第40話 声 同日二十時三十七分
モートン神父はアイリスを教会に連れ、降ろすと、肩を借した。彼は念を入れて、扉は閂で閉めている。アイリスは椅子に腰掛けると、足の具合を確かめた。切り付けられている。自分の観察が確かなら、それは爪によるものだ。
心臓が痛いほど強く打ち付けている。僅かに目眩も感じた。息を整える。
「大丈夫ですか?」神父に訊ねられた。
アイリスは足から顔を上げる。「ええ、何とか……」
そう言って、ポケットから指輪を取り出した。恐ろしい時や、不安な時のお守り代わりである。
「アンダーソンさん、その指輪……」
「え?」言われて、アイリスは指輪を見つめた。「ああ、これは父から貰ったものなんです」
水晶と言えば、信仰対象にもなるほどの国宝である。それを忘れていた。見れば、神父の指にも同じ──水晶で作られた指輪がある。
「悪いことは言いません」とモートン神父は言った。「その指輪を嵌めなさい」
「どうしてですか?」
「どうして?」モートン神父は呆気に取られた表情で固まる。「えっと、アンダーソンさん、貴方は一度もその指輪を嵌めたことはありませんか?」
「ありません」
「成る程」と彼は頷いた。
何が成る程なのだろう、とアイリスは思う。
「傷が癒えますよ」神父は苦笑して、「信じられないと思いますが」
アイリスは小首を傾げた。指輪をじっと見つめ、右手に付けてみる。
寒さが消えた。驚く間も無く、沢山の情報が雪崩れのように入り込む。この指輪の能力のこと、目の前に立っている神父の、指輪の能力が脚力の向上であること。教会の外で倒れるジェイムスの指輪の能力が、何もかもをも切断してしまう爪であることも。
また、指輪を嵌めていれば、傷が癒やされることの意味も理解した。全ては一瞬のこと。仮初の世界から戻ってくると、アイリスは遅れて、瞬きする。
現実へと戻ってきた。とは言え、ぼうっとした時間は一秒にも満たないだろう。
「意味が、わかりました」アイリスは驚愕の心持ちではあったが、意図して微笑むことができた。そっと息を吐くと、「神父さん」
「何でしょう?」
モートンはアイリスの斜め前にて、棒立ちで立っている。手を伸ばせば届く位置だ。けれども、彼は瞬時にその場から離れることが可能だろう。
アイリスがジェイムスの人質となっていた時のことだ。ジェイムスは、突如として吹っ飛ばされたようだったのを思い出す。それは、神父が彼の元へ瞬間的に近づき、蹴り飛ばしたからだ。全て、この指輪のお陰だったということか。
「まずは、その、助けてくださってありがとうございます」
「ああ……いえ、お構いなく」神父は口許を緩める。「それで、続きは何でしょうか?」
「知りたいことがあります。ジェイムスの言っていたことです」
「そうでしょうね」
「彼の言う仕事とは……何ですか?」
はあ、とモートン神父は溜め息を吐いた。困ったような笑みで、床を睨んでいる。
「教会は、とある機関と対立しているのです」彼はおもむろに話し出した。
瞬間、扉が開け放たれた。
アイリスは驚いてそちらを見やる。神父も同じだった。もしかしたら、と想像する。ジェイムスが起き上がったのかも、と。だが、そうではなかった。
「それは我々のことですか?」
そこに立っていたのは、ヴィクトリカ女王陛下その人だった。他には誰も居ない。彼女一人だった。それがまた、異様さを引き立たせている。
アイリスは、そしてモートン神父は、酷く動揺した。何故、こんな場所に──こんな時刻に、高貴なあの御方が居るのか?
いや、それよりも、どうやって扉を開けたのだろう。誰も入ってこないようにと、閂をかけたはずだった。陛下は外に居たのだから、外せたはずはない。入り口を見れば──そこに閂は消えて無くなっていた。
と、アイリスは自分の傍らに掛けてあった何かを倒したらしい。足が当たったようだ。音を立てたため、それに気が付く。意識を奪われるがままに、そちらへと目をやった。そこには、扉にあったはずの閂がある──落ちている。
「あり得ないわ……」アイリスは思わず呟いた。
女王陛下は悪戯っぽい目でアイリスを見つめると、視線を外し、
「確かに貴方の言う通りですね、モートン神父。我々はどうやら、対立しているようです。何とも不本意なことに」神父に向けて慈愛のこもった眼差しを向ける。
「な──」神父は口を開けたまま、絶句していたが、我を取り戻すと、苦々しい顔になった。「ええ、その通りですね。私たちとしても、貴方と対立するつもりはありません」
「でも、我々はお互いに不信感を抱いている」
「全てを貴方に任せて良いものか、測りかねるものですから」
緊張した様子の神父と、リラックスした声色の陛下が、見つめ合っている。アイリスはその間で、蚊帳の外だと思いながら、二人を眺めていた。
「彼らはだから、私の子どもたちを殺して回っているのですよ、アイリス・アンダーソンさん」
唐突に女王陛下から言われて、アイリスは面食らった。何の話だったのかと必死に頭を働かせる。
「もしかして、ジェイムスが言っていた仕事って……」
連想したのは、連続切り裂き事件。ジェイムスが切り裂き魔であり、女王陛下の言う子どもたちとは、被害者のことを指すのではないか。
「そう」陛下はこちらを見て、片目を瞑って見せた。「この国は秘密を抱えている。それは、私一人では抱えきれないものです。ですから、ね? 後継者が必要なんですよ」
「でも、その後継者が居なくなれば、貴方一人で抱えなくて済むようになるのですよ」神父は言った。
「それが、貴方の考えですか? 王家に権力を持たせたくないから、という理由ではなくて」
神父は女王の問いに首を振った。
「確かに、教会の中にもそういったことを考える連中は居ます。だが私は、そうではない……。この、人の手に余る力をどこの誰にも預けたくない。全ての人から遠ざけたいのです」
「ふむ……」女王陛下は目を細めて、鼻先に指を当てる。「面白い人ですね。では、貴方も運命に加わりませんか?」
「え……?」神父は目を瞬かせた。
陛下は彼の元に近づくと何事か耳打ちする。神父の顔に驚きの色が広がり、やがて、天を仰いだ。苦悶の表情で、
「ああ、水晶よ……」と祈る。
「どうしますか?」女王は訊いた。
「息子たちが、それで助かるのなら……」神父は頷く。
「一人は、悪名を背負うことになります」
「それでも無惨な目に遭うよりはマシです」彼は唇を強く噛み締めたらしい。一筋の血が顎へと流れていく。
アイリスには何が起きているのか、何も理解出来なかった。ただ意味もわからずぞっとしている。それでも、二人の間で重大な取り引きが交わされたことだけは理解した。その深刻さも含めて。
「ありがとう」と女王は言った。礼を告げられて、神父は静かに涙して、頭を下げている。
女王陛下はどこから取り出したものか、水晶の冠を頭に被った。そうして、再び神父の耳元で何かを囁く。ふと、彼は驚きに目を瞠ったかと思うと、糸が切れたように椅子に腰掛けた。瞼が閉ざされている。まるで突然、生き絶えたかのようだった。
「彼なら生きていますよ」と、アイリスに向けて陛下は言う。「今起きたことは、秘密にしてくださいね」
「秘密……」アイリスは言葉を繰り返した。
「目を瞑ってください」
声に従う。抗う術は無かった。
「今から、貴方にこの国の秘密をお見せしましょう」




