盆(前)【先生のアノニマ 〜5】
八月に入った。
暦の上では秋だとか何とかで、少しは風が吹き始め、雲が棚引く事が増えた。が、それでも下界はまだまだ猛暑に晒されたものだったが、
「ここは本当に涼しいわね」
と、毎度夕方に立ち寄る仮名は、相変わらず山小屋で夕涼みを満喫していた。やはり縁側右隅に腰を下ろしている。
「この時期に冷房がいらないなんて」
勝手に感心する仮名だ。
「有り得ないわ」
「一日中日陰で、風も抜けて熱が籠りませんから」
具衛は、自宅で話す相手が変わらないのに、最近この話を何度口にしたか分からない。
「周りが暑過ぎるんですよ」
天気予報で最高気温が三五℃を超える日もある中、山小屋の温度は、具衛の腕時計の気温測定機能による計測値だが、三〇℃を超える事がなかった。実数値もそうだが、耳をすませば川のせせらぎや林間の木々が風に揺れる音など、気分的にも涼しい。
確かに——
涼しいのだが、それはこの空間を独り占めしている時の話である。仮名は涼しいと言っているが、具衛は断じて涼しくはない。大抵呈茶の後は、静かに居間中央の座卓に移って本を読むなどしながら放置しているのだが、毎度毎度、只ならぬ美女が腰を下ろしているその視界の方の据わりが悪い。山小屋の環境と生活振りに興味を覚えているだけだろう、と勝手に決めつけていた仮名の好奇心が、実は自分自身にも多少は向けられているようだ、と気づいてしまった花火大会前後からは、特に据わりが悪くなってしまった。
どうやら今回は——
えらいのに捕まってしまった、というのが具衛の率直な感想である。元々そこそこ見てくれの良い具衛は、これまでに全く女気がない事はなかった。が、とある切実な事情により、それを断ち続けた事は既に書いた。理由は当然それだけではなく、女の肌は人並みに恋しいが、その中身には辟易していたりもする。
これまで具衛に絡んで来た女達は、軒並み見た目に違わず穏やかな具衛の草食系たる資質を好み、すり寄って来た女達だ。具衛から言い寄った事がないため、似たようなタイプの女に入れ替わり立ち替わりつき纏われた、と言っていい。大抵はその穏やかさを求めた女達だったせいだろう。打たれ弱く、すぐ泣き、その上ヒステリックという典型的な女の悪癖をことごとく露呈させた。
これらすり寄って来た女達の過ちは、具衛を見た目のみで判断した事である。形に反し剛毅木訥のこの男は、つまりは外柔内剛の懸隔では類を見ない食わせ者だった。その凄まじいまでの意外性から詐欺師呼ばわりされる訳だが、心身ともに壮健な優男故か、中身の只ならぬ据わり方が表面上に反映されにくく、そのギャップでことごとく波乱を呼び込みがちで、長らく混沌に身を置いて来た。花火大会当日のトラブルもその表れだ。そんな詐欺師と柔い女の関係が続く訳がない。一緒に波乱に見舞われる女達は、毎度具衛の為人をよく知ろうともせず、勝手な思い込みで勝手にすり寄って来たにも関わらず、波乱の相が顕在化するや、具衛が反論しない事をよい事に、例外なく一方的に思う様具衛を中傷しては勝手に去って行った。一度ならまだしも、何度か続けば辟易するのも無理はない。そのぐらい具衛の優面は本人の意に反し、ストレス社会に晒され、癒しを求める女達に対し強力な磁力を持っていた。
モンなんだが——
そんなこんなを経て今回捕まったのは、幸か不幸かこれまでの女達とは全く毛色の違う女である。それ自体は歓迎すべきなのだろうが、余りにも違いが極端で、その辺りも具衛の波乱振りが伺えようものだった。見た目はぶっちぎりで、過去の女達には悪いが比にならない。中身は寂然としていながらも凛々しく知性的で、ひしひしと厳然たる何かを感じさせる。一言で言うなれば大物感が半端ない。
——正直、手に余る。
とは、具衛でなくとも大抵の男なら思うだろう。現代は男だの女だのと言う時代ではないが、それにしてもこうも男の矜持をあっさりと突き崩し、取って代わって余りあるような男振りを持つ女など中々いるものではない。具衛が知る限りそんな女は、歴史上の武勇伝で耳にしたような女傑だけだ。正直なところ、
——どういうつもりなんだか。
と思うのだが、それでもすぐに、
お遊びの慰み者扱い——
なんだろう。ここ最近も、そんな堂々巡りをしている。なるべく考えないようにしているのだが、やはりつい、その有り得ない二人の社会的格差が、どうしてもその思考を頭の片隅に残しては膨らむのだ。貴賤の差は、どう転ぼうとも貴人の優位性が揺らぐ事はない。召されれば従うのみ。そんな感覚に近かった。問題の焦点はどう召されるか、という点だ。仮名と名乗るこの女は、そんな具衛を
——どう召す?
つもりなのか。考えると急に生臭さを覚え、またじわりと汗が出た。会話が弾む時もあれば、殆ど口を開かない事もある。そういう時は、何か考え事をしているのか、何も考えずぼんやりしたいのか。具衛にはよく分からなかったが、何れにしてもこちらから口を開く事はなかった。
今日は、
——少し口が重い。
らしい。据わりの悪い具衛は、それでもとにかく本を読む格好さえしていれば、手持ち無沙汰にはならない。スマホを突いたり、ワンセグでテレビを見てもいいのだが、それだと余りにも客を突き放しているようで、流石にそれはしなかった。如何にも時間潰し感があからさまで、それに音が耳障りではないか、と思ったのだ。
景色と共に、田舎には都会にはない音がある。昼間こそ蝉一色だが、夕方になると、徐々に林間を抜ける風の音、田畑から聞こえて来る虫の声、木の上や空の高い所からたまに聞こえて来る鳥の声などが耳に入るようになる。具衛には無理だが、詩を嗜む者なら即興でいくらか読む事が出来そうな、そんな情景である。その大敵とも言える国道は、それなりに通行量があるが数百m先だ。音は遠い。その騒音は聞こえず、縁側から眺めているとリアルな模型が走っているようでもあり、時の移ろいを繋ぎ止める砂時計のようでもある。客が何処まで本心か分からないものの、体裁として風光明媚の堪能を求めて来訪しているのであれば、曲がりなりにもそれを受け入れるもてなし側にもそれなりの節度は必要だろう。と、具衛は一応思っていた。この男的に、その最低ラインは読書、という事だ。人里離れた山奥の小屋で、変わり者が本を読む、という体なら、周囲の情景を著しく阻害しないのではないか。そんな回りくどい事を悶々と考えていると、仮名が唐突に、
「——盆踊りがあるんでしょ?」
と、口を開いた。
「え?」
「今度。そのチラシ」
仮名が体を捻り、縁側に左手をついて左半身を室内に乗り入れながら、
「いつも何もないから、何かあるとつい目が行っちゃうわ」
などと、卓上のカラフルなチラシに目を移す。今日も仕事帰りなのだろう。ベージュを基調としたビジネススカートのコーディネートは、クールビズ仕様なのか若干印象が柔らかい。必ず上着を着て来るが、涼しいとは言え山小屋ではいつも脱ぐ、その下はオフホワイトの半袖ブラウス姿だ。相変わらず整った身形と、その艶かしい仕種が具衛の脳裏を直撃し、つい目が張りついてしまった。
「——もしもし?」
仮名の低く棘を有した、しかし茶目っけある呼びかけに、硬直した具衛が慌てて「えーと」などと狼狽する。
「チラシ。テーブルの上の」
仮名にしてみれば、そんな事は日常茶飯事なのだろう。
「一々見惚れてんじゃないの」
軽々と失態を拾い上げられ、具衛の体感気温は上がる一方だ。そんな具衛に構わず、仮名は目で、部屋の中央に置いている座卓上のチラシを差した。
「この町の商工会が作ったチラシでしょ?」
「よくご存じですね。こんなローカルな祭り」
率直に関心を示す具衛はもっともだ。その程度の、取るに足らない、田舎の自治会レベルの祭りのチラシだった。盆休みに町の町民グラウンドで開催される、町の商工会主催の盆踊り大会である。
「通りがかりに聞いてね」
冗談めいた口振りで、仮名が具衛から渡されたチラシを受け取り目を通す。
「案山子か何かに、ですか?」
具衛はチラシを手渡すと、仮名の左半畳横に胡座をかいた。本音は、もう少し離れないと落ち着かない。何せ二人切りだ。が、近寄っておきながら、いきなりあからさまに離れても変な気を遣わすのではないかと思い、性根を据えて半畳程度の間隔で踏ん張る事にする。
山小屋が二人切りなら、恐らく今は集落の中でも二人切りだ。周囲は直径五〇〇m程度の小盆地。その中には、田畑と林地の他は道と川しかない。昼間であれば、農家の人々が田畑で作業をするのをチラホラ見かけるが、夕方になると皆引き上げ無人になる。そもそも農家の人々と明らかに毛色が違う仮名が話しをするなど。となれば「相手は案山子か」と言う具衛の冗談も、そんなに的外れではない訳だ。
「そう。あなたみたいに一々人の言う事を勘繰らない、親切な案山子さんにね」
口車で到底具衛が敵わない事は、今や二人の間では常識と化している。
「はあ」
半分白旗を上げるような具衛が、相変わらず間の抜けたような溜息を吐いた。それに軽く失笑した仮名が、
「まぁネタ元は何処だっていいじゃないの」
と、チラシに目を通しながらも、そんな具衛に一息つく間を与えない。
「一緒に行かない?」
などと、畳みかける仮名だ。
「ええっ!?」
「何よ、大きな声出して。びっくりするでしょ」
仮名の抗議もそこそこに具衛は、
「こんな田舎の祭りに興味があるんですか?」
とか、答えも何もあったものではない。まずはストレートな疑問をぶつけた。仮名のようなセレブが、こんな田舎町の祭りに興味を示す事の不思議というヤツだ。それをすぐ仮名が、如何にも物憂げに、
「退屈なのよ、私も」
と、答えてくれた。
「お盆は休みだし」
それは、
分かるんだが——
暇潰しにも、その潰し方というものがあるのではないか。
「旅行とか行かないんですか? リゾート地とかに」
具衛でなくとも、普通の者が思う仮名のイメージはそういうものだろう。長期休暇の度に、リゾート地で羽振りよく散財しては、英気を養うセレブのイメージだ。が、仮名は、
「飽きたわ」
などと、事もなげに吐き捨てた。
「そんなモンですか」
具衛があからさまに意外そうな声を上げると、
「そ」
と、何のためらいもない仮名が、素気なく切り捨てる。
——て、言われてもなぁ。
それ以上の休み方がセレブにあるとは思えない。言葉を失い黙り込んだ具衛は、仮名の問いかけを失念した。ヒグラシの鳴き始めが少し早くなった山小屋周辺を、しばらくそれが占拠する。二人は目の前に広がる林を、物も言わず遠い目でしばらく眺めた。大抵の市井の民が羨むリゾート地での保養を、明確に拒否する仮名に唖然として絶句する具衛と、それを然も当然の向きとして退屈げな仮名と、目の焦点が呆ける理由はそれぞれ異なる。が、林間から垣間見る田園風景は、いつも見る者に優しい。
少しして切り出したのは、また仮名だった。と思いきや、
「リゾートって、何処行っても必ず痛い日本人に出くわすから嫌なのよ」
とか、また容赦ない。
「金が全て、客は神様みたいな。旅の恥のかき捨てが平気な低俗を見るとどうも、ね——」
などと、ひどくやさぐれている。
「うんざりしちゃうのよ」
「そんなにひどいですか? 日本人」
「まぁね。平和ボケしてるからおめでたいと言ったらないし」
具衛はそれ以上の追及を止めた。また地雷かも知れない。が、
「ホント、同じ日本人として嫌気が差すわ」
と、勢いづいた仮名の愚痴は止まらない。踏んだ後だったようだ。
どうやらこれは——
相当に嫌っているらしい。
休暇にいい思い出がないという事は、人生の半分は鬱屈しているも同じだ。では、オンオフのオンはどうなのか。現状具衛は知る由もないが、仮名のオフを揺るがす程の日本人の劣化は、仮名でなくとも懸念されるところではある。それを言及する仮名は、では危機に秀でているのか、と言われると、やはり今の具衛は知る由もない。が、この女が旅先で恥のかき捨てをするような人間ではない事は、日頃の雰囲気で想像出来ようものだ。
「あなたは今朝、黙祷するタイプよね」
「——え? ええ、まあ」
瞬間的に言葉を失った具衛だったが、即座にそれを連想させる日である事を思い出す。
「今日日の日本人が、果たして今朝何人黙祷したかしらね」
「どう、でしょうね」
そしてそんな仮名に、只ならぬ意外性を覚えた具衛だった。
「相変わらず、天気もいいし」
瀬戸内海式気候の広島は、この時期雨が少ない。元々雨の多くない土地柄だが、年間を通して更に晴天率が高いこの時期だ。
「それを加味して投下された、と言われています」
それでも夕立は降る。
「だから朝だったのよね」
昭和二〇年八月六日午前八時一五分。人類は後戻り出来ない、新たなる戦争の姿を見出してしまった。
まさかそれを——
数十年後の同日、如何にもその手の事に興味なさそうな、元大都会暮らしのセレブの口から聞こうとは。それは完全な不意打ちだった。精々、金の稼ぎ方と使い方を知っているぐらいの事だろう、という穿った目は、己の狭量さがもたらした偏見でしかない。
「東京の人にしては、珍しいですね」
と、思わず出てしまった。それは何かを心得ている女に、自ら切られに行くようなものだ。
「平和を願う気持ちに住む所は関係ないでしょ? それを言うなら今は広島よ」
世界的に「ヒロシマ」で名が通る国際平和都市広島は、その知名度では国内の観光都市と比べても何ら遜色ない。人類史上初の都市に対する核攻撃を受けたヒロシマ。その後七〇年は草木も生えないと言われたその街は、今や水の都とも称される。その裏で、復興に向けた不断の努力と、原爆により失われた多くの命があった事は、後世を生きる人間として忘却を許されるものではない。
「広島では、毎年特別な日でして」
「世界にとってもよ」
その日の存在を辛うじてメディアで知る、と言う人々が増えている昨今、それを自己認識している都会人は明らかに少数派だ。
何か関わりが——
ある、と考える具衛はもっともだろう。日本国内でさえ、地域で只ならぬ温度差があるのだ。それを世界的視野で捉えるなど、現代日本では、
——学者か、活動家か何かか?
というレベルであると考えて差し支えない。が、それにしては仮名のイメージは、どう考えても
——セレブだよなぁ。
という事で、一瞬で考えを改めた具衛だ。
「忘れてはいけない日の一つよ」
「そうですね」
それはそうなのだが、いつもいい身形の煌びやかな美女が、それを語る事のイメージの不自然さとでも言おうか。それは具衛の根底に潜む、拭い難い偏見だった。
「未だに必要悪と言って憚らない連中が、世界にはゴロゴロいるの」
実は、そんな偏見や差別が生み出す無理解こそが、短絡的な暴力の温床にして、現世の現状の原因なのだ。
「だから未だに、世界中で爆弾がゴロゴロしてるんでしょうね」
その超世的で、暴力性の粋を極めた爆弾を手にするには、人類は余りにも幼かった。この狂気の沙汰は、人類史が続く限り、永遠に語り継がれる悪弊の象徴となるだろう。
「人間の弱さの表れね」
仮名の容赦なさが、具衛の身体の何処かを貫いた。必要悪だからこそなくならない、と言う考え方は、言うなれば、ギャンブル、酒、タバコ、薬物などの、行き過ぎた嗜好に対するそれらと何ら変わらない。それは、人の本能に近い部分を突いてくる魔だ。つまり、世界を滅ぼして余りある力が、
「魔によって左右されてるの」
という事だった。
「綱渡りですね」
世界の均衡とは、実はそれだけ極めて際どいバランスで成り立っていたりする、という、これもまた一つの事実。
「——と、ここで言ったところで蛙鳴蝉噪だけど」
蛙が鳴き、蝉が騒ぐ。まさに今の山小屋の有様だ。こんな山奥で、微妙な年齢の男女が、よもや核談義をして憂いているなど、世界は知りもしない。
「ここは確かに、それに事欠きませんが——」
と、前置きした具衛が、
「祈る事は何処でも出来ますから」
などと、遅ればせながらも仮名の前言に肯定を示した。
人を知ろうとしない、理解しようとしない、そのすれ違いこそが戦いを生み出す。難しく語られがちな世界の際どい均衡は、実は一人ひとりの考え方の変化で、良くも悪くも簡単に変わってしまうものだったりするのだ。
仮名に対する見方が少し変わった事は、あえて口にしない具衛だった。
「一人で行っても味気ないのよ」
「は?」
昼間は蝉が賑やかだが、夕暮れが気持ち早くなって来たためか。ヒグラシに続いて今度は、林間の向こうに見える田んぼの方から蛙の声が大きくなり始めた。文字通りの蛙鳴蝉噪の最中で、仮名が唐突に話を戻す。
「リゾート」
「はあ」
——盆踊りの話だったっけ?
と、具衛は勝手に脈を早くする。
「人の手が、加えられ過ぎた楽園など、紛い物だ——」
とか、突然何かの劇中めいた切り口上で言い放った仮名が、
「——何てね」
などと、一拍置いて、目を瞬かせる具衛をまた現実に引き戻す。それに、
「はあ」
と、曖昧な相槌を打った具衛に仮名が、
「一部の特権階級しか得られないベネフィットに飽きた」
と今度は、冷めた声で明け透けな言い方だ。
「——って言ったら、大抵の人から反感を買うんだけど」
その、あえて切られに来るような仮名が、また勝手に寂然とし始めた。最近の具衛は、それを看過出来なくなっている今日この頃。
「古代ローマの貴族みたいだと言ったら、逆鱗に触れますか?」
「無遠慮に喉元に手を伸ばされた感覚はあるかも」
仮名は小さく噴いた。
不作法に切りたくないが、そうしないとこの小難しい女は、それを止めない。具衛の微妙な匙加減は受け入れられたようだった。それを端に、仮名は自分の喉元に片手を伸ばすと、そろそろと摩り始める。それをしばらく摩ったかと思うと、
「——最近ね」
と、思い至ったかのように、少し重そうな口を開き始めた。
「営みの中で、人々が育んで来た情景や節目に興味が湧いて来て、ね」
足繁く山小屋を訪ねるのも、そうした心理の表れだ、とか。
「これまでは、吐く程じゃなかったけど、食べて来た事には違いないし」
美食をたらふく堪能するため満腹になるとわざわざ吐いた、と言われる古代ローマ貴族の揶揄は、当たらずも遠からずだったようだ。
「そうした世界を全否定する訳じゃないけど——」
その世界が生み出す利潤で、世に利益が分配されれば、という向きもあったらしい。が、結局は、
「利益は一部の者に搾取されがちだし」
世の中全体を潤す事には必ずしも繋がらない。つまりは、
「慈善事業の安請け合いをしていたようなものよ」
と、吐き捨てた。先日の花火大会での観賞プランなども、
そう言う事——
だったのか。具衛は、何処かしらぼんやりして、気乗りしない様子だった仮名を思い出した。そしてそうした懊悩は、世に利益の分配をせがまれる程のセレブである事を確定づける。更に言うなれば、仮名は断じてそれを楽しんではいない、という事だ。が、やはり田舎の盆踊りなど、
「雑多で猥雑に見えると思いますけど」
それこそ味気ない祭りでしかないだろう。具衛ですらそう思う節があるのだ。世間知らずのご令嬢の単なる、
「珍しいもの見たさと言いたげね」
などと図星されると、答えを用意していなかった具衛は、迂闊にも曖昧に目を泳がせる。
「それは否定しない。けど、心を寄せる向きはあるのよ」
と言う仮名のその妙な潔さは、少し怯んだ具衛の、心地良い何処かを不意に掠めた。
「一人で行くには、どうしても敷居が高くて——」
そりゃまぁ——
そうだろう。いきなりホテルのスイートルームに連れ込まれる田舎者然りだ。
「ユミさんがいるじゃないですか?」
取り戻した具衛はすかさず、花火大会で紹介されたアラフィフの淑女を持ち出した。が、
「叔母さんは家庭持ちだから。休暇は家族水入らずだし」
と、にべもない。
「そうですか」
「そうなのよ」
そこでまた、会話が止まる。
——それで何で?
どうしていきなり、二の矢が自分に向けられるのか。具衛はそこが、どうしても理解出来ないでいる。尋常ならざる美貌の持ち主と接点を得られる事は、確かにこの上ない喜びだ。が、それは同時に途方もない気遣いを要する。それだけ疲れるという事だ。少しでも自分の価値を高く見せようとする本能が、
そうさせる——
のだろう。いい中年が何を今更。つまらない意地や見栄に、勝手に翻弄されている。そんな愚かしさなど、自分自身が一番理解しているのだ。が、どうしても沸々と湧き上がる、良からぬ思惑と相対する事は、
ホント——
何かの修行みたいだ。動悸を誘い、心肺機能を疲労させる。具衛はこっそり、大きく嘆息した。
八月に入ると、早まった夕暮れに比例して影が延びるのも早い。盆地内も既に全域が影っており、直視に耐え得る明度になっていた。空は依然、高く青く明るい。が、そのコントラストが過ぎ行く夏を微かに思わせ、見た目にも感じる涼しさが、何となく僅かに切なさを帯びる。
夏の思い出——。
目を遠くに泳がせる具衛の頭が、無意識にその記憶をまさぐっている。この男こそ、大した思い出のない男だった。特別な所に出掛けた事もなければ、祭りなど行った事がない。友と言える人間もおらず、それでも外で一緒に遊ぶ事はあったが、周りがゲーム全盛期に突入すると、それを持たない彼は忽ち独りになった。
ややあって、また口火を切るのは仮名だ。
「あなたは休みの過ごし方はどうなのよ?」
「私は二日に一回仕事ですから」
「そうじゃなくて」
今じゃなくて今までよ、と、僅かに声色に苛立ちを見せた。
「社会に出てからは、余り休みに縁がなかったので——」
普段の冴えない見た目を更に盛るような、具衛の景気の悪さだ。
「純粋に旅行なんてした事は——うーん」
「じゃあ働き倒して今まで生きて来たって事?」
「そう、なりますか」
旅行と名のつく行動に記憶が辿りつかなかった。
「出歩くと日頃の疲れが抜けないような気がして、余り好きじゃなかったような——」
人ごとのようにつけ加えた具衛が最後に、
「それこそ独りですから。遠出はやっぱり味気ないというか」
と、仮名の意に添ったかのような締め方をした。
「そうなのよねぇ——」
仮名もそこは同調する。
「じゃ、どうしてたの? いくらなんでも無休って事はないでしょ?」
「家でテレビを見たり、本読んだり。今と変わりません」
「そうなるのよねぇ。やっぱり」
追認する仮名だ。が、具衛が口にした内容をそのまま額面通りに捉えた仮名の一方で、具衛はその実中々の本の虫だった。子供の頃、偶然にも家の近くにあった市立図書館は、ゲームを持たない具衛に許された唯一の娯楽にして、今の彼の骨格の大部分を作ったものだ。
「本ってどんなの読むの?」
「え?——何かお見合いみたいだな」
照れる具衛に、すかさず仮名が「何言ってんの」と突っ込んでくれた。
「お見合いは、向かい合ってるからお見合いなのよ」
と、身体を捩った仮名が、
「今は見合ってないでしょ」
などと、わざわざ強調する。それのせいで目線が絡み、ギクシャクする具衛だ。
「また。いい加減慣れなさいよ」
それをすかさず、仮名が釘を刺した。確信犯的なその動きが内心悔しいが、なされるがままの体たらくだ。美人は三日見れば飽きるとか、
——それをぬかしたヤツ連れて来いってんだ。
動揺の中で、具衛が密かにその格言を全否定する。それにしても我ながら、つい妙な迂闊を吐いてしまったものだ。
「あなたがギクシャクするのは勝手だけど、ギクシャクは伝染するのよ」
悪ふざけに調子づいた仮名が、
「一々動揺してたら、思いがけない何かですれ違うかも知れないじゃない。そんなの嫌でしょ? お互い」
などと捩じ込んでくれたそのしれ顔が、急に黙り込んだ。悪乗りが過ぎて恥ずかしくなったのか。裏を返せば丁寧に思いを紡ぎたい、
——って事か?
思わず唾を飲み込む具衛の近くで、小さな舌打ちが聞こえて来た。そちらの方を覗き見ると、床に置いた手の指が一本、小刻みに忙しく動いている。しかも何となく、耳が赤くなっている、ような。
——うわ。
また何処の地雷を踏んだのか。よく分からない具衛の傍の女は、今にも爆発しそうな勢いだ。これは何か、
——気を回せ、と?
いう事らしい。それに何となく気づきはするが、慣れろと
——言われてもなぁ。
具衛にしてみれば、毎度有名女優と一緒にいるような感覚だ。簡単に慣れるものではない。その上女優と会話を紡ぐなど。あり得ないにも程がある。
深みにはまると、それこそ仮名が言った通り、不測の事態が何を起こしたものだか知れない。
「——ほ、本は、気になったものは何でも読みます」
不器用全開の具衛が、無理矢理話を本線に引き戻した。
「最近は小説や漫画が多いですかね」
「漫画って、見当たらないじゃない」
仮名は本線に戻る事を許したようだが、追及の手は緩めない。確かに本どころか、何もない部屋に住んでいる具衛だ。
「借りるんですよ、図書館で」
「漫画が借りられるの?」
「ええ」
その珍しい図書館が、何故だか広島にはあった。
「いいですよぉ、図書館は。そこに住んでいれば只で借りられて、とても有意義で優れた公共財の一つです」
嬉しそうに手放しで褒めちぎる具衛は、学校よりもそこへ通った口だ。実はこの男はこの年齢にして、漫画込みだが既に軽く万を超える書物を読み込んでいたりする。それが知識の獲得に繋がったかどうかは別として、今は詳細を省くが、苦難の連続だった彼の人生を、図書館や本は大きな存在感で支え続けたと言っていい。
「まぁ私も本は好きだけど。それを読むだけの休みってのもね——」
その思わせ振りのようなものを繰り出す仮名に対して、
「私は本だけでも十分ですが」
などと、深い詮索なしに、悪気なくぶった切る具衛のこの辺りは、天然にして鈍い。当然、顔色が急激に悪化する仮名だ。そのまま俄かに押し黙ると、やや尖らせたその口から大きな溜息が出た。それが無視出来る音量ではなく、
「な、何ですか?」
と、及び腰の具衛だ。
「だからつき合えって言ってんのよ!」
「えっ!?」
「あなたは抜けている時はホント抜けてるわね!」
今度は何やら怒っている。具衛は慌てて、
「えっと、盆踊りでしたっけ!?」
と、話の筋もクソもなく、また無理矢理帳尻を合わせた。
「そうよ!」
具衛を一睨みしてくれた仮名は、今度は恥ずかしそうだ。耳と頬の辺りが、僅かに朱に染まっている。のだが、具衛の目にそれは映らず、逆に際立つのは情緒の激しさのみだ。
「仕事があるから遠出は無理でしょあなたは!?」
「私の都合、ですか?」
「他に誰がいるのよ?」
気恥ずかしさの暴走、とでも言うものだろうか。その勢いで押し切る仮名が、
「さっきも言ったけど、整えられたリゾートはもう飽きたの! 批判したけりゃしなさいな!」
独りでぼんやりするのもいいが、折角の休みだ。全部独りなのは余りにも味気ない。一度ローカルな祭りに行ってみたいと思っていた。その土地の祭りに行くのなら、その土地の人間に連れて行ってもらった方がいいに決まってる。等々。
で、出るわ——
出るわだ。一気に捲し立てた、その無理矢理のやっつけ繋ぎ感も中々不器用な事だが、これ以上頭に血を上らすとまた何を言われるか分からない。怒っているような恥ずかしそうな、混沌としたごちゃ混ぜ感の勢いそのまま、
「案内しなさいよ。ユミ叔母さんも誘ってみるから」
と、言うなり仮名は立ち上がった。
「花火大会の時は変なケチがついた事だし、今度こそちゃんと祭りを満喫したいでしょうが」
今度はあなたがホストよ、と言いたい放題の仮名は、具衛の返事を聞く気もない様子で、
「今日はもう帰る!」
と、啖呵を切ると縁側を後にした。
「あ——」
かける言葉が思い浮かばず、呼び止められなかった具衛が、間抜けな断末魔のようなものを吐く。その元凶の女が、庭先に止められた代車に乗り込んだ頃になって、ようやく金縛りが解けた。
「土地の人って言われても——」
来たばかりで何にも知らないのに。ようやく独り言ちた具衛が、その車が出て行くのを呆然と見送る。トレードマークとも言うべき赤のアルベールは、具衛の助言に従い、ナンバーと塗色を変更中だ。今のそれは代車である。梅雨時の事故後に乗っていた独国のハイグレード車も結局代車だったそうだが、今回のそれは英国が誇る高級車メーカーのハイグレードクーペだ。
代車でこのクラスの車を——
乗り回すなど。仮名は見るからにプライドが高そうなくせに、代車を用いる事になった要因とその助言をあっさり受け入れる素直さも共存する。プライドは誰に対しても高い事は容易に推測出来る。が、
素直さは——
どうなのか。果たして万人向けなのかと、思わぬ疑問に触れてしまうと、またもや少し脈が早くなった。もし仮名の普段がプライドの塊で、限られた対象に対してのみ素直な一面を示すのだとしたら。具衛にしてみれば、これは一大事だ。
ホント——
どういうつもりなのか。
既に立ち去った代車が止まっていた庭先を呆然と眺めながら、具衛の頭はまた堂々巡りを始めた。
然して盆休みは、意外な早さでやって来た。世間が盆を迎えると、会社勤めの真琴も盆休みに入った。のだが、気がつくと既に後半戦に入ってしまっている、そのある夕方。自宅リビングで浴衣を着込み、真琴は背筋を伸ばしてソファーに座っていた。背もたれに身体を預けると、帯が潰れてしまうためだ。ソファー前のテーブルの上には、盆休みで一時帰省していた由美子が、昨日持ち帰った東京土産の茶菓子と、グラスに入った冷茶が置かれている。それらを飲み食いしながら真琴は、由美子の浴衣の着つけを待っていた。
浴衣は呉服大手の路面店からレンタルしたものだ。基本的に物を持ちたがらない真琴に、普段着ない物を買い漁る趣味はない。大抵の物はレンタルや、最近流行りのサブスクで済ませていた。それはともかく、和装に慣れている由美子にしては、いつになく着つけに手間取っている。
一〇日間ある真琴の盆休みの前半戦は、自宅に籠りっ放しだった。テレビを見たり、読書をしたり。そこは先生と同じだったが、武芸に嗜みのある彼女の家には竹刀と木刀と袴がある。それを着て稽古に汗を流したり、電子ピアノを弾いたり。普通の人が自宅で嗜む事が余りない趣味や気ばらしの術を、真琴は持っていた。一通り満喫して人心地すると、昼間からのんびり入浴して、バスローブ姿でそのまま昼寝をしたり、映画を見たり。夜になると、由美子の作り置いた物を冷蔵庫から出して食し、不足とあらばある物で手早く作るなどして食べる。後は眠たくなるまで晩酌タイムに突入し、そのままソファーで寝落ちする。それを何回か繰り返すと、盆休みの前半戦は終わっていた。
一見してダラダラ生活だが、額面通り行かないのが先生同様、真琴の食わせ者振りだ。仕事の役柄故、情報を拾い上げる癖はどんな状況下でも変わらないこの女は、これで人の上に立つ者としての責務をそれなりに理解し、その務めを果たして来た。例えばテレビは、衛星放送で数か国のニュースや情報番組をザッピングし、最新情勢をアップデートする。読書も新聞がメインだが、タブレットで購読している世界各国の新聞や、各種学術分野で気に入ったオンライン週刊・月刊誌を読み漁る。日本国内の情勢は仕事や移動中に押さえるため、それらのものは見当たらず、娯楽など当然ない。木刀を振る音は、とても妙齢の女が振っているとは思えない鋭さで、しかも普通の木刀の二倍はあるようなゴツさである。ピアノはクラシックからポップスまで、気に入った楽曲は耳コピで覚えていて、実は殆ど即興だ。ポップスなどは歌もつくが、声の出し方を知っているこの女は中々の美声の持ち主でもある。自宅の床や壁は、当然特殊防音防振加工である事は言うまでもない。バスローブ姿は日本人らしからぬ着こなし振りで、鍛えられた身体つきに弛緩は皆無だ。有りがちな短足ガニ股とは無縁の、腰高で四肢の長いモデル体型は、非常に均整がとれている。すっぴんながら色白で肌ツヤも良く、文字通りの見目麗しさだ。洋画は日本語字幕不要でネイティブの台詞を堪能出来、夕食は抜群の手性で、冷蔵庫内にある物で、その時々のイメージを見事に再現出来る。本来なら家政士がいなくても家事は人並み以上にこなせるが、仕事ですり減らす分、日々の生活向きの事で由美子の支えは必須だ。また晩酌は、実はいくらでも飲める酒豪だったりする。が、普段は仕事を気にして所謂一合ラインを心がける、自己管理徹底型だ。
こんなダラダラ生活をしていた真琴の、隙のない生活振りにも、やはりそこは人並みにアキレス腱が存在した。最後に出てきた酒だ。日頃は一合でも、休みともなると反動でずるずる飲んだくれる悪癖があるこの女は、いつも由美子の脅し文句というか、呪文めいた忠告に晒されていた。が、その魔術師由美子も、真琴が与えた盆休みで夫のいる東京へ年を憚らずルンルンで帰省すると、呪文を唱える者がいなくなった酒飲みがどうなるかなど、考えるまでもない。昨日広島に帰って来た魔術師は、見るからに艶やかな一方で、片や酒飲みは、然しもの美肌もここ数日の酒乱で流石に少々くたびれ気味。呪文は効いていないようで効いていた事を再認識した真琴だった。
「お待たせ致しました」
ようやく着つけを済ませ、真琴の前で軽くお辞儀をする由美子の品の良さもまた、今更説明不要だ。何処となく申し訳なさそうなその表情の裏で、何となくホクホク顔を抑えつけているような面持ちが透けて見える。
「サイズが合わなかったかしら?」
真琴が訝しげに尋ねると、
「いえ」
という由美子は、何故か恥ずかしそうだ。
「少し、細くなったようでして」
「あらそう。もしかして暑気あたり? それとも帰省疲れ?」
気遣う真琴にも、
「いえ、そうではなく——」
などと、魔術師がいつになく歯切れが悪い。答えにくそうにモジモジと。妙に腰つきに落ち着きがないというか。顔色は特に問題ないようで、それどころか無理に込み上げて来る嬉しさを噛み殺しているかのような。
「——食が落ちたのは、確かにそうなのですが」
その理由が、とまた思わせ振りの由美子だ。
「どうしたの? 向こうで何かあったの?」
真琴が核心に迫ると、
「生の夫を見ると、胸が詰まって」
その思いがけぬ魔術師の呪文に、飲み過ぎで大人しくなっていた酒飲みの声が急激に冷えた。
「はあ?」
「普段の三分の一も食べられなかったものですから」
ナヨナヨと身をくねらせる由美子を前に、げんなりする真琴だ。
「そ、それは良かったわ、ね」
思わぬ惚気に内心、
——心配して損したわ。
と呆れる一方で、すぐに自分の身勝手さを反省する。この仲睦まじい夫婦を引き離したのは、外ならぬ真琴だ。由美子にしても、熟年の身ながら初の単身赴任で、その負担の大きさに説明はいらないだろう。真琴は、つい癖で出そうになる舌鋒を収め、気遣いに務めた。
「じゃ、ユミさん行こうか」
真琴は生来、人の名前を略して呼ぶ事はない。名前の呼び方一つが人の尊厳を著しく損ない兼ねない事を、それなりの位置で人の上に立つこの女傑は理解している。要するに、
——この調子で迂闊を吐かれちゃ堪らないわ。
とは、先生に会う時の役柄モードに切り替えさせるための婉曲だ。真琴は気遣いも早々に立ち上がると、
「久し振りに胸の高鳴りが治まらなくなってどうしようかと、あ、お嬢様? お嬢様!」
などと、ソファー前で独演を続ける由美子を放置し、ツカツカと部屋を後にする。今日は、先生の町の盆踊り大会だった。
「夕方五時半に、先生の山小屋だから急がないと」
巾着を手にすると、玄関でフラットシューズを履き、下駄を手に持つ。
「下駄はお持ちになられるのですか」
「下駄で車は運転出来ないでしょ」
そのまま素気なく玄関を出る真琴だ。
「車ではシューズ履いておくわ。あなたは下駄でよくてよ」
下駄履きでの車の運転は、実は道路交通法に抵触する可能性が高く、更に詳細では各都道府県公安委員会が定める細則で大抵は禁止されている。ブレーキ操作を始めとする、
「足元の操作が危ないから」
と、真琴が気にする確実性の低さが問題視されての事だ。これは下駄に限らず、ヒールの高い靴やサンダルなども大抵禁止されている。が、世間の認識は低く、サンダルで運転する無責任なドライバーは多い。
「お、お待ちくださいまし」
由美子が慌てて用意されている下駄に足を突っ込むと、カラコロと音を立てて小走りに真琴に追いすがる。が、真琴は早くも玄関の向こうだ。由美子が更に慌ててスライド式の重厚な玄関ドアを開けると、最近の学校に見られるオープンスペース並の廊下が展開しており、その端にガラス張りの塀が見えた。その向こう側には緑地が広がり、更にその数十メートル向こう側には、やはり緑地と塀と廊下が見える。よく見ると、緑地と緑地の間は空洞だ。
実はこれを真上から見ると、数階層下に降りる度、緑地が段々畑のように中央部の空洞に少しずつ張り出して行く。最後は緑地がなくなり中央の空洞だけになると、一番下の中庭まで真っ逆さまという構造だ。大部分の階層が、凄まじい高さを作り出す中庭直結の空洞に直面するストレスを受ける一方で、極高層に住まう事を許されたセレブ住民には緑地の緩衝地帯がついているそれは、遺跡や山城跡に見られる空中都市の趣きがある。由美子の下駄の音が閑散と響くそこは、中四国一のタワーマンションの最上階で、真琴はそこの住民だったりした。
「お、お嬢様!」
小走りにならざるを得ない由美子に構わず、足元が軽い真琴の歩速は明らかに速い。差は広がる一方で、真琴は既に階層の端にあるエレベーターの前まで肉薄している。このEVも高層階世帯専用のものだ。大抵殆ど待ち時間を要しない。由美子がようやくEVまで到達すると、ちょうどそのドアが開いた。ドアの上にある階層表示は、六〇階の掲示。
「お、お待ちを」
少し息を切らす由美子に対し、ついに我慢出来なくなった真琴が、
「惚気で熱くなってるだろうと思って、先に車に行ってエアコン効かせとこうと思ったのよ」
と、嫌味を吐いてしまった。
「まあ、大人げない」
「そう?」
などと、軽い応酬を交わす二人を乗せたEVのドアが閉まると、次にドアが開いた地下駐車場で二人が降りるまでに、三十秒もかからなかった。駐車枠も近く、やはり高層世帯向けの個別枠へ向かう。件の代車に乗り込みエンジンスタート後、スロープから地上に駆け上がった先の出口は、車の走行音が頻繁な市街地のド真ん中だった。取付道路から街の大通りに直結する先には、半感応式信号交差点が設置され、それが青になると周囲の交通に対する優先権の恩恵を受けつつ交差点を抜ける。と、一路目指すは、先日暴走車に絡まれた広島湾岸を東西に走る【広島高速道路】だ。その最寄りICまで五分とかからないマンションの立地が、この上ない利便性を有する事は言うまでもない。
「この分なら、約束の時間に間に合うわね」
「一体どちらまで?」
「だから山の隠れ家までだって」
このセレブ達の向かう先が、件の山小屋だと言ったら、驚かない人はいないだろう。この圧倒的な格差を、先生はまだ知らない訳だ。いや知らぬが仏、と言うべきか。真琴が盆踊りなどに先生を誘った時、その男が懐疑的な何かを感じとったのは、ある意味当然と言っていい。無理矢理素性を隠しているとはいえ、その振舞はセレブ真琴だ。その断片を拾い集められれば、ある程度の推測はされて当然。それぐらいの予想をしない真琴ではない。大抵の俗人なら、目を眩ます程の財持ち故の、その苦悩など理解してもらえない事もまた当然の身だ。そうした反応に慣れているからとて、機微に疎い訳ではない。むしろその逆だった。心を寄せる向きはある、と言ったのは本心だ。
実のところ、真琴が盆踊りを知り得た発端は、その関係者が協賛金出資の依頼で勤務先を訪ねて来た事による。企業と住民。持ちつ持たれつ。より良い関係で有りたい、と願った真琴が個人的にそれに出資したのは、赴任間もない春先の事だった。日常の多忙に埋没していた記憶でしかなかったそれが掘り起こされたのは、チラシなどではなく、開催前に協賛金出資者宛てに届いた正式な案内状である。だから花火大会の時と同様、今回も半分はつき合いだったり
——するのよねぇ実は。
という事なのだが、それをひけらかして訪ねるなど、真琴の性分ではない。だからと言って、後々のためを思えば全く顔を出さない訳にも行かず。かと言って、一人で乗り込む度胸も実はない。かくいう真琴は、実のところ、協賛金出資企業の代表者の代理にも成り得る身だ。本来ならば、企業のお膝元たる自治体住民と懇親を深める絶好の機会を逸する事なく、堂々とその役を振り撒くべきなのだ。が、真琴はそうしたスタンドプレーを好まない。
人の上に立つ人間にしか出来ない事があるのは、
理解してる——
し、その役目を果たせとは、よく聞かされた帝王学だ。
——けど。
真琴の本性は、上の世界で顔を広め、口先三寸で人を動かす王と言うより、自らを見つめ自己を頼りに突き進む士だった。だから上に立つ者として、同じ人の顔を見るのであれば、名もなき人々の顔を見て、そうした日常の喜怒哀楽に心を寄せたい、という思いで生きて来たつもりだった。
——んだけど、な。
予想通りの懐疑的な先生のスタンスに、慣れているとは言え、意外にも胸の奥に鈍い痛みを感じたとは、ここだけの話だ。
——今更だわ。
人に理解を求めようとする自分に驚きながらも、真琴は高速ICを通過する。と、一路通勤コースを浴衣姿にサングラスの出立ちで、代車のアクセルを踏み増した。
その夕方。
盆踊り初日を迎えた町において、具衛は山小屋で仮名を待ち受けていた。町の盆踊り大会は二日間の連続開催で、どちらかと言うと二日目の方が盛り上がるらしい。が、明日は具衛が仕事のため、初日に出掛ける事になった。しかし、
「ホントに来るのかねぇ?」
正直、疑わしい。いくら独りが退屈とは言え、セレブが田舎町の盆踊りに参加するなど聞いた事がない。例え本当に来たとしても、すぐに退屈するだろう。町の商工会主催といえども、的屋も来ないような自治会レベルの祭りなのだ。もっとも屋台などは、地元住民の様々な組織や寄り合いが出すようだが、どれもこれも月並み感が強く、到底セレブを満足させられるとは思えない。
「うーん」
居間の卓上で唸り声を上げながらも、相変わらず図書館から借りている本を読んでいると、例によって如何にも高級スポーツカーと言わんばかりのエンジン音が、その耳に届き始めた。そして例によってすっかり慣れた動きで、それが山小屋の庭先までバックして来て止まる。
「——ホントに来たよ」
そう言えば前にも
こんな事が——
あったような。
首を捻りながらも本を隣の物干し部屋にある小棚に収めた具衛が、縁側の靴脱石に置いている突っ掛けを履いて庭先に降りる。と、そこへ、右前ドアが開いて、布の切れ端のような物がチラついた、ように見えた。
——ん?
それから僅かに遅れる事、コンマ何秒。突然出て来たのは、見事な御御足だ。
「うわっ!?」
思わず視線が釘づけになりそうになるのを、無理矢理斜め上に頭を振ったところで仮名が降車して来た。
ま、また——
浴衣だ、と気づいた時には、もう不意打ちを食らった後だ。
「また、どうしたの?」
普段の仮名は、車を止める時、山小屋から見てその目の前にある庭の左端に寄せて、バックで下がって来る。常に縁側の右端に腰を下ろすので、なるべく座る目の前の視界を確保したいがための癖だ。それに仮名のプライベートカーは、仏国製の左ハンドル車な訳で、左づけだとバックもしやすい。が今は、ナンバーと車体色を変更中で、その代車だ。そしてそれは、英国製の高級スポーツカーの右ハンドル車だった。そのことをすっかり失念していた具衛は、右ドアから突然出て来た脚線美に肝を抜かれてしまった、というザマだ。
その神々しさ故、直視に耐え難い仮名の造形美。より正確に、見てしまうと目をひっぺがすのに多大な労力を要する仮名のそれを、不意打ちのようにかまされるなど堪ったものではない。殆ど出会い頭の事故のような衝撃ものだった。
「いや、虫が」
それでも辛うじて具衛は、遅ればせながらも頭上で手を振り、わざとらしく虫を追い払う仕種をする。片や、
「そう」
と、事もなげに答えた仮名は、
「ちょっと物干し部屋借りて良いかしら? 着崩れ直したいんだけど」
などと、尻から腿の辺りを軽く手で撫でつける仕種をしてくれるものだから、
——また!
堪ったものではない。
元来直線的で身体のラインが出にくいのが和装の特徴の一つ、の筈だ。が、薄い浴衣の事。加えて均整のとれたモデル体型の仮名の事だ。それをわざわざ撫でつけられる事で、不意に浮き彫りになる玉体の片鱗。そしてそれをまた不用意に目撃してしまった、具衛の目線のやり場の苦悩。濃青を基調とした水色の花車柄の浴衣は、男の具衛の目では、何処が着崩れしているのかさっぱり分からない。相変わらずの見事な着こなし振りは、それだけで目を奪われて困るだけだ。加えて一部分なりとも身体のラインが露わになるなど。大抵の愚かな男なら、垂涎もの以外の何物でもない。
「ど、どうぞ」
内心激しく動揺しながらも、外面はどうにか取り繕った、つもりだ。その右手は頭上でわざとらしく仮想の虫を追払いながらも、左手は居間の隣部屋を示す。
「あなたにしか見えない虫かしらね?」
「お盆だから虫も還って来ているんでしょう」
少し遅れて助手席からユミさんが降りて来ると、こちらは紺色を基調とした白の紫陽花柄で、やはり良く似合っていて、また目のやり場に困る。
「まあ、本当に山小屋ですこと」
「でしょう?」
しっとりとはしゃぐ二人の淑女をよそに、二人が居間の東隣にある三畳間に入るまで、虫を追い払う振りに余念がなかった具衛だ。
今ではすっかり干物を乾燥させる部屋として定着したそこは、合わせて洗濯物も干すようになり、湿気を嫌う物を置く部屋になっている。もっともそれを知る人間は、具衛と仮名ぐらいの事だ。
——これでも慣れた方なんだがなぁ。
以前なら、振りすら出来ず固まっていた。それだけでも格段の進歩だ。二人が部屋に入り身支度を整え始めると、具衛は身の潔白を示すため、物干し部屋から距離を置いて縁側に腰を下ろした。そこはいつも、仮名が腰を下ろす定位置だ。が、座ってみると、自分が借主の家なのに、そこだけは仮名のプライベートスペースのようになってしまっている事に気づく。慌てて縁側中央の靴脱石辺りに座り直した具衛が、
「——あ」
などと、間抜けな声を出した。今更気づく大問題だ。それは、これからこの二美女を引き連れて、
——祭りに行くのかよ。
とか言う、文字通りの何を今更感。この男の普段を、「よく抜けている」と評した仮名は正しいだろう。土壇場に冴える事でバランスをとっているかのような具衛の日頃などそんなものだ。俄かに纏う厭世観にも似た達観も手伝い、相当に影が薄い抜け作。そんな男が、浴衣姿の二美女を引き連れてこれから祭りに出掛ける事の不自然さ。一言で、悪い意味での突出だ。田舎の事であり、うるさい蝿に纏わりつかれる事はないだろうが、二千人少しの小さな町の事。住民同士の顔の近さは言うまでもなく、よそ者を警戒する保守性と排他性もまた、一般的な田舎の事だ。そこへ新参者の冴えない変人が、美女を侍らし祭りに押しかける構図のそれは、誰かに対して挑戦的で挑発していると言えないか。
——有り得ねぇ。
何を言われるか分かったものではない。
——誰に?
誰かにだ。
「こりゃあ——」
弱った。
「どうしたの?」
「わっ!?」
物干し部屋の襖が予想外に早く開いた。独り言を思い切り拾われた具衛が振り返ると、お面を被った二人が、縁側に近寄って来る。浴衣を着た時の所作に慣れているのか、殆ど物音を立てない二人だ。それがそれぞれ片膝をついてしゃがんだかと思うと、靴脱石の上にある下駄に足を通して庭へ出た。その二人が二人共、寸分違わぬ洗練された柔らかい所作で、またしても思わず目を奪われてしまう具衛だ。
「また、ポケーっとしてる」
先に庭に出ていた仮名が、両手を腰に当て、仁王立ちで軒から庭に向けてかかっているタープ越しに、具衛を見据えて呆れた。外はまだ明るく、外から室内への視認性は悪い筈だが、今の具衛はそれだけ分かりやすい、という事らしい。
「——え!? いや、お面どうしたんです?」
無理矢理話をそらして、事実気になったお面の事に触れる。一見して狐のお面だが、口から下半分がない。半狐面と呼ばれる半面だ。リアルな物ではなく、柔らかい印象で何処となく愛嬌のある漫画タッチのお面を、仮名が被る事のまた意外。
「素顔でよそ者がうろついたら、土地の人が動揺するでしょ」
仮名は仮名で、自らを取り巻く懸念は当然に認識しているらしかった。先日の花火大会の待ち合わせでも、駅前ロータリーで異彩を放っては注目されていた仮名だ。それがこの女の日常であることは疑いようがない。
「まぁここの祭りは、煩わしいのはいないと思うけど」
それに対する免疫や対策には、慣れていて当然と言えば当然だろう。
「盆踊りだし、仮面舞踏会のバタフライマスクじゃ流石に浮いちゃうでしょ」
で、ネットで探してみたら、可愛らしい半狐面があったとかで、少し得意げの仮名だ。確かにこれなら美貌を振りまいて、無駄に周囲に動揺を与える事には
ならない——?
のか。
——いやいや。
立居振舞のよさは露見したままだ。やはり周囲に、良くも悪くもそれなりの影響を与えるものと考えておいた方がいいだろう。
「確かに顔を晒すよりはいいと思いますが——」
大体が全体的な見映えが良過ぎる、との続き文句は脳裏に留めた。また土壺にはまっても困るし、ユミさんもいる事だ。その人に冷やかされて結局機嫌を損ねるのは、多分具衛ではない他約一名。
「——でしょ? 前回のトラブルめいたのはやっぱりちょっと残念だし。折角だから、余計な邪魔をされる事なく楽しみたいわ」
ねえユミさん、と仮名が同じく半狐面を被っているその人に問いかけたところ、
「そうなのよねぇ」
と、ユミさんも深く同意を示した。やはり仮名と似たような経験を有するものらしい。確かにこのアラフィフも、納得の容貌ではある。
「多少のケチは、またつきものかも知れませんよ」
「あら、なんで?」
「私は嵐を呼びがちなので」
「あら、自分で!?」
「【嵐を○ぶ男】を語るのですか!?」
具衛以外が、古い邦画のタイトルに反応して噴き出した。
意外に——
古い時代を知っている、などと分析していると、
「ちょっと、古臭いとか思ってんじゃないわよ!」
と、例の如く仮名に見透かされ、地雷を避けるために「いやその」などと、無様な否定をするはめになった具衛だ。
「あなたの波乱なんて、巻き込まれたうちに入らないわ」
「え?」
「だって結局、あなたが一人でケリをつけるじゃない」
こう言う時は、大抵嫌がられて来た記憶しかなかった具衛だが、
「だからホントのところ、別に何とも思ってないんだけど」
それは——
随分と手放しに褒められたものだ。
「でもやっぱり、ケチはないに越したことはないし」
そんな割り切り方が如何にもあっさりしていて、本当に
——男らしい。
と、具衛は密かに失笑した。
「今回はあなたに預けたんだから。ほら、さっさと案内しなさい」
軽々しくも言う事を言った仮名が、具衛を囃し立てる。
「バスで行くんでしょ?」
冗談半分に捉えていた具衛としては、そのはしゃぎ様は意外で、
「私は今回は、私服で行きますよ。浴衣はスカスカして落ち着かないんで」
などと、渋々立ち上がると、普段着のまま出かける準備を始めた。
「見れない事ないのに。まぁ今回は用意してないけど」
高飛車な物言いもすっかり馴染んで来たが、いざ頼られるとなると、
これはこれで——
やはり中々重荷だと、今更思う具衛だ。
予感はいきなり、会場に向かう道中から的中した。
——う、うるさい。
役所の出張所で主催者運行のバスを降りて見送った具衛は、
「賑やかですねぇ」
「会場の凝縮感が想像通りだわ」
等々、口々に好きな事を吐いている半狐面の二人を横目に、早速軽く呆れていた。信頼されたのはよかった。が、
——少しは空気を読めんのかこの人は。
と愚痴る程に、仮名はイラ症だった。
バス停でバスを待っていては、
「遅い」
「時間あってるの?」
「大体あなた、時計持ってる?」
と、いきなりせっかち振りを発揮。
「持ってますよ!」
ほら、と面倒だから腕時計毎その眼前に突きつけてやると、俄かに押し黙ったのも束の間。鼻で嘆息する態度のデカさだ。
——やれやれ。
と思いきや。乗れば乗ったでまた、
「遅い」
「ホントのどかねぇ」
「もう少しキビキビ走れないの?」
などと、人目も憚らずデリケートな発言を連発。
「バスってのは、そうしたモンなんですよ!」
慣性の法則の影響を強く受ける乗り物が、頻繁に動いたり止まったりを繰り返すのだ。急な動きは乗客を危険に晒す。精々明晰なその頭脳なら、
——分かってるだろうに。
知識と経験は、やはり異なるという事なのか。
降りる時は降りる時で、
「何、もう降りるの?」
「意外に近いわね」
「お金は要らないの?」
とか、ズケズケとズレた事を口にしては、周囲の失笑を買ったものだ。極めつけは、
「バスに乗るのは初めてなのよ」
などと吐いて、驚かせてくれた。
「り、陸上交通の巨頭ですが」
「お生憎様で無縁なのよ」
ますます高まるお嬢様感。
「ごめんなさいねぇ。初めての事ではしゃいだものでして」
ユミさんがこっそり囁いて、更に失笑を誘ったものだ。
「そこ! コソコソしない! 行くわよ!」
仮名に急かされた二人の従者は、慌ててその背後に追いすがる。
町の大抵の施設は役所出張所周辺にあり、盆踊り会場である町民グラウンドにしても同じだった。出張所から歩いて数分の所にあるのだが、バスは会場まで行かない。車が多くて入れないのだ。会場周辺は、それ程に人や車が溢れていた。付近にある小学校のグラウンド等、公共施設の敷地が軒並み開放されて臨時駐車場となっているが、何処もかしこも既に満車だ。止め切れない車は自然、周辺道路に溢れる構図。とは言え、辺りは駐車禁止場所ではなく、実際に車を止めたところで一般交通とは隔離されたエリアだ。何ら邪魔にはならなかった。運営バスが入れないぐらいの事だ。
「車が多いですねぇ」
「来る時は渋滞してなかったけど」
「それだけみんな早く来たんでしょう」
三人ともこの祭りには初参加であるため、勝手が分からない。それが偶然、仮名とユミさんに渋滞を回避させたようだった。二人が山小屋までやって来たルートが、北町の北縁にある高速のIC経由である事が幸いしたのだ。これが南側からの下道経由だと、それなりの渋滞にかかっていたかも知れない。であれば仮名などは、車中でギャアギャア喚いた
——モンかな。
密かにそれを想像した具衛は、またこっそり失笑する。
チラシによると盆踊り大会は、二日間とも午後六時からの筈だった。が、ちょうど開場時刻になった頃だというのに、会場付近は既に人で溢れていた。人が多くて開場を早めたのだろう。とにかく意外なのは、その人の多さだ。車の多さに比例しての事だろうが、それにしても人口二〇〇〇人と少しの、町の人間全員が集まっているのではないか。普段は何の変哲もない閑散とした辺境のくせに、目的意識を持って一箇所に集まると
——こうも盛況なモンかね。
という事らしい。
三人が町民グラウンドの入口までやって来ると、
「これは」
と、具衛は後の句が継げず、絶句して立ち止まった。グラウンドは砂地だが田舎ならではの土地の広さで、一角にはテニスコートがあるものの、それ込みで一辺がざっと二〇〇m前後ある。
「中々広いグラウンドなのね」
「そのようですね」
「あなたも初めて来るの?」
「用がないですから」
四〇〇mトラックがすっぽり入って十分余るその中央部には、全国各地でよく見る盆踊りの櫓が組まれていた。その周囲を様々な屋台が取り囲んでおり、勝手に盛り上がっている。人の多さは、明らかに町の人口以上だ。屋台の多さも町の住民以外の参加があるようだった。的屋は来ないと聞いていた筈が、どうやらチラホラそんな姿も見える。
「近くまで来ると中々の規模ね」
「そうですね」
「人が多いわねぇ」
人混みが苦手を公言する三人だ。特にユミさんは先程から、そんな事しか口にしていない。
「この町の人みんな来てるんじゃないの?」
「人口は二〇〇〇と少しですよ」
「倍はいそうね、軽く」
「ですね」
これはどうやら商工会挙げての大イベントらしい、と、仮名と具衛は共通の認識を示した。事前に手にしたチラシの質感が、新聞広告でよく見かける上質紙で、辺境の盆踊りにしては随分と気合を入れている、と思っていた具衛は、ようやくその正体に思い至る。三人が立ち尽くす入口の傍には立て看板が立てかけられており、更にそのすぐ傍にある掲示板には、協賛企業や組織の名前がズラリと記載されたポスターや、祝電や電報の類いが掲示されていた。どうやらこの力の入れようが、人出の早さと多さに影響しているらしい。
「でもまぁこれなら、よそ者が紛れ込んでも浮かないわね」
その仮名の目が、ふと掲示板の一角に止まったようで、具衛の目も
「それもそうですね」
とか、それとなく相槌を打ちながらそれを追う。が、
「さぁ入るわよ!」
と、わざとらしい気合を入れる仮名に、思いがけず背後から肩を押された具衛は瞬間で舞い上がってしまい、目を切らしてしまった。明らかに作為的だったそれは、何かに近づいた瞬間だったのか。
「まあ、子供みたいにはしゃいで」
「屋台ってものに行ってみたかったのよ」
呆れるユミさんの一言すら、耳遠く聞こえる程の仮名の浮かれ様だ。どうやら空元気ではないらしい。盆踊りこそ始まってはいないが、屋台は既に盛況なのだ。とりあえず仮名の気のままに、会場内を歩いてみる事にした。
祭りというものに来るのは、本当に久し振り
っていうか——
覚えがない具衛である。ぼんやりしていると、いつの間にか仮名が焼き鳥の屋台に駆け込んでおり、
「え、現金?」
などと、珍しくも慌てふためいていた。電子マネーで決済しようとしたらしい。
あちゃあ——
お嬢様炸裂だ。各地の祭りの飲食系屋台では、電子マネー決済も進んでいるようだが、田舎の祭りとあっては、流石に電子化はもう少し時を要するだろう。
「まあまあ困りましたね」
すかさずユミさんがフォローに入り、現金を立て替えた。
「ごめんなさいね。また返すから」
「構いませんよこれぐらい」
ユミさんが取り出したがま口を閉じると、仮名に串を一本突きつけられる。
「ほら、あなたもどう?」
「あ、どうも」
それを貰いながらも、
——こういうの食べるの平気なのか?
と、懐疑的になる具衛をよそに、仮名は器用に串の一本目を平らげ、その場で次の串を買いにかかった。ユミさんが串を持ちながら、これまた器用に巾着に収めたばかりのがま口を取り出して仮名に手渡す。その様の、
何と言うか——
際立つ阿吽の呼吸振り。何となくそれを眺める具衛に構わず、仮名がまた追加の一パックを買うと、同じように二人に配りながらも、自分はさっさと食べ終えた。どうして中々の食いっぷりだ。その後も、食べ物系の屋台を梯子しては、具衛の案内も何もあったものではなく、焼きそば、餃子、お好み焼き、もつ煮込み、串カツ等々。所謂B級グルメを片っ端から食い尽くして行く。どうやら本当に、美味そうに食べている事の不思議というか意外さだ。
「食欲旺盛ですね」
外見の優雅さに反し、よく食べる。それを思わず具衛が口にしてしまうと、
「まぁ適度に運動してるから」
などと、然も当然と答えた仮名が、今度は喉を鳴らしてノンアルコールビールを飲んでいる。
「適度な運動と適度な食事は健康の秘訣よ」
その食いっ振りに感心する一方で、内心少し慄く具衛だ。
——これが適度?
とすれば、運動量は中々のレベルになる。それで今の体型を維持しているのであれば、
これは中々——
只のお嬢様ではなさそうだ。具衛はまた、仮名の認識を少し改めた。
ある程度練り歩いたところで、仮名も腹が落ち着いたらしい。
「ねぇあれは?」
と、食べ物ではない屋台を指差した。小学生と思しき子供達が列を作り、順番にコルク銃を手にしている。
「射的です」
「しゃてき?」
「先っちょにコルクを詰めたおもちゃの銃で景品を狙い撃ちして、それが倒れたら貰えるんですよ」
具衛が説明している尻から、子供達の列に並ぶ仮名だ。その列の凸凹具合が少し微笑ましいが、賑やかな子供達に塗れて一人静かに姿勢よく待つ様は中々浮いている。具衛もつき添ってやればよいのだが、実は彼には急遽近寄れない理由が出来ていた。
俺も——
お面でも買って来よう、と、傍のユミさんに一声かけようとした矢先、
「あ、先生じゃん!」
と、射的の列の一人に、声だけではっきりと具衛を呼びつけた事が周囲に認識出来る程の、無遠慮な大声を浴びせられてしまう。これこそが、近寄れない元凶だった。瞬間で顔を背ける具衛だが、時既に遅し。白々しくもその場から逃げようとしたが、
「先生ってばよ!」
と、また容赦ない一言に、足を止める外ない。
「本当に、先生でいらっしゃるんですね」
「いえ、そんな大層なものでは——」
「ねえ、分かってると思うけど呼ばれてるわよ」
ユミさんに事情のようなものを説明している近くで、今度は列に並ぶ仮名が具衛を呼びつける。女としては大柄な部類の、スタイルのよい艶めいた女振りは、半狐面ぐらいで隠し切れるものではない。それが張りのある美声を発したものだから、列の子供達はおろか、周囲にいた人間までが一斉に仮名に注目してしまった。
——あちゃあ。
やはり懸念は、現実となる運命だったようだ。顔が見えない分、逆にそそられる向きすらあるその容姿が気にならない男など。それは最早、男ではない。
「ハハハ」
と苦笑いの具衛が、渋々仮名の前に並んでいる少年に歩みよる。と、いきなり両拳で、そのいがぐり頭の両側頭部を捩りつけた。
「いだだだだっ! 暴力反対!」
丸刈り、Tシャツ、半ズボン姿の、如何にも活発そうなその男児は、如何にも昭和の時代によく見かけた腕白坊主そのものだ。
「まあ。山の人は随分変わった挨拶をするのね」
「コイツにだけですよ。一緒にされたら他の山の人が怒ります」
ある程度捩るだけ捩った具衛が、ぱっと拳をとった。
「いきなり酷いじゃんか先生!?」
「やかましい」
一見して小学校高学年の男児は、順番待ちを維持しながらも、やはり射的の順番待ちをしている周囲の学友らしき面々の問いかけに、小器用にも律儀な口を動かしている。
「ホントに先生なのね」
「ユミさんにも言われましたよ」
仮名もまた、今更ながらに意外と言わんばかりの声色だ。傍に来た具衛に、半狐面を突きつける勢いで詰問する。
「意外に支持が厚いようね」
「エセ先生ですよ」
「そんな風には見えないけど」
思わず仰反る優男の一方で、
「先生、女連れとはすみにおけねぇじゃん!?」
と、妙に古い言い回しで冷やかす男児の頭を、今度は片手で鷲掴みにする具衛だ。
「や、やめろー」
男児がじたばたするのを構わず、
「先生なんて、恐れ多いんですよ」
などと、やってるうちに男児の番がやって来た。
「僕の順番だけど?」
仮名が言うなり、具衛が掴んでいたそのいがぐり頭を離す。と、その頭の持ち主が小生意気にも、
「くそー、当たらなかったら先生責任取れよな」
とか愚痴りながらも「おじさん一回分」と、何処か手慣れている。どうやら既に何度となくやっているらしい。お金を的屋のオヤジに渡すと、入れ込み気味に射撃台上のコルク銃を手にする。
「どうやって撃つの?」
「まぁ達人が見本を見せてくれますから」
具衛と仮名が聞こえよがしにその様子をマジマジと観察し始めると、男児はあっさり三発撃ち尽くし、坊主で終了してしまった。
「意外に難しいのかしら?」
「いえ、コイツがヘタレなだけです。どうした達人?」
「ク、クソ、調子が悪いや。おじさんもう一回」
男児はコルク銃を手にしたまま、またポケットからお金を出して的屋のオヤジに渡す。
「ま、まぁ見とけって」
が、明らかに気合が空回りしている男児は、やはりすぐに撃ち果ててしまい、成果はさっぱりだった。
「ちょっと待て。お前もしかしてあのハード狙ってんじゃないだろーな?」
悔しがる男児の頭を、また不意に片手で鷲掴みにする具衛が、上段中央に威風堂々と鎮座する日本製のゲーム機を指差す。
「そーだよ」
口を尖らせる男児があっさり白状すると、
「バカやろ、あんなのこんな銃で倒せる訳ないだろが。連射出来るんならまだしも」
と、男児が持つコルク銃をあっさり取り上げた具衛が、自分の財布に手を伸ばした。
「責任とってやるから、他のヤツに的を変えろ」
二分後。
男児はホクホク顔で、予め用意していたビニール袋に景品を入れると、
「先生サンキュー!」
と、満足げに、周囲の学友達と他の屋台へさっさと消えて行った。的屋のオヤジに代打を申告し、二回分のお金を手渡した先生は、代わりに六発のコルクを受け取ると、男児に選ばせた標的のうち、ミニカーセット、着せ替え人形セット、戦隊モノの変身セット、ミニゴルフセットを獲得した。が、残り二発は無謀にも男児が狙っていた大物ハードを狙い、玉砕。
「中々やるじゃない」
他の子供スナイパー達が立ったまま狙いをつける中、いい大人が射撃台にしゃがみ込みどっかり腕を預け、銃を構える先生は明らかに異彩を放っていた。背中はまろく脇は締まり、如何にもやりそうな雰囲気を醸し出したものだったが、
「パーフェクトも狙えたのに」
残り二発の大物狙いが悔やまれたものだ。
「こんなモンでしょう」
満足そうな先生だったが、気になったのはその射撃センスよりも、次々と的を倒す様子に興奮した男児が、
「流石は元——」
などと、素性の一端を漏らそうとした時の、常人離れした羽交い締めの速さだった。狙いをつけるだけではなく、その周囲にも注意力を残したその動きは明らかに、
——おかしい。
と、内心驚きを隠せない真琴は、こうなると気になって仕方がなかったが、まずは自分が撃つ番だ。
花火の時といい——
この男の奥底に、只ならぬ気配を感じつつある真琴が、先生のようにしゃがんで構えようとする。が、着崩れするとまた面倒だ。
「立位の撃ち方を教えてよ」
と言うと、予想に反して先生が耳打ちをして来たものだから、素性の一端どころではなくなってしまった。
「ちょ、ちょっと何——?」
思わず反駁しそうになったが、その理由を理解して頷く。その通り撃ってみると、六発中三発ゲットした。
「本当に初めてですか?」
上手いな、と感心する先生をよそに
「お面が良かったのかも」
と、冷静さを装った真琴が、自己分析のようなものを漏らす。
「あ、ピンホール効果か」
お面を被っているため、その覗き穴から覗く事で光が入る範囲が狭くなり、焦点深度が深くなる。つまり、目的の物がクローズアップされ、ピントが合いやすくなるという原理のそれだ。
「行きましょ」
「はい」
が、実は真琴はそんな事などどうでもよく、それよりも何よりも、耳打ちされた事が頭を離れない。気恥ずかしさに耐えられず、思わず足早にその場を離れた。
「中々お上手でした」
少し離れた所で待っている由美子の所へ戻ると、
「これ、さっきの子が喜ぶかしら?」
と、獲得したばかりの景品を、先生の顔に乱暴に突きつけた真琴のそれは照れ隠しだ。人形が二体とブロックのおもちゃ。先生の介護施設は、母子の支援施設も併設されている事は既に出たが、
「入所している子なんでしょ?」
「あれで中々いいヤツでして」
「でしょうね」
「え?」
「じゃないと、男の子が着せ替え人形なんて欲しがらないでしょ」
「——そうですね」
施設の小さい女の子に土産を持って帰ろうとした、その結果の人形狙いだったようだ。先生は受け取った景品を、早速背負っているリュックサックに入れる。
「景品を入れるために持って来たの?」
その用意のよさに呆れる真琴に、
「歩き疲れた時のために、レジャーシートを持って来たんですよ!」
と、これには反射で食いつく先生だ。
「物貰いとは違います」
珍しく気に障ったらしい。
「はいはい御免遊ばせ。いい男が小さい事でグズグズ言ってんじゃないわよ」
冗談めかしく応酬していると、
「まぁ、仲がよろしゅうございますね」
などと、呆れた様子の由美子の一言で、真琴はつい固まってしまった。
「な——」
耳打ちの動揺が、意外に長引いてつっけんどんになっているところへ、思わぬ追い討ちだ。
実のところ先生は、中物程度であれば倒す自信があったそうだが、倒し過ぎると利益を目論む射的屋が的を固くする。射的の屋台は、祭りを盛り上げるための町独自の組織ではなく、それを専業とする部外者の営利目的だ。祭りを盛り上げる役は担うとしても、あくまでもそこは商売。赤字はもっての外。薄利でも面白からずだろう。先生が耳打ちしたのも、
「後から撃つ子の楽しみを奪うので」
という事だった。その配慮は如何にも先生らしく、そのイメージに安心した、その一方で。
「あ、あなたが慣れもしないのに、耳打ち何かするからよ!」
微妙な恥ずかしさが耳伝いに感じられたそれは、思いがけず身体の芯を震わせた。その戸惑いのやり場がなくなり、結局先生を責めるというやり切れなさだ。
「だって、大っぴらに言えないでしょう!? だから仕方なく——」
先生は先生で、やはり恥ずかしさを引きずっていたようで、モジモジし始めたものだから余計始末が悪い。
「二人して、何をやってらっしゃるんですか?」
由美子がクツクツ笑っている。見る見る顔を上気させた真琴は、
「もうっ!」
と、思わず子供染みた奇声を上げると、
「ちょっと手を洗って来るから!」
とか言って、逃げるようにその場を後にした。