第33話 微睡み霧中 一八九〇年十二月五日 午前七時
アイリス・アンダーソンが考古学を専門に決めたのは、父の影響が強かった。
彼、トーマス・アンダーソンは遺跡調査の第一人者であり、数々の発見をしてきた有名人である。周囲には幾つかのオカルトな噂も流布されていたが、概ね高く評価された人物であり、アイリスにとっても自慢の父だった。
何より、彼から聞かされた楽しい話は、どれもアイリスの好奇心をこれでもかと沸き立てた。ロンダニアの地下深くに眠る遺跡から見えた古代人は、今の人類とは異なっている。その生き方・有り様が、とても奇妙なのだと。
「彼らは全員と肉体の感覚が繋がっていたらしい。だから、自分と他人との境界が曖昧だったんだ。つまり、誰もが自分だったということになる。
彼らには娯楽というものはなかった。あるとすれば、それは他人の体を追体験すれば良かったようだ。例えば子どもになって遊ぶことも、女性となって舞を踊るのも自由だった。彼らは一つの自我を共有して、複数の体から得られた感覚を楽しんでいたようだね。つまり、暮らしがそのまま趣味のようなものだった、快楽に繋がっていた、というわけだ。
それから──専門職というのはなかった。ノウハウは共有されていたからね。ただ、やはり何をするにしても適した体つきというのはある。鍛治職人をするなら屈強な方が良い、というようにね」
アイリスにとって父の語る古代人の様相は不思議で、どんな謎よりも魅力的だった。知れば知るほどにミステリアスに感じられる。
特に、アイリスが不思議だと思ったのは、壁画についてだった。彼らの自我は一つである。そして、多数の肉体を保有していた。ならば、各自が物事を記憶していただろう。自我意識は、それらを繋いで、記憶を橋渡ししていたと考えられた。
もしそうであるとしたら、記録する必要はない、ということになる。であれば何故、
「彼らは壁画を残したの?」
問われて、父は嬉しそうに困った顔になった。そして、こう言う。
「わからない」と。
〝わからない〟──
これほど魅力的な言葉があるだろうか。この瞬間、アイリスは魅入られてしまったのである。知りたいという純粋な気持ちが考古学へと足を運ばせたのだった。
この日は、濃い霧が出ていた。一歩先に人が居ても気付けないだろう。ある程度近づいてようやく、人影を認識する程度だ。こんな日でも馬車は普通に通り過ぎる。かなり危険ではあった。しかしそれもロンダニア市国においては日常茶飯事である。
歩き慣れた通学路にて、アイリスは考え事に沈殿していた。
古代文明について、遺跡について、また発掘技術について、様々な知識を得るたびに、自分の中から仮説が思い浮かんでいく。生まれては反論し、消し去った。理解とは反論が尽くされた時にのみ得られる。だからどれだけ魅力的な仮説でも、否定されてしまえばそれまでだ。
アイリスはぶつぶつと考え事を呟いていた。これは無意識のもので、自覚するのは難しい。この日も、知り合いのジェイムスから肩を叩かれ、指摘されて初めて気付いた。
「今度は何を考えていたんだ?」ジェイムスが訊ねる。
彼は同じ大学ではあるものの、学部が違かった。医学部生だという。同級生で、年齢も同じだった。
「壁画についてね、また新しく思いついたの」アイリスはぼうっとした眼差しを空に向けて答える。「彼らは記録する文化がなかった。ということは、外部の人間──例えばそれは、私たちのような後世の人々も含めた相手に対して向けられたメッセージだったのかもしれない、って」
「何か伝えたいことがあったと?」
「そう。でも、それが何なのかは絵を見てもわからない。文化がまるで違うから、私たちの認識と彼らの意図が食い違っている可能性もあるから」
「へえ、面白いな」
「そうよね!」アイリスは興奮して、その場で跳ね上がった。「そう、そうなの。かなりミステリアスでしょう? 何人もの人が調べたのに、それでもわからない。でも過去は必ず存在していて、何があったのか、事実は確定しているはず。なのに、輪郭も掴めないだなんて……かなり面白いことだわ」
捲し立てるアイリスに、ジェイムスはくすくすと笑う。「楽しそうで何より──ん?」
ジェイムスが何かを蹴ったようだ。彼が足を止めたので、アイリスも立ち止まる。赤い何かが、足元に転がっていた。屈み込んでよく見てみようとと思ったが、ジェイムスに手で制される。こちらを見て、首を横に振った。
「見ない方が良い」
言われて、思わず覗き込んでしまう。好奇心が勝ってしまった。その赤いものは変色したワンピースのようだ。元は白かったのだろう。まばらなグラデーションを彩っていた。
服装が見えてから、ようやくそこに倒れているものが人だと理解できた。仰向けに倒れているらしい。揺れる霧が捲れて、顔が目に入った。苦痛に満ちた表情。赤黒い亀裂が喉と腹部に走っている。息をしていない。目は白く剥いていた。
それはかつて人だったものだ。魂と言える生命活動が見られない、人の形をした物体だった。
急速に体が冷えていくのを感じる。恐らく、不吉だからだろう。死体を見て、一瞬、アイリスは自分の死というものを想像してしまった。
それが、自分に沸き起こった恐怖の正体なのだろう。それとも、古代人と似た性質を持ち合わせているのか。つまり、自分も彼女に感応してしまった、ということなのかもしれない。
恐怖が喉を詰まらせた。叫ぶようなことは出来なかった。叫べば、誰かに通報してもらえたかも知れない。
目の前に広がる光景が、現実であるとは信じられなかった。無惨な人の死が、こうも簡単に起こって良いはずがない。
しかし、と冷静な自分の一人が思い出す。これは、二週間前から騒がられていた、教会地区の連続殺人と似通っているではないか、と。三人いた被害者はどれも女性。体のどこかを切り刻まれているのが特徴だという。その連続殺人鬼を、新聞社は切り裂きジャックと呼んでいた。
つまりアイリスはこの日、ジェイムスと共に、そのうちの一件を発見したことになる。
犯人──切り裂き魔はまだ、この近くにいるかも知れない、という危機感が頭に芽生えた。叫ばなくて良かった、そう安心する。しかし、警察を呼ばなければならない。どこからか電話を借りなければならないだろう。かといって、一人になるのは恐ろしい。
お守りにと父がくれた指輪に手を触れる。それはロングスカートのポケットの中──水晶でできた不思議な指輪。
「電話を借りてくる」とジェイムスが言った。「君はここに居てくれ」
不安だったが、この場は急いだ方が良いと思い、アイリスは止めなかった。何しろ、足が竦んで動けそうになかった。
彼が霧に消える。瞬く間に辺りが静かになった。
自分の早まる鼓動だけが聞こえて煩い。
どれだけ経ったものか、時間の感覚が薄まっていた。
「あれ?」
遺体の衣服から何かが黄色く煌めく。触れて良いものか迷ったけれど、気になって仕方がない。恐怖や緊張が体を縛りつけたように硬化させる。だが、それ以上の好奇心がアイリスを動かした。
恐る恐るしゃがみ、ぎこちない手つきで衣服を捲る。それはトパーズのイヤリングだった。半月を表しているらしい。落ちているのは片方だけ。もう片方を探してみたが、どこにも見当たらない。
拾い上げ、まじまじと見つめる。女物だ。遺体のものだろうかと思い、耳を確認する。しかし、どこにも穴を開けた痕がない。つまり彼女のものではない。
犯人のものではないか。
これは、犯人が身につけていたものではないか。
アイリスはそう直感し、身震いする。
「通報してきた」と霧から突如、ジェイムスが顔を出した時、アイリスは心臓が破裂しそうに感じた。「大丈夫?」
アイリスは思わずイヤリングをポケットに仕舞い込み、首を横に振る。「大丈夫」
「えっと……どっちなの?」ジェイムスは困った顔になった。




