第16話 目と指 同日正午
時は戻り、待合室でフローディアを待っていた時のこと。案内が用意してくれた紅茶を飲んで、何とは無しに窓を眺めていた。その先には庭園がある。この季節であるから花は咲いていないが、春から夏にかけては色鮮やかに彩っていたものだ。
その中央に聳える一本の大樹。ジェイクは昔、幹から枝先へ登り、玄関を通ることなく部屋に入ろうとしたことがある。門限を越えていたから、修道女に見つかりたくなかったのだ。窓からはルームメイトが協力しようと手を差し伸べていて、入室まであと僅かというところで、転落。
枝が折れたのが原因だった。
幸いなことに怪我はない。ただ、大きな物音がして、修道女たちが何事かと慌てて飛び出してきて、事が発覚した。
当然、後に待っているのは説教だ。ただし、叱られたことよりも、本気で心配させてしまったとわかる動揺が相手に見えたことが、ジェイクにとってはショックだった。
今では規律も多少は守る、中途半端な大人になった。そう自覚する。
大樹から目を離した。庭より奥の正門から、視線を感じ、そちらへと移す。
「おっ──」お前は、と言いかけて、隣にウィリアムが座っているのを思い出した。「懐かしいな」
男が立っていた。
ルーパス軍曹だった。彼は、ジェイクと目を合わせると、特に反応を示すこともなく、他所へ歩いて行ってしまう。無事だったのか、と少し安心する。が、もしや水晶を吸わされたのではないか。
一目見ただけでは何もわからない。そこは、不安要素ではあった。
何が懐かしいのか、とウィリアムに問われ、ジェイクは適当な思い出話を引っ張る。黒猫が居た話だ。彼に影響されたから、自分自身も木を登ろうとしたのかもしれない、と今になってその可能性に思い当たった。
ややあって、フローディアが現れ、ウィリアムに講義を開始した。初歩的な内容だったが、重要なことである。知らないよりは、知っておいた方が良い。
指輪にある三つの機能の他に問題があるとすれば、指輪にどんな記憶があるのか、だ。
「ウィリアムはまだ、指輪の記憶を見ていないらしい」
ジェイクがフローディアに説明すると、いや、とウィリアムが遮った。
「それが、さっき見たかもしれないんだ。断片的なものだけどね」
「へえ……どんなものだった?」
ジェイクの他に、気になるという様子でフローディアが小刻みに首を縦に振る。ウィリアムの話を要約するなら、同じ年代のはずだが、過去を思わせるこの地区を母のミレアが歩いていたところ、とある高貴な女性の元へと瞬間移動していた、というもの。
「高貴な女性って……あの御方か?」
ウィリアムは肯定する。
ヴィクトリカ女王陛下。彼の母親もまた、謁見室で会っていたということか。ジェイクは些か驚いたものの、これが何を意味するのか、自分に知り得ないことなのだろう。軍務では──良くあることだった。分業化され、細分化された作業をこなすだけ。
ある程度、これがどのような影響をもたらすのか、は予想できる。そこから派生して、推論を立てることも可能だ。ただし、実質の部分は不明瞭。
何故を問うても答えはこない。それが仕事で学んだことだった。
講義も終わり、孤児院を出る時間となった。別れを惜しむようにフローディアはジェイクの手を握り、
「またいつでも帰っておいで」
「ああ」こそばゆい心持ちになりながらも、ジェイクは簡単な返事をする。「そうする」
「貴方は無茶をするから……体を大事にね」
口を歪めて応じた。心配するな、という意味だ。ウィリアムも修道女に挨拶をして、正門を出る。何気ないつもりで左右を確認した。右の曲がり角。そこにルーパスの姿があった。壁にもたれ、煙草を吸っている。彼はこちらが気付いたと見ると、壁から離れ、曲がり角へと姿を消した。
「良い人だね」と、ウィリアムはフローディアを指して言う。
「そうだな。俺には母親みたいなもんだった」
「たまには顔を見せてあげるべきだよ」
「お前まで親戚みたいなことを」ジェイクは鼻を鳴らした。「これから寄っていきたいところがある。ウィリアムはどこかホテルを取っておいてくれないか」
「わかった。じゃあ、駅前で集合しよう」
「オーケー」
ウィリアムが歩き去るのを見送ると、ジェイクは一度空を見上げ、首を曲げて鳴らした。厄介なことにならなければ良いが──と、思う。
曲がり角を曲がると、ルーパスは一人、こちらを見据えていた。
「久しぶりだな」ジェイクがまず先に声を掛ける。
「半年になるか」ルーパスは両手ともコートのポケットに入れていた。「そこにバーがあるんだ。少し飲まないか?」
「昼間から?」ジェイクは笑いながら、「ちょうどそうしたい気分でしたよ」
とあるビルの、地下へと続く階段。先は薄暗く、人の気配も感じられない。もしこの先にハワード少佐や隊の者に囲まれても良いように、覚悟を決める。
確かに、自分は無茶をするタイプか、とジェイクは自覚した。深く考えるよりも先に、行動する方が得だと思っている節がある。成る程、今回も問題を先送りにせず、むしろ飛び込んでやろうとしているわけだ。
どうせならとことんやってやるのみ。
「お前は確か、飲める口だったな」とルーパス。
「軍曹は下戸でしたね」
「それが少し変わったんだ」
中は青いライトで暗闇を淡く遠ざけていた。寡黙そうな男が、カウンターに立っている。閑古鳥なのか、ジェイク達二人以外に客は居ない。ここなら、会話を聞かれる恐れはないようだ。
カウンター席に座る。ジェイクはスコッチハイボールを、ルーパスはアイリッシュをロックで頼む。ルーパスはグラスを傾け、氷を鳴らした。彼の人差し指に嵌められた水晶の指輪が気になる。が、今は酒だ。ルーパスが一口飲むのを見届けてから、ジェイクも一口あおる。
警戒心を解いたわけではない。この後彼を殺すことになっても、何も驚きはしないだろう。
「それにしても、髪を伸ばしたのか。似合わんな」ルーパスは言った。
「余計なお世話というものですよ軍曹。これはただの変装ですから」
「それにしては目立っている」
「……本当に?」
ルーパスは沈黙し、酒を飲む。ジェイクは唸り、グラスを口に持っていった。
「それで……軍曹殿。無事だったのですね」
「私が無事に見えるのなら、それは指輪のお陰だな」ルーパスは自身の人差し指を見つめ、「借り物だ。お前も爪の指輪を持っているから、機能について大体のことは理解しているだろう。これには多くの記憶が詰まっている。それは私自身とて、例外ではない。指輪とは、つまり円環だ。終わることなく循環し続ける。だから──私は常に私を参照するため、私というものを手放さずに済む」
「どう言う意味でしょう」
「君もあの晩に見ただろう。水晶の粉を吸引したものは、誰も彼もが自我を失う」
「自我を?」ジェイクは聞き返した。
「強制的に感応させられるんだ。これは指輪のものとは違う。記憶だけじゃあなく、気分も、思考までも、共有する。そう……感応というより、この一体感を表すなら、共有と言うべきだ」
ジェイクは口の中に乾きを覚え、酒に手を伸ばす。
「なら、この会話も少佐に聞かれている?」
「筒抜けだろうな」
乾いた笑みが、ジェイクの口から飛び出した。成る程ね、と目を細める。
「それに、我々の同胞──少佐は『目と指』と言っているが──が、この地区に潜んでいる。君らの動向は常に監視されている」
「暇なようですね」
「いや。少佐は無駄を好まない。タイミングを図っているのさ」
「タイミング?」
「今回、私は君に忠告しに来たんだ。余計なお世話かもしれないがね」
「……お聞きしますよ、軍曹殿」
「この後少佐によるデモンストレーションが行われる。駅前は少々、荒れるはずだ」
そこはウィリアムとの待ち合わせ場所だ。
「少佐は一体何をするつもりだ」ジェイクはルーパスの襟を掴む。「話してください」
「言えるのはここまでだ」
ルーパスは腕を振り解くと、グラスを一気飲みし、空にした。立ち上がると、お札をカウンターに置く。
「じゃあな、ギルバート上等兵」階段を上がり、ふと立ち止まった。「また近いうちに」




