第37話 殺人鬼の館前 同日二十時十分
見上げれば、美しい星空がうっすらと見える。冷たい空気が霧となって、視界をぼんやりとさせていた。ガス灯のお陰で、道の先の様子はよく分かる。けれど、女性が一人出歩くには、少しばかり危険だったかもしれない。
肌寒さが頭を冷やした。今思えば、断るべきだったと思う。しかし、今更後には引けない。行くしかないだろう。
指定された場所は、ここから徒歩で十五分の距離だった。数時間前に訪ねた、礼拝堂より先でジェイムスは待っている。
歩きながら、例えばこのタイミングで自分が襲われたらどうしよう、と考えた。やはり判断を間違えたかもしれない。アイリスは僅かに不安になる。
十分ほど歩いて、礼拝堂を越えた。誰か見知った人物と出会えたなら、この恐れも消えてなくなるだろうに、と考える。
「アンダーソンさん?」
不意に声を掛けられた。アイリスの喉から悲鳴が上がる。すぐに口元を手で押さえたので、それほど大きな音は漏れていないはずだ。恥ずかしい、とアイリスは赤面する。それまで悲鳴などあげたことは無かったのに。
もしかすると、悲鳴をあげる練習が影響しているのだろうか。ならば、効果はあったわけだ。
相手は誰だろう、と確認する。白いモヤの中から、男が顔を出した。
「モートン神父?」アイリスは訊ねる。
「ええ、そうです。こんな時間に何をしていらっしゃるのですか?」
「ええと、お出掛けからの、帰り道です」咄嗟に嘘を吐いた。
「治安が良くなってきたとは言え、やはりまだ一人で出歩くのは良くありませんよ」神父は眉を顰める。
「その通りだと思います」アイリスははにかんで、頭を下げた。「少し予定より遅れてしまって……。すぐに、迎えが来るはずですから」
「そこまで一緒に行きましょうか?」
「もうすぐそこですから、大丈夫です。大丈夫ですから!」
少しわざとらしかっただろうか、とアイリスは思う。神父の顔を見るに、あまり納得した様子ではなかったけれど、首をゆるゆると振って、
「まあ、それなら……仕方ありませんね。気をつけてお帰りください」
「お気遣いどうもありがとうございます」
アイリスは逃げるように、小走りに走った。
彼の姿が見えなくなった頃に、足を止め、そうっと息を吐く。道を曲がれば、目的地だった。
指定された場所には、確かに館らしきものが聳えていた。どうも中が騒がしい。パーティを開いているようだ。入り口には次々と自動車が集まってきて、客足が途絶えない。我が家でも似たような光景をアイリスは見たことがある。
館から視線を外すと、壁にジェイムスか背中をもたれ、待っていた。こちらから近づくと、相手も気付いたらしい。
「来たか」と、口を緩める。「ほら、あの屋敷だ」
アイリスは一度、横目にちらりと見つめ、「立派な屋敷ね。どこが疑わしいの?」
「あそこには医者が住んでる。ハンターという老齢の男なんだが、知っているか?」
アイリスは首を振って否定した。
「知らない?」ジェイムスは驚き、「最近、若い女を娶ったんだぜ」
「医学部じゃないもの。知らないわ」アイリスは首を傾げてみせる。
「そうか……なら、付いてきてくれ」
ジェイムスは壁から離れ、歩き出した。アイリスはその後を追う。
「ハンターという男は、外科医として有名なんだが、解剖医でもあるんだ。ほら、あれを見ろ」
二人は館の周りを移動し、裏口に回った。そちらにも、ひっきりなしに自動車が入っていく。しかし、それは単なる車のようではない。
「霊柩車……?」アイリスは呟く。
「そう。解剖のために、死体を届けさせているんじゃないかって噂だ」
「その噂って、医学部で流れているの?」
「その通り。良い推理だ」
「嬉しくないけど……」アイリスは口を曲げた。「それじゃあ館の主人は、パーティを開く裏で死体を届けさせているのね。確かにこれは、奇妙だわ」
「そうだろう?」誇らしげに、ジェイムスは片方の眉を持ち上げる。
アイリスは少し考えた。
もし仮に、ハンターが犯人ならば、彼は死体を必要としていることになる。だから、殺人を犯すわけだ。けれど、切り裂きジャックは、被害者たちは外に放置している。これはおかしな話だ。
そう、ジェイムスに指摘する。すると、彼は人差し指を振って、
「違う違う。逆かもしれないだろう?」
「逆?」少なくとも、裏でも対偶でもないということだ。
「そう……奴は、殺人者なのではなく、死体を外に遺棄したのさ」
「ああ……成る程ね」
死体が欲しかったのではなく、死体をどこかに捨てたかった。だから、殺した結果死体を作ったのではない。まず先に死体があった。これを、外に放置したのだ、と考えたわけだ。
つまり、流入経路が逆になる。
「死体はどこから持ってきているのかしら」ふと気になった。
「これも噂だが、墓地から、だろうな。あそこなら、無料で新鮮なものが手に入る」
「墓暴きね」
これは、考古学を揶揄した蔑称だった。遺跡の発掘を快く思わない者が、そう発言する。
「そうだな」と彼は、ずっと館から目を離さずに、同意した。「……少し、潜入してみよう」
「えっ、今から?」
「それ以外にあるか?」
今は何時だろうか。両親に、無断外出したことを悟られるかもしれない。これが気がかりだった。これ以上長くここに留まるのは避けたい。
「だが、気になるだろう? こんなにも、疑わしい状況証拠が揃ってる。それにだ、もしも俺の仮説が正しければ、切り裂き魔など居ない──だから、恐れる心配もないってことになる。その上、もし奴が犯人でなければ、それはそれで良い」
「どうして?」とアイリスが訊くと、
「彼の無実が証明されるだろう?」
「あ……待って」
「何だ?」ジェイムスは不思議そうな顔を浮かべる。
「イヤリングよ。そう、思い出した」
アイリスは遺体から、半月のイヤリングを見つけたことを説明した。遺体の耳を確認したところ、穴は開いていない。このため、イヤリングは被害者のものではないかもしれない、ということも含めて。
ジェイムスは微かに驚いたような顔になり、顔を館に向けた。厳しい表情に変わる。
「それがどうしたんだ?」
「犯人は女性かもしれない」アイリスは答えた。
「或いはこうも考えられる──」ジェイムスは片目を瞑り、こちらに顔を戻す。「他の遺体のものと混ざった、とかね」表情は既に和らいでいた。
「そうね……可能性はゼロじゃない」
「確かめなくて良いのか? 検証しなければ、仮説は仮説のまま──机上の空論さ。何事も確定しなければ、そうだろう?」
アイリスは下唇を噛んだ。悩ましいけれど、ここまで来たのであれば、調べるべきかもしれない。既に危険は犯している。今更帰ろうと、後になろうと、家を脱げ出したことに変わりはないのだから。
アイリスは無言で頷く。
「そうこなくっちゃ」
ジェイムスはニヤリとした。




