第3話 活動開始 同日 〇九時十二分
ロンダニア警視庁へ赴き、受付で用があると伝えて名乗ると、奥へ行くように言われた。通された先は死体安置室。扉を開ければ既に先客がいて、白衣を着た赤髪の女が、こちらに背を向けて立っていた。
足音を耳にしてか、彼女は振り返る。
「貴方がアンダーソンさん?」ハスキーな声だった。
「ええ」と、簡単に答える。
それから、視線を彷徨わせた。ロッカールームのように並べられた引き出しのどれかに、母は眠っているのだろう。そのうちの一点を見つめて、ウィリアムはそう思った。
「私は解剖医のニーナ・アバネシーです。受け渡しに必要な手続きがあるので、書類にサインをお願いします」ニーナはポケットからペンを取り出し、ウィリアムに手渡す。
「分かりました」
「これが、受け渡しの同意書。この部分に、お名前を書いてください」
医者はキャスター付きテーブルに一枚の書類を置いた。
と言って下部を指し示されて、ウィリアムはペンを動かした。医者は書類を受け取ると、サインを確認し、小さく頷く。ふと、彼女は母の死体を見たのではないかと思った。
「母の体に、何か不審な点はありませんでしたか?」
重たげな瞼越しに、黒目が書類からウィリアムに移る。ニーナの目は再度書類に戻され、
「……傷口のまわりが不自然にかぶれていました。恐らく溶けたのではないかと思います。何がそうさせたのかは分かりません。剣でも銃でもないでしょう。曲線を描くように貫く形の傷になっていましたから」
「ふむ……」ウィリアムは唸った。「一つ、荒唐無稽な仮説があるのですが」と断りを入れると、「例えば、強酸か何か──物を一瞬で溶かすようなものをホースのように放水することで、ああいった傷を作ることはできませんか?」
女医は目を瞬かせた。二秒ほど沈黙し、
「そもそも、酸では人を貫くことは出来ませんよ。……それに、人を溶かすほどに強力な酸を放水できる丈夫なホースなどあるでしょうか」
反論されて、ウィリアムは口許を緩めた。
「そうですね。……ああ、今のは聞かなかったことにしてください」
「いえ。面白い話でした」
安置室を出ると、ウィリアムはふう、と息を吐く。
もしも犯人が指輪の力を持っていたなら、あり得たのではないか。例えばそれが、強力な酸を放出するようなものであるならば──
考えてみてから、やはり、それは非現実的な話だと思い直す。また、溜息が溢れた。
母の居ない実家で、机に向かいながら、ウィリアムは無心で鉛筆を走らせる。自宅から原稿を持ってきていたのだ。締切は近づいている。出版社のためにも、作家のためにも、遅らせるわけにはいかなかった。それ以上に、今は何も考えたくないとも思っていた。
時計の針の音が規則正しく鳴る。
それに合わせて、鉛筆の滑らかな音を、リズム良く鳴らしていく。呼吸も一定になり、心拍数も落ち着いていった。
真っ白な世界に線を引く。
輪郭を浮き上がらせると、ウィリアムには生命の息吹が聞こえた。これに耳を澄まし、汲み上げていく──人物を、景色を、物語を。
やがて書き込みを終えると、ウィリアムは真っ白な思考の世界から帰ってきた。すると唐突に居ても立っても居られなくなり、そのまま家を出る。行く先は真向かいの家。戸をノックすると、家主が現れたのは間も無くのこと。老婆──バートンはウィリアムを見て、
「まっ」と、ぎょっとした顔で、「そんな薄着じゃ寒いでしょう。ほら、早く中へお入りなさい」と、扉の前で半身になった。
驚かれて、ウィリアムも驚く。指輪を身につけて以来、寒いと感じなくなっていたのだ。そういえば、部屋に居ても暖房器具を付けていない。
指輪は人の体温を操作でき、その延長で、物の温度を上下させられる。だからその必要がなくなっていたのだ。自分は今、温度という概念から離れていたのである。
「お久しぶりねえ、ウィリアムちゃん」バートンは玄関を閉めて言う。
「ええ、お久しぶりですね」
「貴方が家を出てから、もう何年になるのかしら?」
「五年になります」
「あらま。時間が経つのは早いわね」とバートンは言いながら、ちょこちょこと足を動かして、リビングルームまで先導した。「先日は気の毒だったわねえ。さあさ、座って、ね。焼きたてのスコーンがあるのよ。食べて行って」
「どうもありがとうございます。……じゃあ、お言葉に甘えて」
安楽椅子に腰掛けると、ややあってから、バートンがティーカップとスコーンとを、トレイに乗せて持ってくる。彼女は腰を折るように座りながら、同時にトレイをテーブルに置いた。
バートンがウィリアムを見つめる。何事かとウィリアムもまた見つめ返した。
「さあ、遠慮なさらないで」何をやっているの、とでも言いたげな目で、食べるようにとジェスチャーする。
「では、ありがたく。頂きます」
フルーティな紅茶の匂いを楽しみ、一口啜る。
まろやかな優しさが舌の上で広がった。
「とても美味しいですね」ウィリアムはにっこりとして言う。
「温かくて美味しいものは、何よりの栄養だもの。お気に召して良かったわ」老女は微笑むと、小動物のように両手でスコーンを持ち、サクッと小気味良い音を立てて頬張った。それから指で唇を拭き取ると、「それで、何か私に聞きたいことでもあるのかしら?」
「ええ……実を言うと。先日、ここに刑事さんが来ましたよね?」
「そうね」
「その時に話したことを、僕にも教えて頂きたいんです」
「あら。捜査の手伝いをするのね?」
ウィリアムは苦笑いした。「まあ、そんなところです」
「良いわよ。昨日の夜のことだったわね。時間は詳しく覚えてないけど、確か二十一時頃だったかしら。悲鳴が聞こえたのね。それで、どうしたのかしらと思って、気になったのだけど、ほら、物騒な世の中でしょう? 怖くて、様子を見に行けなかったのよ」
「実際に、侵入者が居たわけですからね」
「怖いわ……」バートンは一度、肩を震わせた。「それでね、じっと窓越しに見ていたの。そうしたら、神父さんみたいな人が、正面から出ていくのを見たわ」
「神父みたいというのは、格好がそう見えたということですか?」
「ええ」
「どんな顔だったかは、覚えていますか?」
バートンは顔を振って、
「いいえ。窓が結露していてね、ぼやけていたの。だから、顔まではわからない。でも、貴方よりも少し背が高そうね。それから、細身だった」
「成る程」ウィリアムはカップを持ち上げて、紅茶の匂いを嗅いだ。「貴重な情報ですね。彼がその後、どちらの方向に歩いて行ったか、覚えていますか?」
「いえ……」
「他に何か気付いたことは?」
「うーん」バートンは顎に手を当てて、考え込む様子を見せたが、「ごめんなさいね、それ以上のことは、ちょっと……」
「いえいえ。充分ですよ。それに紅茶、ご馳走様でした」
「あら、スコーンは食べていかないの?」
「ふーむ」ウィリアムは考えて、一つ掴むと、「持ち帰っても良いですか?」と訊いた。
スコーンを齧りながら、ウィリアムは帰路を歩く。
いつの間にか思案に浸っていて、目線は地面に埋まっていた。今日は実家の方に泊まるつもりだったから、自宅には帰らず、このまま来た道を戻っていく。
と、視界の隅に人の足が見えた。
「アンタがアンダーソンさん?」
ウィリアムは首肯しながら、顔を上げる。
相手は、長身の男だった。長い髪を後ろでまとめ、小さな尻尾を作っている。彼はウィリアムの指に目を留めて、
「おっと、そりゃ不用心だぜ。指輪はそのままにしちゃいけない。前任者も気をつけていたはずだぜ……記憶はまだ見ていないのか?」
「えっと……何が何ですって?」
「そうだな──」
男はポケットから指輪を取り出した。それはウィリアムのと同じ、水晶から出来ている。これを男が嵌めた。その瞬間、情報が流入してくる。
〝彼の名はジェイク・ギルバート──年齢は二十八歳、孤児院で育ち、成人の後に軍人に。脱走の後に今に至る──この指輪は爪を自在に伸ばし、何でも切断させる──〟
記憶の濁流に目眩を覚え、ウィリアムは思わず指輪を外した。
「そうそう。それが賢明だぜ、アンダーソンさん。この指輪は他の指輪と感応するからな。相手のことがわかる代わりに、こちらの情報も送っちまう。……それにしても、アンタ、あのウィリアム・アンダーソンさんかい……。『水中舞踏会』に『水晶を抱く乙女』だろ、俺も見たぜ、あれは良かった──」
「貴方は、一体……」
記憶に酔ったウィリアムは、呻きながら訊ねる。ジェイクは途端に顔を顰めて、
「あー、それなんだが、本当はアンタの母君に用があったんだ。まあでも、この際アンタでも良い。頼む……俺を匿ってくれ!」




