結花(後)【先生のアノニマ(上)〜4】
花火大会当日。
快晴の夕方前、具衛は中山神社の丘の南側にある国道上のバス停にいた。当然、盆地内の唯一のバス停であり、名称はそのまま【中山】だ。山小屋を出る前にバスダイヤを確かめて出て来たが、一応バス停に貼付されているダイヤも確かめる。平日でも一時間に一本。休日なら昼間は二時間に一本というのどかさのそれは、具衛がネットで調べたそれと合致していた。
「ん」
間違いない。待っているバスは、広島市内中心部方面行きとしては、最終便の三本前のバスだ。これを逃せば次は午後五時台、その次の最終便は午後六時台。利用者はそれ程に少ない路線である。
左手首の腕時計を見ると、目当てのバスの定刻には、まだ一〇分以上あった。利用者が少なく、殆ど回送状態で走る片田舎の路線バスだ。主要バス停以外では大抵早く通過する。そのため、定刻前にバスが通過する事を恐れて、少し待つつもりでバス停に来た具衛だ。
ベンチもないため、立ったままスマホを突き始めた数分後。山間部方面から、やはり少し早めにバスのエンジン音が聞こえて来た。利用者である事をアピールするため、具衛は慌ててスマホをいつもの綿パンのサイドポケットに入れ、やって来るバスを見る。日頃から中山バス停で乗降する者などいないのだ。そうでもしないと、とても止まってくれそうになかった。それもその筈で、バス停がある中山集落の住人は、具衛一人だけなのだ。それもこの四月からであって、それ以前は当分人が住んでいなかった、とは大家の話である。
やって来たバスの運転手の目を具衛が捉えると、バスがバス停に入って止まった。具衛が乗る間に、バスの後ろを走っていた一般車が一気に数台抜いて行く。乗客は当然誰もいない。具衛が最後尾の左窓側席に乗ると、バスは一般車が全てバスを抜き切った事を確かめて再出発した。
——バスも久し振りだわ。
最後に乗ったのは、この町に来たこの春の事だった。それ以後、町に籠ったままだった事に今更気づく。職場、図書館、近隣農家の間を歩いて行き来するのみの生活。そうしてあっという間に四か月が過ぎようとしている。その事実に、最後尾の席上でのんびりバスに揺られながらも内心驚いた。
すっかり——
落武者だ。あんな辺鄙な所に住む物好きと言われてもう四か月。具衛はまさに、雲隠れした落武者だった。そんな事を回想していると、バスは中山集落の南にある、町の役所出張所前に着く。この中に町の図書館があった。
——バスは早いな。
のらりくらり歩くと山小屋から三、四〇分はかかる。バスだと信号もないため、ゆっくり走っても五、六分だ。そのバスは、定刻より数分早く出張所前バス停に着いてしまったため、運転手が「時刻調整で定刻まで停車する」旨のアナウンスをする。只の一人、貸切状態でつつがなく乗っている具衛に対し、随分律儀な事である。
中山集落で南北に分断されている町だが、北側の町も南側の町も、同じ行政区内の一個の町だ。一応所属は【国際平和都市広島】の町である。その一部とはいえ、沿岸部から程遠い町の人口は二千そこそこで、高齢化率も高く、電車も高速道路も通っていない。産業も観光要素も乏しく、はっきり言って何もない。それ故に、ついた通称は【広島最果ての陸の孤島】だ。それを裏づけるように、市内中心部に出るのに、車でも一時間はかかった。
町の行政的な中心は南側の町、住民は便宜上【南町】と呼んでいるそこにある。よって、役所の出張所の周辺に大抵のものが揃っているのだが、路線バスで町から脱出しようものならば、そこからでさえ終点となる最寄りのJR駅まで一時間という長旅だったりした。
そんなバスが、定刻となったらしく、またのんびり再出発する。
——やっぱりバスはかかるな。
密かに前言を撤回した具衛は、揺れる車内でまたぼんやりだ。仮名は花火当日、山小屋まで
「迎えに行くわ」
と言ってくれたのだが、具衛は頑固にそれを断った。何せ市内中心部から車で一時間の辺境だ。仮名の居所は知らなかったが、常によさそうな身形にしてあの車の事なら、中心部の流行りの高層マンションか、その近辺の高級住宅街の住民だろう。甘え過ぎと仮名の負担を考えて断った、
のだけれども——
それにしても遠い。
待ち合わせ場所は終点の駅前なのだが、待ち合わせ時刻は午後五時だ。バスは四時過ぎには着くため、小一時間は待たなくてはならなかった。そうは言っても、花火の段取りを全て仮名に任せっ切りなのだ。バス旅ぐらいで、
ぐずぐず言っちゃ——
いけない。
具衛は揺れに任せて目を閉じた。
次に具衛が目を開いたのは、終点直前だった。運転手のアナウンスで起こされたようで、気がつくとバスは、いつの間にかJR駅前の住宅街の中を抜けている。非番とは言え、勤務中にたっぷり仮眠が取れる仕事だ。ここまで寝入るとは思わなかった。適度な揺れと空調が睡眠を誘ったようだ。因みにこの男は、何処でも寝られるという特技を持っている。
数分後、駅前のロータリーに入るとすっかり見慣れた赤いクーペのスポーツカーが、バス停の先にある送迎スペースに止まっているのが見えた。
「——ん?」
思わず唸り声を出した具衛は、思わずまた腕時計で時刻を確かめる。やはり午後四時過ぎだ。バスはほぼ定刻通りに終点に着いた。つまり、待ち合わせ時刻には、まだ小一時間あるという事だ。バスが到着後、降車してその背後から近寄ってみると、やはり仮名のアルベールだった。やや斜め後方から左ハンドル車の運転席を確かめると、サングラスをかけた赤いシャインリップの仮名が物憂げに座っている。休日の夕方、花火大会へ向かう通行人も多い中、視線を集めている事この上ない。その出来過ぎたシルエットに通行人の多くは、有名人か何かと勘違いしているようだった。
あ、あれに——
乗らされるのか。待ち合わせ時間ギリギリに来れば良いものを、と近寄る事をためらい、メールで別の場所へ移動させて合流する考えが頭を掠める。が、それは、待ち合わせ時刻を前倒して待っている仮名の何らかの思いを、
——台無しにするんだろうなぁ。
として即却下した。何の意図で早く来ているのか、具衛には分かり兼ねたが、先に来ている人間を自分の都合で動かすなど、礼を失すると言うものだ。車に近づきながら意を決した具衛が、運転席傍で軽く頭を下げると、相変わらず形の良い唇の口角が少し上がり、その左手が隣に乗る事を指示した。
それにしても——
何と自分と釣り合わない構図か。そんな事を思いながらも、具衛は車の後ろから右側に回り込み助手席に滑り込む。高級スポーツクーペに相応しからぬ見窄らしい形がその助手席に収まると、アルベールは控え目な重低音を轟かせながら、滑らかにしてきびきびとロータリーの通行帯を走り始めた。
「お待たせしたようですみません」
「いいのよ」
乗り込んだ時に、仮名の右半身から前面のシルエットが思い切り目に入り、思わず助手席で縮こまった具衛だ。白のキャップスリーブのストレートワンピースが、
何だってこんなに——
似合うのか。その着こなし振りは毎度見事としか言い様がない。シートに体を預けているせいで、その着衣もそうだが前面のボディーラインが強調され気味だ。思わず目が釘づけになりそうになるのを、瞬間でどうにかひっぺがして前を向く。
「バスの時間が合わない事を、お伝えしておくべきでした」
具衛は仮名の返事で、ようやくバスの時刻表を見た仮名が気を回した事を悟った。その身形から、派手な生活を疑いたくなる仮名だが、普段の言動は中々どうして思慮深い面もある、と言わざるを得ない。
「私も着いたばかりだったから」
だからいいの、と落ち着いた様子の仮名が、駅前ロータリーの赤信号で車を停車させた。
「いつもお邪魔してばかりだから、こういう時ぐらいはね」
具衛の追随を許さない口振りが、また具衛を揺さぶる。
「いい天気でよかったわ」
外見と中身のギャップが染みるというものだ。両方とも仮名の姿なのだが、派手な人間が意外に思慮深いなど、見覚えもない具衛としては、脳裏に拭い難い偏見が存在していた。それはつまり、社会の底辺に近いところを生きる者の僻みだ。その偏見を仮名にぶつけるのは明らかに筋違いで、八つ当たりに外ならない。そんな、人と関わる事で生まれる様々な葛藤から逃れるための仙人暮らしでもあったのだが。
この人は——
中々それを許してはくれない。
人嫌いと言っておきながらも、何故か絡んで来るこの目のやり場に困る程の美女は、自身の浅ましい人間臭さを改めて痛感させる頭痛の種であると同時に、隠棲して極力人を絶とうとする頑なさの中で、やはり人恋しい自分の存在を、圧倒的な魅力で再認識させる悩ましい美女でもあった。
「まぁ人の好意は素直に受け取っておきなさいって事よ」
「すみません」
「違う」
仮名は静かながらも、揺るぎない確かな口調で否定する。
「え?」
「お礼を言わないと気が済まない時は、ストレートな感謝を伝えておくものよ」
そして、柔らかく諭してくれた。
「謝罪されると、相手の気持ちが台無しになるでしょう」
「そんなものですか」
「あら、だって——」
と、少し顔を向けた仮名は、
「自分の好意的な行動が、否定的に取られたって事になるでしょ?」
などと、いつになく少し言葉が多い。あからさまに顔を見ると動揺するため、少し顔を向けて聞いた具衛だったが、お互い目の端が絡むと妙に痒くなった。何も言わず、そそくさと顔を背ける。
俺はこんな時——
上っ面で謝罪してばかりの人生だった。俄かにそんな事を思い出す。人の施しを嫌い、特に貸し借りを憎んでいた彼は、感謝を表する機会などろくになかった。それだけ人を信用せず、人と関わらないように生きて来た。が、この四月から山小屋で暮らすようになって、農家の人々の見事なまでに手慣れた押しつけにより、様々な物を貰うようになってしまっている。気がつくと、それが当たり前の日常だ。その対価として、細やかながらも農作業の手伝いをしているのだが、それすら運動不足解消の一助であり、自分のための向きが強い。頑なさを帯びる具衛に農村は寛容だった事を、不意に思い知らされたようだった。
そういえば——
仮名は仮名で、その言葉はいつも謝意が明確だ。上から目線をいい事に、
謝る事は殆どないけど——
謝る時ははっきり謝る。逆に好意的な行為には、謝罪ではなく必ず感謝を述べていた。その謝意が全て謝罪だったとしたら、お互い申し訳なさが鬱積して、確かに聞くに耐えなくなっていただろう。
図々しい分——
明確な感謝で、上手く中和していたようだ。その分かりやすい歯切れ良さは、確かに少なからず、お互いの気の持ちようを軽くしているように思えた。
——そういう事か。
今でこそ山に籠ってはいるが、卑屈に成り下がった覚えはない。肯定的な言葉が口に上らなくなると、後に残るのは排他的で否定的な言動だ。己の殻に籠り人生を狭めるそれは、世の中では偏屈と呼ばれる。口角が左右非対称に下がり、文字通りのへの字口を晒す、その代表的な面妖を連想して、具衛は背筋に寒い物を感じた。もっとも口角が下がるのは、大抵老化に伴う顔筋の衰えが原因だが、幼少期以来、同世代の誰よりもそうした形の捻くれ者に多く接して来た具衛にとって、それは習慣化された意思が人の形をも変えてしまう事のように思えてならなかった。それは具衛が最も到達したくない、得体の知れない怨嗟めいたものに取り憑かれた、凝り固まった存在だ。つまりは素直になる、それだけの事なのだが、意外にそれは固まってしまった後では難しかったりする。
「ありがとう、ございます」
完全に会話が途切れていたタイミングで、ぎこちなく答えたそれは、
「え? 今頃?」
と、仮名を失笑させるのに十分だった。が、
「——どういたしまして」
と、事もなげに軽々と返礼する仮名は、実にスマートで格好いい。一昔前ではこういう時、
「男がぐずぐず悩むなって言われたモンよね」
とか、また思った事を読まれ、密かに轟沈する。若さと美貌は今更言うまでもないが、きっぷの良さとその箔も只ならない。
こりゃあもう——
恐れ入る外ない具衛だった。
数分後。
助手席の車窓は、周辺の交通に塗れて緩やかに後ろへ流れていた。具衛が乗って来たバスの終点だった駅は市内西部に位置し、ここから市内南部に位置する宇品方面へ向かうには二通りある。単純に一般道か高速か、という事だ。が、一般道ルートとなると、南北に抜ける六本の川と、その中州で構成される広島デルタを走る必要があるため、総じて橋と信号の連続で中々に進み辛い。各都市に見られるバイパスも建設が進められているが、元々土地が乏しい上に用地買収や環境アセス上の問題を中々クリア出来ず、建設は遅滞している。つまり一般道は、渋滞しやすかった。片や高速は、広島高速道路と呼ばれる、市街地周辺に路線網を有する自動車専用道路だ。国内各地の所謂都市高速と同じなのだが、広島のそれは各都市高速に先駆け、距離に比例して利用料金を積み上げる【対距離料金制】が導入されていた。これが中国道や山陽道などの、周辺の主要高速と比較すると割高感が強い。つまり高速は、普段使いには敷居が高いと言えた。のだが、
——高速使うんだろうな。
具衛は、押し黙っていた。山小屋と違い、車内では座席でしっかり仕切られているとは言え、距離感が近い。外車であってもコンパクトクーペだ。車幅は国産の普通車程度で、その密着感は山小屋の比にならなかった。静かな閉塞感は、お互いの息遣いすら耳につきそうで、先程来やたら出て来る唾を飲み込む音すら憚られる。
車内は仮名の為人を当然の如く反映しており、整然として隙が見当たらなかった。車内特有の内装に使われる接着剤臭や素材由来の臭いなども皆無で、それどころか匂いの出所はよく分からないが、仄かにハーブのような良い匂いが漂っている。何となく下腹部の前で組んでいる両手が、いつになく汗ばんでいるように感じた。
「なんか固いわね」
前を向いたままの仮名が、不意に呟く。普段と違う妙な緊張感を察知されたようだ。その相変わらずの察しのよさの一方で、急に声をかけられた具衛は、
「——え゛?」
などと、痰が絡むザマ。そのしゃがれ声を出した本人が驚き、座り直しながらも何度か喉を鳴らして慌てて整える。
「何か緊張しちゃって」
合わせて仮名の失笑が小さく漏れた。
「一度乗ってるでしょ」
「あれは特別な状況下ですから、乗ったうちに入りませんよ」
事故の時とは打って変わって、整い過ぎた状況に動揺が隠せない。
「普段の方が緊張するなんて」
などと、追い討ちでなぶられたものだが、
「一度運転したのは誰だったかしら?」
と、重ね重ねも事実の羅列で言い返しようがない。
——艶かしさが違うだろ。
とてもそんな事など口に出来ず、甘んじて言い負かされ、またしばらくだんまりだ。
気がつくとアルベールは、広島南道路と呼ばれる湾岸道路を東進していた。少しすると車載ナビに従い、そのままの走行車線の延長上にある広島高速三号線の入口へ直進する。この路線を使うと、花火大会が開催される宇品地区までは、もう目と鼻の先だった。が、そこへ、
"パァ———ン!"
と無遠慮で、如何にも品のないクラクションの連続音が、直近で鳴り響いた。具衛と仮名が揃って左を見ると、隣の一般道車線から国産の高級ミニバンが、無理矢理頭を捩じ込んで来て割り込もうとしている。
「危ないわね」
それまでは、見た目に反してと言っては本人は心外に思うだろうが、堅実なハンドル捌きで落ち着いていた仮名も、流石に顔をしかめた。ボディーも窓も真っ黒で、一見して威圧的なその車は、誰が見ても即座に筋者を疑うだろう。捩じ込み気味のフロントには、この暑いのにダークスーツを着込んだ角刈りの厳つい男が二人。それがおあつらえ向きに、雁首揃えてこちらを睨んでいた。お互いの車が俄かにスピードを落とすが仮名は動じず、毅然と優先帯を譲らない。その一瞬後。接触寸前で相手が怯み更に減速した隙を見逃さなかった仮名が、相手を見据えながら堂々と走行車線をそのまま突っ切ってしまった。
「どういうつもりかしら?」
「どうもこうも——」
やっちゃった感だ。落ち着き払って人ごとのように漏らした仮名に、具衛は頭を掻くしかない。
「車の運転は、人が出ますから」
ハンドルを持つと人が変わる、という現象は、心理学の世界では【ドレス効果】と呼ばれる。強い物や優位な立場を得る事で、無意識のうちにそれを自分と重ね合わせ、闘争心や競争心が高じて起こる心理状態を指す。分かりやすく言えば、
「優位な立場を得た人間の本性が出るんですよね」
という事だ。至極単純な人間の事。大抵のケースでは凶暴になり、
「歯止めが利かない愚か者が多い世の中ですから」
そんな昨今の世相は、あえて詳述を要しない。もっとも今の相手は、車によるドレス効果と言うよりは、
「所属組織の効果なんでしょうけど」
体裁命で面子に関わる事にかけては、良くも悪くも未だに体を張っている時代遅れの、
「虎狼の輩って事?」
と、こんな時でも、具衛のいつかの言葉を切り取る余裕を見せる仮名だ。
これは——
明らかにマズい。普通の人間なら面倒臭がり、怯み、関わろうとしない連中だ。ややもすると、それが世渡りにおける道の一つとしたものだが、稀にそうした横暴に屈しない人達がいたりする。が、それは普通、何か別の力を有しない限り出来ない事だ。つまり、どう言うつもりは、
——アンタの方だっての。
そんな具衛は当然、仮名の拠り所を知らない。それどころかその為人を知る程、なぜ梅雨の折に川土手のぬかるみにはまったのか、それのみが信じられなかった。が、今はとりあえず相手をどうやり過ごすか。まずそこだ。
高速入口では一車線だった道路も、すぐに見えて来た川に架かる橋に差しかかると、二車線になった。広島デルタ最西部の川に架かるこの橋は、実は渡り切るまでは高速と一般道の共用区間であり料金は無料だ。
「何か気に食わなかったみたいね」
橋を渡り始めても、ミニバンはつき纏って来た。前に横に後に、様々な方向から執拗なそれは、
「ロックオンされちゃいましたよ」
という事だ。高速入口でのやり取りが、
「お気に召さなかったって事?」
「そのようで」
と言った後で、具衛は密かに嘆息した。急展開がもたらした車内の緊張に反して、具衛の緊張感は抜け始めていたりする。二人切りの静けさよりは、
——余程マシかな。
というのんきさだ。対して仮名は、相変わらず冷静なハンドリングだが、どうしても速度は落とし気味で、車の挙動は雑にならざるを得ない。
「いっその事、ぶつけられた方がいいのかしら?」
相手の車を見ながらも、中々巧みなハンドル捌きで、
「ドライブレコーダーもあるし」
などと、まだ考える余裕があるようだ。
「事故したところで、まともに修理代なんか払ってくれるような連中じゃありません」
急に通常を取り戻し始めた具衛は、流石に助手席側のアシストグリップを握りつつ、
「それに、事故扱いすれば、最終的に相手方に住所や名前が抜けますし——」
とか、何やら説明臭いつけ加えをする。
「——警察が来るまでの間は、自己防衛しないといけません」
ミニバンに乗っている二人組は、窓ガラスを全開にして盛大な下品面で何やら叫んでいる。内容は聞き取れないが、野卑である事に疑いの余地はなく、最早猛獣の類いと大差ない。それにげんなりした具衛がついに、
「あちゃぁ——」
と漏らした。
「まともな話は無理のようね」
「常套手段です」
一つ、盛大に脅して自己に有利な土俵を築く。
一つ、人の揚げ足を拡大解釈して理詰めで追い込む。
一つ、憎まれっ子世に憚る。
人ごとのように呆れる具衛が、淡々と列挙したところで、早速一つ目の分岐点が見えて来た。高速と一般道の分かれ道のそれだ。
「まさに、リアル傍若無人って訳ね」
「高速、降りましょうか」
「え?」
話が噛み合わず、珍しくも仮名が聞き返す。が、逆に具衛は、
「執念深さを一般道で推し量りましょう。花火の会場周辺の交通規制には、まだ時間に余裕があります」
などと、いつもの落ち着き振りだ。
「規制は例年、夕方五時からですから」
それ以降、一般車両は通行止めになる。
「よく知ってるわね」
「ホームページを見て知っていただけですよ」
その会場は車なら、もう数分の距離感だ。慌てる事はない。
「高速じゃ撒けませんし、ETCを通過すると通行データが抜けます」
「誰に?」
「誰かにです」
「何それ?」
「ほら、降りますよ」
橋をランデブーで渡河した二台は、具衛の指示によって分岐点でもつれ合いながらも一般道へ降りて行った。
「ナビを呼び出してもらえますか。あと、速度を落としてゆっくり目で」
矢継ぎ早に指示を出し始める具衛に、いつもなら既に噛みついていてもおかしくない仮名が、少し驚く向きを見せるも大人しく従う。それでも、
「さっきまでの緊張は何処へ行ったのかしら」
などと、口の端で皮肉を乗せる事を忘れない。その口が「ねえアル」と発して、やはり具衛の指示通りナビを呼び出した。
「お呼びでしょうカ」
常に控えていたかのような中性的な電子音声は、高規格車に見られる自然対話型のナビだ。それに向けて具衛がいきなり口を挟む。
「目的地はそのまま。有料道路を使わず、出来る限り信号にかからない一般道ルートを検索してくれ」
聞き取りやすいはっきりとした口調でオーダーを伝え切ると、一秒かからず、
"ピコン"
と、今度は電子音が車内に響いた。立て続けにナビが、
「目的地へのルートを変更しましタ。五〇m先を左でス。尚、目的地までの所要時間ハ——」
等々と、のべつ幕なくルート説明を始める。
「うわ、早いし賢い」
「まぁそこは。それなりの値の車の事だから」
と、人ごとのように語る仮名によると、それはラーニングAIを搭載した最新型のカーナビらしい。走行経路周辺のGPS管制は当然の事、検索キーワードに基づく走行アシストまで行うとか何とか。仮名は早速ナビの指示に従い、すぐ先に見えて来た側道へ左折した。
「賢いんですねぇ」
状況の切迫感と逆行する具衛が素直な感想を漏らす。と、AIは律儀に、
「お褒めに預かり光栄でス」
とか、返事をしながらも、コイツはコイツで「次を右デス」と、矢継ぎ早のルート案内だ。
「これを使えば、渋滞なんて訳ないじゃないですか」
「まぁそうなんだけど、遠回りだし右左折増えて疲れるでしょ」
高速に乗る予定だった区間は、元々僅か数kmの行程だ。確かに高速の方が近道とは言え、そこを走る最大の理由は一般道の煩わしい信号待ちと渋滞回避のためである。庶民なら一般道で、その優秀なナビを使うものだろうが、そこは小銭など気にならない、
——流石は富裕層。
という事だろう。具衛はそんな雑念を巡らせながらも、周囲の状況に目を配っている。完全に住宅街の狭い抜け道を駆け抜ける状況だ。仮名の負担は、本人が口にしたとおり確かに格段に上がっている。優秀なカーナビのGPS管制なら、子供の飛び出しなどにも対応出来るようだが、
「それでも一応、気をつけないと」
とか呟くなど、技術任せにしないところは意外の仮名だ。
お嬢様のくせに——
ハンドルを持つ事の意味を、それなりに理解しているらしい。その精神的負担を思うと少し気の毒にも思ったが、それでも具衛は、押しつけがましいデュエットのまま高速を走り続けるつもりにはなれなかった。
家々の中を駆け抜けながらも、ミニバンは執拗に迫る。宇品地区に向かうには川に架かる橋を何本か越えなくてはならず、橋だけは流石に抜け道もクソもない。
「青になるタイミングまで、ゆっくり行きましょう」
止まってしまうと行く手を阻まれてゲームオーバーだ。如何に優秀なAIでも、信号パターンまではそう読み切れるものではない。予め先の信号と周囲の交通を先取りした具衛が、ナビをサポートするかのようなアドバイスをすると、仮名が応じて速度を落とす。そのタイミングでミニバンが肉薄して来ては何やら罵る。そんな事を何度か繰り返しながらも、二台は順調に会場へ迫る。
「ホテルまでついて来そうな勢いね」
花火は、会場傍にある湾岸のホテルの一室で見る予定だった。
「口の端に唾を一杯溜め込んでましたよ」
具衛はこの期に及んでも、何処か人ごとだ。
「あれは様子がどうも。気に障った障らないの問題じゃないです」
ミニバンは、形振り構わず迫り続ける。
「ホテルに警察を呼ぶか、このまま警察に行く?」
「それだと車のナンバーも押さえられて、後で何されるか分かったモンじゃありませんよ」
「ナンバーなら、もう押さえられてるじゃない」
一昔前までは、誰でも運輸支局で車のナンバーから所有者を調べる事が出来た。が、今では所有者情報の不正取得を防ぐ観点から、
「法改正されて、所有者照会は基本的に車台番号も必要ですから」
という具衛を、
「何事にも例外はあるものよ」
などと仮名が被せる。私有地内放置駐車被害や債権回収などの理由で、それを証明すればナンバーだけでも照会が可能だったりする。更に言えば、そんな面倒な理由がなくとも、
「弁護士なら職権で調べられるわ」
連中の組織にも顧問弁護士は存在するだろう。その手を使えば、明かしたくない相手にいとも簡単に身元は調査されてしまう現実が存在する訳だ。
「詳しいですね」
「あなたこそ」
普段ならここで引き下がるのは具衛の方なのだが、
「今なら多分、ドラレコさえ何とかしてしまえば。あの様子なら、ナンバーなんて見ちゃいません」
とか、この期に及んでは、何処かすっかり腹が据わっている。やんわりながらも、いつになく我を通す男が、
「そこ右に行ってください」
と、ナビの目的地とは違う道を指示した。
「どうするの?」
「会場に入る前に、ケリをつけときます」
言いながらも仮名は具衛の指示通り、ナビから外れた道を選択する。ナビが道を逸れただの、新しいルートを調べるだのと急にやかましくなるが、中性的な電子音だ。放置して、勝手に喋らせる。
「このまま川に突き当たるまで道なりに行ってください」
河口沿いの商工業地域で、人家に乏しいエリアに入った。
「突き当たりを左へ」
少し走るだけで、通行車両はあっと言う間に消え失せる。と、途端にミニバンとマッチレースだ。
「どんどん寂しい所に追い込まれてるんだけど」
「追い込んでるんですよ。周囲の目が邪魔なんで」
事もあろうにそんな所で具衛が、
「この辺で止めてください」
と、普段は拙い口を、はっきり動かし指図した。
「私と相手が車から降りたのを見計らって、先にホテルへ向かってください」
「何言ってるの!?」
これには流石に、慌てた仮名が反駁する。
「とどのつまりでそんな事出来る訳ないでしょ!?」
周辺は河口沿いの堤防がある他は、空き地や工場や倉庫が点在しているだけだ。その中にはそれなりに人もいるのだろうが、港近くの商工業地域の味気なさだろうか。路上は明らかに人も車も少ない。何台かの車が路上駐車されているが、それは恐らく堤防の向こう側で魚釣りをしている釣客の車だろう。白昼ながら閑散という言葉がぴたりと当てはまる、そんな所だった。
「こんな所で何かあったら助からないわよ」
「何かするから好都合なんじゃないですか」
「誰が?」
「私がです」
「相手じゃなくて?」
「ケリをつけると言ったでしょう?」
俄かに具衛の言葉尻が怪しさを増していく。それを感じたらしい仮名が、ゆるゆると車を堤防に寄せると、ついに止めてしまった。
「作戦通りにお願いしますよ」
「随分な自信ね」
「この際詳細は省きますが、私は大丈夫ですから」
そんな捨て台詞を吐いた具衛が、わざとらしくも拳を振り上げながら車外に出て行く。
「もし相手が車で追って来たらすぐに戻って来てください。ホテルまでつき纏われるとマズいので」
「無事だったら後で必ずメール頂戴。五分以内に連絡がなかったら一一〇番するから」
と、追いすがる仮名だったが、一方で具衛は返事をするどころか、
「ホテルの駐車場とコインパーキングは、防犯カメラがあるんで止めないでください」
などと、最後の最後まで指図し続け、落ち着き払ってドアを閉めた。
先生と別れた真琴は、後ろ髪を引かれる思いで指示通りホテルに向かった。ミニバンは追って来ない。安否を知らせるメールは、殊の外早かった。「片づいた」というメールが届いたのは、まだホテルに向かっている道中だ。別れて三分と経っていなかった。ナビにカウントダウンさせていたから間違いない。
余りに早いので戻って確かめようとも思ったが、それを予想していたように「迎えに来るな」という追伸まで届く始末。
「——何なの一体?」
車中の真琴は、つい驚きの声を漏らした。全て、何か考えあっての事なのは理解出来たが、それにしてもこの大胆さと冷静さは、
「どういう事よ一体?」
と、口に出さないと収まりがつかない真琴だ。
何を念頭に——
この男は行動していたのか。まさかその答えを、翌日の朝刊で拝む事になろうとは。然しもの真琴も、この時は予想だにしなかった。
結局、ベルマンに案内された浴衣姿の先生が、真琴と由美子がいるホテルの一室にやって来たのは、午後七時半だった。
「随分遅かったわね」
墨色のシンプルな浴衣で、痩せ気味なのが少し残念だが、そこそこ上背があって見れない事はない。
「浴衣なんて聞いてなかったんですけど」
先生はメインルームの入口で固まり、やや肝を抜かれている。既にいつもの先生だ。
「しかもこんな上等な部屋で」
港の傍にある二〇階超の高層ホテルは、瀬戸内海の多島美を臨む眺望で名が通っている、らしかった。その一七階の端部屋が、真琴が陣取った部屋だ。少し野暮ったい冠称に続いてスイートの文言がついており、メインルームは三〇畳超えという、そこそこの広さではある。それもこれも真琴に言わせれば、極ありふれたあつらえで何て事はない、所詮は上得意様の優待券レベルの話だ。が、小市民の代表格たる山小屋の主からすれば、一生涯で入る機会が一度あるかないか。そんなレベルかも知れない。そう思うと、先生が固まるのも分からないでもなかった。
「いいからそんな所に立ってないで、こっちにいらっしゃいよ」
やはり浴衣姿の真琴は、窓際に設置されたテーブルに座ったまま、軽く手招きをして見せた。花火大会会場に面した継ぎ目のない大きなガラス窓に対面する席に、真琴は足元確かからぬ先生を着席させる。その右手に真琴、左手にやはり浴衣姿の由美子が位置取るテーブルはスクエア型だ。和室であれば広縁の小机的な位置づけなのだろうが、それにしては一辺が二メートルは優にある大きさで、深緑色のテーブルクロスがかけられていた。真琴に言わせれば何処かチグハグなあつらえだが、今夜は部屋のあつらえよりもまずは花火だ。黙って飲み込む。
「何か落ち着きません」
見るからにギクシャクしている先生は、それだけで失笑ものだ。しばらくは目を白黒させる様子が見ていて微笑ましかったのだが、万事在りきたりな真琴としてはときめきも何もない。
「腰が据わらないと言いますか——」
それを傍まで来ても、尚ぐずぐず言っている先生に、ついいつものせっかちさが疼き始めると、もう我慢出来なくなる。
「いーから座れ!」
と、悪いくせが炸裂だ。
「大の男がこれぐらいの事でつべこべ言ってんじゃないの!」
物の見事の二段構えで、ばっさり切り捨ててしまった。堪らず由美子が小さく噴き出す。
「——ほらぁ。笑われちゃったじゃないの」
忌々しそうに顔をしかめる真琴が、そのついでに、
「こちら、お伝えしていたユミさん」
と、由美子を紹介した。由美子は、真琴の叔母で【ユミおばさん】という設定だ。真琴の紹介で、二人の挨拶が終わるや、
「で、結局、どうケリをつけたのかしら?」
とか、お祭り気分そっちのけだ。とりあえず事の顛末を確かめておかないと落ち着かない。
「何処をほっつき歩いていたの?」
あれから三時間弱だ。良くも悪くも自分の事であり、先生を危険に晒した手前もある。いくらその指示とは言え、真琴が先生を置き去りにして立ち去っている事に変わりはない。
矢庭に質問を浴びせられた先生は、
「目眩しでほっつき歩いてました」
と、答えを渋る様子を見せた。先程切り捨てた勢いそのままの真琴だ。呆れて溜息を吐くと、
「あの連中はどうしたの? まさか、始末したんじゃないでしょうね?」
などと、いきなり生臭い。最終的に先生に采配を任せたとは言え、結局は自分の事なのだ。結果に責任を持つためにも、何だろうと正確な答えを聞いておきたかった。
「そんな物騒な真似は——」
「どうかしら? 私を押し倒すような男だし」
うやむやにしようとする先生を、逃がさない真琴の一方で、
「ええっ!?」
と、敏感に反応したのが由美子だ。
「二人はもう、そんな抜き差しならぬ——」
「違う!」
それを真琴が、即座に断固、激しく首を振って否定した。
「断じてそんな話じゃない!」
その横で先生は、左右の淑女の顔を困ったように見比べている。
「ちょっと、あなたも黙ってないで答えなさい!」
「ドラレコのデータは譲ってくれましたよ」
先生はあっさり答えた。
「またそんな見え透いた嘘を」
「火の粉は振り払ったつもりです」
あくまでも、詳細を話すつもりはないらしい。つまりは、
「聞いて困るのは私って事かしら?」
と、断じた真琴は、それ以上の言及をさっさと諦め、また大きく溜息を吐いた。後は、
「連中の脳内記憶が消し切れたかどうか——」
それだけが気がかりで、などと、見た目の素朴さに反し、真琴に負けず劣らずの生々しい先生だ。
「まあ」
素直な感嘆を漏らした由美子も、何かを感じたらしい。
「生物は、余り食べる習慣がないんですが」
話が生臭くなって来た事を避けるかのように、先生が見え透いた間抜けな冗談を口にすると、真琴もそれに乗る。
「燻製や干物ばかりだものね」
「それにしては、随分と瑞々しい事じゃございません?」
俄かにそんな先生を見る由美子の目を察した真琴が、
「ちょっと叔母さん。端ないですよ」
などと、わざわざおばさん呼ばわりで皮肉めいた牽制を入れると、これがいけなかった。
「取って食やしませんよ。仮名さんの大切な方でございましょ?」
「な、何言ってんのよ!」
思わぬ逆襲に、迂闊にも素で反応してしまった真琴は、即座に後悔したものだったが、
「ねぇ」
「はぁ」
などと、由美子は構わず、先生に意味深な愛想を振り撒いている。
「とにかく連中は、もうそれどころじゃないと思います」
先生は少したじろぎながらも、また分かり切ったように言った。
今日は随分と——
先行した言動が目立つ先生である。
その理由を知りたい真琴が、問答無用でその答えを突きつけられたのは翌朝だ。少し遅めに起きて、ぼんやり眺めていた地元紙の朝刊の社会面で、
「花火大会開催間際の近辺で、実弾入りの銃器数丁を所持した暴力団員を逮捕」
とかいう、写真つきの派手な記事を見つけた時の衝撃は、仕込まれた時限爆弾が突然爆発したようなものだった。件のミニバンが、仰々しい数の警察関係者と一緒に写るその少し前、真琴はそこにいたのだ。その後味の悪さといったらこの上ない。
大抵この手の事件の認否は、捜査上の影響を考慮して明かされないものだが、新聞によると逮捕された二人は、
「記憶がないそうですよ」
と、翌週中日、いつも通り立ち寄った山小屋で、そこの世捨て人が呆気らかんと言ったものだった。加えて連中には、薬物所持・同使用の容疑もかかっている、とか。先生が唯一「気になる」と語っていた、「記憶」のフレーズが紙面に掲載されている事の意味。その偶然は、果たして月並みの否認なのか。
「あなた、あの二人に何やったの?」
先生の何らかの手が、何らかの意図で加えられたとしか思えないのは、真琴の気のせいなのか。対して先生は、
「特に何も」
と素気ない。このギャップこそが、余計でもこの男の何らかの手業を疑わせるのだ。
銃器薬物容疑は逮捕された者達のみに関わる事であり、真琴には関係がない。あるとすれば危険運転でつき纏われた、それだけだ。それを事件の真相解明という大義名分の下、多少の行き過ぎも何のそのという無遠慮な向きの警察と、検挙された事に対する逆恨みを募らせる反社の思惑の両方を先生は、
「火の粉は払った」
と——?
称した、とか。
事故扱いを避け、高速のETCを嫌い、ナビに抜け道を走らせ防犯カメラを可能な限り避けたのは、最終的な実力行使の可能性を考慮しての、出来る限りの
——目眩しだった?
のか。
「警察沙汰は面倒なだけですから」
その警察とは、法治主義における秩序維持を目的とした国家作用の代務機関だ。その最大の責務は、事件の真相解明と犯罪の検挙。それ故だろうか、現代の日本警察は、
「捕まえるだけの能無しですよ」
あれは正義の味方なんかじゃ、と珍しく悪態を吐く仙人が、その裏で泣く被害者の多さを憂慮している。
犯人を有罪に持ち込みさえすれば、基本的にそれで任務を完遂する組織だ。後に残された被害者と加害者の間の事、つまり賠償事については当然責任を有しない。つまり、
「被害者と加害者の交渉が拗れようと、加害者に逆恨みされようと、関係ないんです」
それは所謂、
「民事不介入の原則ね」
というヤツだ。それによってまた犯罪が発生すれば、またそれを事件化するだけの事。だが大抵の被害者とは、悪事に縁遠い、それなりに良識のある普通の人々だ。それが大なり小なり闇に染まり、裏の汚さに馴染んでいる犯罪者と対峙させられる事は、
「それだけですり減るものでしょう」
加えて面子命でそれを保つためなら何でもやる、とか言って憚らない、極めて異常異質な狂信的集団であれば、最早言うに及ばず。被害者が逆恨みされても、後手を踏む他に術を持たない国家作用は当てにならない。ここに国家と被害者の、決定的な溝が存在する。
国家の被害者救済とは、実害レベルに応じた後出しのものだ。受難前の予防を強く求める大多数の国民の意には全く寄り添っていない。この根本的相違は、
「現行法では、とても埋められるとは思えません」
「国家と国民の、考え方のすれ違いが起こす悲劇ね」
という事だ。
国家は法治主義実現のため、法に則った取り組みで治安の維持に務める。片や国民は、安全安心な生活を送る事が出来るのならば、極端な話法治主義などどうでもいい。
「守ってくれれば、何だっていいんですよ」
その温度差はつまり、頑として無機質で盲目的に法を重んじる国家と、法に熱量と情を求める国民との間に存在する
「永遠の軋轢よ」
と、冷たくも真琴が断じる構図。
そもそも日本の場合、程近い過去に大戦を引き起こし、多数の国民を死に追いやり、死線を彷徨わせたという
「根強い国家不信が存在しますから」
それは最早慢性的で、諦めの境地とも言える。
「国家と国民の温度差は開く一方ね」
警察事で言えば、年々悪くなる体感治安はその典型だ。次々に噴き出す次世代型の犯罪手口を前に、後手を踏み続ける国家作用の構図を見飽きている国民は多いだろう。その脅威に晒され、その一部が実害を被り、生涯癒える事のない傷を大なり小なり刻み込まれる訳だ。ならばせめて、受難後ぐらいは法の確かな庇護を受けたいと思うのは自然の流れとしたものだが、これも日本は、
「——ダメです」
進んだ被害者救済法を持つ他国と比べると、
「レベルが違い過ぎて、話になりません」
と、珍しくも語気を強める先生の言う通りの現状。例えば米国などでは、被害者は一定要件を充足すれば法の下で、
「全くの別人に生まれ変わる事が出来るのに」
という徹底振りだ。片や日本は、民主主義の法治国家を謳いながらも、
「戸籍法の弊害ですね」
そんな先生の一言で、先進的な被害者救済など夢もまた夢と断じる事が出来るのだから、最早呆れる外ない。世界的にも極めて稀なる、縁故に拘る頑固な慣習法に縛られた挙句、
「被害者人権は停滞の一途ね」
その一方で、被疑者側の人権は拡充し続けている事の不平等。繰り返し発生するつき纏い事件や凄惨なストーカー事件、親族間でのあらゆる虐待事件などは、この頑固さ由来の最たる被害者なのだ。法の脆弱性も然る事ながら、行政機関や警察の事勿れ主義に見られる
「国家の怠慢は明白です」
これで国家を頼るとか、文字通りの絵空事と言わざるを得ないだろう。
「要するに、自立するしかないのね」
無闇に国を頼らず、自らの責任で考え最良を求めて行動するしかない、という事だ。先生はそれを、明らかに知り得ていた。結果が想像出来なくては、そうした火の粉など払えないのだ。その成果は、偶然にしては明らかに出来過ぎている。
この結果は——
単なる想像力か、それとも何かの経験値なのか。何れにせよ、
——只者じゃない。
それまではおかしな隠遁者でしかなかった男から、得体の知れぬ意外性のようなものを否応なしに突きつけられた、そんな出来事だった。
普段は何処となく腰が定まらず、ふわふわ気楽にその辺で浮いているような、それこそ仙人みたいな男だ。世の喧騒を嫌い、山奥でそれこそ事勿れ主義を地で行っているような、のんきな男だ。そんな、
——男が?
あの狂った獣のような男達にケリをつけるとか。
——有り得ない。
これまで感じて来た如才なさとはまた違った、骨の太さと言うか、只のお人好しの皮の下に垣間見た出鱈目振りと言うか。
何だって言うのかしら——。
その先生は最後に、
「通過車両のドラレコを当たるような事件じゃないと思いますが——」
一応、ナンバーと車体色は変えた方がいい、とか。出来ればアリバイ工作もした方が、などと。普段の気軽さで、あっさり重い事を言ってくれたものだった。
次から次へと——
何とも釣り合わない。
真琴がこれ以後、先生の正体を強く意識し始めた事に説明は不要だろう。結局そのアドバイスに従い、一応ナンバーと車体色を白に変えたのは、また後日の別の話だ。
話は戻って、花火大会当日の午後八時。
ようやく夜陰が濃くなり海上から花火が上がり始めた。ホテルの高層階から見るのは初めて、と言う先生と由美子は、固唾を飲んでひっきりなしに上がる花火に釘づけだった。打ち上げ場所から直線距離で数百mという絶好のロケーションながら、窓の向こうの事であるため音は遠く、耳や身体に伝わる衝撃が優しい。その分若干臨場感は損なわれるが、落ち着いて見ようとする向きには最適だった。窓ガラスを介した景色は、ドットが極めて精緻で立体的なスクリーンというか、原寸大の立体模型の世界を鑑賞しているかのような、そんな不思議な趣きがある。
「うわぁ——。綺麗ですねぇ——」
地味ながらも、何処か年甲斐もなく嬉しそうにはしゃぐ先生は、花火を見ながら食べ物を口に運び、五感を堪能しているように見えた。車の中の一面とはかけ離れた、子供っぽい陽気さで感嘆している。
——おかしな男。
真琴はぼんやり花火を見る振りをしながら、窓ガラスに映った先生をチラホラ眺めていた。ホテル側の話では、室内光が反射しにくい偏光ガラス仕様の窓らしかったが、完全に反射しない事はなく、かすかにその姿が映る。
ひ弱に見えるのに——。
一見して分かりやすい暴力的な圧力に、全く動じなかった。真琴は単純に、有事に強い男というものを、幸か不幸か周囲で見た事がない。周りの男達は骨抜きばかりで、強いのは女ばかりだった。そんな真琴に言わせれば、有事に強い男など、
——普通じゃない。
今はまだ素直に言い出す事が出来ない最大級の賛辞を、独りで勝手に飲み込む。どんな表情も絵になるその容貌で、への字口を作って密かに溜息を吐いた。その顔に向かって、
ホント、私——
どうするつもりなのか。自問が立て込み続けている。オープニングから上がりっ放しの花火の時間軸が、既に呆けてしまっているような。まるで酔いが回っているかのような。
——何に?
帰りに車の運転を控える身だ。口にしているのは、やはりホテルに用意させた件のノンアルコールサングリアである。それこそ酔うとか、有り得ないのに。
今更、男か——。
その美貌に反し、男運がなかった真琴に近寄って来る男など、下心だけのろくでなしばかりだった。これまでの人生で、異性と良い思い出を築けた事など一度もない、と言い切る不幸な美女である。が、世間は決してそうは見ない。異性運もなければ、同性からもやたら妬まれ、要するに誰からも受け入れられない。孤立を選ぶのに然程の時を要しなかった真琴の人生の大半は、常に独りだった。真琴の今までとは、常人が得られないものを得る代わりに、常人が得られるものを捨てて来た、そんな人生だった。巷でよく耳にする、孤独な富豪というヤツだ。結論として早々に、普通の幸せを諦めた。その諦めたものの中には、常人なら普通望んでも罰は当たらないだろう自由も入っている。それも人生の重要事になればなる程自由がない。そんな窮屈で、退屈な人生。
そんな女が——
男を連れ出しホテルで夕食とか。プライベートではいつ以来だ。一体何が、
どうしたって——
言うのか。
「どうか、しました?」
「えっ!?」
脳裏の言葉と先生の言葉が重なり、一瞬で鼓動が高鳴った。普段の自分とは考えられない程のみっともない反応で背筋を伸ばし、先生を見る。
「何でもないわよ」
「そうですか」
「どうしたの?」
「いや」
「はっきり言いなさいよ。煮え切らないわね」
つい苛立つ真琴に、
「春巻きが生殺しになってお可哀想ですこと」
と、由美子が静かに目を動かした先を確かめると、真琴の手に握られたフォークの先で、生春巻きがすっかり自重に萎えて両端がぐったりしていた。
「元々生よ」
忌々しく軽く咳払いをした真琴が体裁を取り繕うと、口元に運ぶと落ちそうな生春巻きを途中まで迎えに行く。それを一口で口内に収めた。
気を——
遣われるなど。同族嫌悪に勝るとも劣らずの男嫌いでもある真琴だ。天涯孤独の山小屋暮らし、というその一点に興味を覚えただけだ。どう足掻いても、自己の境遇からは有り得ないその生活に興味を覚えた。只、それだけだ。
頭の中では天涯孤独めいていても、実生活では人に埋もれて生きている真琴にとって、その響きは何物にも勝る魅力だった。身分を明かさないのは、明かした瞬間に引かれてしまうためだ。先生が同じ階層の人間ならそんな心配は無用だが、そんな連中こそまさに真琴を悩ます諸悪の根源だ。自分が言うのも何だが、上の人間は思い上がりの勘違いが多く、欲に塗れてろくな人間がいない。そうした連中は招きもしないのに、無遠慮に追いすがって来ては何かと困らせるのだ。だから問答無用で寄りつく気になれない。かと言って階層が異なると、そのギャップに相手が慄きあっと言う前に立ち去ってしまう。そんな経験を多少はして来た。もうそうした駆逐亡羊はうんざりだ。
だから額面通りの天涯孤独の気楽さを、何も背負うものがない人生とはどんなものなのか、それを提供してくれるあの山小屋に身分を隠して通っていた、
それだけ——
だ。
——それなのに。
気がつくと、そこに住む人間を花火に誘ったりしている。
本当に何を——
しているのか。また窓ガラスに問う。例え何処まで行こうとも、どの道逃げられて終わる関係だと独りで勝手にやさぐれる。
所詮は——
止まり木だというのに。
これまでの人生は、孤独な渡り鳥みたいなものだった。構って来る人間は欲に塗れた野心家ばかり。逆に恐れて逃げ回る人間は、目の届かない所で資産家を一律に誹謗中傷するサディストだ。結局総じて、ろくなヤツがいない。諦め故の不覊独立だった。
それをある日、今隣にいる一見ぼんやりした男に【屈原】を引き合いに出されて、実は動揺した。人生を諦めかけている向きは、実は全くない訳ではない。夢も希望も見出せない、只生き長らえるだけの人生。後何年続くか知れない、余命が尽きるまでのその人生に、いつまでつき合わなくてはならないのか。恐らく二親も知らない、由美子しか知らない真琴の暗い一面を、予想外にも一見してぼんやりしたこの男に、
——覗かれた?
とは。
山奥の楽天家程度の認識だっただけに、その意外な聡さに驚いた。これまでの頑なな自分に違わず、それを恥辱として激昂しようとする一方で、それ以上に何かを期待する自分の存在に、二度動揺させられて絶句した。
——何なのよ。
顔がぼやけ、自分の顔が見えなくなる。マズい。こんな所で急に、訳もなく目頭が熱くなる。
「——今ので終わりだったみたいですね」
先生の一言で、はっとした真琴が現実に引き戻されると、窓ガラスに写っている我が真顔に驚いた。その深刻な表情は、とても花火を見て和んでいるような面じゃない。慌ててそれっぽい顔を作るとか、我ながら有り得ないが口角を上げてみる。と、そんな事をしたところで肝心の花火は既に終わっているという、重ね重ねの有り得なさだ。窓ガラスの向こう側の眼下では、無数の人混みが音もなく緩やかに移動を始めている。
「——え? もう?」
——終わった?
目の前に有りながら、遠い記憶の映像のようだったそれは、どれもこれもピントがズレていて、
「あの特大の花火が凄かったですね」
「私は柳の花火が良かったわ」
そんなものなど、何一つ見覚えがない。改めてそれを認識すると、今度は不意に何を考えていたのか、記憶が蘇り動揺した。
「どう、しました?」
その記憶を占めていた男が、また気遣わしげに声をかけて来ると、
「いや、どうも——」
こうもあったものではなく、思いの外返事が揺れてしまう。
「あら? はっきりしませんこと」
由美子に突っ込まれると妙に動悸が高鳴り、言葉に詰まった真琴は何も言い出せなくなってしまった。