第39話 魔の手 同日二十時三十分
全身の毛が逆立つのが分かった。逃げなくてはならない。アイリスは向きを変えて、覚束ない足を一歩前へ出す。血が、勢いよく体中を駆け巡っていて、その摩擦のためか、寒さを感じない。
遠ざかるために歩き出した。次第に、足を早める。
何が起きた? 分からない。頭の中が混沌としている。理解するために、整理しなくては。
つまり、彼が──ジェイムスこそが、切り裂き魔だったというのだろうか。しかし、ではあのイヤリングは何だったのだろう。何故、遺体の元に落ちていたのか?
半月のイヤリングは、ジェーンのものだろう。身につけていたことからも、それは見て取れる。もしも量産品であれば、彼女が身につけていたのは偶然だった可能性もゼロではなかった。
だが、彼らはそんな言い訳をしなかったのである。その上、ジェーンは片方にしかイヤリングをしていなかった。これは、偶然と片付けるには無視できない符合と言える。
それから、ジェイムスはジェーンを指して、「かあさん」と呼んでいた。彼は他に、ハンターという男が、若い女性を妻にしたことも説明している。その相手こそが、まさにジェーンなのだとしたら。ジェイムスとジェーンら二人の関係は、義理の親子ということになる。つまり、義理の母だということか。
ふくらはぎに鋭い痛みが走った。静電気に触れたような感覚だ。突然力が抜けて、足がもつれる。しかし、走っている勢いは殺せていない。顔面から地面へと近づいていく。アイリスはとっさに腕を突いた。
ふくらはぎを見る。脛の辺りから、白く半透明な、三日月型の欠片が突き出ていた。つまんでみると、指の腹を切ったらしい。指先からも出血する。
鋭利なようだ。今度は触れる部分に気をつけて、それを取り除く。確認してみて、よくわかった。これは、人の爪である。
理解して、アイリスは叫び出したくなった。
背後を見る。ジェイムスの姿は遠く、小さく見えた。彼は、ゆっくりとした歩調でこちらを見据え続けている。
彼がこちらに向かって、何かをしたのだ。だが、これは一体……何なのだろう。
爪をその場に捨てると、アイリスは立ち上がった。ふくらはぎから脛にかけて貫通したらしく、冷たい風が傷口に触れる。それが堪らなく不快だった。
足を引きずって走る。まだ、理解が追いついていない部分も多い。ジェイムスが犯人であることは分かった。また、彼はハンター家の人間なのだということも。ならばジェイムスは、アイリスを連れて自宅を紹介したことになる。
理由は何だろうか。イヤリングを気にしていたのだとしたら、あの場で取り上げてしまおうと考えたのかもしれない。それとも、脅すことで、どこまで知っているのか把握しようとしたのだろうか。もしかすると──場合によっては、あの場で殺されていたかもしれない。
いずれにせよ、彼らしくない、短絡的な判断だと言える。いや、軽率だったのは、イヤリングのことを話した自分の方だったか。そもそも自分はどこまで相手のことを理解していただろうかと、アイリスは自身に反論する。
彼について、苗字を知らなかったではないか。これも、大学という環境でだけに終始するような、上辺の付き合いが問題だったのかもしれない。もし彼がハンターという姓であることを知っていたならば。彼があの屋敷に住んでいると知っていたならば──いや、もっと早くに口封じされていただろう。
むしろ、自分は、知らなかったからこそ生かされていたのかもしれない、とアイリスは思った。
ジェイムスの言ったことはどこまで本当のことだったのだろう。その判別は付かない。脂汗が額に滲み、頬を伝った。
酷く寒い。
あの時、好奇心に釣られて外出すべきではなかった、と後悔する。自分は死ぬかもしれないと思うと、顔が強張るのがわかった。
振り返り、ジェイムスの位置を探る。彼は、想定よりも近くに居た。手が届く範囲ではない。けれど、走れば追いつかれるくらいの距離だ。それなのに、ジェイムスは未だ歩いたまま。余裕を演出しているのか、それとも別に企みがあるのかもしれない。
考えれば考えるほど、不安が募っていく。
逃げ切るにはどうすれば良い?
自宅へ逃げ込めば、中まで彼は入ってこれないだろう。ただし、そこまで辿り着く前に、追いつかれるだろうと思われた。ならば、その手前にある教会に逃げ込むべきかもしれない。先ほど、そこの神父と出会ったのだから、まだ居るかもしれない。彼に保護して貰えれば安心だ。
アイリスはまだ希望があると信じ、口元を緩める。
瞬間、足から力が抜けた。無事だった方の足──その膝から、爪が生えている。爪が涎を垂らしたように、遅れて鮮血が溢れ出た。そして、鋭い痛み。
アイリスは悲鳴をあげた。全身から汗が噴き出たせいで、寒く、外套の内側は蒸している。
立ちあがろうとあがいたが、足の筋肉が千切れるような痛みに耐えかねて、諦めた。
薄暗い道路を視界いっぱいに収めながら、這いずって進もうと決める。かなり緩やかな進みだ。涙が溢れて来る。泣くのを堪えようと息を止めた。
こつ、こつ、という音。
規則的な固い音が、背後から徐々に近づいてくる。
足を掴まれた。後方に引き摺られる。腹部が地面に擦られ、僅かに痛かった。
「やめて」アイリスは言う。「やめて……」
どこへ連れ去ろうと言うのだろうか。来た道を引き返していく。両腕が尻尾みたいに、力なく地面に引き摺られているのを見ていた。自分の足から出たのだろう血で作られた轍を、腕はなぞっていく。
「何をしているんだ君たち」
不意に男の声がして、アイリスは顔をあげた。涙で滲んでいたから、相手が誰なのか、顔は見えない。
「アンダーソンさん?」と男が言う。
モートン神父だ、と直感した。
「助けてください……」アイリスは涙声で訴える。
「僕のことは無視してください、神父様。これも、教会のためですから」ジェイムスが言った。
「彼女は違うはずだ」神父が訊く。
「ですが、僕の正体を知りました」
途端に、足が落とされた。地面に叩きつけられて、アイリスは小さく呻く。ジェイムスの手がアイリスの頬を撫で、顎を触れ、首に当てがった。
「貴方が、自分から正体を明かしたんでしょう……」アイリスは必死に抗議する。
「いいや、本当はあの後に、実は全て嘘だったんだと言って、君をパーティに参加させるつもりだった。サプライズだよ、サプライズ。それが本来の計画だったんだよね」ジェイムスの爪が伸びた。皮膚が隆起し、細胞が移動する様を見て、気持ちが悪く感じる。「そうそう、このことはご両親にも事前に伝えているから、君のことは心配していないはずだから、安心して欲しい」
「嘘よ」
「あぁああ全く、企画倒れだよなー、本当に。イヤリングになんて気付けるわけないじゃない。それなのにさあ、君、おかしいんじゃないの? どうしてそんなに調べたがるわけ? 知ってどうするのさ。僕らの仕事を知ったら、崇高な信念を理解してくれるの?」
異様なテンションだった。ジェイムスは声を制御出来ていないのか、僅かに荒げている。アイリスの首を、何度か指で軽くノックした。その最中、爪が地面に刺さり、まるで泥を掻くように抉り取る。
「その子から離れなさい」とモートン神父が諭すような口調で言った。「その子が可哀想だろう?」
「どうしてですか。もう死ぬんですよ、この人は」
アイリスは絶句する。モートン神父は一つ、足を近づけた。
「冷静になりなさい。君は仕事に忠実だったはずだよ。こんなことをして、君は教会の泥を塗ることになる」
「そんなはずない!」ジェイムスが興奮する。「僕は……僕は、これでも頑張ったんだ。やりたくなかったけれど、それでも、僕は──ううっ、僕は……うう、うぅうう──」
今度は泣き出した。首が彼の指から解放される。しかし、それにしても彼の情緒が不安定だ。アイリスは空恐ろしくなる。
「殺したくなんかなかったよ──ぅぐッ」
体が軽くなった。ジェイムスが居なくなったからだ。彼は、モートン神父に蹴り上げられていた。だが、先ほどまで彼らの間に距離が開いていたはず。それが、この一瞬で、近づいていた。
アイリスはモートン神父に無理やり抱き起こされる。神父はアイリスを抱えると、一度ジェイムスを見やった。
「この場を離れましょう」それからアイリスに微笑すると、「教会に向かいますよ」と、そう囁く。




