ヒミコ
ヒミコ
花冷えのする季節だった。
星田易子は桜の咲く夜の公園を歩いていた。
家までの近道だった。
ふと見ると、向こうから女が歩いてくる。すれ違いようにもこの道は狭い。
道の端に易子は止まって待った。
スタイルのいい、冷たい顔をした女だった。
すれ違いざま、女が何かを手渡した。ティッシュ配りのように、反射的に易子は受け取ってしまった。
女はこちらを見向きもせず、スタスタと歩いていく。
「あの、これ、・・」と易子が言った時には、もう遠く、追いかけるタイミングを逸してしまった。
紙だった。
暗くてよく見えないが、目をこらして見ると、タイムカードだったことが分かった。
女はもう見えなくなってしまっていた。
易子は首を傾げ、とりあえずハンドバッグにそれをしまった。
花曇りの空の下、易子は家路に戻った。
「決まったか?」意地悪く父が言った。
「今日が面接なんだから、決まるわけないでしょ」易子は二階の自分の部屋に上がった。
スプリングコートももう終わりかな。
ほうり投げたハンドバッグからタイムカードが出てきた。
「アマテラス産業・・?」易子は手に取って見た。
「みたま市5の・・」電話番号は書かれていない。
裏返して見ても、誰の名前も書かれていない。ただ、途中まで出勤記録が打たれていた。
誰かが困ってるんじゃないかな。
易子は就職活動の真っ只中だった。どこからも内定は得られていない。
どうせ、明日は暇だし、届けに行ってあげるか・・。
あーあ、と大きな息を吐き、易子はベッドに寝っ転がり目覚まし時計を10時にセットした。
白い雨がミステリアスな日だった。タイムカードの住所を頼りに着いたのは、雑居ビルの二階だった。
どこにも会社名が書かれていない。あるのはドアと「受付」と貼られた小さな窓だけ。
コンコン、と窓口を叩く。
「ごめんください。どなたかいらっしゃいませんでしょうか?」
「あんたが後任の人?」振り返ると、爪楊枝を咥えながら腹の出たお腹をさすっているおじさんと、その後ろに細身の眼鏡をかけた細身の女性が立って、易子を見ていた。
「いい塩梅ね」品定めするように細身の女性が言った。
「いえ、あの・・、これ」易子はタイムカードを差し出した。
「いいの、いいの。これはあんたのもんだから」馴れ馴れしくおじさんが肩に手を置き、ドアを開けた。
「さあ、入って」おじさんが招く。易子は前におじさん、後ろに女性と挟まれたような格好で中に入った。
雑然としていて、通るのがやっとの道が奥の角まで続いていた。
「あなた、お名前は?」後ろの女性のヒールの爪先でかかとを急かされながら聞かれた。
「星田、星田易子です」つい言ってしまった。
「三枝冴子と申します」後ろの女性が言った。
「私がここの社長の名波密乃ね」おじさんが振り返り、言った。
奥の角を曲がった。椅子と小さな机があった。
「さあさ、かけて」おじさんが先に座り、椅子を差す。三枝さんは後ろのロッカーから何やら書類を探しているようだ。
「あの、これ、お返しします」易子は座らないで、タイムカードを机の上に置いた。
その上からヒラリヒラリと三枝がバインダーから引き出した何枚かの書類を重ねていった。
「パートでしか雇えないんだよね」おじさんが申し訳なさそうに言った。
「うちで働く気ない?」おじさんが身を乗り出した。
「いかがわしい仕事ではございません」三枝が微笑んだ。
「あの、・・何のお仕事なんですか?」
「街の掃除屋さん」おじさんが言った。
「素人に出来るんですか?」我ながらバカな質問をした。
「もちろん」
「あの、確かに私、就活中で、困ってますけど、・・何で私?」
「あんたがそうだから」
「あの、この、タイムカードの持ち主を・・」
「ああ、あの人、深海さん。あの人が選んだんだから、あんたに間違いなし!」
「とりあえず、今日はこの書類をお持ち帰りになったら? ね?」三枝がトントンと書類を束ねた。
「ハイ、これ」タイムカードも一緒に渡された。そのタイムカードには星田易子と打たれていた。
「9日までか」三枝さんはそう呟くと、ロッカーから鍵を取り出し、小さな金庫を開け、一万円札を何枚か易子に握らせた。
「その気になったらいつでもおいでよ」ドアまで送られた。
狐につままれたような顔な易子は階段を下りながら、これって内定か? と思った。
「決まったよ」父の驚いた顔が見たかった。
父のような毎日夕方5時きっかりに帰って来る公務員とは違うのだ。
「えっ、どんな仕事だ?」
「清掃関係」
「大学出て清掃か」新聞を開いた父がため息を吐いた。
「学歴社会はもう終わったのよ」易子は階段を駆け上がった。
「保証人いらないんだ・・」書類をちらちらと見ながら、サインと印鑑をしていった。
業務内容の欄に「清掃業その他」と書かれていることには、気づかなかった。
「腹、出てきたなあ・・」事務所で自分の腹を撫でながら、名波はため息を吐いた。
「脂っこいものばっかり食べるからですよ、社長」コトンと湯呑を置いて、三枝は笑った。
「あの子、来るかなあ?」
「来ますよ」三枝は自分のお茶をすすりながら、言った。
「礼儀正しそうでしたもん」
名波はいつもの血圧の薬をお茶で飲み干した。
「社長、死んでも化けて出ないで下さいね」三枝の目が細身の眼鏡の奥でキラッと光った。
「そしたら、穴埋めにまた誰か来るよ」名波は煙草を咥え、また自分の腹を眺めため息を吐いた。
「何か忘れてる気がする・・」名波は宙を見た。
「まあいいか・・」
「あのー、そういう、・・ふ、風俗、とかじゃないのね?」母がついに言った。
「違うよー、ちゃんとほうきとかあったもん」易子はエビチリをかき込みながら笑った。
「アマテラス産業? 聞いた事もないぞ?」父が書類に目を通しながら怪訝そうに言った。
「今時、ホームページもないなんて・・」母が俯いた。
易子も段々不安になってきた。
「契約する前にちゃんと話を聞いて来い。な? それからだ」
「・・うん」
「易子、世間知らずで騙されやすいから・・」
アマテラス産業にまた来ていた。
「ご両親が心配するのももっともだね。うん」社長が肯いた。
「あの、・・ちゃんとした会社なんですよね?」
「もちろん! そんじょそこらの会社とは年季が違う」
「あの、どのくらい・・?」
「ヒミコさんって知ってる?」
「え? 教科書では・・」
「時はやまと。倭の国から連綿と続いているのがこの会社。大分、規模は小さくなったけどね・・」
「え? 冗談ですよね?」
「一言で言えば」
「一言で言えば?」
「妖怪退治」
「・・あのー、ウソですよね? 妖怪退治なんてそんな、」ハハハと易子は笑ってみせた。
「だって、ほうきもあるし・・」易子は振り返り、ほうきを見た。随分古びたほうきだった。後ろで見ていた三枝がほうきをクルリと回転させた。
「魔女用」とラベルが貼ってあった。
「中世の頃ね、よくヨーロッパで使われてたらしい・・。昔は世界中にこんな仕事があってねえ、それなりに競争関係があったんだけど・・。今じゃあ、ここだけだよ・・」
「いやいや、信じられません。だって、そんなの私、見えないし・・」
「今の時期はね、桜の花に混じってケセランパサランが飛ぶからね。大忙しよ」
「ケセレ・・? え? 何ですか?」
「ケセランパサラン。割とありふれた妖怪なんだけど。昔からいるよ。あんまり害はないんだけどね」
「だって、私、見えないし・・」
「君のしたかった仕事は何?」
「えーっと、・・やりがいがあって、面白くて、人のためになる仕事です」
「ぴったし!」名波が膝を打った。
「今は見えなくても、・・靴紐がほどけた時あるでしょ? 歩いているうちに、紐がほどけてくるよね? そんな感じ。大丈夫。見えてくるから」
「妖怪もいっぱいいますから・・」三枝さんが言った。
「妖怪ってね、言ってみれば白アリみたいな感じ」
「白アリ?」
「こんな事言うのもあれなんだけど、白アリで倒れた家って見た事ないでしょ? でも、一応害ってことになってるし、私らはさ、その掃除屋さん」
その階の突き当りが餃子屋になっているので、一足早い歓迎会が開かれた。
「ウソッ! この餃子凄い美味しい!」
「賄い付き」名波が煙草を吸いながら笑いかけた。
「それだけでもやり甲斐あるでしょ?」三枝はそう言ってビールのジョッキを傾けた。
奥から見える厨房ではどこの国の人かも聞いても分からないような人が中華鍋を振るっていた。
易子の初出勤は20日に決まった。
汗かくからタオル用意した方がいいよ。社長の言葉を本気にしていなかった。
20日、易子は広い外苑を駆けずり回っていた。
虫取り網を片手に持って。
運動不足と恥ずかしさで汗みずくになっていた。
「そっち! そっち! そっちがケセランパサラン!」社長も三枝さんも走り回っている。
道行く人々が見ている。サラリーマンが笑っている。子供が指を差している。
私もスーツ着て仕事したかったな、なんて思いながらケセランパサランを求めてジャンプしている。
ザルにいっぱい溜まった。
桜の花弁だけは落ちて、ケセランパサランだけが残る。
走り回った挙句、桜の花弁が辺り一面に。
トホホ、これじゃあ、花咲かじいさんだよ。
「これ、どうするんですか?」
「燃やすよ」
「え?」
なんか、もったいない。
餃子の花が咲く。
「お疲れさん」
「初めてにしちゃ、上出来、上出来」三枝さんはもうビールに手を伸ばしている。
社長の煙草、ビールの音、これだよな、働くって。
「オマチドウサマ」
「これ、何ですか?」
「空芯菜。おいしいよ。ここは酒のつまみばっかりだから、若い人には物足りないかな?」
「ダイエットしてるので、大丈夫です」
「仕事したら嫌でも痩せるよ」
「若い人はお腹空くからねー」三枝さんはもう二杯目のジョッキだ。
「30過ぎたら急に太り出すよ」
「俺もそうだった」社長が笑った。
「太り方が違ってくるのよね。お腹が出てくるのよね」
「三枝さん、そんな細いじゃないですかー」
「着痩せするタイプだから」
「顔も小っちゃいし」
「見られる商売してるからね」
「見られる商売?」
「見られてるわよ。妖怪に」三枝さんはジョッキを一息に飲み干した。
「冥土に送ってやった方が妖怪のためなんだよ」
「次はどんな妖怪なんですか?」
「ウチは基本、注文制だから。だから、しばらくは電話番」
「はい、アマテラス産業です。どんなご用ですか?」
「童様のことでちょっと・・」
「童様?」
「あ、座敷童です」
「座敷童って悪い妖怪じゃないと思うんですけど・・」
「そうなんですけど、孫が座敷童がいるようなこんな田舎は嫌だって、言い出しましてねえ・・」
「はい。青森から花巻・・、遠いですねぇ」
「家で代々祀られてきた童様なので、なるべく円満にヨソに移ってもらうように・・、時の流れですかねえ、世知辛い世の中になりました」
「毎日コピーとシュレッダーの繰り返し。これじゃまるで賽の河原だよ」
易子は携帯電話でアキコの愚痴を聞いていた。
「易子は今何してんの?」
「ヤバい仕事」フフと易子は笑った。
「履歴書に書けない」
「友達なくすよ」アキコは笑った。
「出張?」父がすっとんきょうな声を出した。
「何で清掃の仕事に出張があるんだ?」
「どこにでもゴミは存在するのよ」
妖怪はゴミじゃないけどね。
私の仕事だ。
「私、こんなに遠くに来たの初めてです」
「慰安旅行みたいなもんだな」
「北は北海道、南は沖縄まであるわよ」
「九州に行って不知火追っ払ったこともあったな」
「修学旅行みたい。楽しいですね」
藁葺き屋根の広いお家に着いた。
まだ残雪が残っている。
「屋根裏です」その家のおばあさんに案内された。
「何処ですか?」
キャッキャッと嬉しそうな笑い声が聞こえ、背中に重みを感じた。
易子は座敷童をおんぶしていた。
易子は体中から力が抜けるのを感じた。
顔を見たら顔のない少女だった。
だがまったく恐くない。
座敷童は易子の背中で寝てしまったようだった。
「そのまま、そのまま」
易子は座敷童を揺り動かしてみた。
「童様、ほんに長い間お疲れさんでした・・」その家のおばあさんが手を合わせた。
起こさないように子守唄を唄いながら、離れた隣家に向かった。
ため池には鯉に混じって人面魚が泳いでいる。
「これ、退治しなくていいんですか?」
「いいの。うちは注文制だから」
「見えてきたじゃない」
「もう、うちのエースだな」
おだてられた。
隣家に着くと、ちゃんちゃんこを着たおじいさんおばあさんが待っていた。
「こちらに・・」
同じ様な屋根裏にご飯とお吸い物が供えられていた。
易子はしゃがんで手を離した。
背中から重みが消えた。
すぐにキャッキャッとはしゃぐ声が聞こえた。
「お礼はいかほど?」
「言い値だから易子ちゃん決めなよ」
おんぶしただけなので三人の旅費だけ言ったのだが、封筒には100万円入っていた。
易子はしかめっ面をしていた。
この頃とんと仕事がないのだ。
パンと三枝さんに肩を叩かれた。
「河童がタクシーの運転手してるってタレ込みがあったから、それ捜しに行くよ」
「はい! でも何がいけないの?」
「無免許運転」
「鵺も出たぞ!」
「鵺って?」
「凶鳥。波があるのよね。忙しい時は忙しいし、何にもない時は何にもない」
「嫌な予感がするんだよね・・」社長が呟いた。
「大丈夫。社長の勘は当たらないからね」
「あんた、どういうつもりでこんなことしてるのか知らないけどさ・・」
河童のタクシーに乗っていた。
「勘弁して下さいよ」
「蛇の道は蛇よ。さっさと異界に帰りなさい」
「すいやせん」
「好きな音楽何?」
「パンクが好きです」
「じゃあ、今夜そのCD持って来てよ。鵺追っ払うから」
「はあ・・」
突き当りの餃子屋で裏メニューを頼んだ。
「あの季節か・・」社長が憂鬱そうに呟いた。
「何の季節ですか?」
「夏」
「恐らく人間の唯一の天敵」
「何ですか?」
「鬼よ」
「易子ちゃんには鬼灯持ってもらう。囮だよ」
「・・ウソですよね?」
「ホントだよ」
「捕まったら、どうなるんです?」
「闇から闇へ、だよ」
「大丈夫。サポートするから」
「魔除け、とかないんですか?」
「ないよ。鬼だってお腹空くしね」
易子はため息を吐いた。
「はいこれ、ボーナス」
「いいんですか、こんなに! やったー」
「易子さんは気楽だなあ」
「こんな遅くにどこ行くんだ?」
「残業」
真っ黒い鳥が漆黒の闇に止まっていた。
「鵺は人の心を読む。CD持って来た?」
「はい」お気に入りのCDを渡す。
ラジカセに社長はCDをセットして、ヘッドホンを渡した。
「鳴く前に捕まえて」
「音楽に浸って!」
易子はヘッドホンを付けた。
「最大音量にするから」社長がボリュームを限界まで上げた。
頭が割れそうだ。
社長と三枝さんが口をパクパクしているが聞こえない。
とりあえず肯いて、ラジカセを持った。
近くで見ると易子より大きい。
何も考えないようにして近付く。
後ろに回って抱きかかえようとした時、逃げられた。
「あーあ」
鵺は逃げていった。
「失敗しちゃいました」
「ま、そんなこともあるよ」
「上出来、上出来」
「易子、今日、花火大会行くんですって」
「仕事にも余裕が出てきたか」
「易子もあれでけっこうしっかりしてるのね」
「良かった、良かった」
夏の花火の晩。
「鬼は若い女の子を狙うから。これ」鬼灯を渡された。
「これを鬼火と間違えて襲うから」
「私でいいんでしょうか」
「捕まえるなんて考えちゃ駄目よ。とにかく追っ払うの」
「はい」易子は肯いた。
易子は浴衣姿だったが、社長と三枝さんは目立たない普段着だった。
「じゃ、その辺回ってみるか」社長は易子の後ろに、三枝さんは鋭い瞳を前に向けている。
出店が賑わう。
闇の中から風が吹く。
振り向いても、社長は横を向いていた。
暗闇から何かに掴まれた。
「ん!」
口を塞がれた。
太く赤い腕が。
闇にひきずり込まれる。
「んー!」鬼灯を落とした。
三枝さんと社長が気づいて、手を掴もうとしたが、間に合わなかった。
闇だ。
鬼の目ん玉が易子を見る。
失神しそうになった。
涙が出た。
鬼は易子を抱いて、闇の中を疾走する。
ちょうちんが揺れる。
「あっちだ! あっち!」それを追って、社長と三枝が人混みを縫って走りまくる。
「何てこった!」
「社長、教えてなかったんですか!? 眉唾!」
「ウッカリしてた!」
打ち上げ花火が上がった。
易子はガタガタ震えていた。
自業自得。
地獄から地獄。
身から出た錆。
助けて! お父さん!
視界が開けた。
見たこともない世界だった。
地獄を抜けるとそこは地獄だった。
易子は悲鳴を上げた。
「聞こえたか?」
「あっちだわ!」
神社の中の井戸だった。
「易子ちゃん! まゆつばー!」
「眉に唾付けてー!」
井戸にあらん限りに絶叫する。
「ま・・ゆ・・つ・・ば!」易子に聞こえた。
易子は泣きながら、舌に指を付けて眉に唾を塗った。
鬼が苦しみ出した。
眉に唾を塗り続けた。
べとべとになった。
鬼が目を瞑り、易子から手を離した。
腰が抜けた易子はそれでも眉に唾を塗り続けた。
鬼が目をこすりながら逃げていった。
後ろから誰かに掴まれた。
井戸の中から社長と三枝さんがひきずり出した。
易子は泥まみれだった。
三枝さんが抱き締めた。
「――鬼は人間の唾の匂いを嫌うから、最初に教えとけば良かった」社長がうなだれた。
易子は神社に体育座りをしたまま黙っていた。
たまやーという声が悲しかった。
易子の一番短い夏だった。
アマテラス産業から携帯電話にかかってきた。
「はい」
易子は鬼がトラウマになっていた。
「今日、来てくれる?」
「また妖怪ですか? もう私・・」
「会社の話」
「廃業?」
「うん。ヤキが回った」
「でも、私・・」
「紹介するよ。いい所」
「何か寂しいですね・・」
「忘れないでね」
紹介状を手に、新しい会社に向かった。
七海不動産。
「こんにちはー」
女の人が迎えた。
何かのたたりかと思った。
タイムカードを手渡した、あの冷たい顔の女の人だった。
「深海市子です。はじめまして」
深海さんの口紅が歪む。
「あの、私のこと覚えてません?」
「お会いしたばかりですけど」深海さんはそう言って、会社を案内した。
「ここは名波さんの会社なんですよ。七海ってななみとも読めるでしょ?」
「社長の・・」
「社長のお墨付きならあなたに間違いなし!」
「パートですか?」
「正社員ですよ」
「素人にも出来るんですか?」
「もちろん」
マニュアルを手渡した。
「ここはただの不動産ではありません。取り扱うのはいわくつきの物件です」
「いわく・・? 幽霊とか、・・妖怪とか?」
「慣れてるでしょ。そういうの」
深海さんの白いうなじ。
「はい」易子は肯いた。
アマテラス産業に言ってみると、「お知らせ」の紙が貼ってあるだけ。
突き当りの餃子屋に行くと、名波さんと三枝さんがいた。
こういう事だよなあ、働くのって。