おかえり、ヒマリ
「今日、閉店までお願いできる?」
そのマネージャーの声に、ヒマリは心の中で大きなため息をついた。
バイト先のコンビニは人手不足で、頼まれたら断れない空気という嫌な空気感がある。時給は、あまり良いとはいえないが、家から近いという理由だけで続けていた。
その夜は金曜日だった。閉店時間は23時半。掃除やレジ締めで、ヒマリが店を出たのは日付が変わる寸前だった。
店から駅までは徒歩10分。
ホームに着いたときには終電のベルが鳴っていた。
ヒマリは、足を速めてギリギリで、電車に駆け込んだ。
揺れる電車の中、窓に映る自分の顔をぼんやりと見つめながら、ヒマリは、ふとスマホに目を落とした。
画面には未読のLINEがひとつ。差出人は「母」と書かれていた。
《引っ越してからヒマリの部屋って誰か使ってるの? 彼氏でもできたのかな笑》
は?
意味がわからなかった。だが、返信する前に電車がトンネルに入り、圏外になった。
彼氏はいない。
私の部屋に入りそうな人もいない。
違和感を抱えながら、ヒマリはイヤホンをつけて、好きな音楽をかけた。
アパートに着いたのは0時半すぎになった。
木造2階建て、築40年以上。夜になると廊下がミシミシと鳴る。
部屋に近づくと、ドアノブに違和感を覚えた。
鍵が開いている。
──そんなはずない。
朝、ちゃんと閉めた。確認した記憶もある。
ヒマリはそっとドアを開けた。部屋は真っ暗だ。けれど、どこか生暖かい空気が漂っている。
入ってすぐ、右手の靴箱に目をやると──見慣れない黒いヒールが一足、置いてあった。
「え?」
自分のじゃない。そもそも、黒のヒールなんて持っていない。
背筋が凍った。
「……誰か、いるの……?」
声が震えた。そのとき、奥のキッチンから女の声がした。
「──おかえり」
一瞬、思考が止まる。
ライトをつけようとスマホに手を伸ばすと、パチン。部屋の電気が勝手に点いた。
キッチンには、誰もいなかった。
ユウカは荷物を放り出し、部屋を出ようとドアに向かう。
だが──そこに、女が立っていた。
白いワンピース。長い黒髪。顔はうつむいて見えない。
心臓がドクドクと大きく鳴る。
「……誰?」
声が震える。
女は、ゆっくりと顔を上げた。
ヒマリは、息を呑んだ。
その女の顔は、自分とまったく同じだった。
髪型も、目元のほくろの位置も、全部。まるで鏡を見ているようにそっくりだった。
「もう……帰ってこないで」
声は自分の声だった。
次の瞬間、頭に激痛が走り、視界がぐにゃりと歪む。
気づけばヒマリは、ベランダから地面に落ちていた。
病室で目を覚ましたヒマリは、知らない天井の蛍光灯を見つめながら、現実感のない感覚に包まれていた。
「……生きてる?」
足を骨折し、軽い脳震盪。
幸い、命に別状はなかった。
警察には「夢遊病のような状態で転落した」と報告された。精神的な問題も疑われ、暫くの間、実家に戻って療養することになった。
けれど、ヒマリには分かっていた。
あの部屋には、まだ「自分」が住んでいる。
本物の「わたし」じゃないものが。
それから、あの家には行ってない。
気味が悪くて、売ってしまった。
でも、まだふとした時に考える。
あれは、きっとまだ、私の帰りを待っている。
『おかえり、ヒマリ』- 完 -