08はじめての学校
大丈夫、周りから浮かないように今日までたくさん調べてきた。
同年代の女性が着るような服もネットで買ったし、大学で授業を受けるために必要な文具も揃えた。
おかしいことはないはず!
…なのに何故周囲の人は私のことをチラチラと見ているのだろう。
今日から中途入学で通うこととなる大学の門の前で心を落ち着けるために深呼吸をしていると、同じ大学に通う学生達が野乃花をチラチラと見て来る。
漆黒のサラリとした髪を靡かせ、パーカーにジーンズとスニーカーを履いたシンプルな格好をした野乃花はとても目立っていた。
無表情で冷たい印象を与える野乃花は誰が見ても美人と認識される美貌で、シンプルな服装ですら着こなしている。
そんな野乃花は周囲の視線を釘付けにしていたのだ。
「あ、野乃花じゃん!野乃花も同じ大学に通うのー?」
誰にも気づかれず緊張をしていた野乃花に元気良く声を掛けてきたのは伊吹だった。
伊吹はいつものようにツインテールのヘアスタイルで可愛らしい花柄のワンピースを着ていた。
「伊吹ちゃん…!」
野乃花がホッとして顔見知りを見る。
「学校に来るの初めてで、入るにの怖気髄ちゃって。」
「ふふっ、野乃花はこれまで海外に居たんだっけ?それだと日本の大学のことわからないよね。私が案内するよ。」
伊吹はそう言うと野乃花の手を引いた。
胸を撫でおろす野乃花。
実際は野乃花は海外に居たことはなくずっと国内の自宅に居ただけなのだが、自身の過去を語るには複雑なことが多いためにGSTと相談し海外に居たことにすることにしたのだ。野乃花は自宅に居る時間が長く勉強をずっとしていたので、英語も堪能だ。海外に居たという嘘はネットや本で調べた情報で固めるしかない。
何も知らずに優しく接してくれる伊吹に罪悪感を感じつつも、その気持ちを心の奥底にしまい込んだ。
「そう言えば今日はお昼ご飯いつ食べるの?」
伊吹が屈託のない笑顔で尋ねる。
「えっと、確か12時過ぎには講義がなかったはず…。」
「じゃあ一緒にお昼ご飯食べようよ!B棟近くのカフェテリアでどう?」
「あ、うん!ありがとう!」
お昼ご飯はどこで食べようかと思っていたのだが、大学内に食堂があるのか…他にも色々な施設があるみたいだしまた時間があるときに大学内を探検してみよう。
その後、野乃花は伊吹に講義室まで案内してもらうと伊吹と一旦別れを告げた。
初めての大学に心配をしていたが、伊吹のおかげで少し気持ちが楽になった。
自身が講義を受ける予定の教室を覗き込むと、同年代の学生で賑わっている。
学生達は仲の良い者たちと固まって座っているように見えるが、席は決まっているのだろうか?それとも好きな場所に座ってもいいのだろうか…?
そんなことを考えながら教室内を眺めていると、教室の中央やや後ろの席に見慣れた金髪の青年を見つけた。
奏斗の姿だ。どうやら奏斗も同じ大学に通っているらしい。
まずはGSTの後輩として奏斗に挨拶をしつつ、席が決まっているか探ってみるか…。
そう考えた野乃花は鞄の紐を握りしめ緊張しつつも奏斗の元へと向かった。
「奏斗さん、お疲れ様です。」
野乃花が勇気を出して奏斗に声を掛けると、周囲はすぐに野乃花に注目する。
周囲はこれまでこの大学で見かけたことのない美女が自分たちの講義室に現れたことで内心皆野乃花の動向を気にしていたのだ。
しかも声を掛けたのは目立つ金髪で口の悪いことで有名な春野奏斗だ。
驚きと興味が視線となって野乃花と奏斗に集まる。
「あ?」
自分の名前を呼ばれて野乃花の方を振り向いた奏斗は少し驚いて目を見開く。
「お前もこの大学かよ。」
「はい、私も今からここで授業なんです。この教室の席って…」
「おい‼この子と知り合いなのかよ、奏斗!」
「え、彼女とか言わないよな!?」
野乃花が席について尋ねようとしたとき、奏斗の隣に座っていた男性2人が割り込んで来る。
この男性2人も講義室の入口で室内を覗き込んでいる野乃花のことを気にしていたらしい。
「うっせぇな‼」
奏斗は職場以外でも相変わらず口が悪いようで、心底嫌そうな顔で友達に吠える。
「えっと、冬葉野乃花です。奏斗さんとは職場が同じで…」
野乃花が挨拶をすると、また奏斗の友人が勢いよく話しかけて来る。
「バイト先が同じってことか!口の悪い奏斗にこんな可愛い彼女が出来たのかと思って焦ったぜ!」
男性の1人は奏斗が口を挟むのを予期して、無理やり奏斗の口を手で制止ながら言う。
「冬葉さん、良かったら一緒に講義受けようぜ!奏斗の隣座りなよ!」
…席は自由で良いのかな?
そう判断した野乃花は初めての授業で不安だったこともあり、奏斗の隣に座らせてもらうことにした。
そして、奏斗が何か言おうとしたとき教授がやってきて講義が始まったのであった。
「~であるからして…」
静かな教室にマイクを通した教授の声が響く。
多くの生徒が眠気と戦っている中、野乃花は目を輝かせながら講義を聴き熱心にノートを取る。これまで野乃花は自宅で本や映像の学習教材で1人で勉強をしてきた。元から学習が好きだった野乃花は実際に目の前で先生から学びを得るということは初めてで、とても面白かった。あまり挙手している学生は少ないが、授業中や授業後に直接質問や意見交換も出来るらしい。
次の講義からはもう少し前の席に座ってみよう…そんなことを思っていると、授業の中盤でショートブレイクが設けられた。いくつかの生徒は飲み物を買いに行ったり、トイレに行くために中座したりしている。眠気に抗えずに完全に机に伏して眠ってしまっている生徒もいる。
野乃花が席で水分補給をしていると、奏斗が小声で話しかけてきた。奏斗の隣の友人の1人は寝てしまっており、1人は中座しているようだった。
「おい、大学内のロッカーについては知ってるか?」
「ロッカー…ですか?」
何も知らない野乃花は疑問符を浮かべる。
「やっぱり知らねぇのか。ここにはGSTの計らいでGST職員のためのロッカーがある。もし、大学にいるときに急な任務で出なきゃいけねぇときに、そのロッカーに置いてある制服とかの装備を取って出動するんだ。任務用の車もこの近くにあるから、場所はGSTのポータルサイトに載ってるから確認しとけ。」
「はい、わかりました。ありがとうございます。」
野乃花も小声で答える。
「もし一緒の任務だったら、その駐車場に集合だ。」
奏斗の説明が終わった頃、また講義は再開した。
初めての講義が終わり教室を出ると、野乃花はまたスマートフォンを見てうろうろとすることになったのだ。学校内の地理がわかってないので、次の講義室の場所がわからないのだ。
周りにいる学生に場所を尋ねてみようか…そんなことを考えていると、また聞き慣れた声が届いた。
「野乃花じゃん。」
その声の正体は琉唯であった。琉唯も同じ大学に通っているらしい。
GSTでは任務が最優先ではあるが、希望する職員が学校に通ったり副業をすることを許可してくれている。25歳までの職員には学費の援助もしてくれるのだ。アリウム支部のメンバーは皆若いために支部に近いこの大学に通っているようだ。
「琉唯さん、お疲れ様です。」
広い大学でアリウム支部の皆に会えたのは幸運だ。
「お疲れ、野乃花は次も授業か?」
「はい、でも次の講義室の場所がわからなくて…」
野乃花は次の講義の場所が書かれている画面を琉唯に見せながら言う。
「ははっ、この大学は広いからわかりづらいよな。俺は次の講義ないから案内してやるよ。」
野乃花は琉唯の言葉に甘え、2人は次の講義室の場所へと共に歩き出した。
「今日が初めてなんだろ?授業はどうだ?」
「とても楽しいです。直接先生の前で授業を受けることが出来るのってこんなに面白いんですね。」
野乃花の声が心なしか弾む。
「え?これまでも授業は対面だっただろ?」
「あっ…」
琉唯の言葉で身を固める野乃花。授業が楽しいことで気持ちが緩んでいたようだ。
「えっと…久々の授業だったので、再認識したというか!」
慌てて答える野乃花。
「あぁ、そういうことか。野乃花は真面目だから授業は楽しいだろうな。」
琉唯は一瞬不思議そうに野乃花を見たが、それ以上突っ込んでくることはなく笑った。
「あ、良かったら次の授業の後一緒にカフェテリアで昼食を食べませんか?伊吹ちゃんとも約束してて。」
「おー、行きたいけどその時間は講義なんだよ。だから俺は今から少し早めの飯にするわ。」
「そうなんですね。残念ですけど、是非次の機会にでも。」
「だな!ってか、野乃花はこっちに越してきたばっかで友達も少ないんだろ?大学で友達作ったらどうだ?もちろん、俺も一緒に飯食ったりしたいけど。」
「う…が、頑張ります。」
野乃花はそう答えるのが精一杯だった。
これまで家でほぼ1人で生活をしてきた野乃花、まともに話しが出来ていたのは父親とギフテッドアニマルのみ。GSTに所属するようになって琉唯や伊吹、奏斗達と交流するようになったが正直なところまだ壁のようなものを感じる。同じ職場ということもあり、本で読んだ友人とはまた違う感じがする。
その後、野乃花は案内をしてくれた琉唯に御礼を言うと2つ目の講義を受けた。そして、講義の後はいよいよ楽しみにしていた伊吹とのランチタイムだ。
野乃花は何とか伊吹と合流すると、学生で混雑するカフェテリアへと向かい食事を購入した。幸い、入口に近い席が空いていたのでそこに座ることにした。
美人の野乃花と可愛らしい容姿の伊吹はやはりここでも注目の的となる。
食堂には様々なメニューがあり、野乃花が食べたことのないものもたくさんあった。悩んだ末、野乃花が選んだのは油淋鶏だ。
サクサクとした衣のついた鶏肉に甘酸っぱいソースのかかった油淋鶏は初めて食べたがとても美味しい。帰りにいくつか料理本を買って帰って、新しい料理に挑戦してみよう…そんなことを思いながら油淋鶏を頬張る野乃花。
「ふふっ、ここの食事結構美味しいでしょ?」
食事に夢中になる野乃花を見た伊吹が言う。
伊吹はきつねうどんと茄子の揚げびたしを選んだようだ。
「うん、凄く美味しい。家でも作ってみようかな。」
野乃花は話しやすい野乃花には丁寧語ではなく楽に接すことができる。
「野乃花は料理するの?いいなぁ、私は料理出来ないからいっつもコンビニ弁当とか外食だよ。」
「そうなんだ。良かったら、今度でうちで一緒に食べよう。何かご馳走するよ。」
「やったぁ!じゃあ、私は長い外食歴で見つけたお勧めのお店を紹介するね!」
伊吹と野乃花は和気あいあいと会話をする。
GSTでは業務に関する会話が多いので新鮮だ。伊吹は人懐こく話しやすくはあるが、時折見えない壁を感じることもあるのでこういう会話が出来るのは野乃花にとって喜ばしい。
楽しく話をしていると、突如話しかけてくる人が現れた。男子学生2人で彼らは伊吹と同じ学年らしい。
「おいおい、秋山。同学年に友人が出来ないからって何も知らない年上の先輩に取り入ったのかよ?」
「お姉さん、コイツはスカート履いてても男なんすよ。こんな奴とより俺らと一緒に飯食いません?」
ニヤニヤとした表情ではっきりと伊吹に悪意を向ける2人組。
普段の伊吹ならこんなことを言われたらはっきりと言い返しそうだが、今は2人組に見向きもせずうどんをすすっている。
野乃花は話しかけてきた2人組を見上げるが、伊吹がスカートを履くことの何が悪いのかもわからないし何故この2人とご飯を一緒に食べなければならないのかわからない。
伊吹と野乃花が無反応なので、2人組はまだ話しかけ続ける。
「コイツ男のくせに女みたいに振る舞うんすよ?気持ち悪いでしょ?」
「この格好で男子トイレに入ってくると心臓に悪いっていうか、本当迷惑っすよ。」
2人はケラケラと笑って言う。
…そうか、2人は伊吹ちゃんが男の子なのに女の子の格好をして女の子のように振る舞うことに嫌悪してるのか。そして、そんな伊吹ちゃんを悪意とともに孤立させようとしている。
野乃花は現状をやっと理解すると、持っていたコップの力を強めた。
「何が駄目なのかわかりません。伊吹ちゃんは伊吹ちゃんで、あなたたちに何も迷惑をかけてないでしょう?」
野乃花は毅然と2人に言う。
そして野乃花と男性2人組との口論がはじまった。
「はっ!?いや、周りを騙して女の振りしてるんすよ!?」
「それに男子トイレに入ってきた時だって…」
「別に伊吹ちゃんは騙そうとしてこの格好をしてるわけじゃないと思います。それにすでに伊吹ちゃんが男性だとわかっているのであれば、何も迷惑かけてないです。」
「俺たちはお姉さんのことを思ってっ…」
「余計なお世話です。迷惑だと感じてるならわざわざ関わりに来ないでください。あなた達のやっていることはただの…」
ダァアンッ
野乃花の声を遮って伊吹はテーブルを強く手で突き立ち上がる。
周囲は驚いた表情で伊吹を見るが、伊吹は周囲は気にせずに野乃花ににっこりと微笑んで言う。
「ご飯も食べ終わったしそろそろ行こっか。」
「え?でも…」
野乃花は戸惑うが、伊吹はそんな野乃花を気にせずに皿の載ったトレーを持って歩き出してしまう。
そんな伊吹の姿を見た野乃花も急いでトレーを持って立ち上がり伊吹を追いかけるしかなかった。
見様見真似でトレーを返却した野乃花はすでに食堂を出て行ってしまった伊吹を追いかける。
伊吹は追いかけてくる野乃花の方を振り返ることはなく早足でキャンパス内を歩いて行く。
「伊吹ちゃん!」
キャンパス中央の噴水に差し掛かったとき、野乃花はやっと追いつき伊吹の手を取る。
しかし、伊吹はすぐに触れられた手を引っ込める。
「…大丈夫?」
野乃花は伊吹の背中に向かって声を掛ける。
伊吹は一瞬身を固めると、すぐに屈託のない笑顔を野乃花に向けた。
「何が?あんなの蚊が鳴いてるようなものよ。野乃花にも迷惑をかけちゃってごめんね。」
「迷惑だなんて…」
野乃花は極端に人と関わらない生活をしてきたために、人の心の機微はわからないが伊吹の笑顔はいつもと違うように感じる。無理をして本当の気持ちを隠しているのではないだろうか。
「さっきの人たちが言ってたことだけど…」
「あっ!そろそろ次の講義が始まっちゃうから行かなきゃ!じゃあ、また後でGSTで会おっ!」
伊吹はそれ以上話をしたくないようで早口でそう言うと、野乃花の目を見ずにその場を去ってしまった。
これまでも伊吹は周りからの心無い悪意に晒されてきたのだろうか…野乃花は自身の心がチクチクと針で刺されているような痛みを感じた。
その後、GSTでの伊吹の態度はいつも通りであったが、大学内では伊吹自ら野乃花に声を掛けてくることはなくなってしまった。野乃花から声を掛けるとそれなりに話はしてくれるし食事も一緒に取ってくれるが、常に違和感のようなものが付きまとった。
まるで伊吹は見えない殻に閉じこもっているかのようだ。