第一章 1
処女作になります。
読んでいただけたら大変嬉しいです。来年の一月、長くて二月までには完結したいと思っています。
そしてもし頂けるのであれば、なおの事喜ばしい、感想、批評。
よろしければ……よろしくお願いします。
今回はまだ日常がメインの話ですが……
毎朝の食卓、日々変わる事のない、しかし退屈のしない和やかな食事風景、いつもテレビを観ながらご飯を口に運んでいる妹、どれもが日常茶飯事であり、これからも続く——。
もし、一番守るべきものは何かと問われたならば、それは——。
眼鏡が曇る。
昨晩残しておいた、ワカメと油揚げ入りのみそ汁から立ち込める湯気が上馬淳の顔いっぱいに広がった。
白んだレンズで手前が見えにくくなろうともかまわず淳は椀の物を啜っている。
若干の眠気がまだ残っていた為に、淳の顔はもともと締まりがなかったが、五臓六腑に染み渡るその一杯がさらに淳の表情筋を蕩かした。
「——はあ……我ながら、最高の出来だな。るいもそう思うだろ?」
淳は隣に座る妹、上馬るいにも同意を求めようとする。
「うん、おいしいわ」と、るいは生返事をしてからみそ汁を飲み、淳をちらりと見る。
明らかに淳の反応を伺っていることは明白だ。
るいは口に張り付いたワカメをパタつかせて吸うと、「あっ」と小声を出し、淳の意識をテレビに向けさせた。
「お兄様の今日の運勢、おおいによろしくてよ」
「おお本当だ一位じゃないか。最近のおうし座最下位ばっかりだったような気がしてたからなあ。今日はなんかいい事あるんじゃないか。……て、その喋り方、朝っぱらからまたやるの? 昨日『疲れたもういいや』って言ってなかったっけ?」
「あらそんなこと言ってまして? 記憶にございませんことよ」
妹がハムエッグの黄身をご飯に乗せて潰す。「お醤油を」とせがんできたので、淳は無意識に差し出してあげた。
「お嬢様女子校へめでたく入学したのですよ。るいは心機一転、腕白活発下町娘からお上品お嬢様レディへと大々的にクラスチェンジ致しますわ」
るいは醤油差しを必要以上に傾け得意げな表情をする。
「腕白だってことは認識してるのな。あ、おいお前醤油掛け過ぎだ!」
あまりにも勢い良くご飯に掛けるので淳はつい口を出した。
すかさずるいは
「ああ、今『お前』って言った!」
と嬉々累々とする。
「今確かに言ったよね! お兄ちゃんもちろん覚えてるよねえ、罰の事! けっけっけ、じゃあ、よし、今日の晩ご飯はお肉もりもりコースということで!」
るいの盛り上がる態度とは対照に、「へいへい」と冷静に返事をする上馬淳。
上馬るいは淳の四つ下で今年十三歳になる。黙っていれば確かに淑やかで品のありそうな容姿ではあるのだが、清廉な落ち着きを漂わす口元が割れたかと思うとそこから垣間見えるよく回る舌。喋りのリズムに合わせて羽毛を思わせる柔らかな髪が頬に掛かれば、ふい、と払いのける。そんなるいのほっぺは障り心地に定評があり、かく言う淳も猫の肉球を弄ぶかのように摘むのが好きだったりする——
とにかく何かとおしゃべりが好きな出来たてほやほや華の女子中学生なのだ。少なくとも兄である淳の前では爛漫な表情を絶やさず話しが止まらない。
「まあ、しょうがない。今晩はすき焼きにでもするか」
普段意識していなかった口癖を昨晩に指摘され頭では分かっていたものの、つい口から出てしまったことに淳は別段気に留めなかった。
タブーを一回発言するたびに言う事を聞かなければならない。
完全妹ルール。
しかし、妹の思い付く事は大抵想像出来るので淳が被る害は少ないと考えているのである。
るいの反応する顔をちらりと見遣り、茶碗の飯を掻っ込んだ。るいは満足げだ。
「いやっほい! ああっと、うれしゅうございますお兄様!」
「まだそれ続けるか!」
淳の突っ込みに対し、るいは気にも止めない。
「おや、まあ、ご飯粒がほっぺに付いていましてよ。そのまま潰して差し上げましょう」
箸をやおら置くとるいは流れるように素早く淳の頬に親指をぐりぐり捻り込んだ。
やれやれ調子に乗りすぎだなと感じる妹をしかし、荒立てて窘める気は起こらず、調子を合わせてやった。
「るいさん、お行儀がよろしくなくてよ? それにこれ以上あたくしのお肌がお米成分でつるつるになったらどうなさるおつもり? お肌つるテカお兄様をお友達に紹介できて?」
流し目で淳は言う。
るいは眉を顰めて、
「その喋り方気持ち悪! てか、すべて……」
心の底から溢れ出るように言い放った。
「あ、合わせたんじゃい! というか肌ネタで自爆した!」
顔を赤らめた淳をるいはじっとり見ると、屈託のない笑顔を作った。
細くしなやかな円弧をした目の奥に潜むキラキラ輝く瞳。
悪戯を楽しんでいるかのような子供のそれ。
隙あらばもっとからかってやろう、騙してやろうと純粋無垢に企んでいるかのようだ。
かと思うとるいは急に慌ただしく時計を指差した。先ほどの親指で。
「それよりお兄ちゃん、そろそろ家でないと学校遅れるんじゃない? いつもギリギリなんだから。電車が動いてないかもよ。痴漢もほどほどに」
「まあそうだな。いつものように…………って、『さあて出発するかあ』て意味だからね! さらりと痴漢常習者だよね、みたいなこと言い足してもお兄様はおいそれと肯定しなくてよ! ん? まあ……そろそろ出るよ。戸締まりちゃんとするんだよ。弁当はキッチンんとこ。もうフタ閉めていいと思うから忘れずに持っていくんだよ。るいこそ、学校遅れるなよ」
「かしこまりー」
自分の弁明に釈然としない点があったように感じながらも、さっとブレザーを着込んで玄関へと向かった。
「おっと」
そうだ、と玄関横にある洗面所の鏡を覗く。さっきの米粒——
「あれ、ついてないや」
もともとついてなっかたんじゃないか。騙したな。
軽く頬を撫でたが上馬淳の指にはつるっとした感覚があるのみだった。
「あ、るい! 食器洗っといてくれなー。じゃあ、いってきまーす」
「かしこまらーん。いってらっしゃーい」
るいの言葉に苦笑しドアを閉めると視界に透き通った空が入り込んで来る。辺りはビルが乱立しているが六階から望む景色は淳を鷹揚にした。
シスコンだと言われる事があるが別に気にしない。そんな表層的な言葉で妹に対するこの胸裏まで推し量れるものか。大切な家族なのだ。家族はかけがえのないものだろ。生まれたときから繋がりがあること、それが重要重大な要因であり因果なのだ。すれ違いが生じたら歩み寄り、摩擦が生じたら離れて思いやり、そうやって最初から与えられた絆を時間を掛けて日々強めていくのが大切なんだろ。それを諦め放棄するなんて許されることじゃない——
淳は階段を一気に駆け下りた。
上馬淳が住むマンションは商店街を挟んで地下鉄の駅から五分程歩いたところにある。
母と子供二人、3LDKあれば広さは十分だった。築年数が古くとも都心で交通の便がいいという理由で上馬淳は大変満足しているのだ。
(あいつ、せめて食器を水に浸け込んでいてくれてるかな)
上馬るいは家事を兄に任せっきりだった。
母である上馬真由美も家の事は淳に任せていた。
上馬淳が小学五年生の時に離婚が成立し、裁判でとりわけて揉めることなく淳とるいを真由美は引き取った。我が子を別れる男、元旦那に奪われることがよほど嫌だったらしく、真由美は子供二人を養う為、前以上に働いている。いま現在も海外出張中で一ヶ月程帰って来ていないが、たまにやり取りする連絡から察すれば頑健に仕事をしている様子であった。
(やってないよなー。ごはんが固まってガビガビになったら、めんどくさいんだよなあ)
甘えん坊の妹、娘息子を育てていく為日夜働く母——二人に囲まれている淳は頼られていると感じ、また、二人を支えていく事が使命なのだと疑っていない。ちなみに連絡の取れない父に対しては同情する気も起きないし依存するつもりなど毛頭なかった。
(今日はまあちょっとドタバタし過ぎてたしな。しょうがないな)
勉学はもちろん、上馬家で求められる期待以上に応えているという自負が淳にはあった。
(本当つくづく妹の事はなんでも分かっちゃうな)
「それにしても」と細かすぎるのも姑っぽいしな、と淳は自重ぎみに笑った。
妹から「兄は姑完全体だ」とレッテルを貼られている事には自覚がなかった——
暫く進むと毎度お世話になっているスーパーが視界に入った。思考は晩の献立の方に飛ぶ。イメージが鮮明に浮かび上がってくるすき焼きの食材。牛肉は質より量で、卵と白菜はあるから、あとしらたきと焼き豆腐と、油揚げ買って……
そうこうしていると大通りにぶつかった。商店街の端だ。考え事をしているとすぐ駅に着く。淳は地下に続く階段を軽やかに下りるとどうやら電車が遅延しているらしく、プラットホームには人がわんさといた。淀んだ熱気が淳を包む。
この時間帯普段はそれほど混まない。通勤通学ラッシュの影響をさほど受けない区間だ。郊外の私鉄から連絡している線なのだが、手前の駅ですでに乗客はあらかた降りているので余程のことが起きない限り混雑しないのだ。
淳の記憶によると都心部全線が麻痺するような天災に見舞われた時くらいだったか。
「サラリーマンは大変だなあ」
辺りに目を遣り呟く。しかめっ面で携帯電話に向かって何か言い付けていたり、大袈裟に腕を降っては腕時計を凝視していたり、駅員に対し憤りをあらわにしていたり、焦燥してエスカレーターを靴音鳴らして上がっていたりとスーツを着た人達がそこでは蠢いていた。
圧迫される程の満員電車になるだろうことは察しが付く。
なるたけ空いている所に、と淳は遅れた列車を今か今かと待ち望む縦列の群れの背後をするすると通り抜け、その中でもさほど長くない並びの最後尾へと移動した。
こうも混雑極まりないと鞄に忍ばせてある弁当の安否が心配になってくる。おかずはるいの要望で昨晩作った豚の生姜焼きなので汁が染み出すかもしれない。用心せねばと鞄を開け弁当箱が横にならないように位置を直していると、ちょうど電車がホームへと入って来た。
ラッキーじゃん。
ぞろぞろと乗り込む人々。窮屈な空間がさらに窮屈になっていく。
負けじと淳も乗り込む。一本やり過ごして次を待つ余裕はない。他の乗車口では押し出され溢れている人がいたりするが、淳の車両では元からの容量に余裕があったのか、さして労せずに乗る事が出来た。
「ふう」
安堵の溜息が出る。ベルが鳴り響き無事発車するようだ。多少の変則が有ったにせよ、大きな変化のない平安なそして平凡な学校生活の一日が始まる。それはなんと幸せな——
だが、それはつかの間の思惑だった——
電車が走り出す。
降りる駅まで十五分程。
この重圧。
我慢しなくてはならない。
この状況を。
体が動かせない。
いや、変に体を動かしてはいけない。
変に思われる。
淳の目の前には向かい合わせでぴったりくっついた状態で女子学生が存在したのだ。
ドアが閉まるギリギリに飛び乗って来て今は肩で呼吸を整えている。少女の体温が伝わり、濡羽色の長髪からは甘い匂いが漂った。
視線を外して変な気がないように振る舞う。しかし、どことなくよそよそしくなる。
感触が——それはそれは柔らかな物体が鳩尾あたりに押し当てられていた。
乳だ。理性と本能が激しく鬩ぎ合っている——
生まれてからもうすぐ十七年の月日が経とうとしているが、このような思わぬ出来事は初めてだった。普段早めに通学して多少混む時間帯に乗ったとしても、女性専用車両というものが有る。そうそうはち合わせる事はない。ましてや日常において体が密着し、面と向かって乳の弾力を不本意ながらも味わうことなど言わずと知れず、なかった。唯一例外でるいは抱きついてきたりするのだが、じゃれ合うことはあっても女を意識することはない。そもそも発育はまだまだ十分ではないし、兄妹の間でそれを話のネタにすることもあるくらいだ。淳はいわゆる乳に免疫がないに等しかった。
困惑している淳は素知らぬ顔を決め込んで白々しく吊り広告に視線を投げていたが、ブレザー越しに当たる未踏の果実を態度とは裏腹にしかと堪能していた。
静かな車内に軋んだ怪音が響く。
カーブに差掛かり車両がゆっくり揺れた。その揺れのせいで不可抗力にも体重が掛かって、乳から加圧を受ける。
時間の感覚が掴めない。それはとある場所に感覚を研ぎすませているからなのだろうか。
以前友人から突っ込まれた「お前はむっつりだ」という指摘を淳はふと思い出した。その時は頑なに否定したが今なら己の本性を認めることが出来そうだった。
だがしかし、ある二文字が淳の頭をよぎる。痴漢。
女子高生は俯いていた。
……見透かされてる気がしてくる……。
学校までの四つの駅、その区間で開くドアはすべて反対側なので、降車するまでこの気まずさが続くという現状に実際耐えられそうになかった。
淳は狭苦しい空間の中強引に身を捩らせ、体躯を反転させようとした。
が、しかし淳の動きは止まった。出来なかった。
眼下にいる女子高生が淳を抱擁していたのだ。柔らかな肉体ががっちりさらに密着している。
「え」間の抜けた声が淳から漏れた。
女子学生は顔を伏せて微弱に震えていたが、それは笑んでいたからだと気付く。ゆっくりと顔を上げて円蓋の目付きで淳の顔を覗き込んだ。
「ふっふっふ。私は満員電車で見ず知らずの男を、まるで周りを顧みずにいちゃいちゃするカップルのように抱きつく女子学生です」
「え、えっ……」
的を射ない言葉と自分が置かれている状況から、何が起きているのか頭の中を整理しようと淳は試みるが、女子高生の滑らかな話し振りに、その艶やかな唇に、意識がそがれる。
「ふっふっふ。もう一度言おうか? 私は通勤ラッシュの車内で見境なく男子学生を、人の目も憚らず『ケンジくん今すぐここでぎゅってして』と言い出しといて自分から抱きついてしまう感じの、男の下心のちょい上を行く痴女なのです」
「ち、痴女!?」
淳に絡めつける細い腕に力が入り、続けざまに言う。
「そうよ。ああ、イヤらしい女って意味ではないのよ。……あああ! さてはイヤらしい事を考えていたわね!」
淳は面喰らって「はあ」と曖昧な相づちを打った。不可解な言動するその女の意図が掴めない。気が動転していた。ただ、雰囲気に飲み込まれていることだけは分かった。
「つまり私はね、話をどう切り出そうか考え倦ねて、ついどうでもいい事をね、言ってしまったってことなのよ」
女子高生が粘っこくにんまり笑う。
制服は古風なセーラー服で自分の学校のとは違うし、記憶を辿ってもやはり思い当たらない。
何かのどっきりではないかと周囲を見回すがそのようでもなく、すぐ近くの乗客でさえ淳と女子高生の遣り取りに無関心のようだった。女子高生はお構いなしに喋る。
「なぜ、なぜならね、久しぶりに会えたからなんだよ、ケンジくん」
「け、ケンジじゃないです!」
「さてさて、ではここで問題なのです、ケンジくん。私の自己紹介はどこまでが本当でどこからが嘘なのかしらん?」
「あ、あの……淳です」
「淳ねえ、ふーん。いい名前だと思うわ、淳くん。……淳くん、ではヒントをね、出しますよ。今日はエイプリルフールからだいたい半月くらい経ってるの知ってる? だから半分は嘘を練り混ぜようと思いましてん」
相変わらず女子高生は淳を強く抱きしめているが、その瞳は憂いを帯びていた。淳はそれには気付かず、返答することで精一杯だった。
「……今、抱きつかれている、ことは多分事実だと……」
「素晴らしいわね! 本当の意味できちんと理解してはいないのだろうけど、核心は突いているわ! まあ、要はね、私が淳くんに抱きついている、これは本当なの。だって私は久しぶりにあなたに会えたからね」
「俺は君に、ええと、正直に言うと、面識がないんだ……。気を悪くしたらすまない」
淳の言葉に対し、女子高生はそれまでの笑みを含んだ表情を消し、真面目な顔をした。
「淳くんにとって私は初対面だってことくらい、そんなの知っているの。けど、やっと再会できたから、出過ぎた行動してしまったわね。ごめんね」
「いや、謝らなくても……というか、もしかしたら名前を聞いたら思い出すかもしれないし。君の名前は?」
「ごめんね。私は、名前がないの。狐だから」
「きつね!?」
素っ頓狂な声が出てしまった淳を、気にせず女子高生は話を続けた。
「そう、そして私はね、本当に淳くんに出来る限り、早く会いたかった。早く伝えたかった。さっきの問題の答えなんだけどね、残りの本当の事、実はこれから言う事が正解なの…………あなたはもうすぐ殺される……」
淳は疑った——
女子高生の言葉を、ではない。
自分の目を、だ。
いつの間にか。唐突に。忽然と。
消えていたのだ。
さっきまで犇めいていた、周りの乗客が。
——辺りはいつもの、その時間の、普段の通学で見慣れている、ラッシュ時とは縁のない、混雑していない車両の光景だった。