「褒めてはいません」

「えー」


 けれど星彩の口元は、ほんの少しだけ緩んでいた。


    ◇


 結局、有馬さんには「好意のつもりで誰かが置いていたが、悪意はなく、もう止まるはず」とだけ説明することになった。名前は伏せる。大貫本人にも、必要があれば後日自分で話せと伝える。それがいちばん穏当だろうという結論だ。


 朝の一件が落ち着くと、俺たちはそのまま一時間目へ向かうことになった。


 廊下を歩きながら、澪菜が小声で言う。


「透真」

「ん」

「さっきの最後のやつ、だいぶ踏み込んだね」

「分かってる」

「分かってるならいいけど」

「思ったより口が先に出た」

「珍しい」

「そうか?」

「そうだよ。透真って、見つけても言わないほう選ぶこと多いじゃん」

「……」

「今日は言った。しかもあの委員長さんに」

「別に深い意味は」

「ある顔だったけど」


 俺は答えなかった。


 自分でも、なぜあんなことを言ったのか、きれいに説明できない。ただ、さっきの星彩の反応に、確かに“個人的な引っかかり”を感じたのだ。大貫個人を責める言い方ではなく、構造そのものを嫌悪する感じ。誰かに勝手に気持ちを置かれること。本人の知らないところで、好意が物みたいに扱われること。


 たぶん彼女自身、そういうものを嫌っている。


 あるいは――。


「透真?」

「なんでもない」

「今の、絶対なんでもなくない」

「おまえ昨日からその台詞好きだな」

「透真がなんでもないって言うとき、だいたい何かあるから」


 図星だった。


 教室へ戻る途中、階段の踊り場の窓から海が見えた。朝より少し白くなった水面が、風で細かく揺れている。空は青いままだ。


 見つかるものは見つかる。


 でも、見つけたからといって、触れていいとは限らない。


 その線引きを、俺は昔からうまくできない。


    ◇


 昼休み、購買へ行く途中で二年三組の前を通ると、教室の中から柊木星彩の声が聞こえた。はっきりしていて、通る声だ。けれど決して大きすぎない。必要な範囲だけ教室全体に届く、委員長向きの声。


「次、文化祭実行委員の仮担当、まだ空いています。記録係と進行補助、どちらか入れる人はいませんか」


 教室の中を覗くと、星彩が前に立ち、黒板横の一覧を指していた。昼休みだというのに、もう文化祭の調整をしているらしい。さすがに働きすぎでは、と思う。


 そのとき、教室の後ろから男子の声がした。


「柊木さん、そういうの得意そうだよねー。全部一人でできそう」

 軽い調子だ。悪意というより、無邪気な丸投げ。

「できるできないではなく、分担の問題です」

 星彩は即座に返す。

「いやでも、柊木さんに任せとけば安心だし」

「任せて安心、で誰か一人に仕事が偏るのは、たぶん安心ではないです」

「うわ、正論」

「正論ですので」

 

 教室に小さな笑いが起こる。


 その流れで、何人かがしぶしぶ手を挙げた。星彩はきちんと礼を言いながら名前を書き込んでいく。無理強いしすぎず、でも逃がしもしない。うまい。


 だが、ふと彼女の手元を見ると、名前を書き込むペンの動きが、ある瞬間だけわずかに止まった。


 視線の先を追う。


 窓際の席で、男子がひとり、隣の女子と何かを話して笑っていた。派手ではないが、整った顔立ちの男子だ。教室で目立つタイプの自然さがある。彼が少し身を乗り出して話すたび、隣の女子も楽しそうに笑う。


 その光景を見た瞬間だけ、星彩のペン先が止まった。


 そしてすぐに動き出す。


 なるほど。


 俺はその場を離れかけて、やめた。今見たことを面白半分で確定扱いするほど、俺は無神経ではない……と思いたい。


 ただ、可能性としてはかなり強い。


「何見てるの?」


 背後から声がして振り向くと、澪菜が紙パックのジュースを持って立っていた。今日はオレンジだ。


「文化祭の担当決め」

「へえ。委員長さん、ほんとずっと働いてない?」

「そう見える」

「大丈夫なのかな」

「何が」

「いや、そういう“ちゃんとしてる人”って、誰にも頼れないまま一人で抱え込みそうだなって」


 澪菜は何気ない口調でそう言い、俺の隣から教室を覗いた。


「あ」

「何」

「今、委員長さん、ペン止まった」

「おまえも見てるじゃん」

「幼なじみだから、で全部通らない?」

「俺には通るかもしれないけど、世間には通らない」

「厳しい」


 澪菜は教室の窓際をちらりと見て、すぐに納得した顔になる。


「そっかー」

「何が」

「いや。委員長さんも人間なんだなって」

「当たり前だろ」

「なんか、ああいう人って最初“人間”より“役職”っぽく見えるじゃん」

「ひどい言い方だな」

「褒めてるの」

「それ褒めてるか?」

「圧倒的に機能美って感じ」


 また家具扱いだ。


 だが澪菜の言いたいことは分かる。星彩は“柊木星彩個人”より先に、“きちんとした人”として他人に認識されやすい。だからこそ、ひとたび個人的な感情の揺れが見えると、その差が目立つ。


 俺たちがそんな話をしているうちに、教室の中で手短な拍手が起きた。どうやら担当決めはまとまったらしい。星彩が一度だけ小さく肩の力を抜くのが見えた。


 その直後、さっきの窓際の男子が星彩に声をかけた。


「柊木さん、サンキュー。助かった」

「いえ、まだ何も終わっていません」

「いやーでもさ、柊木さんいると楽だわ。安心感ある」

「そうですか」


 星彩はいつもの顔で答える。けれど、さっき大貫に向けたときより、ほんの少しだけ声が硬い。


 好意のある相手に対して柔らかくなる人もいれば、逆に固くなる人もいる。


 柊木星彩は後者らしい。


「透真」

 澪菜がジュースのストローを咥えたまま言う。

「今、だいぶ分かりやすい顔した」

「誰が」

「君が」

「してない」

「したよ。“はいはいなるほど”って顔だった」

「そんな顔あるか」

「ある。十年以上見てるから分かる」

「便利だなおまえ」

「そう言った」


 澪菜は少し笑った。けれど、その笑いは一瞬で消える。


「……ねえ」

「ん」

「委員長さんのこと、あんまり面白がらないでね」

「面白がってない」

「ならいいけど」


 その一言は、妙にまっすぐだった。


 俺は澪菜を見る。彼女はもう教室ではなく、廊下の先を見ていた。誰のことを気にして言ったのか、どこまで分かっているのか、すぐには読めなかった。


 ただ、今の澪菜は朝みたいな不自然な明るさではなかった。代わりに、何かを先回りして守ろうとする顔をしていた。


    ◇


 放課後、生活記録同好会の資料整理室には、珍しく早い時間から人が集まった。


 澪菜は窓際の椅子に座ってプリントをまとめている。俺は机の上で文化祭関連の依頼メモを整理中。そこへ、ノックのあとで星彩が入ってきた。


「失礼します」

「どうぞ」

「本当に来た」

 澪菜がぽつりと言う。

「来ると言いました」

 星彩は当然のように答え、ファイルを置いた。

「文化祭の記録係について、正式にお願いしたくて」

「昨日の件だけじゃないんですね」

 俺が聞くと、星彩はうなずく。

「ええ。生活記録同好会は、校内の行事記録補助も活動内容でしょう」

「一応」

「一応、では困るのですが」

「すみません」

「四回目です」

「まだ数えてるんですか」

「あなたが増やすので」

「律儀……」

 澪菜が小さく笑う。


 星彩は俺たちの前に、文化祭の進行表と役割表を広げた。色分けされていて、必要箇所に付箋まである。準備がよすぎる。


「今年は各クラス展示の記録に加えて、校内企画の紹介パネルも作ることになっています」

「急に仕事が増えましたね」

「毎年です」

「かわいそう」

 澪菜が言う。

「同情される筋合いはありませんが、忙しいのは事実です」

 星彩は淡々としている。

「ですから、記録班として皆さんに手伝っていただきたい。写真、簡単なコメント集め、展示内容の確認、当日の回り方の整理」

「うわ、ちゃんと仕事だ」

「仕事です」

「今までの“なくなったクリームパン”とはスケールが違う」

「それ、まだ言う?」

 俺が言う。

「だって好きなんだもんあの件」

「好きになる要素あったか?」

「平和で」

「平和でした」


 星彩がじっとこちらを見る。


「お二人はいつもそういう調子なのですか」

「どういう」

「話が横に逸れても、最終的に一周して戻ってくるところが」

「それ褒めてます?」

 澪菜が聞く。

「評価を保留しています」

「厳しいなあ」

「でも、嫌いではないです」

 星彩は言って、少しだけ視線を外した。


 その一瞬の間。ほんの僅かに頬が緩む。


 やっぱりこの人、無表情に見えて案外表情はある。ただ、その変化が小さいだけだ。


 俺がそんなふうに見ていると、星彩がこちらに向き直った。


「鷹取くん」

「はい」

「今、また何か見ましたね」

「……」

「図星なんですね」

「顔に出てたか」

「出ます」

「どのへんに」

「言語化するのは癪です」

「そこまで?」

「そこまでです」


 澪菜が吹き出した。


「うわ、透真がちょっとやり込められてる」

「珍しいですね」

 星彩も言う。

「二人して楽しむなよ」

「楽しんではいません」

「ちょっとは」

 澪菜が言う。

「名塚さん」

「はい」

「あなたは楽しんでいますね」

「はい」

「正直でよろしいです」


 そのやり取りのあと、星彩は机上の進行表を指で整えた。紙の端がぴたりと揃う。やはりこういう癖がある。


「話を戻します」

「戻った」

 澪菜が感心したように言う。

「戻します。今週中に、校内展示の事前確認を一度しておきたいんです。クラスごとに準備状況が違いますし、危険物の有無や導線も見たい」

「危険物」

「段ボールの角、脚立の置き方、配線、その他いろいろです」

「ちゃんとしてる」

「当然です」


 星彩はそこで、進行表の一角を指した。


「それと、アンケート用紙の回収もお願いしたいのですが……」

「アンケート?」

「文化祭企画の希望集計です。すでに一度回収済みですが、一部だけ数字がおかしいんです」

「おかしい?」

「票が偏りすぎている。しかも記入欄の筆圧が、途中から変わっている」

「……差し替え?」

 俺が言うと、星彩は小さくうなずいた。

「その可能性を考えています」


 澪菜が「おお」と声を漏らす。


「急にちゃんと事件っぽい」

「“ぽい”ではなく、困りごとです」

「はい」

「これは大きく騒ぎにしたくはありませんが、事実確認は必要です」

「了解」

「ただし」

 星彩はそこで、俺をまっすぐ見た。

「鷹取くん」

「はい」

「今回は、見つけたことを面白がらないでください」

「……面白がってないです」

「そうでしょうね。でも、あなたは“分かった”瞬間に少しだけ顔が変わる」

 

 ぎくりとする。


 澪菜が横で「それな」と頷いている。味方がいない。


「分かること自体は悪くありません」

 星彩は静かに言った。

「でも、その“分かった”の先にいるのは、たいてい人です」

「……はい」

「忘れないでください」

「忘れてないつもりです」

「つもり、では足りない時があります」


 言葉はきつくない。むしろ、必要な温度だけ保っている。だから真っ直ぐ刺さる。


 俺はうなずいた。


「分かりました」

「本当に?」

「本当に」

「では信じます」

 

 星彩はそう言って、初めてほんの少しだけ笑った。


 小さい。けれど確かに、表情が和らいだ。


 たぶん普通の人なら見逃す程度の変化だ。でも俺には、それが妙にはっきり見えた。


 完璧そうに見える人が、ほんの少しだけ気を許す瞬間。


 そういうものを見つけるのは、正直、好きだ。


 けれど同時に、それを見つけたからといって、勝手に触れていいわけじゃないとも思う。


 昨日からその線引きのことばかり考えている気がする。


「じゃあ、まずは二年の各クラスから見ますか」

 澪菜が明るく言った。

「手近だし」

「ええ。それがいいでしょう」

 星彩もうなずく。

「二年三組はすでに準備が進んでいますので、他クラスとの差も分かりやすいはずです」

「委員長さん、ちゃんと自分のクラスを前に出すよね」

 澪菜が笑う。

「事実ですので」

「嫌いじゃないです、そういうの」

「評価を保留します」

「そこ保留なんだ」


 その軽いやり取りの中で、星彩が机の端に置いていたペンを取り上げた。キャップを外し、進行表に赤い印をつける。迷いのない線。真面目で、速くて、整っている。


 でも、その線がある男子の名前のところへ差しかかった瞬間だけ、ほんの一ミリだけぶれた。


 まただ。


 文化祭実行委員の欄に、その男子の名前がある。


 昼休みに窓際で笑っていた男子。


 俺の視線がそこへ向いたのに気づいたのか、星彩はすぐに紙を少し引き寄せた。


「何か?」

「いや」

「今、見ましたよね」

「見ました」

「正直なのは結構です」

「でも言いません」

「……それも結構です」


 短い沈黙。


 そして星彩は、ほんの僅かに肩の力を抜いた。


 言わないという選択が、たまには正解なのかもしれない。


 そう思った瞬間、窓の外から強い海風が吹き込んだ。カーテンが大きく膨らみ、机の上の付箋が一枚、ひらりと落ちる。


 澪菜が立ち上がってそれを拾う。


「あ、危な」

「ありがとうございます」

 星彩が言う。

「いえいえ、こういうのは得意なんで」

「何が」

 俺が聞く。

「飛びそうなものを先に拾うの」

 

 澪菜は笑っていた。いつもの調子で。


 けれどその一言が、妙に耳に残った。


 飛びそうなものを先に拾う。


 それはたぶん、彼女が人に対してやってきたことでもあるのだろう。


 言葉にしないまま落ちそうになるもの。誰かの気まずさ、誰かの諦め、誰かの踏み外しそうな善意。澪菜は昔から、そういうものを先に拾ってきたのかもしれない。


 そして俺は、落ちたあとにそれを見つけるほうだ。


 似ているようで、少し違う。


「じゃあ、行きましょうか」

 星彩がファイルを閉じる。

「二年一組から順に」

「了解」

 俺も立ち上がる。

「はいはーい、記録班、出動」

 澪菜が妙に楽しそうに言う。


 三人で資料整理室を出る。


 廊下の先には午後の光が差していて、海のほうから吹く風が校舎の空気を少しだけ軽くしていた。


 文化祭の準備が始まる。クラスの空気がざわつき、役割が決まり、誰かが前に出て、誰かが一歩引く。そういう時期だ。


 たぶんこれから、見たくないものも、見たほうがいいものも、いくつか見つかる。


 そして柊木星彩という人間は、思っていたよりずっと分かりやすく、思っていたよりずっと面倒だ。


 完璧な人ほど、好意の隠し方が下手だ。


 その確信だけをまだ口に出さず、俺は二人の後ろを歩き始めた。

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