イザドラ・リベリーによる高貴なる従僕の躾
「デビッドさんもう少し腰を低く落として。ああ違います。モップは引いて汚れを取るのではなく、押して汚れを取るのです」
「あ、ああ。こうか?」
「そうです。そのように」
『勇者デビッド』は吸血鬼の館の廊下で、メイドのレクリスに教わりながら掃除に励んでいた。
本来聖剣デュランダルを握るはずの手には、使い古されたモップ。幼い頃から剣の修行を積んで魔族を狩り生計を立ててきた彼には、もちろん慣れない作業である。
しかし与えられた責務をやると決めたらとことんやるのが勇者の矜持だ。
デビッドは額に汗を浮かべて真摯に、丁寧に掃除をこなしている。そこへ主である吸血鬼イザドラが通りかかった。
「あら、真面目に働いているようね。いい心がけだわ」
イザドラは満足げにそう言ってから、窓の外へ目をやり、
「気持ちのいい朝ね、まるでエルミュルの木に抱かれた妖精たちの祝福がこの館を包んでいるよう」
歌うようにそう言って、デビッドの前を通り過ぎ、そしてーー
すてーん!
と転んだ。
「お嬢様!?」
思わずレクリスが叫ぶ。しかしイザドラは何事もなかったかのように優雅に起き上がると、呟くように言葉を紡ぐ。
「……あら、これは私の足を滑らせるための罠だったのかしら? 誰がここまで床をピカピカに磨けと言ったの?」
「レクリスに教わった通りにしただけだぜ?」
デビッドの当たり前の答えに、間髪いれずイザドラは叱責する。
「黙りなさい。貴方は私のことだけを考えて、私のためだけに動けばそれでいいのよ。この館で『この私に』仕えるという約束を、忘れてしまったのかしら?」
デビッドは鋭い目つきをイザドラに向けたが反発はしなかった。
「負けちまったのは事実だからな。約束は果たす……その代わり」
そう言ってモップをイザドラの顔に向けて構える。
「俺の仲間たちがお前をやっつけるまでの間だ」
「仲間たち……?」とイザドラは聞き返す。
デビッドは「なんだそんなことも知らないのか」とため息をついて言った。
「魔王を斃したのは『勇者デビッド』だけじゃない。12人の冒険者が結託して斃したんだ。国中から集まった最強の冒険者たちがな」
イザドラは興味なさそうに「へえ」と相槌を打った。
「俺はギルドの依頼でここへ来た。その俺が戻らなければ、いずれ12英雄の残りの面子が動き出す。イザドラ、お前を倒すためにな」
イザドラは不敵に応える。
「あら、じゃあ、あと11回も遊べるってことかしら」
それを聞いたデビッドも不敵に言い放った。
「ふん、せいぜい今のうちに余裕ぶっておくんだな」
「それはそうと」と言ってイザドラは話を変えた。
「人の顔にモップを向けるなんて作法がなっていないわよ。子供のように恰好つけたかったのかしら? ……それに、掃除はまだ終わっていないでしょう? 床は綺麗に磨いたようだけど、ここに埃が」
そう言いながら木製の窓枠に近づいて指でなぞる。しかし指先にはチリ一つついていない。
「あぁそこはさっき掃除したぜ」
デビッドの言葉に、イザドラは露骨に不満げな顔を浮かべる。それからもう一度窓枠を指でなぞった。
ザリッ
窓枠の表面が指でえぐりとられる。イザドラは指先についた木くずを冷たい目で眺めながら「汚れているわ」と言った。
「いやそれは無理があるだろ!?」
デビッドが呆れて叫ぶ。
「黙りなさい。私が汚れていると言ったらそれは汚れているのよ」
デビッドは思わず心の中で呟く。
(こいつの身体はプライドでできてるのか……? 事実をへし曲げてやがる……)
「従者が主に服従するのは当然ですわ」
平然と言い放つイザドラの言葉に、勇者は呆然と立ち尽くした。あまりに、あまりに現実認識が違いすぎる。
突然イザドラが勝ち誇ったように口を開いた。
「あら貴方、そんな反抗的な目をして本当にいいのかしら? ……レクリス」
「は、はい!」
急に言葉を向けられたレクリスは姿勢を正して返事する。
「今日のデザートはなんだったかしら?」
「はい、野イチゴのケーキとリンゴのタルトでございます」
「それは何人分用意されているの?」
「はい、デビッドさんのも含めて4人分です」
その答えを引き出したイザドラはにやりとした顔をデビッドに振り向けて言った。
「あら、それは結構ね。でもとても残念だわ。主に歯向かうような従者にはデザートをふるまうわけにはいかないもの」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
思わずデビッドは声を出す。彼は甘いものが大好きだった。
「別にお前に反抗してるわけじゃないだろ?」
「あら、貴方は反抗していないと言うのね?」と言ってイザドラはいかにも満足そうな顔をしてため息を吐いた。
「それは結構なことね。でも私にはまだ貴方の心が上手く伝わっていないようだわ。申し訳ないけれど、貴方に心から私に仕えるつもりがあるなら、具体的な態度で示してくれないかしら?」
「態度?」と言ってデビッドは首を傾げる。
「ええ、難しいことは言わないわ。ただ私にひざまずいて『聡明なイザドラ様。私が間違っておりました。貴女の蝋のように美しく繊細なおみ足を滑らせてしまった下賤な私をどうかお許し下さい』と言ってくれればそれでいいのよ」
「はあ!? 下賤!? 勇者と呼ばれたこの俺が……げげげ下賤だと……!?」
「あら、できないの? 残念ね。仕方ないわ……デザートは私とレクリスで分けて食べるわね……デビッドにはお昼ご飯もいらないかしら……」
「ひ、昼飯も抜き……?」
勇者は葛藤した。
彼は富や名声に拘るタイプではない。別に人から蔑まれたってかまわない。冒険者稼業を始めてから今まで、自慢ではないがけっこう苦労したし、悪く言われたことだってたくさんある。悪く言いたいやつらにはどうとでも言えばいいとも思っている。しかし、それはそれとして一般的な青年が持つプライドは持ち合わせている。
しかも相手は魔族である。自分が散々斬ってきた相手に、跪いて許しを請うなんてことを……
「返事が遅いわね……夕食もいらないということかしら……」
「そ……聡明なるイザドラ様……」
デビッドは吸血鬼の前で跪き、言葉を唱え……
「銀色に輝け、聖剣デュランダル!」
ザンッ
腰から聖剣を抜き放ちイザドラの胸元に叩きつけた。
「ぐあっ……」
イザドラが苦悶の声を漏らし、館の廊下が光に包まれる。
しかし光はやがて収束した。デビッドが舌打ちする。
「チッ……」
イザドラがわなわなと震えながら声を絞り出す。
「あのねデビッド……確かに私は死なないわ……でもね、胸元を剣で斬られるのって痛いのよ……すごく……」
「『悪いこと』をしたからな。飯で従者を縛るのは悪いことだ」
デビッドが答えると、イザドラは「仕方ないわね」と呟いて勇者に宣告する。
「リンゴのタルトは2つ貴方にあげるわ……わたし野イチゴが好きだから、貴方のをもらうわね」
全く反省していない主の言葉を聞いたデビッドは、心の中で強く決心するのだった。
(こいつの心臓……いつか砕いてやる……)