第6話 追憶の廻り道 同日 十五時二十分
厚ぼったい雲が空を覆い、辺りは微かに暗くなった。次第に雪が降り始め、街の灯りに照らされて、浮かぶように舞い降りてくる。
ウィリアムは体温を調節したお陰もあって、寒さなど感じない。行き交う人々の口許から、白い息が出て見える。急激に冷えたようだ。イダルタが、背後から殺意を向けてくるせいもあるだろう──背筋が凍るようだった。
ジェイクとは既に別れている。彼はまた別の道を通り、屋敷へと戻る手筈だった。ジェイクを追いかけて、バルパは姿を消した。このため、ウィリアムの元にはイダルタ一人が尾行している。
これからどうしたものか、とウィリアムは考えた。一先ず、通行人の居る道を選んで歩かなくてはならない。もし仮に、人通りがなくなったなら、イダルタは真っ先に意思表示をしてくるだろう。拳銃やナイフを使うのか、それとも彼の指輪特有の力を用いるのか……そこから先までは想像がつかない。
ともあれ、指輪が付近にいる装着者の存在を明らかにしてくれるのはありがたかった。今、イダルタは十歩程度後ろを歩いている。それと分かるだけでも行動が取りやすい。間合いを測ることが可能であり、わざわざ振り返って確認する必要がないのは、非常に助かった。
ウィリアムはそうして得た思考の余裕を、計算に充てる。まず、頭の中で地図を開き、自宅までのルートを考えた。通行人の有無に対応できる、柔軟な進み方を確認する。
それから、もしもイダルタと格闘する羽目になったらどうするか、を想定した。相手はプロフェッショナルだから、基本的に真正面からでは勝ち目などない。更にこちらの手の内は知られている。その上でどうにか対処しなくてはならない。
考えながら、人が通っているか、時折り確認していく。
「目撃証言を集めなくてならない」誰かの声。
ふと、思考回路に邪念が挟まった。この目眩するような、奇妙な流入には心当たりがある。指輪同士、感応し合っているのだ。
ウィリアムにとっての自分という意識、心という枠組みが溶かされ、一瞬、無我になる。
「ここは嫌に教会が多いな」とイダルタは頭を掻いた。
寒空の下、バルパと二人で煙草を吸いながら、遠くを見つめる。
「向かいの住人は神父姿の男だと言ったが、候補が多すぎる」ずらりと並べられた名前の列を眺めながら、イダルタは顔を顰めた。
「ですね……しかし、これは地道にやっていく他ありませんよ」とバルパが返す。
「俺は中央大聖堂と蒼晶教会に行く。お前は純映教会へ行ってくれ」
「了解です」
「葬儀には間に合わせるぞ。冥土の土産にしてやろう」
目は開いていたが、ウィリアムには何も見えなくなっていた。想像の世界に浸っている時に良くあることだが、記憶の流入は強制的にそう感じさせるらしい。
身も心も他人となってから、唐突に自分自身へと帰ってくる。この強烈な体験が違和感を振り払う間もなく浴びせられるため、慣れる気がしなかった。
頭を抑え、酔いに耐えるべく、大きく息を吐く。
と、眼前から人の姿が消えた。
いや──記憶に引き摺り込まれている間に、通行人は居なくなっていたのだ。
瞬間、何かが脇腹を貫く。
鋭い痛みが肉を抉った。
「ぐっ」と歯を噛み締めて堪えると、早足で道を変える。路地を通り、追跡を確認しつつ、人を探した。雪のためか、時間のためか、誰もが帰路に着こうとしているようだ。点々と灯りが増えていく。
そんな中、向こうから傘もささずに歩く男女の二人組が歩いてくる。彼らは、指輪を身につけていない。
ほっと安心して、傷口を押さえる手を退かして見てみれば、血が出ていた。道端には、真紅に濡れた弾丸が落ちている。それも、雪に洗われていく。
撃たれたのか? 考えたが、銃声などしなかった。そうではない。彼は拳銃を使うまでもなく、発射したのだ。皮膚を伸ばして、弾丸を引っ掛けたのだろう。指を離せば、スリングショットのように、弾だけが射出される。これならば音も出ない。威力なら──折り紙付きだ。
痛みがじわじわと感じられる。舌打ちしたい心持ちだ。だが、一息ついて、努めて平常心を心掛ける。
「紳士的にいこう」と、ウィリアムは自分自身に言い聞かせる。
屋敷まではもう少しだ。
と、再度意識が薄れていく。痛みのためではない。指輪の仕業だ。
「くそ……」
──やり過ぎたのよ、イダルタ刑事……。
女の声が頭にこだまする。
「どう言うことだ、ニーナ」とイダルタは訊いた。
場所は中央大聖堂──ステンドグラスの女神像に見下ろされて、イダルタはバルパを伴って、赤毛の解剖医と話し込んでいる。
白衣ではなく黒く澱んだ外套を着込んだ彼女は、俯くようにして僅かに目を細め、
「世の中には知ってはならない事柄もある、ということよ。いいえ……厳密に言うなら、知らない方が良いことがある、とでも言えば良いのかしらね」
「何が言いたい!」
牙を見せて、今にも噛み付かんとして見えるイダルタを、バルパは隣で抑えた。ニーナはそんな二人に冷ややかな視線を向け、
「捜査中止の命令は出ていたはずよ。アンダーソンのことなんて見捨て置くべきだったの。だから、私も……ああ、水晶……」彼女はステンドグラスに向かって苦しむように頭を垂れ、「イダルタ刑事。貴方には小さな娘さんが居たわね?」イダルタに向かって訊ねる。
「それが何だってんだ」
イダルタは狼狽えた。それから、とニーナはバルパに首を曲げる。
「貴方には若く美しい婚約者が居る……そうね?」
「待て──待ってくれ。どうして彼女のことが出てくるんだ!?」
イダルタから手を離し、バルパは解剖医に掴み掛かろうとした。が、彼女は片手で静止のジェスチャーを作ると、首を緩々と横に振り、
「私に危害が加えられれば、彼女達の命は保証できなくなる」
「この……腐れ野郎!」イダルタが吠えた。「お前がやったんだな!」
「アンダーソン家の事件なら、私じゃない!」ニーナも叫ぶ。「ただ、警告するよう言われたのよ……」
「誰からだ」バルパは冷静に訊いた。
「……それを言えば、彼が殺されるわ」
「彼って?」とバルパ。
「私の、夫よ。この会話は、全て聞かれてる」ニーナは呟くように言い、「ウィリアム・アンダーソンを殺して。相手は、そうしたら解放してくれるって」
そうして彼女はポケットから指輪を二つ取り出した。一つをバルパ、それからイダルタへと手渡す。不可解に思い、イダルタはニーナを睨みつけた。
「これは贈り物よ。身につければ後のことはわかるはず。どう使うかは、貴方達次第だけど」
イダルタは手に収められた指輪をぼんやりと見つめる──
ぼうっとした頭を振り払い、ウィリアムは現実に戻った。刑事二人は、人質に取られた。相手の要求は、自分を抹殺すること。だから、イダルタ達は矛先をこちらに向けざるを得なかったわけだ。しかも、解剖医をも利用して。
理解すると、犯人に対して怒りが芽生えた。だが、今はこの場をどうにかしなくてはならない。感情を後のために置いておいて、気分を切り替える。
問題は、恐らく屋敷に持ち越されるだろう、とウィリアムは想像した。このまま何もなく帰ったとして、二人の刑事が大人しく立ち去るとは思えない。籠城戦になるだろう。
やがて、道を曲がると屋敷が目に入った。
ジェイクは先に戻って待っているだろうか? ここからでは感知できない。ウィリアムは依然として付いてくる刑事に辟易としながらも、正門を開け放った。




