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結花(前)【先生のアノニマ 〜3】

 七月下旬、夜。

 真琴は帰宅するなり、自宅の居間のソファーに深々と腰を下ろした。一見でも、軽く三〇畳はあろうかと思われるフローリングのLDKの一角で、

「うー」

 などと、うなだれている。

 専ら四月から、ほぼ自宅と会社の往復だけという生活で、連日帰宅は今日も

 ——九時か。

 これより早まる事はない。

 日勤シフトの勤め人には、夜の九時など「まだまだ宵の口」という企業人が圧倒的に多いと思われる日本だが、真琴の働き振りも実のところそんなだ。デスクワーク系統の職域に限り、フレックスタイム制が導入されている真琴の会社の勤務時間は、必ず就労しなくてはならないコアタイムを除くと、ある程度の融通が利く。よって真琴は、いつも定時より少し早めに出社しては、定時より少し早めに終業を迎えている。が、これが全く意味がない。

 通勤は交通量も気持ち少なく、早朝の社内は何処か静かで集中しやすいなど、意味がないどころかむしろ良い事の方が多いのだが、意味がないと感じる最たる理由は、

 ——とても片づかない。

 終業時刻が守れない、のだった。

 端末電源の入切で就業がチェックされるなど、就業管理が厳しくなった昨今だが、真琴の会社も同じだ。働き方改革はまだまだ途上で、会社自体の施策が揺れている事もあるが、肝心の働き手も中々それに染まらない、という現実があった。もっとも真琴の場合は、理解した上で守る事が出来ない事情がある。

 基本的に残業は認められず、残業するにも許可制だ。日本のタイムマネジメントは、開始に厳しく終了に甘い現実が常であった事を思うと随分と変わって来たものだが、実情は連日残業は当然の事、昼食はおろか休憩もろくに取れず、同職域である筈の総務に睨まれる有様である。

 忙しい——

 などという言い訳は通用せず、それがなぜか、

「要領が悪い」

「仕事が出来ない」

 という下馬評に繋がって行く事は、どう考えても

 納得が行かないんだけど——

 と思う事は、真琴と同じ状況に置かれた者なら当然の正当な思考だろう。

 前任者を始め「お日さん西々」で働いて来たお歴々の後任として赴任した真琴の激務振りは、社内では有名だった。それまで放置されて手つかずだった面倒事の一切に手をつけている真琴のスタンスは、少なからず社内を刮目させ影響を与えつつある。 が、その一方で、忌まわしい

 イエローカードが——

 後を絶なかった。

 所謂労働基準法における時間外労働の年間上限になぞらえた「三六協定」に引っかかる、または引っかかりそうな社員に下される文字通り黄色の紙切れのそれは、そのままサッカーのそれだ。累積すると会社管理による就業調整、または就業停止措置が下されるのだが、

 ——もう何枚目なんだか。

 真琴は四月からこちら、警告や一発退場を貰わなかった月が一度もなかった。

 ——やってられないわ。

 フレックスタイムなど他の先進国ではとっくの昔に始まっており、最早ちやほやされるようなフレーズではない。しばらく欧州を主戦場として働いて来た真琴が、それに慣れていない訳がない。自己分析ながら業務量や負担率は、単純に一般的な人間がこなす事が可能とされている仕事量の二倍を軽く超えている。兼務辞令でいくつか役をかけ持ちしている事も相まって、要領も効率も最短距離を突き進まなければ時間の浪費が甚だしい。就業中の頭は常にフル回転だ。だからこそ、会社の様々な出入口に設置された防犯カメラや入退室管理システムに基づく出退勤管理をちょろまかさなくても、

 ——このぐらいの時間で帰れるのよ!

 という事だった。

 他の人間が同じ事をやったら、連日午前様では済まない。一月もあれば、大抵の人間は潰れるような量の仕事をこなしている。つまらないあげつらい方をするくらいなら業務量を調べて欲しいものだ。

 そもそもが、真琴は管理される側の人間ではない。そもそもが、大抵の労働に関する各種法律の枠組み外の人種であり、

 ——小言を言われる筋合いはない!

 のであるが、それでは就業規則に縛られている多くの社員と公平感が損なわれるという事で、とりあえず甘んじて貰い続けているのが赤や黄色の紙という訳だった。

 その現状を踏まえた上で、社内の水面下で囁かれる

 女帝だの——

 御局様だの——

 傍若無人だの——

 という数々の中傷。

 ——権を振りかざして?

 ——思うがままに?

 ——やりたい放題やっている?

 という謂れなき批判。

 それをやって来たのは、面子に固執し、底なしの欲に塗れ、建前一辺倒の無責任な寄生虫と化した醜悪なサラリーマン上級職に外ならず、すがりつく木が危うくなるや

 今更どの面下げて——

 あえて遠ざけて来た妙齢の腫物に、その汚い尻を拭わせようというのか。それをさせておいて、言いたい放題やりたい放題やっているのは

 ——どっちだってぇのよ!

 全ては、

 仕事投げっ放しで高禄を食んで来た狒々爺(ひひじじい)共に言え——!


 ソファーの背に首をもたげ、袖に片肘をつき、その手で目を覆っては、

「あー、やっとられん」

 などとうめいている真琴は、あられもない格好ですっかりふてていた。

 その傍に、エプロンをつけた五〇前後の女性が、

「今日はまた随分お疲れで」

 とすり寄って来て、ソファーの前にあるテーブルの上に、黒無地漆塗りの証書盆を静かに置く。

「お風呂とお食事、どちらを先になさいますか?」

 ソファーの角で埋もれている真琴の傍に静かに片膝立ちした女は、まるで娘をあやすかのように語りかけた。

「どっちもしんどい」

 常にないか弱さを見せる真琴のそれは、その女性にしか見せる事のない、二親すら知らない一面である。

「それは困りましたねぇ」

 この四月から一緒に住んでいる家政士の佐川由美子(さがわゆみこ)は、真琴が東京の実家でも世話になった腹心だった。

「だって——」

 悔しい——。

 調整される謂れもないにも関わらず、これ見よがしに通知され、問答無用で手が加えられる就業時間は屈辱に外ならない。自己管理が出来ない象徴としてあげつらわれ、わざわざ傷口に塩を塗り込むようなやり口に内心

「腹が立って腹が立って——」

 仕方がなかった。

 就業調整が、

「何の解決になるって言うのよ」

 そんな事をしても、問題を置き去りにして投げっ放しにするだけで、先の将来の社員や会社が困るのだ。今やっておかねば、先の世でそのツケを払わされる構図が

「目の前にあるってのに」

 その辣腕を乞われて赴任した身である。自分の采配や裁量が、文字通りこれからの会社を左右しかねない、と言い切って何ら差し支えない役どころだ。が、しゃかりきになったところで、旧態の弊害はそう甘くはなく、社内刷新など程遠い。

 結局——

 やっぱり——

 お前でも変わらない——

 変えられない——

 と言われているようで、

 ——負けたみたいだ。

 そんな悔しさが、滲むばかり。

「まだ、三、四か月じゃございませんか」

「そうだけど——」

 由美子は片膝立ちから跪座になり、真琴の頭に手を置いて、ゆっくり、優しく、繰り返し撫で始める。

「私にお仕事の事は分かりませんが」

 その手が、実の母とは比べ物にならない程心地良い。事ある毎にこの手に慰められて来た真琴が、偶然広島出身というこの家政士を拝み倒してまで連れて来た最大の理由は、この優しい手だった。

「止まらなければよいのです」

 拠り所を持たない、あえて持とうとして来なかった真琴が、自ら求めた極々僅かな味方であり、友であり、母とも言えた由美子が真琴の専属家政士となるのは、実に久し振りなのだったが、期待を裏切らず、

「辛くても、歩みを止めなければ、その分進む事が出来ます」

 そんな事を励ましてくれるこの手は、相変わらず優しかった。四月以降、何度かこの手にはすっかり世話になってしまっている真琴である。

「その格言が原因で、沼地にはまっちゃったんだけどね」

 会社での殺気めいた仕事ですり減らし、荒みそうになる私生活を何不自由なく維持する事が出来るのは、外ならぬこの腹心のお陰だった。

「まあ。慰めて差し上げましたのに、随分ですこと」

 そんな四月以来の猛烈振りに変化が生じたのは、先月の事故以後の事だ。

 どうせ就業調整されるんなら——

 週一、比較的社内が落ち着く週の中日辺りは残業を止めた。元々社内でも週の中日は、定時退社推奨日が設定されている事ではある。無視し続けて来たものだったが、あの事故で、

「余り無茶をなさらないでくださいまし」

 と、殊の外由美子を心配させてしまったため、ほんの少し仕事振りを改める事にした。

 週末の休みは社内で絶対消化が厳命されているため、猛烈勤務は週五日から週四日半程度になったのだが、それでも心が折れそうになる。

 何か、足りない——。

 それで、あの【山小屋】に顔を出して景色を愛でる事にしたのだ。自分の周囲にない、あの牧歌的な情景を。

 随分と——

 打たれ弱くなったものだ、と気を取り直して居住まいを正すと、

「今日は、このぐらいでよろしゅうございましたか?」

 と、由美子がわざとらしく満面の笑みを浮かべたものだ。

「じゃあ、これを見てお風呂」

 それまで甘えていた真琴が、その流れで口を尖らせたまま漏らしたものの、それを受けた由美子は、

「はい。ではそのように」

 と、柔らかくも丁寧な返事をしてキッチンへ去った。そんな出来た家政士の後に残されたのは、A三版大の盆の中に盛られた三〇通前後の封書の山である。

「——多いわね」

 傍にペーパーナイフが一本添えられ、几帳面に三列に並べられたそれらは、うっかり触ると盆から落ちそうだ。それを見た真琴が、

「開けておいて欲しいんだけどなぁ——」

 などと、猫撫で声を出したものだが、

「もう、お慰めタイムは終わりましたよ」

 と、由美子はすっかり、スイッチを切り替えている。良くも悪くも折目正しいこの家政士は、いくら言っても封書を開いておいてはくれなかった。

「あ、そ」

 それを見るや、真琴もあっさりその立場を投げ捨て、いつもの毅然さを取り戻す。切り替えの早さは真琴の特質の一つだ。

 今日も多い——。

 仕事帰りのこの一手間が、また真琴をすり減らす。大体が一見して、くだらないダイレクトメールばかりなのだ。

「今更見られて困るような手紙なんか送られて来ないんだけどな」

 と、ぼそぼそ呟くと、

「私に開封して良いものとそうでないものの分別はつきません」

 などと、しっかりと聞き取られており、折目正しく返答される。

「だから全部開けていいんだってば!」

「私は家政士です。執事じゃありません」

 毎度の事だ。最後の決め台詞である。真琴の実家では、封書開封の判断は執事に一任されており、家政士の任ではなかった。

 ——この頑固者め。

 への字に口を歪めながら、真琴はペーパーナイフを手に取る。

 まぁ確かに——

 宛名以外の者が勝手に封書を開封する事は、基本的に直ちに信書開封罪とかいう犯罪に

 なっちゃったりは——

 するのだ。これは閲覧閲読の意思の有無に関わらず、開封した時点で成立する。が、宛名の人間である

 ——主の私が開封を指示してるんだから!

 話は別なのだが、その罪の存在を杓子定規に夫から聞かされているらしい由美子は、頑として開封を拒んだ。もっともこのケースでも、由美子の言い分は分からなくもない。開けて良いものと好ましくないものは、他人では判断がつきにくいものである。

「今更隠すような事もなくってよ」

 と言うのも事実だ。自分の事で由美子が知らない事など、仕事の詳細ぐらいのもので、プライベートは預けてしまっている。

 それでも、

「私の分を超えますので」

 と言い切る由美子も、中々の筋金入りだった。

 ——ホント頑固なんだから。

 とはいえ、信のおけるこの家政士を、真琴は尊敬してはいる。

「この時期になると、ホント多くて困るわ」

 ふてながら真琴は、一通一通開封して中身を確かめ始めた。一応全てに目を通すのは、仕事上のつき合いによるものが大半だからだ。ダイレクトメールでも、稀にこれが話の種になる事もある。個人的には、目を通す価値のあるものなど全くなく、今更心を動かすものもないのだが、僅かでも仕事に関わる可能性があると来れば話は別だ。

 ——興味を持つようにしないと。

 仕事と思って目を通す。多くの責任を背負う者に課せられた使命は、こんな日常においても中々容赦ない。目を通しては、次々と盆の外に積み上げて行くそれらは、仕事上の縁続きでしがらみが出来てしまった取引先企業が送りつけて来る、上得意様仕様の販売促進ものである事が殆どだった。お中元の季節柄故か割引券や優待券が多く、務めて事務的に一定のリズムで開封しては、ポンポン紙の山を築いていく。

 真琴の存在意義など、

 ——所詮はこの程度ね。

 世に金を落として、世を潤す事でしか、世に認められない。このあからさまな数のダイレクトメールは、真琴に対する世の意思表示とも言えた。

 ——ホント、何なのかしら。

 嫌気が差す。自分に向けられた世間の下心が、思いがけず心を抉る。不意に、何を楽しみに、何を支えに、何のために、

 生きているんだろう——。

 焦点がぼやけ、何やら怪しげに倒錯的な思考を巡らせ始める。疲労と荒んだ心がもたらす、闇。

「花火でございますか?」

 気がつくと、また由美子が傍で跪座していた。

「え? 花火?」

 目を瞬き、我に返った真琴が由美子を見ると、

「はい」

 と、微笑を浮かべた由美子が、また優しげに答える。

「これですよ」

 言うなり由美子は、真琴が手にしているカラフルな案内文を手に取った。

「毎年広島港である花火大会です。小さい頃は家族とよく行きました」

 真琴に似て知的な印象の腹心は、微笑むとややふくよかな体型を裏切らず、豊かな母性を醸し出したものだ。

「広島では、宇品の花火大会とも呼ばれたものでして——」

 戦前後、広島市宇品地区(現広島市南区宇品)の祭りの一環として行われていたらしく、近年では毎年七月に開催されている。広島港沖の海上から打ち上げられる一万発を超える花火に、毎年四〇万人前後の人出が見込まれる

「県内有数の花火大会です」

 と、そこは流石に故郷自慢のようなものが混ざる由美子だ。広島湾の島々を背景に、黎明期は中々風情があったものらしかったが、

「昔から、それはもう人混みが凄くて」

 高度経済成長で生活が豊かになると規模も人出も増大。由美子が子供の頃ともなると既に

「会場周辺は、夕方前ともなると大変な混雑で」

 ごった返していたらしい。

「ふーん」

「こちらは、その花火鑑賞の優待プランのようで」

 真琴が手にしていたそれは、全国に系列を持つ某ホテルのそれだったらしい。もっとも倒錯しつつあった真琴は、内容など全く見ずに手にしていたのだが。

「間もなく開催予定の花火大会に合わせた企画ものですね」

 由美子が案内文が入っていた封筒からその優待券を取り出して見せた。

「そうなんだ」

「ご覧になってみては?」

「花火を?」

「はい」

 また、気を遣われてしまったらしい。つくづくこの家政士には世話をかけ通しだ。

「——じゃ、一緒に行く?」

 花火など、真琴にとっては小さい頃の記憶でしかない。東京にいた頃は会場に近寄りもせず、それどころか人混みの温床として忌み嫌っていた程だ。

 あの人混みの中で見て——

 何が楽しいのか。捻くれたものだったが、要するに一人で見ても侘しいだけで、一緒に見るような心を許す事が出来る人間もいない。

「いえ。私と行きましたところで、何のお慰めにもならないでしょう」

 由美子は、手にした優待券を真琴の前に置いた。二枚ある。

「私などより、日頃お世話になってらっしゃる方をお連れしては如何です?」

「——って言われても、あなた以外には」

「先月来、お世話になってらっしゃる山小屋の御仁がよろしいのでは?」

 由美子には、事故の一件と山小屋の住人に助けられた事は、その日のうちに話をしていた。日常的に多忙を極める真琴に変わり、返礼品を用意したのも由美子なら、バーベキュー用品を準備したのも由美子である。頼れば必ず期待通り、またはそれ以上に答えてくれるのだが、そんな出来た家政士に真琴はただ一点、ウソをついた。

「女二人で見に行くのなら、あなたと行くわよ」

 先生の性別だ。この度【先生】と命名した山小屋のあの男の事を、真琴は思わず女だと言ってしまっていた。瞬間で浮かんだ悍ましい懸念が、思わず真琴にウソを吐かせたその理由とは、如何に腹心の由美子とは言え、実家の家政士である事に変わりはない、という事である。

 真琴とその実家の関係性は悪く、真琴の中の位置づけとしてそこは、敵認定した何事にも躊躇を要しない相手だった。腹心の由美子が、その実家にわざわざ真琴の落ち度を報告するような愚は犯さないだろうが、何かの拍子に漏れる事を恐れた。実家を敵認定する主因は、ズバリ真琴の母だ。母は極めて束縛癖の強い体質だった。何でも思い通りに事が進まないと気が済まない質で、逆上したら何を仕出かすか分からない。真琴の最も古い記憶を漁ってみても、一度として母と良好な関係性を築けた記憶がない、という因縁の間柄である。特に真琴が年頃を迎えた後は、何度となく不毛な見合いを仕組まれ、何度大喧嘩をしたか分からない。まさに思い出すだに忌々しい、そんな母なのだ。その母に、文字通り何処の馬の骨やら分からぬ、素性怪しき先生の事など抜けようものなら、お互いに何をされるか分かったものではない。

「お嬢様」

 由美子は言うなり、跪座のまま居住まいを正した。その優れた印象が、もう一つの密かな懸念を彷彿させる。由美子はややふくよかだが、形は決して悪くはない。それどころか落ち着いた面立ちは知的な印象を強く与え、実際に知的なのに加え、外観的にも豊かな母性を帯びている。大体がふくよかと言っても、標準的な体型より少し上回る程度であり、無駄に痩せているより余程健康的だ。その見るからに聡明で柔和な雰囲気では、余りある美貌を持つ真琴でも太刀打ち出来ない、と密かに舌を巻く程の淑女だった。

 邪魔を、されたくない——。

 真琴は、それがどの程度の意味の深さを持つものか、自分でも理解出来なかったのだが、そう思った自分が心奥に存在する事だけは認めざるを得なかった。

「お嬢様に限って間違いはないと思いますが、お隠し事と言うのは余計目につくと申します」

「何が?」

「広島まで連れて来られたにも関わらず、信用されていないと申しますのは、正直残念でなりません」

 その由美子の言い分は、実はもっともである。由美子はこの年齢にして、この四月から単身赴任中だった。夫はやはり、真琴の実家で勤める執事であり、その仲の良さは中々類を見ず家中でも有名と来ている。

「私はお嬢様の味方ですし、自分で言うのも何ですが、そんなに迂闊じゃございません」

「あー、分かった分かった!」

 真琴は堪らず白状した。由美子の現状を招いた身とあっては、その存在は頼りになる一方でアキレス腱にも成り得る。

「こう言う事は、信用出来る家政士一人ぐらいには打ち明けておいて損になる事はございません」

 と、由美子が畳みかけると、

「だから分かったってば!」

 などと、真琴はすっかり観念の体で、先生の事を白状した。確かにその為人は掴みかけてはいるものの、まだ完全とは言い難い。面白そうな男だが、何がどう転ぶが分からない部分が拭えない以上、自分の身に何かが起きた場合の痕跡は残しておくとしたものだ。更に真琴はこの家政士に、多少なりとも刺激を与えたい思惑もあった。無理矢理広島に連れて来てしまい、何かと寂しい思いを強いている。罪滅ぼしの側面もあった。

「んまぁ!? 面白そうな御仁じゃございませんか!?」

 由美子はメロドラマやワイドショーに目のない人間で、その辺りの事では一昔前の主婦の具現である。いい年の淑女が、両手を掴んではしゃぐ構図に、

「ホント、こういうの、好きよねぇ」

 と、真琴は三段論法で引いたものだ。

「隠すような事なんてない、と仰いましたのに。一人でずるいんじゃございません?」

 グイグイ迫る由美子に、真琴はすっかりジリ貧である。

「ずるいも何も、あなたにはあんなにも良く出来た旦那さんがいるでしょうが!?」

 由美子の夫は、家中でも有能で通る大変な切れ者にして、燻し銀のナイスミドルだったりする。男を見る目に厳しい真琴が見ても、中々非の打ち所が見当たらないという男振りなのだが、

「暑苦しくって敵わないってのに」

 この夫婦は双方とも一途であり、いつまで経っても仲が良い。夫もそうなら由美子も、と言いたいところだが、

「あんまりお痛が過ぎたら、流石に怒られるわよ」

 と真琴が言うこの妻は、実のところ、

「素敵なものは素敵というものです。我慢したら、それこそ気の毒ですよ?」

 とかぬかす程に、メロドラマの影響が多少はあった。

「じゃあ、この際だから三人で行く?」

「はい」

 真琴の提案に、由美子は一も二もなく、嬉しそうに即答する。

「あ、申し上げておきますが、私はそこまで野暮じゃございませんからご安心くださいませ」

「何よそれ」

 呆れた真琴が、堪らず嘆息した。

「それにしても、どうして分かったの?」

 気づかれるような下手を打ったつもりのない真琴が訝しむ横で、

「家政士の観察力は、伊達じゃございませんよ」

 と言う由美子は、早くも興味が抑えられないようである。

「プランの手配は、私がやっておきます」

「それは家政士の仕事の範疇を越えるじゃないの?」

 大抵、折衝を伴う表向きの事は、執事の領分なのだが、

「ですから随時、ご相談させて頂きます」

「あ、そ」

 興味を覚えた事なら、軽々乗り越えられる壁らしい。

「お風呂入って来るわ」

 毒づく事で、すっかり毒気が抜かれた真琴は、ホテル優待券と案内文だけ盆に戻すと、立ち上がって広い居間を後にした。


 翌日。

 非番日の夕方、相変わらず本を読んでいる具衛が、座卓の上で素気なく鳴ったスマホに慌てた。メル友を持たない具衛に届くメールといえば、以前は通販サイトのダイレクトメールぐらいで、ほぼ放置していたのが、先日来それに紛れ込んで【カナ】から届くようになったためだ。

 確かめとかないと——

 後がうるさい。

 元々具衛は、普段から着信の確認癖がついている方だが、カナはそれを上回るせっかちさだった。カナが送りつけて来るメールは明らかに短文で、殆ど内容的にショートメールと変わらない。どうやら多忙の中、短時間を捻出してメールを打っているらしく、うっかり放置していると、返信を急かすメールが何通も滞留する事があった。

 で、着信を確かめると、やはりそのカナからだ。

「おっとっと」

 慌ててメールを開封し、内容を確かめる。

"一七時過ぎに伺います"

 相変わらずの決めつけ短文だ。具衛は早速返信を打つ。

「お待ちしています、と」

 以上、終了するまでの所要時間、僅かに約一分。早さも殆どショートメール並みである。住居侵入の意を含めた七夕の言及が余程堪えたのか。来訪前日には、事前に必ずその予約のようなメールがあるため、予約通りならこの程度の内容で済む。何れにせよ前日当日問わず、メールの内容は殆ど固定文のようなものだった。

「それにしても——」

 具衛は、やり取りを終えた受信メールを眺めて思わず独り言を漏らす。

「この登録表記は、痒い」

 女っけのない生活が板についている具衛にとって【カナ】というその女子振り満載の音と表記は、むず痒くて仕方がなかった。メール自体の表示は小さいからそこまで気にならないが、着信を知らせる表示は確認癖の影響で、一目で送信者が分かるよう比較的大きく設定している事もあって、とにかく痒い。

 大体あれが——

 カナ、という名前に相応しい人間なのか。常日頃を想像するに、その形は【カナ】という名前のイメージとは離れているように思えてならない。カナというからには、

 ——もう少し可愛げがあってもよくないか?

 と勝手なイメージを膨らませている。少なくとも、男以上に男振りを見せつけるようなあの女が、断じて【カナ】とは、

 どう考えても——

 結びつきにくかった。

 百歩譲って音は我慢するとして、

 ——表記は何とかならんか。

 と、電話帳を開く。と、恐ろしい事に登録データがたったの三件しかなかった。壮年を迎えている働き盛りの男のものとは思えない侘しさだ。その内の一件が【カナ】なのだから、少な過ぎて表記が目立つのも無理からぬ事だった。

 とりあえず、カナの登録データを編集モードにする。電話帳データのくせに電話番号欄が空欄で、登録データはメールアドレスだけ。そのアドレスは、ニックネームをアルファベットにして、その後ろに数字を六つ並べただけだ。数字の意味は事故日である。七夕の日に設定したのだから七夕の日を表す数列にする手もあったが、それは如何にも多そうだったし、何処となく野暮ったいイメージが拭えなかったため事故日にした、という訳だ。二人の腐れ縁は、この日をもって始まったのだからそれでいいだろう、という事になった。

 そんなこんなで、西暦の下二桁以下を日付表記すると、同一のアドレス登録はなかったようで、登録する事が出来たのだったが。アルファベットはまだ我慢出来るとして、

「登録名は、とにかく痒い」

 と、具衛は堪らず、盛大な溜息をついた。

「カタカナがいけない——」

 カタカナが、などと、具衛の勝手なイメージが、日本固有の片仮名を戦犯にする。平仮名でもそうだが、その表記は日本人にとっては趣きがあり、柔らかい優しい印象がどうしても具衛の中で拭えない。音にしても同じだ。だからこそ、カナという名前は一般的で、現代の日本で受け入れられているのだろう、と具衛は更に勝手な解釈をした。

「せめて漢字にならんモンか」

 と口にした時、思い至った。

 そういやあ——

 音は決めたが表記は決めていない。【仮の名】という意味で【カナ】と命名した、

 ——だけだったか。

 具衛は、そのまま命名の意味通りの漢字表記で【仮名】と登録し直した。

 ——やっぱり!

 これなら少しは落ち着いて見える。具衛はその独善に手応えを覚えた。漢字なら、例え他人に見られても、【かりな】という苗字の人だと言い逃れる事も出来る。

「おぉ——!」

 我ながら妙案、などと、具衛が独りで歓声を上げていると、その渦中の人の車がバックして来た。本を読みながらとはいえ、それに気づかない程度に頭を悩ませていたらしい。すっかり慣れた様子で、車が山小屋の目の前に止まるや、

「何の雄叫び?」

 と、すっかり慣れた様子の【仮名】が、縁側に腰を下ろした。

「え?」

「さっき。何か『おぉ——!』って」

 どうやらバックの時に、車のドアか窓を開けていたのだろう。今春からの周辺に誰もいない生活に馴染みつつある具衛は、独り言を躊躇しなくなって来ている。それも四か月が過ぎようとしていれば、独りで存分にはしゃぐ事が多くなったものだった。聞かれてしまった事に、今更ながら恥じ入る。

「いや、こっちの話でして」

 中々間抜けな事で、口に出せよう筈もない。かといって上手く取り繕う事も出来ず、まごつきながらも具衛は、給仕を理由に台所へ逃げた。


 夕方といえどもまだ日は高く、暑気が強い。周囲でニイニイゼミやアブラゼミが賑やかしく鳴き続ける中、具衛が呈茶に参じると、仮名は早くも恍惚めいて、盛夏の夕暮れを愛でているようだった。邪魔をすまいと、静かに座卓に引こうとしたところで、

「煩わしくない?」

 と、唐突に仮名が呟く。

「え?」

 跪座したまま僅かに固まる具衛に、

「メール」

 と、申し訳なさそうな顔を向ける仮名がつけ加えた。

「SNSなら、もっと早いから」

 相変わらず寂然たる面持ちを見せる仮名は、相変わらず問答無用で美しい。不意打ちのようにその御尊顔を見せられると、驚きの余りつい動きが止まってしまう。思わず息を止めて目を瞬かせた具衛は、思い出したように小さく息を吐くと、

「私は、時間に追われるような暮らしはしていませんから」

 と、胡座をかいてその場に座り、柔らかく答えた。事ある毎に、隠棲した世捨て人を自称する具衛に、世間の忙しさは存在しない。そもそもが、フリーメールを選択した理由はそこではない。出来る限り個人特定に結びつくような情報を遠ざけるためにそれを選択した訳だが、つまりは仮名の素性を慮っての事だ。ついでに言うと、具衛はSNSを使っていない事でもある。

 具衛には、素性を隠す理由は殆どない。何せ天涯孤独の身である。プライベートは自由自在だ。一方で仮名は、社会的地位が如何にも高そうな身であり、一見して何かと制約も多そうだった。自由な具衛に選択の余地がなく、制約を伴う仮名にその権がある、とは、少し考えれば仮名に配慮した事は明らかだ。

「それもそうね」

 具衛ののんきな生活振りを知っていながら、時間的な煩わしさを尋ねるのも中々的が外れている。

「全ては私の都合だったわ」

 察した仮名は、小さく自嘲した。

「それに元々、SNSは使ってないんで」

 言いながら具衛は、グラスに入れた冷茶を口につけた。来訪予定が分かれば、この暑い時期の事だ。冷蔵庫を使わなくとも、井戸水である程度は冷やす事が出来る。毎週一回、週半ば辺りに来訪がある事が分かってからは、それに合わせて作るようになったのは、事故の日にも話題に上がった笹の葉を煮出した【笹茶】だ。山にいくらでも自生しているそれは、軽く炒って弱火で煮出すと、ほんのり香ってほんのり甘い。素朴な味わいがする山の味だが、市販品となるとわざわざ求めなくては中々口には出来ない物だったりする。仮名も「飲んだ事がない」と喜んだものだったが、 

「ウソ!? 今時!? 使ってないの!?」

 とか、呈茶の謝辞も忘れる程に、SNSの事の方を三段論法で驚いて見せた。

「使うような相手がいないんで」

「ホントに?」

「メールにしても、通販のダイレクトメールばかりですよ」

 具衛はやはり、呆気らかんとしたものだ。

「そうは言っても、友達の一人や二人」

「スマホの電話帳登録は、あなたを含めて三件だけです」

 取りつく島がない、とはこの事だ。言葉を失う仮名の横で、具衛は具衛で、

「電話なんかも、しばらくかかった覚えがないですね」

 とつけ加える。言いながら着信履歴を確かめると、

「最新の着歴は、今年のエイプリルフールですよ」

 などと、立て続けの具衛が「何の電話だったか」とか、無邪気に自嘲した。

「電話帳データ上の知人なんて、大家さんと、その顧問弁護士さんと、あなただけです」

「本当に三件だけなの?」

 驚く一方で「弁護士」という、具衛のような世捨て人から出そうにないフレーズに、仮名は違和感を覚えたらしい。

 確かに弁護士は、一昔前に比べれば増えてはいるが、庶民にはまだまだ縁遠い。法の専門家として、相談料や依頼料は事実上言い値であり、文字通り未だにお高い存在

「——としたものだけど。まさか、あなたの副業のご関係?」

 と言う、仮名の思わぬ先読みに、

「まさか」

 と、失笑で答える具衛だ。

「弁護士さんの本家が、この町の農家で。手伝いと称して押しかけては、いろいろお恵みを頂く訳でして」

 またそんな自嘲を重ねる具衛を、

「まぁ副業と言えば副業ですけど」

「まぁそういう言い方も出来るか」

 などと仮名は、無遠慮にあっさり受け止めた。

「弁護士なんて、日本じゃまだまだ遠い存在だわ」

 日本と他の先進諸国における弁護士数の比較は見るも無惨で、弁護士一人当たりの国民人口は、圧倒的に多い日本だ。

「桁が違うもの」

 つまり弁護士が少ない。

「詳しいですね」

「ちょっとね」

 言う事を言うと、また物憂げな眼差しを夕暮れ時の盆地内に移す。

「——あ。あなたの事をバカにしてる訳じゃないわよ」

「そうなんですか?」

「当たり前でしょ! そこまで図々しくないわ!」

 思い出したように怒りながら否定する仮名は、遅ればせながらも、

「お茶、ありがとう。頂くわ」

 と、やはりぶつ切りの、ぶっきらぼうな謝意を表した。

「相変わらず、高飛車な女ぐらいにしか見てないようね、全く」

 などと、然も心外そうに独り言ちる仮名を、具衛はこっそり笑う。当初は、ぼんやり座って景色を眺めては、ぽつりぽつり山小屋の所帯染みた話ばかりしたものだったが、七夕以降は世間話も増えて来た。それが先程のように妙に専門めいて、

 ——いたりもするからなぁ。

 と、追加で密かに舌を巻く。

 てっきり田舎の物珍しさで来訪しているものと思っていた具衛は、

 ——飽きて来たか。

 と、仮名が退屈で顔色も冴えないという勝手な解釈をしたものだった。そんな事とは知らずに、

「IT難民とまでは言わないけど、寂しくないの?」

 とか漏らした仮名に、やはり勝手に退屈を察した具衛は、

「むしろ気楽で良いですね」

 と、当然至極に明言したものだ。飽きたのであれば、そのうち足も遠退く事だろう。この稀有の美女が見られなくなるのは残念な向きもあるが、やはり面倒毎に巻き込まれる懸念の方が未だに強い具衛としては、

「だからさっきみたいに、叫ぶも騒ぐも自由自在で、リアル傍若無人をやったモンですよ」

 などと、奇人を装ってみたりする。田舎がつまらなくなり、人も奇妙ならば、早々に寄りつかなくなるだろう。まさかとは思うが、まかり間違って、お互いに妙な情が湧いてしまっても困る。

 それなら早いところ——

 飽きて、呆れて、寄りつかなくなって欲しいものだった。が、

「傍若無人って——」

 とか言いながら、相好を崩す仮名は、

「使い方が違うでしょ」

 と軽く噴き出す。世間話を織り交ぜるようになった仮名は、一方で、笑顔も見せるようになった。

「原文のままの意味としては正しいですよ」

「本当に人がいないんなら、正しくは蕭条無人(しょうじょうむにん)でしょ」

 その遠慮のない口から出て来る内容は、時として固く、難しく、具衛の舌は巻かれる事が増えもしたのだったが。

 ——話し相手がいないのか?

 具衛はとりあえず、そう思う事にした。人嫌いで、友達がいないようでもある仮名は、確かに精神の抑揚が激しく、一見して接しにくいタイプだ。思った事をあっさり口にするものだから、誤解も受けやすいのだろう。これぞまさに、

 ——リアル傍若無人なんだろうけど。

 目の前で聞き慣れない四字熟語の解説をつらつらと語る仮名を前に、具衛は思わず自らの口を押さえた。傍若無人の女が、蕭条無人な所でひっそり暮らす男を前に説法を繰り広げる構図は、どこか高踏的な三文文士めいていて、皮肉の利き方が中々滑稽と言わざるを得ない。

 傍若無人は現代でもよく使われる、余り好ましくない意味の熟語であるが、

「蕭条無人って、口にする人見た事ないですよ」

「人がいなくて寂しい。そういう意味よ」

 とか。だから原文の意味としては、具衛が口にした「リアル傍若無人」の方が、意味も通りやすい。

「——と言えなくもないけど。ご理解出来て?」

 などと、仮名が確認をして来るので、

「屈原の詩ですかね?」

「一々意外ねあなたは」

「高校で習った覚えがあるような」

 そんなところの解説に、また火がついてしまう。

 屈原は古代中国、春秋戦国時代を生きた詩人としては余りにも有名だが、出自は戦国七雄の大国【楚】の王族に繋がる名門にして、博聞強記の政治家。孤高にして剛毅剛直の辣腕家は、当時の王の信を得て活躍したが、それ故同僚から妬まれ権力闘争の末失脚。失意のまま入水自殺を試み、

「そのまま非業の死を遂げる——」

 と、仮名の口振りは相変わらず滑らかだ。

「横山大観の絵と一緒に載ってたような。絵本じゃないですけど、挿絵みたいなのがあると記憶に残りやすいですよね」

「それは【漁夫辞(ぎょほのじ)】ね」

 失脚後の屈原を色濃く写したその詩は、その代表作とも言われ、近代日本画壇の巨匠横山大観作【屈原】の歴史画と共に、高校の漢文の教科書に掲載されていたりする。傍若無人のエピソードが掲載される、やはり古代中国の歴史書【史記】にも、屈原の孤高を表した傑作として引用されるが、実はそれは屈原の作風とは異なり、後世の詩人が屈原に、

仮託(かたく)した物らしいわ」

 とする説もある。更に言うと、

「蕭条無人は【遠遊(えんゆう)】」

 という詩の中の記述であり、漁夫辞とは関係がない。

「そうでしたか」

「そうよ」

「詳しいですね」

「まぁね」

 言いながら仮名がまた寂然とし始めると、

「歴史って、人類の教科書だから」

 と語る、その口が重くなっていく。つまりは、有史に記録が残る新世代人などは、大差なく同じ失敗を繰り返すもの

 って事が——

 言いたいらしい。

「それにしても、ここで漁夫辞を聞かされるとはね——」

 仮名は大きな溜息を吐いた。一見してまた何やら悩ましそうであり、浮き沈みが忙しい。

 ——屈子だな。

 屈原を連想せずにおれず、また具衛は思わず口を押さえたものだった。が、それ以上に、

「私は【漁夫】みたいな高踏の賢人じゃありませんから、難しい事は言えませんよ」

 と、一応釘を刺す。

「は?」

 仮名が、更に意表を突かれたような顔を返すが、

「入水されても寝覚めが悪いだけで困ります」

 とか、とりあえず畳みかけておいた。仮名の物憂げな表情は、それだけで何処か危うい頼りなさを思わせるのだ。先月の事故の初見のような、衝動的にあっさり身を投げ出しかねない、そんなか弱さがこの女は突然表面化する。それを単に脆さと片づけていいのか、具衛には判断がつかない。そこまで深い間柄ではないのだから、当然と言えば当然だが、自分の迂闊な言葉で思わぬ選択をし兼ねない。その焦りのようなものが、具衛にお節介な言葉を吐かせた訳だ。が、

「何言ってんの?」

 と、一瞬驚いた顔をした仮名は、途端に悪びれて鼻息荒くあしらってくれた。

「今度は屈原扱い? 私はあんな負け犬じゃなくってよ」

「負け犬!?」

 気鬱に陥ったかと思うと、途端に砕けるとか。危うさがチラつくからこその(くさび)だ。流石に不快さが募る。高飛車でも不遜ではない、と思っていた仮名の為人を、

 どうやら——

 勘違いしていたのか。少し頑なになった具衛は、そのままとりあえず茶を濁した。

「はいはい、ご忠告なのよね。分かってるわよ。ちゃんと聞いておくから」

 そう引きなさんな、とここぞの言い訳のようなものを次々繰り出す仮名は、その少しの変化をお見通しらしい。忙しくも表情を崩す仮名は、何となくそんな押し引きまで楽しんでいるかのようだった。


「のんびり蝉の鳴き声を聞くなんて、いつ以来かしら」

 仮名がぽつりと漏らした。 

 先程までの寂然さは形を潜め、穏やかな顔つきをしてはいる。が、この分だと、

 仕事中は相当——

 険しい顔をしているのではないか。具衛は密かに、そんな想像を巡らせていた。いつ以来などと、その何気ない飾り気のない一言は、つまり本音なのだろう。それこそ仕事中は、

 世迷言を口にする間も——

 ないのではないか。その想像に違和感はなかった。片や、せせこましさとはほぼ無縁の、のほほんとした具衛の生活など精々、

「ヒグラシは涼しげで良いんですけど」

 そんな蝉の声を気にするぐらいの事だ。

 先週、梅雨明けが宣言されると、山小屋周辺も随分と賑やかになった。昼間はクマ、ミンミン、ニイニイ、ツクツクなどの各蝉の賑やかな鳴き声で占拠されているが、夕方になると入れ替わりでヒグラシが鳴き始める。具衛が言ったそばから、夕方の納涼感を誘うその鳴き声が聞こえたかと思うと、

「昼間はうるさいんですよ」

 と、苦情めいたそれに呼応するかのような、ミンミン、ツクツクの声だ。その瞬間で仮名が小さく噴いた。時刻的には夕方とはいえ、日差しの厳しい夏場の長い夕方の事である。昼間に鳴く蝉が収まるには、もう少し時を要するようだ。

「そのようね」

 具衛としては、夏本番が始まったばかりだというのに、既にいい加減聞き飽きている。耳につんざく系統の蝉の鳴き声は、早くも悩ましい騒音に外ならず、軽くへの字口を作ったものだ。が、仮名は嬉しそうだった。具衛にとっての日常は、如何にも多忙そうな仮名にとっては非日常、という事だろう。

 まぁ——

 確かにここの生活はのんびりしている。その逆を想像するだけで、具衛は頭が痛くなりそうだった。時間に追われ、人に振り回され、物を使い回して何もかもすり減らす日々。それは具衛がこの春に捨てた生活だ。が、仮名は、

 ——段取り良し!

 ——歯切れ良し!

 ——ぐずは嫌い!

 と来ており、事故の時は別として、総じててきぱきと隙がない。抑揚の激しさは切り替えの早さでもあり、それ程忙しいと捉える事も出来る。それは何も仮名に限った事ではないのだが、そうした日常を強いられる人々は、今の具衛には気の毒以外の何物でもなかった。好き好んでそれに埋もれているのであれば、好きにすればよい。逆の現実で、具衛が好き好んで隠棲している状況と同じ事だ。が、我慢を強いられているのであれば、それは余りに痛々しい。具衛から見た仮名は、明らかに後者だ。だからこそ、週一でわざわざこんな所に息抜きに来る。好き好んでこんな山奥を訪ねる理由だろう。

 そうか——

 七夕の日に、そんな事を尋ねたのを今更ながらに思い出す。仮名は端的に「興味」だとか言っていたが、

 単なる息抜き——

 なのだろう。何となく、そう思えた。それなら不意に見せる寂然さの説明もつく。それまで何となく抱えていた疑問の答えが、はっきり認識された瞬間だった。

 ——疲れているのか。

 つまり癒しだ。今まで具衛にすり寄って来た女達は、その感情を猛アピールしては、自己都合をゴリ押しして来た連中ばかりだった。分かりやすさの一方で、そのあざとさは煩わしさでしかなかった。が、仮名は逆で、辛さや弱味を匂わせない。プライドが、そうした配慮を嫌うのか。

 ——難しいな。

 人をもてなす事の難しさを、今更ながらに痛感させられる具衛だった。

 そんな渦中の仮名は、

「でも、ここはホント涼しいわ」

 とか、騒音系の蝉が鳴き続ける中において、今度は涼を愛でている。山小屋の周囲は、入口となる南側以外は高い針葉樹の囲いの中だ。更にその内側は、梅や桜、楓に銀杏などの落葉樹が連なり、その二、三本はおあつらえ向きに山小屋を覆っている。山小屋は、夏の厳しい直射日光とは無縁だった。木の配置が神社のそれと似ているのは、どちらもオーナーが大家だからだろう。加えて具衛は、山小屋の南面にタープをかけている。樹間や川からの風が涼しいのは、そんな周囲の自然の恩恵だ。

「周りの高い木は杉?」

(もみ)の木です。花粉はないですよ」

 そんな煩わしさどころか、具衛が春に越して来た時には、

「桜が咲いてて、一人花見状態で」

 目を和ませてくれたものだった。

「まるで桃源郷ね——」

 恍惚めいた様子の仮名の口から、そんな浮いたフレーズが漏れる。

「仙人ですからね」

 具衛がすかさず突っ込むと、仮名がまた軽く噴き出した。その伝承の出元は、やはり古代中国だ。

「そうとも言うかも」

 仮名はあっさり追認した。山奥の奇特な暇人とくれば、変人も仙人も大差ないという事だ。具衛は満更でもなかった。人嫌いを公言する山男だ。人でない者、それも人より上の存在ならどんなにか嬉しい。霞を食って宙を揺蕩(たゆた)う。たまに下界に姿を現しては、悪事を働く人間を懲らしめる。そんな仙人になれたら、

 ——楽しいだろうな。

 と、具衛は思った。正直なところ現世は煩わしい。人間の浅ましさに振り回され、それなりに苦難の中を生きて来た具衛にとって、それは理想の存在と言える。厭世的になるのは、そんな具衛の悪い癖だ。不意に目を瞑り、片手で目頭をマッサージする振りをしながら倒錯し始めると、

「——何の話をしてたんだっけ?」

 と、仮名が唐突に話を巻き戻した。

「——え?」

 手を止めて、不意に開いた具衛のその目が、仮名のそれと一瞬絡む。と、つい視線が泳いだ。

「何と言われても——」

 そのあおりで、声まで揺れる。思い出す必要がある話など、

 なかったような——

 気がするが。

「どうかした?」

 立て続けに、今度は何やら気遣わしげなその目に、また俄かに動揺する。

「いえ。——確か、メールが煩わしいって事でしたよね」

「そうね」

 どうにか思い出した具衛から答えを得た仮名は、また林間に目を移した。話を急に戻しはしたが、それを引きずる様子はない。

 ——何なんだ?

 引きずっているのは、その滞在時間だった。いつになく長いそれは、もう確実に、

 三〇分は——

 過ぎている。あからさまに壁掛け時計を確認しても、追い出すようで悪い。何かと察しの良い仮名の事だ。少し首を動かしただけで、それを勘づかれそうなのだから迂闊に目を向けられなかった。その代わりに、目を動かすだけで確かめる事が出来る別の時計を見る。仮名の左手首の腕時計だ。

 クールビズでも背広かジャケットを欠かさない仮名だが、山小屋に来ると流石にそれを脱ぐ。半袖シャツで手首が露わになる事で見える時計は、日々つけ替えているらしいアクセサリー類と違って、いつも同じ物だった。デジタルアナログ仕様の機能美追求型のそれは、一見して武骨なデザインで、具衛が持っている男物に近い。が、全体的な印象として具衛の物よりは一歩引いた柔らかさがあり、やはりそこは女物のようだった。それでも仮名がつけるには、やはり随分と力強い向きがある一方で、それでいてその細い手首にある事に不思議と違和感がない。そこはやはり、仮名の内面が醸し出す女傑然とした振舞なのだろう。チタン製と思しき質感の、清潔感を帯びた白色が映える明るいそれは、ケースを象るベゼルの鮮やかな赤色がアクセントとして目を引いていた。その鋭さと力強さは、仮名のイメージに合致する。身につけている他の飾り物にない峻烈さ、とでも言えばよいか。以前も感じた事だが、身体に纏うアクセサリーの釣り合いが、何となくチグハグで少し不思議だ。

 それはいいんだが——

 今日は随分と居座っている。何か伏線があるのだろうか。それを疑い出した具衛を、

「——あ、そうそう」

 と、また見透かしたような仮名が、また唐突に口を開いた。結局、時刻を見そびれてしまった具衛だ。

「今度、さ——」

「え?」

「花火見に行かない?」

「——は?」

「は? じゃなくて、花火よ」

 訝しげな声を出した具衛に、容赦なく仮名が突っ込む。

「やるんじゃなくて見るんですか?」

「花火大会だもの」

 みなと祭りのそれだとか。

「あー、宇品の」

 具衛はとりあえず、額面通りに話を受け止めた。

 また急に——

 何を言い出すのか。七夕バーベキューも一方的に決められて、寸前まで独り悶々と悩まされた経緯もある。とりあえず即答を避け、今回はしっかり伏線を探る事にした。

「広島の人は、みんなそう言うわね」

「広島近辺だけでも、以前はいくつか大きな花火大会があったんですよ」

 それを、それぞれを地名で呼んでいた名残りだ。が、時の流れの宿命か。花火文化の先細りは、広島でも始まっている。

「子供の頃、見に行った?」

「いえ一回も。人が多いので寄りつきもしませんでした」

「そう」

 そこで仮名が、また少し寂然として見せた。これは何だ。

 ——がっかり? したのか?

 具衛は密かに、また何かの地雷を心配し身構えた。ヘソを曲げられるとまた後が面倒だ。論破されて頭を下げるのも面白くない。それを嫌って山に籠ったのだから、それを山小屋でやらされては堪ったものではない。

 少し間を置いた仮名は、

「花火は嫌い?」

 と、また直球をぶつけて来た。

「嫌いと言う訳では。人混みは嫌いですが」

「よかった」

「え?」

 その人混み嫌いを肯定した様子に具衛が驚くと、仮名が後追いで補足する。

「嫌いじゃないんでしょ? 花火」

 ——花火かよ。

 プライドが高く癇癪持ちで歯切れのよさはこの上ないが、基本的な品性は高い女だ。否定的な言動では峻烈極まりないが、肯定的な物言いをされると、つい見惚れざるを得ない。

「どうかした?」

「は? え?」

 ——何か答える場面だったっけ?

 などと、内心慌てる具衛を横目に、仮名は少し呆れながらも更に、

「人混みを避けて見られる所があるの」

 と、つけ加えた。

「どう? 非番でしょ?」

「相変わらず、人の都合をよく調べてますね」

「二日に一回の勤務なんだから、別にどうって事ないでしょ」

 直球で攻められては、上手くはぐらかせない。この程度のやり取りで妙な仕掛けを見抜ける程賢くはない具衛だ。何よりとにかく、肩が凝って仕方がなかった。いい加減身体が慣れて欲しいのだが、この美女はいつまで経っても外見といい中身といい、とにかく気を許せない。よい緊張感、という意味合いにしても、週一のほんの一時の来訪でさえ、お帰りになられた後は身体の凝りをほぐす程疲労している具衛だ。それが、花火に付き合わされるなど、

 ——何の修行か?

 の一言に尽きた。

 返事を保留し続ける具衛に、

「まだ仙人になるには、修行が足りないんじゃなくて?」

 と、思わぬ時間差で仮名に図星される。

「——は?」

「人の事を屈原みたいに言っておきながら、そういうあなたこそどうなのよ?」

「いや、そんな事は」

 迂闊な事を口に出来ないどころか、思った事を見透かされる。その察しのよさに、また参る。

「仙界に逃げようとする修行不足の不届きな人間を、仙界の御歴々がお許しになるかしらね?」

 何かを言い出すと、歯切れのいい仮名の事だ。抗弁に事欠き、

「花火ですかぁ——」

 などと唸っている具衛に、勝ち目などある訳もない。小さく鼻で笑った仮名は、

「また連絡するわ」

 と言い捨てると、そのまま立ち去った。

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