第一話 海の見える坂道で、誰かの気持ちを見つけてしまう
朝の坂道は、だいたい二種類ある。
ただ上るだけの坂と、誰かの機嫌まで連れて上ってくる坂だ。
茨城県日立市の朝は、海から風が来る。遠くで鳴る踏切の音と、坂の途中に並ぶ家々の屋根を撫でてきた潮の匂いが、まだ眠りの残る街の輪郭を少しだけはっきりさせる。空は晴れていた。青が高い。海のほうまで視界が抜ける朝は、たいてい何かを見つけやすい。
見つけたくないものまで、見つかる。
「透真ー、遅いって。置いてくよー」
坂の少し先で振り返った名塚澪菜が、いつもの調子で片手を振った。
白いブラウスの袖を軽く折り、紺のスカートを海風に揺らしている。肩にかけた通学鞄は軽そうに見えたが、持ち手を握る指先にだけ妙な力が入っていた。笑っている。声も明るい。けれど笑うまでに、ほんの一拍、間がある。
鞄を持ち替える回数が多い。左、右、また左。まだ学校までは十分あるのに、もう三回目だ。
「別に置いてけばいいだろ」
「そういうこと言う人に限って、ほんとに置いてくとちょっと寂しそうな顔するじゃん」
「してない」
「するよ。幼なじみ歴何年だと思ってんの」
澪菜はそう言って、俺が並ぶのを待ってから歩き出した。
この「待つ」が、昔からうまい。いかにも待ってましたみたいな顔はしない。たまたま空を見てました、坂の下を見てました、電線のカラスを見てました、みたいな顔で立っていて、こっちが追いつくと自然に歩き出す。押しつけがましくない親切は、たぶん生まれつきの才能だ。
俺の隣に並んだ澪菜の横顔を、ちら、と見る。
前髪。ちゃんと整っている。寝不足ならもう少し流れが荒れる。靴下の位置も左右きっちり揃っている。慌てて家を出た感じではない。なのに、笑うまでの一拍だけが不自然だった。
「なに」
「いや」
「いや、じゃないでしょ。今なんか見た」
「見てない」
「うわ出た。見てない人の言い方じゃない」
澪菜が唇を尖らせる。わざとらしい拗ね方だ。けれど、その直後に視線がほんの一瞬だけ海のほうへ逃げた。
気分を誤魔化したい人間は、相手の目から一度外れる。俺はそういう癖を、わりとよく知っている。
「……なんかあったのか」
「なにが」
「今日、ちょっと変だろ」
「朝から失礼すぎない?」
「いつもより笑うの遅い」
「最悪。そんなとこ見てるの?」
「別に見てるつもりはない」
「なお悪いよ」
澪菜は眉を寄せた。怒った、というより困った顔だった。それから小さく息を吐いて、また笑う。今度は少しだけ自然だ。
「なんでもないよ。ほんとに」
「なんでもない人は、なんでもないって言う前に一回考えない」
「うるさい観察魔。そういうとこ、ほんと昔から可愛げない」
「可愛げ求められてないだろ」
「求めてるかもよ?」
「今のも半拍遅かった」
「もう黙って歩いてくれない?」
怒っているわけではない。けれど、踏み込まれたくない領域に触れたときの声だった。
俺は素直に口を閉じる。
日立の坂道は、近い。距離の話じゃない。住宅地と学校、駅前と海辺、神社の階段とコンビニの駐車場、そのどれもが、歩いているうちに他人の生活圏へするりと入り込んでくる。だからこの街では、人の気配をごまかしにくい。誰がどの道を通るか、誰がどの時間に駅へ向かうか、誰がどこのコンビニで朝のパンを買うか。そんなことが、なんとなく共有されていく。
共有されたくない気持ちまで、街の中ではたまに輪郭を持つ。
坂の途中で、同じ制服の生徒たちと何人かすれ違った。おはよう、と軽く挨拶を交わす。澪菜はいつも通り愛想よく返す。やっぱり普通に見える。普通に見えるのに、爪の先だけが落ち着かない。親指の爪を、人差し指で二度、撫でる。癖だ。たぶん、言いたくないことがあるときの。
聞かないほうがいい。今は。
そう判断した瞬間、澪菜がふいに明るい声を出した。
「そうだ、今日、放課後って同好会ある?」
「ある。というか、だいたいある」
「だよねえ。生活記録同好会って、名前だけ聞くと地味なのに、地味じゃない相談ばっか来るよね」
「地味じゃないってほどでもない」
「この前なんて『購買のクリームパンが毎回一個だけ早くなくなる犯人を見つけたい』だったじゃん」
「犯人っていうか、パン好きの陸上部員だったろ」
「しかも悪いことしてないし」
「してないな」
「結局、朝練終わりに毎日買ってただけだったし」
「購買のおばちゃんが発注数増やして解決した」
「平和」
くすくすと笑う澪菜の声は、今度は少し軽かった。
俺たちが所属している生活記録同好会は、校内では微妙な立ち位置の集まりだ。表向きは、学校行事の記録補助、掲示物の整理、校内新聞の手伝い、アンケート集計、古い資料の保管と、地味な雑務を引き受ける同好会。だが実際は、そこに「誰に言うほどでもないけれど、ちょっと気になる」が流れ着いてくる。
なくなったノート。増えた落とし物。帰り道の変な噂。教室の空気のズレ。部活の引き継ぎの揉め事。大事件にはならない。でも放っておくと、誰かが少しだけ困る。
そういうものを拾う場所だ。
たぶん俺は、その場所に向いている。向いているのが、あまり嬉しくはないけれど。
校門が見えてくる。高台に建つ県立日立晴嶺高校は、校舎の端から海が見えるのが売りらしい。入学式の日、校長がそんなことを言っていた。勉強にも部活にも励みながら、海の見える学び舎で、みたいな長い話だった気がする。正直あまり覚えていない。ただ、朝の光を受けた窓が妙にまぶしかったことだけは覚えている。
「じゃ、私、先に教室行くね」
「おう」
「透真」
「なんだよ」
「……今日、変に気回さなくていいからね」
「は?」
澪菜は一瞬だけ、言いすぎた、という顔をした。すぐに「なんでもない」と笑って、校舎のほうへ小走りに行ってしまう。
その背中を見送りながら、俺はわずかに眉を寄せた。
変に気を回さなくていい、か。
つまり、俺が何かに気づいている前提で言った言葉だ。
やっぱり、何かある。
でも、その「何か」が澪菜自身のことなのか、別の誰かのことなのかは、まだ分からない。
◇
一時間目と二時間目をなんとかやり過ごし、昼休みの少し前に、生活記録同好会の部室――と呼ぶにはやや立派すぎる、旧校舎端の資料整理室へ行った。
古いロッカーと折りたたみ机、それに行事の段ボールが積まれているだけの部屋だが、窓から海が細く見える。潮風でカーテンの端が揺れていた。
机にはすでに、一枚の付箋つき封筒が置いてある。
『気味が悪いので相談です。二年三組の有馬さんの机に、今週ずっと飲み物が置かれています。最初は誰かのいたずらかと思ったのですが、毎日違うものなので、逆に怖いです。本人も困っています。大事にしたくはないけれど、やめてほしいとのこと』
俺は封筒の中身を読み終えて、小さく息をついた。
「来てた?」
背後から声がして振り向くと、澪菜がパンをくわえそうな勢いで入ってきた。手には購買の焼きそばパンと牛乳。いつも通りだ。少なくとも外側は。
「来てた」
「どれどれ」
澪菜が俺の肩越しに覗き込む。シャンプーの匂いがふっと近づいて、すぐ離れた。
「うわ、なにこれ。怖。毎日違う飲み物って、逆に念がこもってる感じしない?」
「念って」
「だって月曜がミルクティー、火曜がレモンソーダ、水曜がカフェオレ、今日がスポドリだよ? 選定基準が謎すぎる」
「相手の好みに合わせようとしてる可能性はある」
「好み分かってない感があるよ」
「それはある」
「というか、これ有馬さん本人が相談してきたんじゃなくて、クラスメイト経由なんだ」
「本人は騒ぎたくないんだろ」
「やさしい子なんだろうね。そういう子ほど困ってても言わないし」
澪菜はパンの袋をぱん、と机に置いた。その音が少し強い。
気になって視線を上げると、澪菜はすぐに「ん?」と首を傾げた。何でもない顔を作るのが早い。
「なんだよ」
「透真、今たぶん『またなんか思った』って顔した」
「おまえも人の顔見てるだろ」
「幼なじみなので」
「便利な肩書きだな」
「使えるもんは使う主義です」
そこで、がらりと扉が開いた。
「失礼するわ」
綺麗に背筋の伸びた声。入ってきたのは柊木星彩だった。
二年の学級委員で、成績優秀、品行方正、先生受けも良く、生徒会にも顔が利く。うちの学年ではかなり有名な存在だ。黒髪を肩の下で整えていて、制服の着こなしには一分の隙もない。持っているファイルの角まで揃って見える。
「相談の件、こちらで受けたと聞いて」
「有馬さんのことですか」
「ええ。二年三組の委員として、一応状況だけ共有しておこうと思って」
星彩はそう言って部屋に入ってきた。足音が小さい。ローファーの底の減り方からして、歩くときに重心がぶれない人間だ。
彼女が机にファイルを置く。まっすぐ。ずれがない。
「有馬さん本人は、できれば騒ぎにしたくないそうです。ただ、今日で四日目なので、さすがに無視も難しいかと」
「飲み物は毎朝?」
「はい。登校すると置かれているそうです」
「未開封?」
「未開封です。市販のものばかりで、細工などはなさそうですが」
「誰も見てない?」
「今のところは」
ここまで話して、星彩がちらりと俺を見た。正確には、俺の目ではなく、その少し手前。人をまっすぐ見すぎない癖がある。礼儀として身につけたものかもしれない。
「……鷹取くん、でしたよね」
「はい」
「あなた、こういうことが得意だと聞いています」
「得意っていうほどじゃ」
「でも、気づくのでしょう。人より少し、細かいことに」
言い方は穏やかだったが、試すような響きがあった。
俺は肩をすくめる。
「まあ、見えるものは見える、くらいです」
「便利ですね」
「便利じゃないですよ」
「そうですか」
星彩はそう言いながら、有馬さんのクラスの座席表を差し出した。机の位置、近くの生徒、朝早い部活所属者。情報が簡潔にまとまっている。さすがだ。
澪菜が感心したように口を開く。
「すご。仕事できる」
「最低限です」
「いやいや、最低限でこんな揃わないですって」
「名塚さん、褒めても何も出ません」
「褒めて伸ばすタイプなんで」
「結構です」
つん、とした返しなのに、言葉に棘が立ちすぎない。星彩はそういう距離の取り方をする。器用なのか、不器用なのか、初対面だと判別しにくい。
ただ、今、座席表を置いたあとに右手の指先だけが少し机を叩いた。三回。一定ではなく、二回目だけ弱い。考え事があるときのリズムだ。
「有馬さんって、どんな子なんですか」
俺が聞くと、星彩は少しだけ首を傾げた。
「穏やかな人です。目立つほうではありませんが、誰とでもきちんと話せる」
「嫌われてる感じは?」
「ありません。むしろ好かれていると思います」
「じゃあ嫌がらせではなく……」
「好意の可能性を考えている?」
「一応は」
俺が答えると、星彩は一瞬だけまぶたを伏せた。否定も肯定もしない。
「好意であれば、許されるわけではないでしょう」
「もちろん」
「本人が困っているなら、なおさらです」
そこだけ、少し強く言った。
澪菜が間に入るように明るく言う。
「まあまあ、とりあえず見てみましょうよ。たぶん犯人、思ったより大した悪人じゃない気もするし」
「“たぶん”で安心するのは危険です」
「うん、それはそう」
澪菜が素直にうなずく。けれど、そのあとで紙パックの牛乳にストローを刺し損ねた。位置が少しずれて、ぱす、と情けない音がした。
「あっ」
「……おまえ、今日ほんとにどうした」
「何が?」
「らしくない」
「牛乳の刺し損ねくらいあるでしょ、人間なんだから」
「そうだけど」
「ねえ透真、そういう細かいとこまで拾うのやめたほうがいいよ。女の子に嫌われるよ」
「もう言われてる」
「誰に」
「わたしも少し思います」
即答したのは星彩だった。
澪菜が吹き出し、俺はうわ、とだけ返す。
けれど星彩は、冗談を言ったつもりはなさそうだった。真面目な顔のまま続ける。
「いえ、誤解しないでください。悪い意味だけではなくて……」
一度言葉を切ってから、彼女は慎重に言い直した。
「見ているから分かることがあるのは、たぶん事実です。でも、それは見られる側にとって、時々少し怖い」
部屋の空気が、ひと息ぶんだけ静かになった。
海風が、窓の隙間を鳴らす。
俺はすぐに返事ができなかった。
怖い。
その言葉を、面と向かって言われたことがないわけじゃない。けれど、星彩の言い方は責めるというより、事実を整然と机の上に置くみたいだった。だから、なおさら逃げにくい。
「……悪い」
「謝らせたいわけではありません」
「でも、そう思わせることはあるんだろ」
「あります」
はっきりしている。
澪菜が少しだけ困ったように笑って、俺の机の端を指で叩いた。
「透真、へこむなへこむな。こいつ昔からこういうとこあるから」
「昔からってほどじゃ」
「あるって。私、小学校のときから何回『なんで分かるの』って言ったと思ってるの」
「二十回くらい」
「百回は言ってる」
「盛ったな」
「事実を誇張して伝えるのは会話の基本です」
「誰が教えた」
「私の人生」
ようやく空気が少し戻る。
星彩はそのやり取りを見て、ほんの少しだけ目元を和らげた。笑う、まで行かない。けれど、さっきまでより表情が柔らかい。
「……とにかく、私は有馬さんにこれ以上負担をかけたくありません。原因が好意であれ、いたずらであれ、早めに止めたい。ご協力いただけますか」
「分かりました」
「こちらこそ、必要なことがあれば何でも」
「ありがとうございます」
星彩は頭を下げ、ファイルを残して部屋を出ていった。
扉が閉まる。
その直後、澪菜が小さく息を吐いた。
「すごいなあ、委員長さん。隙がない」
「そうか」
「そうだよ。透真みたいな人種、たぶんいちばん苦手そうなのに、ちゃんと頼みに来るんだもん」
「人種って言うな」
「観察人種」
「初めて聞いた」
「今作った」
澪菜は牛乳を一口飲んで、それから窓の外を見た。海は昼の光で白く滲んでいる。
「でもさ」
「ん」
「見られると怖いって、ちょっと分かるかも」
「おまえまで言うのか」
「言うよ。だって透真、何でもない顔してるときに限って、こっちの『言わないでおこうかな』って思ったこと拾うじゃん」
「拾いたくて拾ってるわけじゃない」
「知ってる」
「じゃあ」
「知ってるけど、見つかる側は困るの。……見つかったら、ちゃんとしなきゃいけない気になるから」
澪菜はそこまで言って、しまった、みたいに口をつぐんだ。
俺はその横顔を見た。
やっぱり今日の澪菜は変だ。
誰かの机に置かれる飲み物。見られることの怖さ。見つかったら、ちゃんとしなきゃいけない気になる。
それらが、ばらばらに見えて、どこかで繋がっている気がした。
「澪菜」
「やだ」
「まだ何も言ってない」
「透真が今から踏み込む顔してるのは分かる」
「おまえも十分見てるだろ」
「幼なじみなので」
「またそれか」
「最強だからね、この肩書き」
澪菜はようやく少しだけ、いつもの調子で笑った。
でもその笑顔の奥にあるものまで、消えたわけではない。
◇
放課後。二年三組の教室を、俺と澪菜は掃除当番のふりをして観察していた。
有馬さんの机は窓側の後ろから二番目。放課後の教室は明るく、海からの斜めの光が机の角を金色にしている。今日は当然ながら飲み物は置かれていない。朝のうちに本人が処分したらしい。
「朝いちで置かれるなら、早く来る生徒か……」
「朝練組、委員会、電車早い組、あとは妙に早起きの人」
「最後のカテゴリ雑だな」
「でもいるじゃん、六時台に学校来ても平気な人」
「まあな」
澪菜は教室の後ろから座席表を見比べながら、ひそひそと話す。その声は自然だ。こういう探りの場面になると、妙に肝が据わる。
「有馬さんの近くにいる子、わりとみんな普通だね」
「普通って言い方がいちばん信用できない」
「ひど」
「いや、悪い意味じゃなく」
「知ってますー」
有馬さん本人は、いま廊下で星彩と話している。困っている様子というより、申し訳なさそうな顔だった。人に迷惑をかけていると思ってしまうタイプなのだろう。
俺は教室全体を見回す。
机の天板の傷。椅子の引き方。教科書の残り方。水筒を持ち帰る人、置いていく人。今日に限って言えば、何か強い悪意の痕跡はない。
そのとき、澪菜が小さく「あ」と言った。
「どうした」
「これ、さ」
澪菜が指したのは、教室後方の掲示スペースだった。
「飲み物置かれてる日、毎回、放課後の係表のマグネットが少しずれてる」
「……ほんとだ」
黒板脇の係表。マグネットが縦に並ぶその一つが、他よりわずかに右へ寄っている。普通なら気にも留めない程度だ。けれど、毎日同じなら癖になる。
「なんで分かった」
「私、こういう整ってないの気になるタイプなんで」
「初耳だな」
「透真が人ばっか見てるから、物の話する機会なかっただけ」
そう言って笑う澪菜の顔が、少し誇らしげで、少し寂しげだった。
その表情の意味を読みかけて、やめる。
今は目の前だ。
「誰かが係表を見に来てるってことか」
「もしくは、わざと触ってる」
「置く相手の席と係、何か関係あるのかもな」
「有馬さん、図書委員だって」
「図書……」
その瞬間、朝の封筒の文面と、未開封の飲み物の選び方と、本人が騒ぎたくないという態度が、頭の中でひとつに寄り始めた。
好意はある。たぶん悪意は薄い。けれど、相手の距離感をうまく測れていない。さらに、わざわざ見つかるように置いているというより、「置けば伝わる」と思っているタイプ。
だとしたら、犯人は不器用だ。かなり。
「透真?」
「たぶん、相手は自分が怖がらせてるって分かってない」
「それ、いちばん面倒なやつでは」
「面倒だな」
「面倒だね」
二人でうなずいたとき、廊下から足音がした。星彩だ。
「何か分かりましたか」
「まだ確定じゃないですけど、少し」
「そう」
星彩は教室に入ってきて、係表を見た。俺たちが気づいたズレにもすぐ気づく。さすがだ。
「このズレ、毎日です」
澪菜が言う。
「有馬さん、図書委員なんですよね」
「ええ」
「たぶん犯人、図書室利用者の可能性あります。直接話せないけど、好意はある。で、飲み物の選び方が雑」
「最後の情報、必要?」
「わりと」
星彩は少しだけ考え込み、それから静かに言った。
「実は、有馬さん、図書室でよく話す一年生がいるそうです。最近、少し元気がなくて気にしていたと」
「一年?」
「男子生徒です。名前はまだ聞いていません」
「ほぼ答えでは」
「決めつけは早いです」
星彩の言葉は正しい。
俺はうなずいて、教室の机をもう一度見た。有馬さんの机には、他の机よりも少し多く、消しゴムのかすが残っていた。落ち着かない人間は、無意識に手を動かす。たぶん本人も、この一週間ずっと困っていたのだろう。
困らせたいわけじゃないのに、困らせてしまう好意。
それは少し、朝の澪菜の「見つかったら、ちゃんとしなきゃいけない気になる」に似ていた。
「……明日の朝、見張るか」
「正攻法ですね」
星彩が言う。
「正攻法しかないだろ、こういうのは」
「鷹取くんの口からその言葉が出ると少し意外です」
「何だと思われてるんですか、俺」
「もっと、勘で全部当てる人かと」
「そんな超能力者みたいな」
「違うんですか?」
澪菜が横から言った。
「違う」
「えー」
「えー、じゃない」
教室に、ようやく少し笑いが生まれる。
大事にするほどじゃない。でも放っておけば、誰かが明日もまた困る。
生活記録同好会の扱う案件は、たいていいつもこんなふうだ。
ただ今日ひとつだけ厄介なのは、目の前の相談とは別に、朝からずっと気になっているものがあることだった。
澪菜の、あの一拍遅い笑い方。
教室を出るとき、俺は何気なく澪菜のほうを見た。澪菜はもうこっちの視線に気づいていて、先に笑う。
「なに、また見た」
「……別に」
「うそ。今絶対なんか考えた」
「おまえこそ」
「私はいいの。幼なじみだから」
その言い方が、前より少しだけ軽くなかった。
校舎の窓の向こうで、夕方の海が光っている。日立の街は、坂の上から見るとやけに穏やかで、全部がうまく収まりそうに見える。けれど実際は、そうでもない。近いからこそ、見えてしまうものがある。見えるからこそ、うまく触れられないものもある。
誰かの机に置かれた飲み物ひとつでさえ、善意と困惑は簡単にすれ違う。
なら、人の気持ちなんて、もっとだ。
俺は窓の外の海を一度だけ見て、それから視線を戻した。
たぶん明日の朝、飲み物の件には答えが出る。
でも、澪菜のほうはまだだ。
そしてたぶん、そっちのほうが、ずっと面倒だ。
そんな予感だけを抱えたまま、俺は放課後の廊下を歩き出した。




