第34話 殺人鬼との縁 同日午前七時半
その後、警察官が二人ほど現れて、現場を封鎖した。更に数分後、ロンダニア警視庁の刑事が現れる。彼らから幾つか質問を受け、身許を確認後、すぐに解放された。
頭がぼうっとしている。刑事の質問も、殆ど覚えていない。ジェイムスが代わりに答えていたのを思い出す。気が動転しているな、とアイリスは他人事のように感じた。精神がまるで肉体から抜け出たみたいだ、と。
大学に着いた頃には、授業も始まっていた。教授や多くの学生がこちらを見つめる中、アイリスは教室に入る。今は、彼らの視線などどうでも良かった。
「勉強大好きなアンタが遅刻なんて珍しいね」
隣に座っていた女学生が言う。彼女とは同じ学部で、時々会話する仲ではあったけれど、名前は知らなかった。
アイリスは素直に頷く。「ちょっとね……」それ以上の言葉が思いつかない。
「顔が白いよ、大丈夫?」相手は心配そうな顔になる。
「大丈夫よありがとう」アイリスはなんとか微笑むことができた。
どうやら頭の中にまで霧がかかってきたようだ。授業の内容が、今回ばかりは入ってこない。意識は全て事件のことに向けられていた。
あれは、本当に切り裂きジャックの仕業なのだろうか、そこを検証する必要がある。共通点はあった。切り傷などの特徴が、新聞で読んだものと同一である。被害者が女性であるという点も一致している。確か、娼婦であると言っていたが、そうなのだろうか。外見からは判別できない。
それは、今回のことが一連のものと同一であるかについても言えた。何者かによる、模倣ということもあり得るだろう。
つまり、同一犯によるものであると断定はできない。ああ、刑事さんに訊いてみれば良かった──と、今になって思う。
そうだ、イヤリング──もう一つ忘れていた。
遺体から見つけたイヤリングのことも、話し忘れている。後で言わなくては……。ただ、信じて貰えるだろうか? 後になって付け足したように話すのである。考えようによっては、証拠品を捏造したように見えはしないだろうか。自分が犯人であるか、または犯人を庇うために、偽物の証拠品を届けに来たと思われてしまう可能性がある。
これは考え過ぎだろうか?
そう、それに、自分は切り裂き魔に見られているかも知れない。警察に向かったことで、目を付けられる。今度は自分が狙われる。そう考えられるのではないか。
不安と興奮とが渦になって頭に蠢いている。
強烈なエネルギーであるため、制御できない。
精神が勝手な動きをしている。魅入られた。まるでそんな感覚だ。事件の方からアイリスの手足を掴み、捉えている。囚われてしまった。
巻き込まれた──アイリスはそんな気がした。
授業が終わり、教授が出ていく。学生たちの姿もまばらになり、教室は閑散とし出した。
この後も授業が予定されている。他の講堂へと移動しなくてはならなかったが、どうもそんな気にはなれない。外は既に、嘘のように霧が晴れている。だがどうも、そう簡単に気分を切り替えることは出来ない。
一人で抱え込むのは難しい、と感じた。
大学を抜け出して、近場の教会へ向かう。平日の午前中ではあったが、聖堂には幾人かの姿が見えた。
彼らは熱心な教徒なのだろうか。アイリスはあまり信心深い方ではない。ただ、危機に陥った時に、多少信仰心は芽生える。そんなだから、バチが当たったのかもしれない。と、そう考えるのはとても非科学的だな、と思うアイリスだった。
原色に輝くステンドグラスを虚ろな意識で見つめる。卵型の大きな白いものを、女性が抱えていた。抱いているのは赤ん坊に見える。けれど白布に包まれていて、顔は見えない。何かの象徴だろうか。ガラスの亀裂が赤ん坊を角ばらせている。
そこまで考えて、あれは赤ん坊ではなく水晶なのだ、と思い出す。水晶教の有名な説話ではないか。忘れているなんて、相当堪えているのだろう。
〝世界は水晶に始まり、水晶は最初の乙女を産んだ。乙女は水晶に命を見出し、人類を創造した。〟
この世界は最初、水晶で出来ていたのだという。そこから乙女と呼ばれる女性がまず最初に生まれたのだ。彼女は女神だとか、人類の母だとかも言われている。アイリスは彼女のことをどうも解釈していない。ただこれがあって、この国は女性をトップとするようになったのだとも言われていた。つまり、女王陛下はこの乙女に擬えられている。
アイリスは息を吐いた。それは白く染まり、微かにその場に留まったが、やがて薄れて消えていく。
気付けば周囲から人が居なくなっていた。時計を見て、既に二時間も経っていたことを知った。
「何か悩み事があるようですね」
男の声がしたと思えば、神父が隣に座る。比較的若く見えた。彼はここの人間なのだろう。アイリスは微笑むと首肯した。それから俯いて、今朝のことを話す。
イヤリングを見つけたこと。そしてこれを警察に渡し忘れたことも含めて。
「なら、私が代わりに渡してきましょう」と、男が手を差し出す。
「え……?」アイリスはびっくりして目を瞬かせた。「貴方が?」
「ええ」さも当然だと言わんばかりに彼は返事する。
「失礼ですが、貴方は……」
「私はローレンス・モートンです。どうか信用してください、お嬢さん。貴方に危害が加えられないよう、私が代わりに行きましょう。そうですね、刑事さんから訊かれるかもしれないので、貴方の名前をお伺いしても?」
アイリスは少し躊躇ったが、名前を言った。それから、イヤリングも手渡す。モートン神父はこれを受け取ると、ゆったりとした動作で腰を浮かした。
「では、行ってきましょう。貴方はここで待っていてください──」正門から出ていきかけて、振り返る。「ここは安全ですから」




