第70話 エピローグ 十二月十日正午
フローディアに車椅子を押して貰いながら、ウィリアムは孤児院の庭に出た。陽の光に当たり、その眩しさに目を細める。
最後の殺し文句が効いたのか、アリシアはウィリアムを選んだ。たちまち水晶が口から肺へ、また皮膚から染み込むように血管へ入り、全身へと傾れ込む。大量の自我意識が意思をこれでもかと生み、打ち消し合い、何もかもが無化された。
眠りたい。目覚めたい。
休みたい。活動したい。
食べたい、何も食べたくない。
そういった反発し合う意思によって、体は何も出来なくなり、ウィリアムは廃人同然となった。この間、フローディアや他の修道女に介護して貰いながら、日々を乗り越え生き延びた。
その間中ずっと、人格が統合されていくに従って、ウィリアムの自我意識が無くならないようにと、フローディアは指輪を嵌めてくれていた。
しかしウィリアムはそのことを心配していなかった。というのも、最終的に人格はこの肉体に定着する。好き嫌いや思考の癖、肉体の持つ感覚など、特有の個性が今のウィリアムを生んだ。もしもアリシアと統合されて、ウィリアムの自我意識が消えたとしても、この肉体を通して出力されるのは、ウィリアムのものに見えるだろう。いや、いずれはウィリアムの自我意識が芽生えるはずだ。
沢山のアリシアが、一人になりつつある。
ウィリアムが回復するには三日ほどの時間が必要だった。今は、頭脳の中に心はウィリアムとアリシアの二つがある。物事によって、どちらかの人格が強く表面に出た。けれどアリシアは遠慮しているのか、それとも必要としていないのか──最近は体の制御権を譲ってくれている。
ある時、彼女はウィリアムの口を使ってこう言った。
「私と向き合ってくれてありがとう」と。
何とも安らぎに満ちた言葉だった。
ウィリアムは車椅子の肘掛けに手を突くと、腕に力を込める。立ち上がると、歩く練習を始めた。まだ本調子ではないが、ある程度の自由が効くようになった。
素晴らしい成果だ、と思う。
「よお、調子はどうだ」ジェイクが顔を見せた。
その隣から、ひょっこりとアズも顔を出す。
あれから、世界は元に戻ったという。人々は当時の混乱を記憶していたが、夢のことだと受け取ったらしい。何せ、殺し合ってはいても、死んではおらず、肉体に傷も残っていないのだ。
とは言え、街は崩壊している。建物は崩れ、飛行船の瓦礫も残されている。夢として片付けるには、些か痕跡が多い。その上で、これは夢だったということにするのだろうか。
今回のことは誰もが知っている、共有する夢として、話題になっている。これもいずれ、世代を交代するとともに、眉唾な話として片付けられるのではないか。過去に目を向けることはあっても、何が真実かはわからないものだ。
何事もいつかは歴史となる。記録は薄れ、いずれ興味も失われるだろう。それでも良いのかもしれない、とウィリアムは思っていた。苦痛など悲劇にして、後世に残してはいけない。
二人に歩行の練習を付き合って貰いながら、事の顛末を説明する。恐らく説明は、フローディアが既に済ませていたと思うが、本人の口から聞きたかったのかもしれない。ウィリアムはそう解釈している。
「ギンティ神父はどうなったの?」
とウィリアムが訊ねると、ジェイクとアズは顔を見合い、二人揃って肩を竦めた。
「王室を名乗る男たちに連れて行かれた」ジェイクが素っ気なくいう。「どうなるかは知らん。きっと、責任を取らされるんだろう」
ずっと追い求めていた断罪をようやく手に入れたわけだ。ウィリアムは少しの間、思案する。彼にこそ、アリシアの統合という役目を任せるべきだっただろうか、と。
人格が統合される時、指輪によって歪んでしまった彼の自我意識は、矯正されるのではないか。そんな想像をするのである。だが、こうして取るべき責任がある以上は、改心などせずに居る方が幸福なのかもしれない。
実際はどちらの方が良かったのかわからないけれど、とウィリアムは心の中で呟く。
「悲しくないの?」と、アズがジェイクに訊いた。
「さあな……少し、複雑な心境ではある」
とジェイクは顔を曇らせる。彼は小さく息を吐いて、気分を切り替えるつもりか、頭を振ると、
「明日ここを発つつもりだ」と言った。「これでも脱走兵だからな。この国には居づらいんだよ」と困ったように笑いながら、頭を掻く。
「あのね、アタシも」アズが自分を指差して、「ジェイクとマジックで有名になるよ。アシスタントとして使い倒すんだ」
「おい」ジェイクがすかさず止める。
「そうか。寂しくなるね」ウィリアムは笑いを噛み殺しながら言った。
「連絡くらいするさ。それに、具合が良くなったら、お前も来いよ。頭の中の女王陛下だって、旅したいだろ?」
「ええ」ウィリアムは頷く。「あっ、今のは彼女の言葉だよ」
アズがにっこりと笑って、「じゃあ、待ってるね」
二人を見送ると、ウィリアムは杖を支えにして、部屋に戻った。ベッドに力なく座ると、キャンバスを目の前に置く。画面は未来のように真っ白だ。
筆を取ると、何を描こうかと思い悩む。まだ手先は器用に動かせない。大雑把な線を引くだけだ。たが、それでも良い。何を描くか、構図を考える。モチーフを選ぶ。それだけで楽しい。
良い悩みが頭の中に広がっていく。きっと、アリシアも追体験しているに違いない。この喜びを、ウィリアムは今一人ではなく二人で共有しているのだ。
これから何をしようかと考えただけで高揚する。
そう感じているのはウィリアムだろうか、アリシアだろうか。
今はまだ、区別がつかない。




