第41話 水晶の街 同日二十時四十五分
体に異変があった。ただ立ち尽くしているだけなのに、姿勢が大きく傾く。
また、息も少しだけあがっていた。足にも疲労感がある。これは一体何なのか、わからない。
指輪のために、寒さといった温度変化の感覚は失われている。体温は自在に調整できるし、これに付随して、物の温度も変えられた。が、その代わりに気温の変化を感じ取れなくなった──情報を得るための感覚器官が衰えた、とも言える。何かを得れば、何かを失うということか。
「さあ、目を開けてください」
命令された時、アイリスは、もう開けて良いのか、と思った。それほど短い間に感じられた。だけれど、目を開けた瞬間、視界に広がった景色は、この世のものとは思えないほどに鮮やかだった。
海を連想させる、青一色でそこは染められている。どこを見渡しても、青かった。
天井があるため空はなく、月明かりなどどこにも光源はない。それなのに、僅かな光を反射して、ここは真昼のように青く輝いていた。
言うなれば、そこは街である。
けれど、不思議な色彩感と天井の存在が、この考えを不気味に否定した。
アイリスは呆然としながら、好奇心で以って確かめるべく近づく。街を構築する青色が何なのか──染色したなら、これは芸術作品なのか、などと予想しながら、手に触れる。
陶器のように滑らかな質感。透き通っていて、仄かに向こう側が見える。つまり、建物の上を氷のようなもので覆ったように見えた。
「違う、氷じゃない……」アイリスは自分の手を見る。そこに嵌められた指輪を見つめる。「水晶、ね。ここは、水晶でできた街なんだわ」
自分から出てくる言葉が信じられない。本当にそんなことがあり得るのだろうか。現に、それは目の前に存在している。アイリスの直感に反していた。街ごと水晶と化するなどあり得るはずがない、と。
全てまやかしなのではないか。しかし触れることができる。確かに水晶だ。と、何か冷たいものが体を貫く。
人が居り、女王が居り、商人が居た。人々が生活する、長閑な街の暮らし。アイリスにはそれが見えた。感応したのだ、と直感する。これはこの街に刻まれた当時の記憶なのだ。
突如として、地下から雪が溢れ出る。瞬く間に空を白く染め上げた。雪は結晶の粒となり、幻想的に青く光りながら、落下する。この時、街に冬が訪れた。その雪は水晶で出来ている。雪の冷たさが人々を凍らせ、やがて時間をも止めた。
誰も何も言わなかった。ただ、無念の声だけが心の内に留められている。
こんなことが昔、ここで起きた。
アイリスは理解する。
涙が溢れ出た。アイリスは自分の中に生まれた無念の声を聞き、しゃくりあげるほど慟哭する。
これは自分の感情ではない。そう冷静に分析する自分の存在を、アイリスは見た。感情と意思が分離している。肉体が、水晶に乗っ取られたみたいだ。
女王がアイリスの肩に触れる。
途端に、悲しみは露と消えた。
「古代の人々は皆、意識を統一していましたから、こういった大きな災害には対処に時間がかかりました」と女王は静かに話す。
彼女はアイリスに背後を向け、街を見つめた。風も音もない。静寂だけが二人の隣に佇む。
「彼らは、一つのことに集中すると、他のことに注意が向かなくなるからですね?」アイリスは訊いた。
女王陛下はこちらに首を向けて、
「その解答は正しくもあり、誤ってもいますよ──古代の人々は、一つの自我によって複数の肉体が束ねられていました。ですが、注意力という点では、意識は一つよりも複数あった方が良いのです。ですから、自我によって直接的に制御できない時のために、意識はそれぞれの肉体に宿っていました。謂わば、『並列意識』とでも呼びましょうか」
その話を聞いて、アイリスは目紛しく思考の回転が始まった。今までは、手足を動かすように、自分一人で肉体を全て操るものと考えていた。だから、読書に集中する時、周囲の音が聞こえなくなるように、注意によって感覚は遮断される。これが弱点だと考えた。
このため、彼らにはそれを補うための安全装置があるだろうと予測を立てた──それが、擬似精神という仮説である。アイリスが考えたのは、もう一つの自我だった。自我は、精神と肉体を結びつける。だからこそ、肉体を自律制御させるためには、自我的なもの──つまり精神や意思と言ったものが浮かび上がるだろうと考えていた。
だがどうだろう……。実際には自我を増やす必要などなかった、ということになる。
何故なら、支配者である主人格を脅かすような存在が生まれてはいけないからだ。
「まさに」と、女王が首肯する。
「へ?」アイリスは呆気に取られた。自分の記憶を辿る。指輪の補助もあって、すぐに理解した。「あっ、無意識のうちに口にしてましたか……お恥ずかしい……」
「彼らにもまさに、同じことが起きたのです」
「それは……?」
「臣民の裏切り」と、女王は微笑する。「いえ、それとも、契約の瑕疵だったと言うべきでしょうね」
彼女はふっ、と火を吹き消すように息を吐いた。その瞳には憂いを帯びている。自分と同じものを見ているはずなのに、きっと、別の何かを捉えているのだ、とアイリスは何故かそう思った。
「そろそろ、次の段階に移りましょう。必要な条件は達成されました。貴方とは、今度はミレアさんとして、また会いましょうね」
女王陛下は寂しげな表情で、水晶を両手で持ち上げる。いつ、それを拾ったのか分からない。それはまるで禁断の果実のように見えた。
「それは……?」アイリスの問いに、
「主人格、です」女王陛下は答える。「さあ、仕切り直しましょう。全ての人は、一度忘却し、またやり直すのです」
陛下が水晶を掲げた。それは、人の頭蓋──水晶髑髏だった。
「待って!」ミレアは叫んだ。
気が付けば、ここは聖堂の中。隣にはモートン神父が座っている。動悸が激しい。止め処なく涙が溢れてくる。自分は、五年前の過去から戻ってきたのだ。
沢山のことがあった。何故、それを忘れていたのだろう。
「思い出しましたか?」神父が訊ねた。
ミレアは静かに、何度も頷く。
二年前に亡くなった父との会話も。擬似精神仮説や、並列意識について。ジェイムスという青年と、ハンター家が絡む、連続切り裂き事件のこと。また現在住んでいる屋敷が、ハンター家のものであったことも。
「全く、昔の私は、命知らずだったようです」ミレアは涙で滲む世界を見つめながら、微笑んでみせた。「まさか、あそこまで思慮が浅かったなんて……」
「そうでもありませんよ」モートン神父は鼻息を漏らし、首を振る。「恐らくそうなるように、全ては回っているんです」
「どう言うことですか?」
「運命だってことですよ」
「まあ……それはロマンチック」ミレアは静かに笑った。
「いいえ。そうでもありません」神父は暗い顔だった。




