第7話 苦い良薬、甘い毒薬 同日 十五時二十八分
正門から堂々と胸を張って帰宅することが、こんなにも不安を掻き立てられることになるとは、ウィリアムには夢にも思わなかった。本人にも伝わる形で追跡されるのは、酷い気持ちにさせられる。
庭の池には薄氷が張っていた。ウィリアムは見上げて、窓を見つめたが、電気は点いていない。ジェイクはまだ戻っていないのだろうか。
今や鍵など溶かされて使い物にならない。セキュリティなどあってないようなものだ。来るもの拒まずの精神で、この事態と向き合う覚悟を決める。
玄関から中へ入ると、改めて家具がめちゃくちゃに荒らされていた。再び何者かが侵入したのはわかったが、一目見て高価なものだと思える品は、そのまま残されている。つまり、金目のものを狙ったわけではない。この犯行は、もしかしたら、同一のグループによるかもしれない、とウィリアムは思った。
頭に彼らの考えを思い描く。
尾行される間、ウィリアムとジェイクはどう行動するだろうか。街を彷徨いながら、刑事を撒こうとするかもしれない。いずれ、この屋敷に戻るかもしれないし、遠くへ逃げていくことも考えられるだろう。いずれにせよ、尾行されて逃げている、その最中に屋敷を占領してしまえば──砦を築くことができるわけだ。
テーブルや椅子が積み上げられ、壁や遮蔽物となって見えたことから、ウィリアムはそう発想した。
相手は何人だろう、と疑問に思う。二人の刑事と、解剖医を含めた三人は確定している。更に、彼らを脅迫した何者か──彼が殺人犯人と同一人物なのかは判然としないが──四人目の敵対者が居ることは間違いない。
問題は、この家に誰が何人居るのか、ということ。果たしてジェイクは居るのか? 指輪を身につけていても、存在が感知できなかった。
誰も居ないのか、それとも、相手は指輪を外している。だから感応せずに見過ごされているのだ。ウィリアムは警戒しながら、実家を散策する。この家は一人で住むには広すぎる。一人暮らしをしていた母のことを唐突に思い、寂しくなった。
仇を取ろう、とウィリアムは決意する。
突如、左斜め後方から足音が鳴った。踏み鳴らされた音を頼りに、ウィリアムは咄嗟に振り返る。けれど、首筋には銀のナイフ──否、これは、良く見れば医療用メスだ──が突き立てられた。
すぐにこれを取り払ったものの、刺された側の半身に痺れを感じ始めた。やがて、感覚が薄れていく。メスを落として、人影はすぐさま家具の内に隠れ込んだ。
室内でゲリラ戦を繰り広げるつもりなんだ──ウィリアムは恐ろしさよりも先に、相手の企みを評価する。思わず笑みが溢れそうになって、今はその時ではないと下唇を噛んだ。
メスに何か薬剤を塗ったのだろう、麻痺にも似た症状はおよそ十秒ほどで治った。使われている道具から、相手は恐らくニーナ・アバネシーだろう。イダルタの記憶では、彼女も指輪を持っていたはずだが、一体その力は何なのだろう。
ウィリアムは外套についた露を手で払いながら、瞬時に凍らせた。即席の小さなナイフだ。切り付ける以外にも、熱して水にすることで、顔に投げつければ──上手くいけば──目眩しにもなるだろう。その間に窓から逃げ出した方が良いかもしれない。
ニーナが銃を使わずに、近接での攻撃を仕掛けてくると言うのなら、そうするのもありだ。
「貴方はアバネシーさんですね?」ウィリアムは虚空に向けて話しかける。
返事がないまま五秒ほどして、
「覚えていてくれたのね」ぽつりと声がした。
「イダルタ刑事の記憶を見ました。事情はわかっています。貴方は、人質に取られたから、仕方なく僕を殺さなくちゃならない」
「……そうよ。そこまでわかっているなら、大人しく死んで!」
悲痛に叫び声がして、メスは照明を割った。ガラス片が散らばって、ウィリアムの元に落ちてくる。腕で庇うと、隙を見計らったように懐へとニーナが入り込んだ。
ウィリアムは氷のナイフを熱湯にして、ニーナの顔に浴びせる。が、彼女の差し向けた刃が右腕を引っ掻いた。
「うっ」と呻いたのはニーナだった。
ウィリアムは窓へと駆け出すと、勢いよく開け放ち、身を乗り出す。
「──ゔぐぅっ」
背中から胸にかけて、冷たいものが貫いたような感覚があった。前に倒れ込みながら、庭先へともつれこむ。ウィリアムはうつ伏せに、背中に腕を回した。メスが突き刺さっている。
窓から脱出することも織り込み済みで、罠が仕掛けられていたようだ、と分析した。
痺れが全身を支配する。身動きが取れない。その場で無様にもがきながら、立ち上がろうとしたが、ままならなかった。
「指輪の力は唾液よ──傷口に塗られると、麻酔薬のように感覚を奪って、行動を阻害するの。この力の良いところはね、指輪を身につけなくても、予めメスに塗っておけば良いと言う点よ」
ニーナは窓から顔を覗かせて、こちらの様子を窺っている。
「でも、効果はそう長くはないのよね。もって十秒……」
良く見れば、彼女はメスを構えていた。投擲しようと試みている。そう悟り、ウィリアムは焦った。
ふくらはぎに力が掛かった。
メスが突き立てられたのだろう。
今のウィリアムの姿勢ならば、そこを刺そうとするのは当然だ。
ニーナが外へと出た音が聞こえる。
「……悪いわね」
背中越しに声を掛けられ、ウィリアムは地面の雪を手掴みし、勢いよく寝返りを打った。驚きに目を見開くニーナは、一瞬、動きを止めた。
やることは同じ。
顔に水を掛けて、視界を奪う。異なるのはそこから──彼女の首筋に手を当て、熱を加える。熱い血潮が全身を火傷させたのだ。肌が急激に赤みがかり、ニーナは悲鳴をあげる。ウィリアムはすぐに手を離した。その時には既に、彼女は気絶していた。
荒れた呼吸を、立ち上がりながら、整えていく。
「こうするしかなくて、申し訳ない」ウィリアムは謝った。
防刃チョッキよろしく固められたズボンも、温められて柔らかくなる。メスはそっと地面に落とされた。これを見て、
「ほんのちょっぴり刺さってたのか、危なかった……」と、ウィリアムは少しばかり恐ろしくなった。
「上手くいって良かったな」
話しかけられて、ウィリアムは肝が冷えた。イダルタが、いつの間にか眼前に立っている。外套も髪型もくたびれていた。
「アバネシーを殺したのか?」彼は指輪を身に付けながら訊ねる。
「いいえ……気絶しているだけです」
「そりゃあ良かった……」イダルタはふう、と息を吐き、「で、どこまでお前さんにはこちらの手の内は知られているんだ? まだどうにも力のことが飲み込めなくてな……」
「家族を人質に取られて、脅迫されている。それから、皮膚をゴム状に変化させられる。そうですね?」
「全く、今日は厄日だな」
「お互いに」ウィリアムは同意した。
「指輪にこんな力があるくらいだ。確かに犯人は集めたくて、お前さんの指輪も狙っていたんだろうな。だが、俺たちに支給されていることを思うと、独占したいわけじゃなさそうだ」
「それとも、皆さんの動向を把握できているから、確実に回収できると考えてのことかもしれませんよ」ウィリアムは額についた雪を拭うと、「この会話も、きっと、聞かれているのでしょう?」
イダルタは嘆息した。
「だろうな。だから、捜査をやめなかった俺たちを把握できたし、利用さえしてくれたわけだ」
恐らくウィリアムのことも、ジェイクの存在も相手に筒抜けなのだろう。能力は差し詰め鋭敏な聴覚といったところか──ウィリアムはそう予想した。
「いずれにしろ、どこからか聞かれている以上、出し抜くことは出来んってわけさ。さあ、続きを始めよう。全く、気乗りせんがね……」
イダルタは疲れたような声で、ウィリアムを睨んだ。




