第27話 Break-Down,Break-Up その二 同日十七時二十三分
ジェイクは今、仰向けに倒れて、天井を見つめていた。目の前の何もかもが赤い。これは血だ。吹きかけられて、目を封じられたのだったか。
……唾が乾いて、何だか臭い気がする。最悪だ。
それにしても、と思う。体が動かない。後頭部と肩甲骨も、壁と激突したせいで痛んでいる。とはいえ骨を折ったような感覚はなかった。ただ、筋肉が悲鳴をあげている。きっとこれが原因だ。
「どうしたボカ・チコ、立ち上がってみろ」と少佐が言う。
「違います、カンディルです」ウィリアムが訂正した。
「くそっ……」ジェイクはため息混じりに、「こいつらにも聞かれてんのかよ」
腕に力を込める。なかなか難しい。何とか寝返りを打ち、地面を押し上げるようにして、重力に抵抗しようとした。産まれたての子鹿みたいに、手足が震える。なんてざまだ。ジェイクは歯噛みする。
息を整えると、痛みは和らいだ。指輪のお陰だろうか。手足の先は、少しばかり痺れている。
「どうしたどうした、ギルバート。さあもっとこの時間を楽しまないか!」少佐が幼子のようにはしゃいだ。
「ふざけやがってよお……」ジェイクの中で何かが切れた音がした。「何が楽しくて野郎共と殴り合いなんかせにゃならん。ああ、くそったれ運命め、ああ良いぜ、とことんやってやるッ、てめえらまとめて海の藻屑にしてやるよ!」
爪を弾丸のように飛ばすなどという、柔な戦い方はもう終わり。これから先のことは、ただ純粋な力の発露──暴力の圧倒だ。
ジェイクは切れていた。挑発されたから、というのは関係がない。今の状況を振り返ってみて、ひたすらに理不尽だと怒りが芽生えてきたのだ。
思えば、どれだけ幸福になろうとも、そのやり方を押し付けてくるのだけは我慢ならない。余計なお世話だ。自分で選ぶこと、自分で人生を構築すること。それが貴いのではないのか。
確かに体が多いことは便利かもしれない。確かに自分と言えるものが増えれば自由かもしれない。だがそうした選択肢を選ばないことも、それが許されることも幸福の一つなのではないのか。
いや、理屈なんてどうでも良い。
「押し付けがましいんだよ、テメェらはよお!」
爪を伸ばし、闇雲に切り掛かった。最早相手の命など考えている余裕はない。制御できない激情が己を支配していた。
この国では紳士的であれ、淑女であれと謳っている。己を殺せ、己を制御しろ、慎ましくしろ。そうした思想の押し付け、枠に嵌めてこようとする力──権力というものにまで、この怒りは及んでいるようだ。
自覚して、そう心のどこかで分析したが、もうどうだって構わない。関係ないのだ。すべきは眼前の障害を取り除くこと。
ハワード少佐も、ルーパスも、その顔色は青褪めていた。それがとても爽快だ。
壁に爪を突き立てて、横に走らせる。異様な音を立てて少佐の顔面へと向かった。彼は寸前で体を逸らし、何とか回避する。
「はははははっ、殺す気か!」少佐は訴えた。
「今すぐその口を閉ざしてやる!」
少佐は床に這いつくばると、指で地面を抉り、棒を作り出す。即席の槍を用意したようだ。彼はジェイクに向けて放ったが、簡単に切断してやる。
ルーパスも少佐も、戦慄していた。何せ、十枚の爪が入り乱れている。それは不規則な軌道を描き、いつ自分の肉体に触れるものか予測できない。触れたら最後、たちまちこの身から分離してしまうだろう。
ウィリアムはジェイクの背後に居るので、無事だった。だが身動き取れないのは彼も同様だっただろう。自分からは何も見えないので、実際のところはわからない。今やどうでも良いことだ。
ジェイクは少佐の真上に爪を差す。円を描き、天井の一部を落とすつもりだった。爪で規制線を張り、中に閉じ込める。天井から瓦礫が落下した。少佐は腕を伸ばして防ぐ。
すかさず、ジェイクは爪弾を発射。それぞれ胸から膝まで、ばらつきながらも被弾する。
「ぐっ」少佐は声をあげて倒れた。
ジェイクは一歩近づく。
少佐は体を起こし、面白そうに見つめ返した。
「俺に殺す覚悟がないと踏んで喧嘩を挑んだんだろうが、少佐……これは想定外だったな……?」
「私は嬉しいぞ──成長したな、ギルバート。貴様は我が隊に相応しい!」少佐はピストルに手をかける。「だが水晶を吸引すれば、その体は無用! 決して死なせはせんから安心しろ!」
ジェイクは途端に、全身に走り抜ける危険信号に毛を逆立てた。反射的に爪を伸ばしたは良いが、殺してはいけない、と理性が叫ぶ。
一線を越えれば、自分も化け物になるぞ──
「やってみろ!」
ジェイクは咆えた。
──その時だった。
ぱしゃん、という気抜けするような音がジェイクにまとわりついた。僅かにだが、酒の匂いが充満する。
「それ以上動くな、少佐」
ウィリアムの声だ。ジェイクは振り返ろうとしたが、ウィリアムに押さえつけられる。
「何のつもりだよ」と訊いたが、答えはない。
ジェイクは息を呑んだ。
「少佐、貴方の目的は仲間を増やすことですね。そのために、僕と彼を引き入れようとしている。でも、そのために撃ち殺すというのなら、そうはさせません」
ジェイクの耳元で何か擦れ、弾ける音。
僅かに熱を感じる。
まさか。
まさか──
「この店のマッチです。バーならば用意されているだろうと思って、カウンターへ向かったのですが、濡れてしまっていて……。困ったなあと思っていたんですけどね、テーブル席の方にも置いてありましたよ」
「何の真似だ」と少佐が訊いた。
ルーパスも目を細め、事態を見守る。
「少佐。ピストルを置いてください。でなければ、彼を燃やします。そうなれば彼は水晶が吸えなくなる。……お分かりですね?」
既に室内には酒が充満している。自分だけに留まらず、部屋全体に引火するのではないか、とジェイクは思った。
やはり、戦闘となるとウィリアムはタガが外れる。いや、そうではないのかもしれない。元々柔軟だった発想が、時に非常識と思える行動を誘発させるのではないか。仲間であるはずの自分に牙を向けるのも、この交渉が成立すると見ての決断なのだ。
だとしても異常だ、とジェイクは怖くなる。
対して、少佐は興味深そうな顔を浮かべていた。
「君はやはり正気ではないな」
「もう良いのではないでしょうか?」ルーパスが進言する。「データはもう取れましたし」
「データ?」ジェイクは人質にされながら疑問を口にした。
ルーパスはこちらに顔を向けて、頷く。
「我々は全員、水晶で繋がっている。だが、指輪を身につけた場合、どんな作用が起こるのか、どんな不具合があるのか、そこまでは把握し切れていなかったんだ。この戦闘はね、ジェイク。そのための検証だった」
「多くの注目が集まっている」少佐はピストルを床に置いた。「といっても、我々は一つの個だから意識も一つしかないがね。今回の件で、極めて重要なことが判明した。集中してしまえば、身体感覚を共有していても、情報を見逃すということだ」
「マッチ棒のことですね」ウィリアムが確かめる。
「その通り。ギルバートが自棄になるのは偶然だったが、君はこれを上手く利用した──我々がそちらに意識を向けていた隙を見計らったのだな?」
「暇を持て余していたので」
少佐が可笑しそうに笑みを溢した。「やはり君は面白い。分かった、降参しよう。君たちのことは諦める。それに、感応していては気分が悪いだろう。この地区を離れることにしよう。遠ければ、水晶が反応することもあるまい」
ジェイクの元からウィリアムが離れる。少佐は立ち上がると、服についた塵を取り払った。
「また会おう」そう言って、階段へと足を運ぶ。
「ま、待て!」ジェイクは呼び止めようとした。「逃げる気か? 責任を取れよ、少佐ァ!」
少佐は振り返ることなく扉から出ていく。ジェイクは歩こうとしたが、もう限界に近づいていた。酔いも回っていたのかもしれない。
いずれ、警察が彼を追うだろう。勝ち逃げさせるつもりはない。それはエドワード・ゴーシュと、アズのためにもだ。
「いつか絶対に、取っ捕まえてやるからなぁ!」
気力を振り絞ってジェイクは叫んだ。
静寂がその後に続く。
もう、目の前は赤く染まっていない。




