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ANDERSON  作者: 八田部壱乃介
Chapter2
10/40

第10話 こんなところに居られるか! 一八九〇年六月九日 二十一時四十分

「さあ、見えてきたぞ。もうすぐだ」

 ルーパス軍曹の声で、ジェイク・ギルバートは連なる足音から意識を戻した。雨、雨だ。敗走し、多くの兵を失い、本部へと戻らなくてはならない中に降り始めた雨は、地面を泥濘に変えていく。疲れ切っているというのに、足元はおぼつかない。意識も、また。


 心は虚しく傷つき、体は冷えている。

 重い荷物も、失った仲間達を思えば、軽いもの。無茶な突撃命令に従い、奇跡的に生き残った。これ以上のことは、きっと何も望めないだろう。未だ、こうして呼吸をしていることが嘘なのではないか、とどこかで感じている。

「俺たち……帰ってきたのか」

 ジェイクの言葉に、先導していたルーパスは振り返り、笑みを作った。彼は元来優しい性格なのか、それとも戦場に立つ仲間には対等に扱うのか、上等兵のジェイクや他の皆に親切だった。訓練では、殺したいほど躾けられたというのに、今は、家族のような絆さえ芽生え始めている。

我が家(ホーム)だ、ジェイク。……ようやく休息できるな」


 幾つかある水晶の指輪。これらを出来る限りを手に入れて来ること。それが、今回の任務だった。

 見つかったのはロンダニア市国の地下にまたがる遺跡群から。これだけなら、自国のものと主張できたのだが、遺跡は一部を隣国にも伸ばしている。指輪が見つかったのは、ちょうどその境目だった。厳密には、自国と主張するには、ぎりぎり隣国の方に近い。

 このため、秘密作戦が提案された。内容は、強盗団を装い、遺跡を爆破──指輪が自国のものとなるよう調整し、地形を変化させるというもの。力技だったが、なんと言われようとも、「きっと地震が起きたのでしょう」などと言い訳するつもりらしい。

 関係者は皆、落盤事故で死んだことにされるからだ。うやむやにされてしまえば、それ以上追求はされ得ない。


 境界線には、両国それぞれに警備が立っている。ジェイク達の役目は、彼らを予め掃除しておくことだった。その後に爆薬を仕掛け、地形を変化させる。そのつもりだった。

 あろうことか、情報には誤りが多く、避難経路とされた道は塞がれており、想定された敵兵の数が合わなければ、味方であるはずの自国軍からさえも妨害を受け、任務は失敗。こちらは半数以上が死亡した。その上、この襲撃が相手国の上層部に伝わるのもすぐだろう。

 殉じた仲間たちは回収できたため、これが軍事作戦であることまでは知られないはずだ。が、警備が強化されてしまう可能性がある。これは、手痛いことだった。


 本部に戻ると、ダルケラ・ハワード少佐が待ち構えていた。隣にはケリー大尉が腕を組んで立ち、

「何故戻ってきた。一度命じたならば、殉じるまで遵守せよ」

 ルーパスを含め、敗残兵は誰も口を挟まなかった。ジェイクもまた、何も言えずにいた。ケリーは更に続けようと口を開いたが、それをハワード少佐が手で制する。代わりに彼が前に立つと、

「軍は命令が絶対だ。命令をきけないのであれば、一つ処置を施す必要がある」

 ケリー大尉はニヤリと笑い、

「その通りですな」と同調した。

「セリア中尉!」ハワード少佐が叫び、奥から一人の男が現れたのを見て取ると、「あれをやる」

「あれですか」

 セリア中尉と呼ばれた細面の男は頷き、再度奥へ引っ込むと、ややあってから、大量の指輪を台車に運び入れてきた。


 台車は少佐の前で止まる。ハワード少佐が指輪を一つ手に取ると、水晶製の、その滑らかな表面を舐めるように見つめた。良く見れば、彼の指には同じようなものが、二つ身に付けられている。と、何を思ったか唐突に台車へと叩き潰した。たった一度で粉々に砕け散る。

 少佐は尚も続けた。沢山あった指輪は、今や白く煌めく水晶の粉でしかない。この異様な光景にジェイクは息を呑んだ。

「諸君。今から列を作れ。一人ずつ、この粉を与えよう」

 上官の命令は絶対だ。

 誰もが皆、言われた通りにする。ジェイクとルーパスは偶然にも最後尾となり、前方の者たちの行方を見守った。


「さあ、一歩前へ出ろ」

 少佐に言われ、隊の者が足を踏み出す。ジェイクは列から顔を出して、様子を観察した。少佐は握り拳を開くと、大量の粉を露わにする。これを思い切り兵士の顔に吹きかけた。

 何の儀式だ、とジェイクは気味が悪くなった。粉を吹きかけられた男は咽せて咳き込んでいる。が、何かに気付いたように勢いよく顔をあげ、

「少佐」と一言呟くと、敬礼をしてみせた。

「さあ、次だ。一歩前へ」

 儀式は同じことが繰り返された。

 一人ひとり、粉を吹きかけられ、何かを悟った様子で敬礼する。何をされたのかジェイクにはわからない。見当もつかない。ルーパスも同様のようで、顔を僅かにこちらへ向けて、

「さっきから何か変だ」

「ありゃ、一体……?」

 ジェイクの疑問に、軍曹ルーパスも首を振るばかり。ふと、先頭集団から目を離し、既に息を吹きかけられた者達を見た。

 彼らは皆、睨むような眼差しでジェイクを見つめ返している。不気味になって、鼓動が早まっていった。心が「危険だ」と告げている。頭から血が降りていく感覚があった。


 風に乗って粉が舞う。仲間達がこれを吸った瞬間に、雰囲気が変化した。ジェイクは思わず、薬物を連想し、更に気分が滅入った。

「まさか、これは、そういうこと……じゃないよな」

 同じことを考えたらしいルーパスも、言葉を濁しつつも、伝わる言葉をジェイクに投げかける。

「俺にもそう見えますよ軍曹……」

 思わず額から冷たい汗が流れた。


 儀式が何度か繰り返されたその時、先頭に立った一人が、脱兎の如く駆け出した。逃げるつもりのようだ。咄嗟に捕まえようと少佐は腕を伸ばしたが、粉が飛び散ってしまうと危惧したようだ。腕を止め、静観した。

 代わりに、既に吸引した者達が背後を取り、彼を抱き止めた。彼がやめろ、助けてくれ、と叫ぶ中、少佐はゆったりと彼の元へ近づき、息を吹きかけた。びっくりして目を丸くさせたのも束の間、穏やかな顔に変化していく。取り押さえられていた腕からも解放され、彼は自立すると獰猛な笑みに変わり、少佐に向けて敬礼した。

 隊列の中でパニックが静かに、次第に広まりつつあった。誰もが隙があれば逃げてやろうと、足先を別の方向へと差している。ルーパスとジェイクは目を合わせて頷きあった。

 ──逃げるなら今しかない。


 二人は示し合わせることなく、同時に走り出した。と、次にはそれに気が付いた者が、更にそれを知った者が、ドミノ倒しのように追従していく。

 既に全身はぼろぼろになっていた。だが、生き延びるためだ。道中で片足を失うことになっても構わない心積りだった。全身を振り子のように揺らし、力任せに走る。最早どこからこんな力が出ているのかわからない。

 突然、腹から筋肉の引きちぎられる感覚があった。鋭い痛みが、もう疲労の限界であることを示しているのだと思っていた。だが、そうではない。腹部から出血している。見れば、そこには爪の破片が突き刺さっている。

 違う。

 突き出ているのだ。


「ぐばっ」と言う声と共に血が口から吹き出した。

 体勢を崩しかけて、それでもジェイクは走るのをやめない。鉄錆の不愉快な味が口の中で広がっている。

「どうした!」と、前で走りながら、ルーパスが問いかけた。

「わから、ない」

 息も絶え絶えに、辛うじてそれだけを返答する。背後では大きく息を吸い、吐き出す音が聞こえた。背中越しに風を感じ──瞬間、視界が真っ白に染まる。見えているもの全てが水晶の、あの指輪の粉なのだとわかると、ジェイクはすかさず手で口を覆った。

 しかしこれは異様だ。

 どういう理屈でこの距離まで粉が蔓延したのだろう。既に走り出してから十数秒は経っているはずだった。普通の肺活量ならば、この位置にまで届くはずはない。追い風が彼らの味方をしたのだ。

 息を止めて、苦しくなっていく。前方では、川が見え始めたところだった。ここは上流らしく、下へ向かって強い流れがある。粉の中を走っていたからか、ルーパスの体は白く染まっていた。彼は川の方まで走ると、躊躇なく飛び込み、流されていく。

 ジェイクも彼に倣った。このままではこの空間を抜けることができない。たとえ、粉の飛び交う空間を抜けても、衣服や髪についた粉が入るかもしれない。全てを洗い流すためとしても、この方法は最良に感じた。


 身を投げ出した一瞬、重力を失くし、着水の衝撃が遅れて訪れた。濁流が全身を掻き回す。腕や足が制御を失くす。方向感覚などとうにない。どこへ向かうのかもまた知りようがなかった。ただ今は、とにかく遠くへ移動できれば良い。

 息継ぎのために口を開けた時、真っ暗な空が目に映った。星など一つもなく、月は厚い雲の裏で、曖昧な光を放っている。

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