七夕【先生のアノニマ 〜2】
梅雨末期、七夕の夕方。
非番の不破具衛は、台所で野菜を切っていた。山小屋と称する狭い借家の狭い台所が、野菜に占拠されている。今から数時間前の昼下がり、宿直明けで立ち寄った町の図書館から山小屋に帰る途中、彼は農産物の無料販売所に立ち寄った。そこで何個か適当に野菜を買うつもりが、偶然販売所に商品を持って来た馴染みの農家のおばちゃんに見つかると、あれもこれも
「持ってけ」
と、只で押しつけられ。
「あんたにゃあ、よーてつどーでもらよーるけー」
その捨て台詞を残された後には、いつも使っている買い物用の二五Lサイズのリュックサックがパンパンになってしまった。台所の現状は、その賜物である。
「うーむ」
どれくらい用意しておけばよいか。
玉葱や人参の皮を慣れた手つきで剥きながら、具衛は溜息を吐いた。今夕のバーベキューの下準備である。
よもやこの山小屋で、
——客とメシを?
食らう事があろうとは。
半信半疑で戸惑いつつも、てきぱき野菜を切り分け皿に盛っていく。
客とは、あの車の女だった。
町中が大渋滞した梅雨真っ只中のあの日。具衛は宿直帰りで近くの農家へ草刈りの手伝いに出掛けた。のだったが、午後四時過ぎ。急に降り出した大雨は、
夕立にしては——
強過ぎるそれで、作業は打ち切りとなる。いつ降ってもおかしくない時期ではあるが、予報でもここまで降るとは聞いていなかった。少し待ったが全く止みそうにない。仕方なくズボンの裾を捲り上げて、とぼとぼ濡れながら帰宅し始めた。具衛の移動手段といえば、公共交通機関か自分の足だ。タクシーに乗れるような金の持ち合わせは常にない。バスは、一時間に一本走ればいいような路線である。歩くしかなかった。
その帰宅中、急に国道が渋滞し始めた。大型トラックが横倒しになり、国道を塞いでいるのが見える。間もなくすると、土砂降りの中をとぼとぼ歩いて帰っていた川沿いの市道にも車が入り始め、やはり渋滞が始まった。
——うわ。
泥跳ね運転がひどい。車を回避するため仕方なく、川の北側にある未舗装の土手道を歩く事にした。車に泥を跳ねられるよりはマシだ。逃げたつもりだったが、それでも四駆車が入り込んで来て、結局は同じ展開となった。
「車社会だなぁ」
その文明の力にあやかれない貧者が恨み節を漏らしながらも、とどのつまりで出くわしたのが、例の赤い車だった。車は頭から泥道に突っ込んでおり、直近まで近寄るまでもなく走行不可能である事が分かった。四駆車でさえ慎重を要するぬかるみである。車底部が低いスポーツカーが、素人運転で抜けられよう筈がない。
無謀なヤツが——
いたものだ。
具衛が近寄ると、整った身形の女が悲壮な面持ちで車外に座り込み、泥だらけになって大雨に打たれていた。横座りで足を投げ出し、両手を地につけ首をがっくりと落とし、長い髪がだらりと眼前に垂れ下がったそれは、この世の終わり的な絶望に打ちひしがれる女の構図である。その様は事故原因を言う前に、心が病んでいるのではないかと疑った程だ。
正直関わりたくなかったが、見てしまったものは仕方がない。見過ごす訳にも行かず、とりあえず声をかけた。声に反応した女は、濡れたせいか一見してほぼすっぴんだった。大雨に打たれて体温が奪われたためか、ひどく血色が悪く、死人並みに真っ白な顔をしている。唇も紅が落ちかけていて色を失いつつあったが、基本的に整った容姿を持っているためか、これはこれで
——うわっ!? 凄い美人!?
だった。
慌てた具衛はすぐに視線を逸らし、車の様子を確かめると、国内では余り見かける事がない、仏国が誇る高級スポーツカーブランド
——アルベール・フェレール!?
製のコンパクトクーペである事が分かり、更に驚いた。たまたまそれを知っていた具衛は、この時点で女が只者ではない事を察したが、それを口に出す事で何か面倒な事になってもいけないと直感し、呆れて外れそうになる顎を堪えるように閉じた。
女の身形はそれなりに良さそうであり、一瞬よぎったその直感の角度は微妙だったが、手を差し伸べるのであれば、一応詳細には関わらない事を決め込んだ理由は、盗難車の可能性である。世界のセレブの間では、通称アルベールで通るこのブランド車は、高性能も然る事ながら限定モデルともなると平気で一億円を超える値をつける。汎用モデルでも人気車は軽く三千万を超え、とにかく金銭感覚を狂わす事では話題に事欠かない。そんな車に一見三〇代、それも前半の
——若い女が!?
こんな田舎で乗り回す事の有り得なさ。
地元の者を始め、よく通りがかる者ならば、只でさえ通過に難を要する草道だ。大雨でぬかるみ、輪をかけて走行困難な時に、わざわざ車で突っ込む訳がない。つまり、よそ者だからこそぬかるみにはまったのだ。しかもそのよそ者でも、周囲の状況を見れば、通行困難であろう事は察するに余りある有様である。それをあえて、そうする理由が何なのか。具衛はそれを知る事を恐れた。
警察を呼べば済む事だったが、この渋滞ではいつ着くか分かったものではない。レッカーにしてもそれは同じであり、既に草道の向こう側には通過を待って焦れる四駆車が列を作り始めている。それでも、
——俺には関係ない。
その立ち位置は揺るがない筈だったのだ。が、がっくりうなだれる女を見てみると、気の毒ではあるし、一見して、
悪人には——
見えない。
今までの人生で培って来たらしい、根拠に乏しい怪しい勘が働き始める。感情で判断するなど、
——やめといた方がいいんだが。
疼き出したものはどうしようにもない。生来の善性が、培って来た怪しい勘が、女を見捨てる事を許さなかったのだから仕方がない。
幸い車はバック出来そうだったので、さっさと女ごと邪魔にならない所まで退避させた、というのが具衛の側の顛末である。兎にも角にも、女の様子と車のステータスの関係性は怪しいの一言で、出来る事なら面倒に巻き込まれたくない。それに尽きた。だからさっさと立ち去ったのである。が、女はずぶ濡れだった。流石にそのまま放置出来ず、バスタオルの一枚でも投げ込みに行った。すると女は、ナビを操作して何処かへ連絡をしているではないか。大抵の車両トラブルの場合、高級車のそれは、オーナー専用のカスタマーサポートデスクである事が多い。
まさか——?
本当にこの車の所有者なのか。驚きながらもそれならそうで、自分とは社会的階層が余りにもかけ離れているとしてさっさと逃げたつもりが、女の方から山小屋に姿を現したのだから仕方がない。確かに川土手に止まっていれば、鉄砲水に攫われる恐れもある。そうなれば、手助けしてしまった分寝覚めも悪い。あれだけの美貌だ。放置した川土手で命を落とすようなら、
——怨まれて化けて出られそうだ。
この時代に、そんな非科学的な発想すら頭を掠める。それで仕方なく、世間話でもしながら最低限のもてなしをする事にした。女の事情を探ろうものなら、藪で蛇が待ち構えている。そんな警戒心は常に頭を離れず、差し障りのない山小屋生活の話で時間を潰した。山小屋に来てからの女は、一見して初見よりは気を取り戻していたが、時々見せる凄然とした表情が目につき、どこか拭い難い影を宿しているように見えた。
こりゃあ——
油断ならない。
具衛は具衛で、余談を許さない雰囲気を醸し出す女に警戒しつつ、かつその気配を気取られないよう腐心したものだ。が、膝を詰めて他人と話をする事にすっかりご無沙汰だった具衛は、その非日常に酔ってしまい、思いがけず話し込んでしまう。するとそれを受けてか、しばらくすると女は影を潜めるようになり、貰い物の稲荷寿司他を出すと人心地ついたのか。今度は思いがけず砕け始めた。それどころか女は、具衛の生活に興味を覚え始めたようで、お陰で具衛は更に戸惑う事になる。
事故渋滞から二日後の夕方。具衛の非番日の最短をついて、女は再び、突然山小屋に現れた。連絡先を交わしていないため、突然になるのはやむを得なかったが、それにしても中々律儀な事だ。
「庭まで入ってもよかったのかしら?」
山小屋の敷地まで乗り入れた車は、代車なのかセカンドカーなのか分からなかったが、独国が誇る世界的な高級車メーカーのハイグレード車だった。やはり、俗世の庶民では手の出し様のないそれを、至極当然と乗っている。
「それは、構いませんが」
服装の方も、先日のスカートとピンヒールではないが、パンツスーツとフラットシューズ姿ながらも一見して良さそうな形だ。これは、
——セレブ確定か?
と考えたくなる状況。
「借りていたバスタオルの返却に来たの」
と称した来訪にも関わらず、バスタオルは二枚とも新品になって返って来た。女の話では、
「泥染みが落ちなかったから」
らしく、のしつきで箱詰めされたそれを後で調べてみたところ、国内のタオル名産地が誇る
——さ、最高級品!?
で、その金額に具衛はしばらく釘づけになったものだ。
——つ、鶴の恩返しかよ?
今の生活振りからすれば、その金で十分一月やり繰り出来るそれは、嬉しいと言うより厄介事に巻き込まれる怖さが優ったとは、女が帰った後の話。
具衛にタオルを返せば、女にしてみれば用件終了の筈だった。が、この日は返礼を持参した、一応客人の扱いだ。縁側からではあるが、居間に招き入れての座卓を挟んだ対面だったが、一〇分程度の、文字通りのお茶濁しの滞在で帰る段になった女が、
「また来ても良いかしら?」
などと、思いもよらぬ事を言い出したものだから、具衛は更に驚いた。
一体全体、
——何が狙いだよ!?
身形や外見の良さに加え、要所で見せる今時珍しくも整った所作の女に、具衛は思わず目を奪われると同時に育ちの良さを察したものだ。その明らかに住む世界が異なる女と、限りなく最下層に近い山小屋の具衛が、何を理由として結びつけられようとしているのか。答えを求められた間合いで、思い当たる理由に辿りつける訳もなく。
「何もない所ですが」
仕方なく、苦し紛れに肯定を匂わす程度の返答した。
女が帰った後も、何となく思案を巡らせ続けたものだったが、結局これまでの女の様子を考察するに、悪巧みや悪人気質は
——なさそうか。
と判断する。
頭の中で悶々と考えてみたところで、身一つの資がない中年だ。得られるものなど、
——ある訳ないわそんなモン!
考えていてバカらしくなった。
それなら単なる、
——珍獣扱いか。
と考えてよいのだろう。元々転々として来た人生で、おあつらえ向きにも既に天涯孤独の身の上だ。面倒臭くなったり、危なっかしくなれば、
——とんずらだな。
との結論に至り、しばらく鶴の出方を見る事にしたのだった。
それから何日か後の、六月下旬の夕方。
女はまた立ち寄った。今度は部屋には上がらず、縁側に腰を下ろしたままだ。ぼんやり景色を眺めては、ろくに口を開かない。押しかけられた具衛は、ホームグラウンドであるにも関わらず、思わぬ客人にドギマギさせられっ放しだ。片や女はすっかり肝が据わったもので、その居住まいが絵になったかのようだ。急の客であっても客は客。その客に白湯なんか、
——出せんよなぁ。
として、時期外れながらも沸かした湯で煮出した茶を、
「熱くて申し訳ございませんが」
と具衛が出す。と、女は、
「いつも急に来るから。気を遣わせてごめんなさいね」
などと、すっかり常連客染みた様子で笑みを浮かべ、茶を啜ったものだった。
何でこんなに、
——慣れてんのよ?
女のその図太さに苦笑いする具衛の横で、女は女で、
「ここは星がよく見えそうね」
とか独り言を吐きながら、何やら思案を巡らせている。しばらくすると今度は、誰に言うともなく、
「今度の七夕、バーベキューしよう」
そんな思いつきのようなものを吐いた。具衛はその意図が掴めず、
「そうですか」
と、曖昧な相槌を打つに止め、女の出方を待ったのだったが、一人で何処か嬉しそうな横顔を見せる女は、それ以上何も言わない。
何なんだ——?
すると、茶を飲み終えて帰る段になった女が当然、
「燻製器ってお肉焼けるの?」
「野菜は準備出来る?」
などと言い出したではないか。
具衛はてっきり女が、事故の日に話した燻製に興味を覚えて、
——家でやってみたくなったのか?
と、勝手に結論づけたのだが、それでは野菜の準備が何の事やらだ。それはすぐに、
「お肉と飲み物は用意するから。七夕の夕方にまた来るわ」
と言う、具衛に向けられた女の明言で急転直下する。
「ええっ!? ここでやるんですか!?」
「そうよ」
呆気にとられる具衛をよそに、言う事を言った女はさっさと立ち去ったのだった。
で、今夕。七夕である。
「ホントに来るのかねぇ?」
一人である事をいい事に、盛大に独り言ちる具衛が知っているあの女の事は、高級車で事故っていたセレブっぽい女、という事だけである。物珍しさで絡んでいるだけ、と結論づけたとはいえ、やはり不気味だ。極端な言い方をすれば、
——何か化けてんじゃないか?
あの日の女の凄然振りは、人間臭さに乏しかった。何処となく隔世感が漂っていたその雰囲気は、未だ具衛の脳内に、非現実的思考が入り込む余地を生み出すに足る根拠となっている。相談相手を持たない、あえて持とうとしない具衛に押し寄せる感情は、俗世では疑心暗鬼と呼ばれるそれであった。
が、それならそれで、
——見届けてやるわ。
現代では非科学的とされるそうしたものに対する感性は、特に拘りもなければ一般的な具衛は、とりあえず準備を進める。梅雨明けはまだ宣言されていないが、前線が南下し、ここ数日は晴天に恵まれていた。
まずは、山小屋の目の前を流れる水が引いた河原から適当な石を見繕い、庭に即席コンロを完成させた。ある程度の大きさを持つ平らな石を円形に重ねて囲んだだけの、コンロと呼ぶには随分と野生的な物だ。一人バーベキューなら燻製器でも事足りるが、そもそも何人来るのか分からない。女は人数を言わなかったのだ。大人数で押しかけられるのは嫌だが、一応備えておくべきだろう。となると燻製器は頼りなく、河原の石なら家の中が汚れる事もないし片づけも楽である。網は燻製で使っているものを囲んだ石の上に二枚並べただけだ。これなら数人来ても対応出来る、のではないか。椅子は尻が置ける程度の太さがある木を、倉庫にあった斧で切り倒してコンロの周りに転がした。人が来れば椅子、来なければテーブル代わり、事が済めば薪に早変わりだ。炭用の熾も多めにキープしている。
で、野菜を切っている。何人かで押しかけて来るようなら、追加で準備するとしよう。概ね普通の平皿を二盛り用意して止めた。次に外に出て、山林で使う太巻きの蚊取り線香に火をつける。そこまで準備すると目の端が、舗装された南側の土手道をやって来る、先日の独車を捉えた。石橋までやって来ると、迷わずこっちへ渡って来る。車はその、
一台だけ——?
だった。
具衛は炭壺から熾を何個か取り出し、予めコンロに入れていた小枝の上に放り込むと、マッチで火をつける。中から白煙が上がり始めたところで、車がバックで下がって来た。山小屋の庭先は、広葉樹が覆い茂ってはいるが、真ん中辺りは車一台程度なら通れる隙間がある。山小屋の傍は木々も遠慮がちで開けており、文字通りの庭だった。その庭まで下がって来て、止まった車から降りて来たのは、あの女一人。
「え、それコンロ? ふーん」
何処となく常に上から目線の女は、早速薄く笑みを浮かべてくれたものだ。
「人数を聞いていませんでしたし。家の中は手狭かと思いまして」
熾火を起こす具衛の横で、女は実に淡々とトランクを開け、クーラーボックスを担ぎ出す。
「一人に決まってるじゃない」
コロつきのそれを引いて来ながら、然も当然のように、
「私、友達いないし」
と言うと、クーラーボックスの蓋を開けた。
「さあ、始めましょう」
既にお馴染み感覚、としたものか。
「これ、焼けたわよ」
「まだ早くないですか?」
「火を通し過ぎちゃいけないのよ、このお肉は」
「そう言えば、タレを用意してないですよ」
「塩コショウを持って来たわ」
女は仕切り役が板についており、友達がいないと言う割には、中々軽妙なやり取り上手だった。まるで、
——何とか奉行だ。
具衛がその押しの上手さに舌を巻いていると、その女がクーラーボックスからレストランでよく見かける木製ソルトシェイカーを取り出し、
「はい」
と突き出す。
「すみません」
手際の良さに思わず引き気味になった具衛が、ぎこちなく受け取った。元々は女が計画し、言い出した事だ。土俵は具衛のテリトリーでも、その上は女のものである。慣れない手つきで受け取った塩コショウの頭を捻り、軽く振りかけて一口食べてみると、
「うま!」
などと、女の軽妙さに比べて、それ以上の語彙力を持たない自分を呪ったものだった。
「お褒めに預かり光栄だわ」
そういう女は然も当然の様子で、少し笑みを浮かべつつ箸を動かしては、飲み物が入ったタンブラーを口元に傾けている。肉は恐らく赤身の牛肉なのだろうが、ステーキ程の厚みのそれが、適度な歯応えと臭み皆無で芳醇な旨味の固まりである。
こんな肉は——
食った事がなかった。上等な物である事は聞くまでもない。振りかけた塩コショウにしても、明らかに市販品とは異なる上等な香辛料としか形容しようがなかった。更に女が飲んでいるタンブラーの飲料は、その人が持って来た物で、同じ物が具衛にも手渡されているのだが、
「今日は車だから、全部ノンアルコールなんだけどね」
と言うそれは、ノンアルコールワインらしい。普段酒を飲む事がない具衛にとって、ノンアルコール製品などは更に縁遠い代物だ。一応いかり肩の正当そうなフルボトルのそれは、具衛が知るワインより、若干派手なラベルが貼られている。それが何となく陳腐に見えたもので、
——ジュースの延長だろ。
と、一口飲んでみると、これがまた、
「うま!」
その安っぽい食レポを吐きたいがために、喉を鳴らして飲み込んだ程だった。ジュースとは明らかに一線を画した味わいは、
こう言うのを——
芳醇な味わいと言うのだ、と突きつけられたものだ。が、それを賛美するそれ以上の語彙が浮かばない。まるでワインに負けたかのようだ。
「何ですか、これ?」
そのあからさまな表現に、もう少しまともな尋ね方があったものだろうにと、瞬間で後悔した具衛だったが、吐いてしまったものは仕方がない。が、女は気分を害した様子もなく、得意気に、
「サングリアってご存じかしら?」
「スペインのフレーバードワインの事ですか?」
「あら意外」
などと、口にしながらも小さく笑んでみせたものだ。同国でこよなく愛されるそれを、以前たまたま飲んだ事がある具衛だったが、通常のアルコール製品だったその味を最早よくは覚えていない。思い出せるのは、鋭利な甘さや酸味が際立った安っぽいジュースのような味だったぐらいの事で、以後それ以上の興味を覚えず飲む事もなかったのだ。恐らく以前飲んだ物は、まさに大量販品の安酒だったのだろう。
「まぁ既製品の中では、これはお気に入りだから」
と言うそれは、酒を飲みつけない具衛でさえ、相当の高級品である事が理解出来た。それでいてしかもこれは、ノンアルコール製品である。
「本物のワイン樽で、きちんと作られたノンアルコール品だから。中々いけるわ」
ノンアルコールワインと葡萄ジュースの違いは、前者は本物のワイン製造行程で作った、という事だ。水とアルコールを分離する脱アルコール製法や、最初から発酵を中止するよう仕込み、アルコールを発生させない非アルコール製法で作られるそれらは、いずれも緻密な一手間が加わっている。女が持参した物は、どうやら熟成ワインの脱アルコール物のようで、よりワインに近い味わいを実現している、という事のようだった。それにハーブや柑橘類を漬け込んだというノンアルコールサングリアは、中々手間のかかった秀逸品と言ってよい。濃厚な葡萄に加えて、仄かに甘いバニラのようで、爽やかなミントのような複雑な香りは、間違いなく飲んだ事がない物で、只々驚くばかりだった。
「お気に召して頂けたようでよかったわ」
相変わらず上から目線の女は、見た目に違わず平然として結構な勢いで、三〇〇から四〇〇mLクラスのタンブラーに入れたそれを、あっと言う間に飲み干していた。山小屋にもグラスくらいはあるのだが、わざわざ持って来たそれは、注いだ後に温度も上がりにくいのだとか。
「持って来たと言っても、クーラーボックスに入れて来ただけだし」
何より、
「そんなにちまちま飲んでられないから」
と、何だか酒豪染みている。
「ホントは自家製の本物が一番気に入ってるんだけど」
それだとノンアルコールじゃないから、と言う遵法精神のようなものは、派手な身形で高級車を乗り回す女にしては庶民的だ。何処かしらチグハグに思えてしまうものだったが、一方で、
「余り持ち出せた物じゃないし」
「酒税法ですか?」
「あら、また意外」
流石に詐欺師ねぇ、と嘯く女の方こそ中々詳しいと言えた。具衛はたまたま、日本でそれを作ると、大抵の資格外者は酒税法に触れてしまう事を何かで読んで知っていただけだ。
何者——
なのか。謎は深まるばかり。
何れにしても食に拘りがない具衛は特に好き嫌いもなく、大抵の物を頓着なく食らう人間だった。繊細な味の良し悪しは分からないが、絶対的な美味いマズいぐらいは分かる。女が持ち寄った肉や飲み物は、どうみても良い物だった。片やそれを囲む設備は、河原の石のコンロに椅子は切り株である。釣り合いが取れていない事この上なかった。切り株の椅子などは、女の着衣に
ささくれが刺さっちゃ——
マズいだろうとして、古新聞を敷いていたりするのだが、それにしてはもう少し何とかならなかったものかと後悔する。しかもその新聞は、勤務先で捨てられていた古紙という体たらく振りである。新聞を定期購読するゆとりすらない男なのだ。誰にも見られないとはいえ、女の形と食事の上品さに比べると、それを取り囲む設備の下品さは語るまでもなかった。箸も皿も山小屋の物であり、よくよく考えてみれば古びた物を、このようなセレブ女が使う事にためらいがないのが不思議なくらいだ。止めでそれを相手取るのが、山奥に隠棲した四〇前の冴えない中年と来たものだから、具衛がその格差に打ちひしがれるのも当然と言えば当然だった。
そんな具衛を知ってか知らずか、女は横で、
「まだ明るいわね」
などと、両手を腰に当てて背中を反りながら空を見上げている。空はまだ宵の口で薄暗い程度だった。
来訪時にはジャケットを着ていた女だが、今は脱いでおり半袖ブラウス一枚だ。クールビズを思わせるビジネスカジュアルスタイルという事は、仕事帰りなのだろう。一体、この山奥の何処にこのような
スタイリッシュな人の勤め先が——
あると言うのか。不思議に思った具衛だったが、女はやはりそんな具衛に構わずの様相で、空を見たついでに
「あぁ——」
とか、生々しい声を出しながら両腕を挙げて伸びをした。身体をほぐしながら背中を反っているその様は、ブラウス越しに形の良さそうな胸がより強調される。その生々しい声につられて女に目をやった具衛は、偶然にもその生々しい線が目についてしまい、思わず不自然に目を逸らした。
「どうかした?」
「いえ、何も」
慌ててタンブラーに口をつけ、ごまかす。目の端で女を窺いながらも、具衛は手と口を動かし続ける事を忘れない。そうでもしていないと雑念が頭をもたげ、良からぬ事を起こす、または起こされるような気がしてならなかった。何かが化けているのであれば、
随分と色っぽい——
化物だ。人を惑わすのが目的なら、もっともな事ではあるが。
年齢は一見して三〇代前半だ。どう考えても、既に女に年齢を開示している今年三八の具衛より年下である事は間違いなさそうである。だからと言って、タメ口を叩く気にはなれず、何処か毅然としたものを感じざるを得ない。整った容姿は清楚にして問答無用で凛々しく、その一方で可憐さとか華やかさに縁遠く、明確に年頃女にありがちな甘さがない。薄暗いがまだ割とはっきり捉える事が出来る顔の各パーツは、一つひとつが凛々しい仕様で良く整っている。更にそれが、絶妙な配置で象られており、知的美人の見本にして追随を許さないような容貌だ。その上で、当然化粧もきっちり決めている。不必要に長いつけ睫はしっかり上を向いており、目元もしっかり描かれていて、口紅も何やら光沢があり。目口がやたら女優仕様だ。事故の時に見たすっぴんと化粧した顔の違いはよく分かるが、その趣きの良し悪しは男の具衛からしてみれば、すっぴんの方が良いように思えてならない。特に彫りが深い訳でもなく典型的な大和撫子顔であり、恐らく万人受けする顔立ちだろうに、
——勿体ない。
その自然の美しさを化粧が台無しにしている、ように具衛には思えた。
身体つきは均整ながら、顔は小さく手足は長く、柔らかそうでいて引き締まっており、一体何をどう鍛えたら
こんな身体つきに——
になるのか。見当がつかない程に見映えのする、健康体の具現の様相である。そんな身体が纏うのは、山小屋に来る時はすっかりお馴染みになったフラットシューズとパンツスーツであり、今日は灰色系統だ。上着は既に脱いでおり、今はオフホワイトの半袖ブラウス姿だが、一見して何処にもいそうな出で立ちのそれは、一度として同じ物を見た事がない。もっともまだ数える程しか来ていないのだからそうなのかも知れないが、具衛などは、夏服は仕事着用の半袖ポロシャツ、私服はTシャツ、寝巻き兼用のノースリーブアンダーが各三着ずつ。下はパンツ、寝巻き兼用のステテコ、綿のカーゴパンツ、五本指靴下がやはり三着ずつ、これだけである。更にそれらの色合いなど、どれもこれもはっきりしない燻んだ青だったり、灰色だったり、緑なのか灰色なのかよく分からない、一見して冴えない色味ばかりで、比べるだに虚しい。
具衛のファッションはどうでもいいとして、総じて隙がなく洗練された知性的な印象の女は、口を閉じていれば今日は凄然とまでは行かないが、やはり何処かしら寂然とした雰囲気を醸し出していた。
何れにしても、
凄い美人なんだが——
強まるのは化け物感である。
と、胸が高鳴っている事に気づいた具衛は、密かに動揺して目線を空に移そうとしたその時、
「何?」
と、女に様子を咎められた。少し訝しむ表情がまた一々絵になり、返答に困る。
「こんな肉は初めてで。ただ驚くばかりと言うか」
辛うじて肉の本当のところの感想を吐くと、
「それは良かったわ」
と、軽くうなずいた女の耳飾りが動いた。
——そうだ。
完璧に決めていると思われた女は、飾り気が何処かチグハグだった。大抵の女性並みに耳や首には飾りがあったが、
手指には全く——
指輪や腕輪もなければ、爪にも一切の飾り気がない。イヤリングやネックレスは、ダイヤを思わせる石が一つついているだけのスッキリとした物で、それが凛々しい容貌とよく合う。首から上のその統一感の一方で、手元の素気なさ。そのギャップが、逆に目を引くのだ。
そんな女といえば、
「私はこのお野菜が——」
止まらない、などと、具衛が用意した野菜の皿をせっせと突いては、焼いて食ってを繰り返している。
「これ、産直野菜なんでしょ?」
本当に美味しい、と喜ぶ女の髪が軽快に揺れると、そこでもう一つの違和感に気づいた。揺れたその髪が、
——赤い。
ミディアムの髪は、ナチュラルに動的でスタイリッシュだ。が、色は、根本から毛先までの全体が黒いようで赤かった。それは単なる白髪染めとは違い、ハイライト仕立てのようで綺麗に染められている。余り極端だと、まさに魔女のように見えてしまいがちな色合いだが、二色がしっとりと落ち着いたコントラストでバランスよく整っており、容姿の美しさを更に際立たせていた。それにしても、赤と黒のハイライトカラーとは中々手間をかけたものだ。
「何か言いたげね」
最後は髪に魅入られ、ついに視線を逃す事が出来なかった具衛は、女の言に捕まってしまった。
「いやその、平気なのかなと」
「何が?」
「こう言う野趣的と言うか、野放図な嗜好を好まれるようには見えないので」
「はぁ? 何その思い込み?」
途端に気分を悪くした事を遠慮なくぶちまける女が、今度は唐突に立ち上がる。
な——!?
帰る、とでも言い出すのかと思いきや、
「御手洗、借りていいかしら?」
と、宣言した。
「えっ!? ト、トイレ!?」
女の思わせ振りも大概だが、続きを吐きかけた具衛の慌て振りも迂闊だ。近辺は、トイレどころか家すらない。断わるのであれば、野に塗れて花を摘んで来い、と言ったも同じだ。
「ダメかしら?」
「いえ、ダメな事は——」
ないが、男所帯の山小屋の手狭なトイレなど、一見セレブ風の女が、
——使えるのか?
と思いながらも、台所の左奥である事を伝える。
「そ、よかった。近くのお店まで行かされるのかと思ったわ」
言うなり女は、慣れた身のこなしで靴脱石で靴を脱ぐと、居間に上がり込んだ。玄関は北側にある事はあるのだが、余りにも狭く出入りに不向きであるため、完全な物置と化している。必然来客を含めた人間の出入りは、南に面した居間からだ。が、女のように作法を知る者にとって、そこは出入口としては余りに段差が高い。先日のバスタオルの襲撃時など、靴を揃える時にスカートがはだけて、危うくパンツが見えそうだったのだ。
今日はそんな事ないんだろうが——
それでも胸チラは十分有り得る。それを前回の事で学んだ具衛が、女が居間に上がった直後に如才なく靴の向きを替えてやると、女は素直に笑みを浮かべた。
「ありがとう」
下足番への謝意は作法通りだが、それをするのが只ならぬ美貌の持ち主の事なら、心臓にかかる負担も中々だ。
「い、いえ」
つい先程、不機嫌面だった女が柔らかく笑むものだから、具衛は驚いて反射で仰け反ったものだった。
や——
やれやれだ。気遣わしい事この上ない。格差が違う者とつき合う事は、この上もなく疲れる事を具衛は改めて実感する。問題のトイレは、日頃からそれなりに掃除は行き届いているし、一応水洗トイレだ。更に一応、今日はこんな事もあろうかと、トイレ用の除菌スプレーを買ってトイレ内に設置している。男世帯の洋式トイレは、そうは言っても流石に抵抗があるだろうと予想しての事だ。トイレを出た所には、極めて小さいが洗面台もある。ここにも一応ハンドソープを設置した。米糠とふすまの混ぜ物をいきなり使わされるのはどう考えても抵抗があるだろうと、これも慮っての事だ。だったのだが。
「米糠とふすまの石鹸はどうしたの?」
戻って来た女の第一声に、具衛が驚いたのも無理はない。
「ええっ!?」
本気で使うつもり、
——だったのかよ!?
いくら自然由来の自然に優しいバイオ洗剤とはいえ、化学製品に使い慣れた現代人の事だ。
「抵抗があるんじゃないかと——」
具衛ですら、経済的理由から使っているだけの物である。少なくとも、何不自由ないセレブが使うような代物ではない。それをセレブ女が拘りもなく、
「じゃあそれは、また次の機会に取っておくわ」
しかも、
——次の機会って何だ!?
などと語ったものだから、また動悸が只ならない。その一方で、立て続けに女が、
「でも、ハンドソープ用意してくれてありがとう」
とか、謝意のようなものを素直に口にするものだから、具衛の混乱は深まるばかりだ。そんな取るに足らない物に一々礼を言うような
——身分じゃないだろうに。
女の節々からひしひしと伝わって来る、そんなセレブ感。それが山小屋仕様だから仕方ないにしても、よくも見窄らしい世帯染みたトイレを平気で使えるものだ、と具衛は驚いた。今でこそ一応は水洗だが、元はと言えば古びた汲み取り式の和式便所だった、とは大家の話。一〇年前にその大家によって長屋を間引いた折、その更に一〇年前に始まった町の北部に隣接する自治体に誘致された大企業の工場移転絡みで、周辺自治体にまで及んだインフラ整備の流れに乗って下水道が敷設された影響もあり、一応大変狭小ながらも新品に作り替えられたそのトイレは、確かにそこまで使い込まれていない。庶民が利用する分なら、狭い事さえ我慢すれば十分抵抗なく使える物だ。が、女はどう見ても庶民ではない。
「どうかした?」
女に呼ばれた具衛は、つい考え込んでいた事に気づかされ、
「その、狭かったでしょう?」
などと、食事中に間抜けな事をぬかしてしまった。
——あ。
と思った時には、後の祭りである。
「狭かったけど、何?」
意外にも、女にそれを気にする素振りはない。それどころか、
「今更何を気にしてるの?」
と、返事に困る具衛の細やかな偏見をぶった切った。
「だって、家自体が小さいんだから、トイレだけ大きかったらおかしいでしょ?」
確かに言われるとおりだ。貧相な家に豪華なトイレがついていたら、その方が異様だろう。
「——まぁ」
それを想像した具衛は、思わず噴き出した。
「それにトイレ自体は綺麗だったし」
余程ひどくない限り普通に使うわよ、と完全に見透かされている。
「今更変な見栄を張らないの。家の調度品に多少の難がある事は、理解した上でお邪魔してるつもりだけど」
女はゆるりと視線を外し、そっぽを向いた。
「はぁ」
後追いの、そんな溜息が中々痛い。完全に土俵上も勝負も女のものだ。理詰めで諭すなど、浮世離れした只のセレブではないらしい。
「そんなに世間知らずのお嬢様に見えるのかしらね?」
太々しく足を組んで拗ねる様子がまた一々絵になり、具衛は降参する外なかった。
「すみません。以後気をつけます」
情けなくも片手で頭を掻きながら下を向くと、
「分かれば良いのよ」
と言った後の、女はすぐに急転した。上体を屈めて乗り出すように具衛の方を向き直す。
「ね、後で神社に行きたいんだけど」
女のそんな気紛れ振りに、
「じ、神社——ですか?」
という具衛は、思わず間の抜けた声を上げながら、やや後に仰け反った。
「あの目の前の」
と、無邪気な女に言われれば、そこにあるのは川向こうの中山神社しかない。
ととと——
と、その指先につられて、あっち向いてホイでひっかかって負けたような、それこそ間抜けの具衛が神社の方を見る。が、何を今更のそこのそれは、要するに女の顔を直視出来ず、逃げるための負けだ。
「ちょっと聞いてる?」
気後れしている具衛に、早くも痺れを切らしたような女が、また目線を具衛に戻して詰め寄った。椅子代わりに使っている切り株の間隔は、半畳分程度しかない。前屈みに乗り出されると、その距離が更に半分になる。半袖ブラウスの胸元のボタンは、控え目に上一つだけが開いている程度だ。が、その僅かな隙間でも悩ましい肌が見えそうで、具衛は堪らず目を泳がせる。
「ち、近いですよ」
「あ、そ」
両手をかざしてそれを遮る具衛に、女が素気なく座り直すと、
「思いのほかウブねぇ」
と嘯いた。動じないところを見ると、そうした事に慣れているのか、何かするつもりだったのか。
西の山向こうにある空は、既に僅かに明るいだけで辺りは殆ど闇だ。只でさえ山間の暗所である。この上更に暗がりに行ってどうしようと言うのか。
「神社はもう真っ暗ですよ」
「だから行くんでしょ。星を見に行くんだから」
女は呆気らかんと言う。
「何、怖がってるのよ?」
また口端で笑われた。弄ばれている事は理解出来たが、こんな美人に免疫などある訳もない具衛が出来る抵抗といえば、辛うじて首を左右に振る事ぐらいだ。が、女は待たない。
「取って食やしないから、後で案内しなさいよ」
「は、はあ」
畳かけられた具衛に残された反応は、情けない溜息を吐く事ぐらいだった。
食後。
野生動物まで招くつもりもなければ、コンロ周りを片づけて向かった神社は、中山と言う所にある神社なのか、はたまた神社の名前が集落よりも先についたのか。具衛は知る由もなかったが、辛うじて一度だけ来た事があった。特別な信仰心を持たない具衛にとってそこは、入口にある鳥居の扁額を見て名前を知っていた、という程度の認識でしかない。
具衛は一応、女の左斜め前を歩いた。完全に背中を見せない
——んだったっけ?
という、何かの物の本で見たエスコートのそれをうろ覚えでやっているだけに、むず痒い事この上なく、身体の何処かが痙攣しそうだ。右半身気味に道中を先行するそのついでで、足元をスマホのライトで照らしてやった。周囲に灯りは乏しく、近辺で人工的な発光物と言えば、国道と川沿いの市道にある街灯しかない。それも間隔が長く、盆地内は本当に暗かった。天気はいいが、頼みの月すら出ていない。どうやらそんな月齢のようだ。
その準暗黒の中で灯されたスマホのライトのせいか、女の姿が仄白い妖艶さを帯びて浮かんでおり、思わず声を上げそうになる。そんな具衛を知ってか知らずか、当の女は何処吹く風で泰然としたものだった。
ま、まぁ随分と——
余裕綽々だ。人里離れた山奥の暗闇と来れば、普通は女の方が落ち着かないものではないのか。逆に具衛は先程来、左手に持っている新聞を握る手に力が入りっ放しだった。座る事も想定して一応持って来た物なのだが、八つ折りにして長細く丸めた事をよい事に、今はそれを都合良く握りしめては気を紛らわせている。
短時間ながらも、その悩ましい道中の果てに辿り着いた丘陵東側の入口には、二〇段程度の階段が待ち構えていた。立ち止まる事なく勢いそのまま無言で歩を進めると、上がり切った所によく見る鳥居が変わらずあった一方で、手水舎が見当たらない。前に来た時、
——どうだったっけ?
具衛の認識など、その程度だ。
そこに至った女が、
「こう言う時は、どうすればいいの?」
と、久し振りに口を開いた。それを聞くという事は、それなりに関心があって、知った上での事だろう。手水舎が無い神社に入る時は、
「祓戸大神を——」
召喚するのが作法の一つである。日本神道において「祓い」はその真髄とも言われ、それを司るを祓戸大神は中核の神々だ。因みに神々であって一柱ではない。
「——お呼びしましょう」
「あら意外」
「お褒めに預かり光栄です」
さり気なく先刻女に言われた事をそのまま返した後で、神様に清めてもらい鳥居を潜った。周囲を囲む木々のせいで、境内は更に暗い。
「本当に真っ暗ね」
「だから言ったじゃないですか」
目が慣れるまで動けない程だ。そろそろと足を踏み入れると朧げに目が慣れて来て、参道、狛犬、標柱、社の存在が目に入り始める。他には特に何もない、簡素な造りだった。が、山奥のそれにしては寂れていない。
「意外に整ってない?」
女もそれを感じたようで、辺りは一見して人の手の介在を思わせる整然さを醸し出している。
「もう少し荒んでるかと思ったけど」
とはいえ、常駐する人の気配はないそこは、
「うちの大家さんが神主さんで、そういえばたまに掃除をしておられます」
という事だったりした。
境内に入って気づく事だが、丘陵の周囲は針葉樹の高木で囲まれており、中に入ると広葉樹が境内の周囲を囲っている。理由は分からないものの、風水災害から神社を守るようであり、単純に神社自体を隠すようでもあった。
「また大家さん?」
女が「一人何役よ」と、追加で笑う。借家の大家に始まり、介護施設の理事長と来て、次は神主。現在は廃業したが、過去には林業経営者の肩書きも。確かに女でなくとも、その役回りの多さは気を引くだろう。
「元々は地主さんですよ。多角経営ってヤツですか」
そんな一言が必要かと思いきや、
「ふーん」
と、気のない返事だ。そうでもなかったらしい。
「それよりも——」
境内に入ったのも束の間、女はすぐに鳥居の方に振り返り、
「ほら」
と、東の空を指差す。が、その隙に、
取って食われたりして——
とか慄いていたりする具衛が恐る恐る振り替えると、それを忘れさせる夜空が眼前に出現した。
「おおっ!?」
東の山の峰々の上に見えるのは、世に言う天の川だ。
「予想通りね」
感嘆する具衛の横で、女は得意気に呟く。その存在が分からない人間でも、星が帯状に集まり靄が光っているのが分かるそれは、名前を知らなくともその名称に辿り着きそうな、それ程の景色だった。具衛はそれまでつけていたスマホのライトを慌てて消す。星空の絶景に目を移すと他の灯りが邪魔で、こうなっては付近の街灯すら煩わしい。ついこの瞬間まで灯りに喘いでいたと言うのに、勝手なものだ。
「この辺りの夜は真っ暗闇だろうから、よく見えると思ってたけど」
「普段見ないので、ここまでとは」
「山に住んでるのに、星見ないの!?」
「そういう趣味は余りなくて、専ら本読んでます」
「勿体ない」
味気なく答えた具衛の無頓着振りに女は食いついたものだったが、すぐに矛を収め星空に魅入られ始めた。
「これは凄いわ——」
七夕の時期の日本において、概ね東側から登る天の川は、梅雨時の事もあり天候不順で見られない事が多い。
「——と、錯覚されがちだけど」
実は、都市化率が八〇%近い日本においては、天候不順もそうだがそれよりも何よりも、様々な物の夜間照明の灯りが大敵なのだ。天気に恵まれても、その灯りに阻まれ、
「都会じゃ絶対見られないもの」
というそこでは、星空を満喫する条件は乏しい。
都会——
確かに女の口からは、広島弁は全く出て来なかった。垢抜けた雰囲気で、耳につきやすい他の地方のなまりも感じさせず、
——首都圏か。
と思い至る具衛だ。これまでの女の洗練された振舞は、そのイメージと重なりやすかった。
そんな女は、バーベキューをした後とは思えない程、いい匂いがする。香水も良い物をつけているためか、控え目ながらも肉の匂いを打ち消す芳香に、具衛はまた動揺した。結構飲み食いしていた筈なのだが、煙に燻された匂いがしない事の不気味さ。それどころか、いい匂いがするなどやはり只事ではない。もっとも焼いていた肉は上物の牛であり、不快な臭いどころか食欲をくすぐるかのような芳香だ。だからその臭いがしたところで全く構わないのだが、それにしてもその臭いが食後に全くしないというのは、生体反応として不自然に思えてならない。やはりこれは何かの、
——化け物か?
などとまた思い返すが、人に対する害意が明確な分、化け物の方が分かりやすいような気がする。
——つまり。
それを疑いながらも、そうではないと思っているからこその悩ましさ、という事だったりした。
全く——
何を考えて近づいて来たものか。珍しいもの見たさなら、夕方までとしたものだろう。山奥の暗闇で、妙齢の女がよく知らない男に近づくなど。普通の感覚を持つ女なら有り得る事ではない。そうでなくても具衛は、元々人嫌いなのだ。人の匂いが鼻につく程の近距離に、他人が接近する事自体が有り得なかった。その上相手は、これまでの人生で御目にかかった事が全くないとは言わないが、関わった事は確実にないレベルの妖艶たる謎めいた美女だ。女に乏しい人生を送って来た身としては、それだけで動揺の大きさは只ならない。が、
まぁこっちは独り身だし——
何を恐れる必要があったものか。
いつ死んだところで——
構わない気楽な身だ。などと脳内で鼓舞する一方で、悲しくも男の本能だろうか。それが退廃的になろうとする具衛の理性を許さない。四〇を目前に控えて尚、女の肌に縁がなかった男である。つまりは訳ありだ。通常の幸せを求める事が出来ない人生を強いられ、あえて自ら女を遠ざけ続けた。素朴な質だが、実はそこまでもてない事はなかった。言い寄って来る女にふと気を許しては、触れ合う事が全くない訳ではなかった。が、切実な現実はそれを許さず、その境遇に苛まれ、それを絶つ事を何度か経験して来た。それはまるで修行僧のようで、関わる人間の中に、面白味のない人生を送る具衛を嘲笑する手合いは多かった。表向きには苦笑いをしてあしらったが、その都度他人に対する壁は厚く高くなり続けた。
そうした葛藤を知ろう筈もないこの女は、思いもよらぬ出くわし方で絡むようになった。素性定まらぬ妖艶さに慄く事既に数多。容易に推測出来る程の有り得ない社会的階層差に、偶然にしては出来過ぎな示唆を見出そうとする向きと、その産物を受け入れようとする向きが入り乱れる。お陰で思考は常に混沌だ。
偶然とは即ち、
——神様なんだよなぁ。
とする具衛は、元々特定の信仰を持たない。もっと言えば、人間によって語られる神々を信仰していない。その多くは、人間に対する影響の範囲内での神である事が殆どだ。人間の都合で語られる神などそれこそ神に対する冒涜であり、だからこそ現実として神を騙って争いが絶えない。畏敬の念はあるが、盲目的に神にすがりつき万事神のせいにしたのでは、
——神様も堪ったモンじゃないわ。
そう言う光景を見かける事が多かった具衛は、冷めたものだった。あえて神という存在を認めるのであれば、証明する事の出来ない人智を超越した偶然こそが神であり、その産物ならば抗っても仕方がないとして観念したものだ。が、受け入れるのと畏れるのは、また別の話。
女の得体の知れない妖艶さは、多少の化粧気を諸共しない。それが星明かりのみの境内で、淡白くも美しい彫刻のような妖しさをもたらすのだ。只でも女に乏しい具衛の人生とあっては、畏れるなと言ってもそれは無理からぬ事だった。息を飲むという言葉の意味を実感しながらも、それを飲み過ぎた具衛が、天の川を眺めながら静かにそれを吐き出す。
「どうしたの?」
それを見た女が、口端で笑った。
「いえ、その——」
また少し息を吐いて、喉を鳴らして整える仕種が無駄に力んでいる。それを女がまた、
「ふふ」
と妖しく笑って見せた。相変わらずの上から目線で楽しんでいる。流石に翻弄されっ放しの身としては、俄かに面白くない。
「何でこんな所に、わざわざ好き好んで来られるんですか?」
具衛はやっとの思いで女に尋ねた。後難の懸念から、女の素性に触れる事を避け続けていた具衛だが、その女の方から寄って来るのだ。いつまでも逃げ回る訳にも行かない。それこそある程度の目的や意図を掴んでおくのは、当然の防御反応だ。が、
「何だそんな事?」
女の第一声は、そんな具衛の深慮に構わず、至極あっさりしたものだった。
「どうしてあなたに『好き好んで来てる』って事が言えて?」
「え?」
その他の意図の存在を匂わす女の口振りは、不動の上座だ。
——何だそりゃ?
哀れな山男を混乱させるには十分過ぎた。
他に意図が——?
あるとなると、
——何だってんだ?
金目が期待出来ない身である事は明らかだ。そもそも女は、金など不自由していないだろう。となると残るは、
——命か。
と言う事になる。それを狙われる覚えなどない、と思いたかった具衛だが、考えてみれば、それが全くないと言い切れる人間など少数派だろう。
「じゃあ、くノ一ですか?」
うじうじ考えても不健康だ。この際思い切ってぶつけると、
「何それ!?」
と瞬間で噴き出した女が、手を叩いて笑った。
「思いの外古風ね!」
掌の上で踊らされるが如く、まるで歯が立たない。あっさりやり込められた具衛が俄かに口を尖らせると、
「あなたがおかしな事言うからよ」
と、すかさず言い訳めいた事を口にする女。それが立て続けに、
「好き好んでも来たいって言ったらどうなるの?」
などと、挑発的にも具衛の言葉尻をあげつらってくれた。これには日頃沸点の低い素朴な山男も、瞬間で水温が上がったのか。
「暗がりに行きたがるのは、普通男の方ですけどね」
後は、売り言葉に買い言葉だった。
「あら。まるで尻の軽い女が、軟弱な男をたぶらかしてるように聞こえるわね?」
「違うんですか?」
「私がそんなバカな女に見えて?」
「そうは言ってないでしょう!?」
「言ってるも同じじゃない!」
そもそもが、こんな口喧嘩をするような仲ではない筈なのだが。
何でこんな——
痴話喧嘩みたいな事をやっているのか。内心呆れてしまう。何もかも、この迂闊なお嬢様のせいだ。
「世の中の男はバカなんで、はっきり言って迂闊ですよ」
つい、説教染みた事を口にしてしまう。他人を論破したところで、後に残るのは大抵の場合恨み辛みだ。その不毛さを理解している具衛ではあった。が、世間の男の怖さを知らないお嬢様とあっては、それなりに善良で健全な男として黙っている訳にはいかない。しかして女は、
「だから何だってのよそれが!?」
と、引く事を知らず。それどころか、
「迂闊って、私も軽く見られたものね」
などと、あからさまに角を露わにし始めるではないか。
「女が以前助けてくれた男と一緒に山奥の神社で星を見たらどう迂闊なのか言ってみなさいよ!」
両手を腰に当てて仁王立ちの様相の女は、実に滑舌が良い。対して呆れた具衛は精々、
「はあ!?」
とかいう、反感が滲んだ声を上げて反抗するだけの、旗色の悪さだ。
にしてもこりゃあ——
どうやら正真正銘の世間知らずなのか。具衛は密かに混乱した。大体が、あの大雨の日のぬかるみにクーペで突っ込むような無謀な女だ。贔屓目に見ても限りなく、後者寄りである事は疑いがない。
「信用して頂けるのは光栄の極みですが、世の男は虎狼って事ですよ」
「随分虎やら狼がお気に入りのようだけど、あなたもそうだと言いたい訳?」
結局先日は証明を満足出来なかったわよね、などと、女はまた事故の日の話を蒸し返して罵る。
「私は違いますよ」
「だったら何も問題ないじゃないの!」
「私は違っても、世間の男はそうじゃないって言ってるんですよ!」
「仮に世間はそうだとしても、この場にはあなたしかいないじゃないの!?」
気がつくと論点がずれている。そもそも何で来るのか、その理由を尋ねただけだ。それが、世間知らずのお嬢様を気にする余り、妙な押し問答になってしまっているではないか。しかも明らかに旗色が悪い。
「——何でこんな所に、好き好んで来るんですか?」
もう一度、聞いてみた。
「それはもう答えたわ」
女は答えを変えない。答えに向き合う気がないようで、具衛は諦めた。元々多くを語る質ではない男だ。大体が口達者の人間、それも女などは大の苦手と来ている。
「分かりました。私が悪うございました」
諦めて、精々嫌味を含んでお開きにしようとすると、
「人を世間知らずのお嬢様扱いするなって、ついさっき言わなかった?」
と、蒸し返されてしまった。
これは——
どうやら地雷らしい。理詰めで容赦なく攻められた挙句、それを踏んでしまったようだ。
「説得力がない上に記憶力もないなんて、やっぱりあなたも世間のバカな男と同じという事のようね?」
女は「がっかりだわ」とつけ加え、盛大に溜息を吐いた。
「だから世の男共の大半は、そのバカ野郎ばかりなんですよ」
「何なら虎でも狼でもなってみなさいな。捻り潰してあげてよ」
ここまで言われては、
——仕方ないな。
具衛の脳内の何処かが、小さな音を立てて切れる。
ちょっと——
お灸を据える必要があるようだ。力ずくは嫌いだったが、こうなっては仕方がない。矢庭にその柔な手を取りに行った具衛が、それを背中にでも捻り上げて脅そうとする。が、
——あっ!?
と言う間に逆手を取られ、忽ち女に腕を捻り上げられた。関節技を有する格闘技では、必ず技の一つに列挙される「小手返し」というヤツだ。普通はまともに決められたなら、ぶん投げられて倒れ込むか、地面に背中を押し潰されるかする。確かに妖艶さが際立つ女だが、だからといってその見事な小手返しが出てくるなど。女は完全に具衛の裏をかいたと言っていい。
「ふっ」
と、気を吐いたような声が、微かに聞こえたような。ぶん投げ型の小手返しを決めた女を前に、具衛は具衛ですぐにそれを受け流し、自分の間合いで自転して見せた。女が女なら具衛も具衛だ。世のバカな男心を理解出来る柔軟性を持ち合わすこの虎だか狼は、一方で技体については常軌を逸脱していたりする。
瞬間後、今度は女が驚き、両目を瞠目させた。女の間合いでぶん投げられた筈の具衛は、結局自転していとも簡単に取られた手を切るや、連続して守勢に転じた思わぬ素早さの女の両腕を乱暴に掻い潜り、その細く柔な腰をラグビーのタックルのように低い姿勢から両手で押した。女が声を上げる間もなく、辛うじて口を僅かに開く。並行して足が然も悔しげに一、二歩後方にもつれ、背中から地面に向けて傾倒した。かと思いきや、
「くっ」
と、苦し紛れの声と共に片手を地面に軽くつき、鮮やかに後転して見せる。そのまま素早く三歩分飛び退った女は、守勢を維持したまま具衛を睨みつけた。ここまでざっと五秒。まるで時代劇に出て来そうな
——ホントにくノ一!?
めいた軽業である。両耳のイヤリングと胸元のネックレスが派手に動き、跳ね上がりながら服に髪に絡まるのを構わず女は、具衛の攻勢を予想してか身のこなしに残心を示していた。具衛は具衛で、その女が後転時に繰り出した蹴りを避けながらも、はためいたブラウスの腹部辺りから覗き見えたアンダーシャツに動揺し、慌てて顔を背けつつ、やはり後方に三歩分飛び退っている。
女の手元に飾り気がない理由は、
——こういう事か。
武芸にストイックな者は、無駄な飾りを纏わない。それでも飾り気が全くないのは我慢ならないのか、耳や胸元にはそれがある。が、保身のための最低限の律は破らない。そのスタンスがあの手指だった訳だ。
間合いを十分取った具衛が、
「ホ、ホントにくノ一なんですか!?」
と、思いついたままを漏らした。何の恨みで命を狙われたものか覚えはない、と思いたいが、では誰かの依頼か。
「誰の回し者なんですか!?」
などと、何やら時代劇めいた滑稽な台詞を、結構本気で捲し立てる。堪り兼ねた女が噴き出した。
「聞かれて答えるくノ一がいるんなら見てみたいわ!」
とか失笑しながらも、呆れて嘆息する。
「あなたって、ホント一々意外ね」
どうやら、自己の優位性が揺らいだ事に驚いているらしい。
「それにしても、私が押し倒されるっていつ以来なのよ」
ぶつくさ独り言を吐き続ける女が、
「あなた何者?」
などと畳みかける。
「いやそれは——」
こっちの台詞だ。
「私の素性は、ある程度伝えたでしょう」
具衛は具衛で、やはり驚きっ放しだった。油断していたつもりはなかったが、見事に後の先を取られ危うく倒されそうになった。実戦でのそれは、殆ど致命傷に近い。お互いに六歩の間合いを空けて出方を探るが、お互いの意外さに気が削がれたと見え、
「まあ——座りましょうか」
「——そうね」
と具衛が女に、すっかりしわ塗れになった新聞を手渡した。それでもスラックスで石段に直座りするよりはマシだろう。
「建設的な理由が聞きたいんですよ」
社に尻を向けるなど、本来は非礼とされているが、
「神様と同じ景色を、神様にあやかって見させて頂くって事で——」
勘弁して貰いましょうよ、という具衛のもっともらしい一言で、二人は鳥居直下の階段最上段に腰を降ろした。それぞれの間合いは相変わらず三歩だ。それは畳一畳、尺貫法で言うところの一間、武芸では守勢にも攻勢にも転ずる事が出来る最低限の間合いを指す。要するにその距離があれば、武芸に嗜みのある者はとりあえず安心、という事だった。
「私と違って、あなたは説得力を持ち合わせているでしょう?」
具衛は前を向いたまま、徐に女の言をそのまま返した。人に言い放つくらいだ。自分は大層な事が言えるのだろう。感情的な人間と話をするなど、具衛にとっては気疲れでしかない。常に穏やかなのは、単に事を荒立てて面倒を起こさないための、言わば諦めの体現と言えた。逆恨みされても面倒だというのに、
こっちは——
住居が割れている。始めから分が悪いつき合いだったのだ。が、こうなった以上、そうも言ってられない。上っ面で済ませ、人と深く関わる事を避けて来た具衛にとって、人の事情に触れるなど面倒極まりなかったが、女が絡んで来るのだから仕方がない。そんな具衛を察したのか。
「都会暮らししか経験がなくて——」
女がポツポツと、口を動かし始めた。
「先月、山小屋を見て、カルチャーショックを受けて。猛烈に興味を覚えて。今まで経験がなくて。その——」
「この文化的な暮らし振り、がですか?」
女が言い辛そうにするのを具衛が茶化すと、
「そう、その文化的な暮らし振りが」
と、女が失笑した。少し間を置いて、身を固くする素振りを見せると、
「今日はお礼のつもりで来たの。事故の時の」
とか、また寂然さを纏い始める。
「迷惑だったら、もう来ない」
この際、突き放す選択肢も用意していた具衛は、女のその寂しげな静かさを、哀れに感じてしまった。
この女は、これまで具衛に近寄って来た女達によく見られた、情に訴えては多少の無理無茶を否応なしに捩じ曲げるような姑息さがない。それどころか男以上にさばさばとして潔く、妙に諦めがいい。その感情が表面に顕在化した結果の寂然なのか。
——さばさばしてんなぁクソ。
ここで同情してしまっては突き放せなくなる。そんな事は理解していたが、女の寂しさの理由が気になったのだから仕方がない。それが否定出来ず、
「迂闊と言っただけで、迷惑とは言ってませんよ」
と、つい肯定的な言葉を吐いてしまった。かと思うと、
「私に迂闊なんてないのよ」
などと、女はすぐ様具衛の言葉尻に噛みつく。
「男なんて、私に敵わないくせに」
独り言ちて、急にやさぐれた。
「——でも、あなたの不意打ちにはやられちゃったけど」
今度は急に少し萎れる。
——その返し技の方がひどかったんだけれども。
具衛は口には出さず、喉元で言葉を飲み込んだ。具衛のお灸に対する女の後の先は、まさに容赦ない一撃必倒の鋭さだった。その妙手が言う通り、並の男なら到底躱せず、受け身も取れずに昏倒しているだろう。
女は然も無念そうに黙り込んだ。情緒の浮き沈みの激しさはこれまでの女達と同様で、そのヒステリックな様子が実に人間臭い。その二面性に妙な可愛らしさを覚えると、心臓が一度大きく高鳴るのを認める具衛だった。
「理由は分かったとして——」
一の矢はとりあえず、受け止められたものと判断する。
「迂闊や迷惑はとりあえずいいとして、間合いに入る方の素性は、そこに住む者としてはやはり知っておきたいものです」
この二の矢は、見事に女の何処かに刺さったようだった。瞬間でそれがあっさり表面化すると、そのらしからぬ弱々しさに性差故の憐憫が働く。
——やっぱり女は女か。
女はそれでも何か言い出そうとしたが、胸で息をしてゆっくり吐き出すと、
「やっぱり、そうよね」
と、自嘲気味に漏らした。
「——はい」
ためらい気味にも素直に認めると、これまでの期間が猶予に相当し得ると判断した具衛は、少し言い辛さを感じたものの、
「うちは、その——客商売じゃないので」
という、決定的な追い討ちした。すると、横目の端にしか捉えていない女の身体全体が、あからさまに一瞬痙攣する。つまり、
"見ず知らずの人間をホイホイ家に上げるヤツがあるか!"
と突きつけたに等しい。そういう意味では、具衛のこれまでは相当寛容で、逆に女は相当厚かましかった、と言い切って良かった。
——慈善事業じゃないし。
彼は歴として山小屋に住んでいる住人に外ならないのだ。事故の時は行きずりのようなものとしても、その後の不明瞭な来訪は、バスタオルの返礼を除くと、他者のプライベートな空間に土足で上がり込む行為に外ならないと言う事が出来た。要するに、名乗らずに他人の家に上がり込むのは、大抵の場合実は
——盗っ人と大差ないんだっての。
という事だ。
顔は分かるが名前や詳しい素性は不明、という人間が、ズケズケ家に上がり込んて来たら、大抵の家人は怒るだろう。それでも出て行かないのであれば、それは刑法でいう不退去罪が成立する。例え明白に家人が拒まなくとも、それをいい事に、それに甘んじて上がり込むなどは、
確信犯的と言うか——
更に質が悪い、と言う事も出来る訳だ。
女はまた何か言いたげに息を吸い込んだが、途中で口を開いたまま固まってしまい、結局溜息だけ吐き出した。
「峠の茶屋感覚、だったの」
つい、と白状する。
「——江戸時代の」
などと、つけ加えてくれた後追いには、朴訥さが売りの具衛も、
「江戸時代?」
と、素直に顔を歪めた。が、そういう事なら、
ひょっとして——
先月の事故の折の山小屋での場繋ぎ話は、当たり障りのない自分の生活向けの事ばかりだった。女を訝しんだ結果の事とはいえ、その古臭い生活振りの話がまさか、
——その気にさせちゃった、とか?
と思い至る。今更ながらにその時の口車を悔いたところで後の祭りだ。
そういえば——
口が滑って、たまの来訪を催促するかのような、そんな誤解を招くような事を言った記憶も。
「つい居心地が良くて、と言ったら言い訳ね。結局、あなたに甘えて名乗ってないし——厚顔無恥とはまさにこの事ね」
女はまた押し黙る。顔を見られたくないらしく、しばらくそっぽを向いていた。が、それでも足りないのか、具衛の方の顔半分を片手で覆ってうなだれる。
「訳がおありなのは、まぁ何となく。察しては、おりましたが——」
恐縮めいた具衛が尻すぼみに吐くと、女は女で僅かに首を横に振る。
——うわ。
自分が言い出しておきながら、女の落胆振りが思いがけぬ破壊力だ。それが、
「——どう、します?」
とかいう、据わりの悪い言葉となって具衛の口から漏れた。この男はその舌鋒に、住居侵入の意を暗に含ませたつもりではあったのだが、まさか女がここまで響くとは思いもしなかったのだ。その意を解した、
という事は——
聡明な事は、普段の口振りから見せつけられていたものだったが、何やら素人らしからぬものを感じざるを得ない。
そんな女は、少し黙り込んでいたが、
「——今まで通り、ってのは都合が良過ぎるわね」
とか、重い口を開く。が、
「何言ってるのかしらね今更」
などと、結局自己完結して畳み、また押し黙った。急に重苦しさが押し寄せる展開に、詰問している側の具衛が腰砕けになる。元々平穏を愛する平和主義者だ。悪に対峙する時は別として、その他の事で人を責めるなど柄ではない。まして今や、安穏を貪る山奥の世捨て人だ。わざわざ人里離れた山奥で人間関係トラブルなど、
——嫌だよなぁ。
これでは何のために山に籠ったのか分からないし、意味がない。
そんな中、突然手を叩いた女が、
「いっその事、客商売って事でどうかしら!?」
と、突拍子もない事を言い出した。
「はぁ?」
思わず間抜けな声を上げる具衛に構わずの女が、
「あなたさっき『客商売じゃない』って言ったじゃない。だから茶屋って事にしない? ホントに。今までのお茶代も払うし。だったら名乗らない大義があってもよくない?」
などと、勝手に盛り上がる。
「何をまた急に——」
具衛は思わず絶句したが、
「——茶屋なんて面倒な事。正式に飲食店を開業するのに、どれだけ手間がかかるか分かって言ってるんですか?」
と、女のペースに巻き込まれず、冷静な反論を繰り出した。
根拠法に関する許可届出からすると、具衛の山小屋の場合、まずは飲食業に限らず、個人で始めるのであれば、税制上の【個人事業主の開業届出書】、法人を立ち上げるのであれば【法人設立届出書】が必要
「で——」
茶屋であれば、最低でも衛生法上の【喫茶店営業許可】が必要だ。これは単に届出れば良いのではなく【食品衛生責任者】の資格を有する。更に菓子を作ってテイクアウトさせるような事でもあれば【菓子製造業許可】も必要で、火を使うため消防法上の【防火対象物使用開始届】も必要となる。
これらの届出には申請に際して、小面倒臭い諸々の
「書類作成、手数料、法定検査——」
を受ける必要が一々あり、それで許可が下りればよいが、却下されれば是正のオンパレードだ。詳細は省くが現状の山小屋では、衛生法的にも消防法的にも到底容易に各種許可が、
「——まず、下りません」
法令関係でもそれだけ面倒なのに、
「何よりも——」
借家である。大家に許可を得ないといけないのは当然の事、客から金を取るのであれば、それなりの物を提供する義務を要するのもまた当然だ。
それらの事以上に何よりも、
「——客商売など」
世捨て人を公言しているような具衛の生活振りからすれば、
「とにかく、面倒極まりない事で——」
到底あり得ない。が、それを女がまた、
「そんな大仰でなくても、私だけのプライベート茶屋って事で、ね!?」
とか、妙に軽々しく言ってくれる。
「雇っても良いわ」
「謎の経営者の元で働けと?」
具衛が憮然と答えると、
「はいはい、冗談よ冗談」
と、手早く畳む女だ。かと思えば今度は、
「そんなに私が嫌い?」
「なっ何をまた——!?」
急にわざとらしくも、女をちらつかせたもので、具衛は目をひん剥いて口を歪める。それでもどうにか立て直し、
「好き嫌いはこの際別でしょう。それが素性開示の足しになるんですか?」
と、もっともらしく反論する。が、
「好きこそ物の何とかって言うじゃない」
とか、また逆戻りだ。切りがない。
「さっき迂闊が分かったばかりなのに、バカな男を焚きつける危うさは分からないんですね」
流石にバッサリ切る具衛だ。
「はいはい、ゴメンゴメン。悪かったわよ」
女があっさり謝ると、先程までの重い空気が途端に緩む。具衛は密かに、盛大に顔をしかめた。
——心配損かよ。
内心で悪態をついていると、
「——やっぱり名前は。ゴメン、言ったら終わりそう」
女がまた、勝手に深刻そうに畳み込む。
「は?」
「いや、独り言」
かと思うと、また寂然とし始めた。この抑揚がコントロールされたものなら中々の食わせ者だ。実際に食わせ者なのだが、
——余程の素性なのか?
とも思う。
山小屋暮らしだが、職場の新聞やテレビで世情はそれなりにチェックしている。家では本ばかり読んでいる訳ではなく、所携のミニノートパソコンで、ニュースや情報番組は好んで見る具衛である。
——メディアでは見かけないけどなぁ。
何にしても、選択権は女に委ねた。後は何も言わず、女の決断に任せる。具衛は問題点を指摘した。すり合わせをするつもりなら、それには応じる。拒否するのであれば、これにて終了だ。具衛は山小屋の主として、立ち入りに際して素性を要求した。つまり、これ以上の名無し来訪は家人として許可しない、更に突っ込んだ言い方をすると法に抵触する、と宣言した訳だ。郷に入りては
——郷に従ってもらう。
という事も出来る。
その極一般的な金言は、今の二人の曖昧な関係性に強烈な楔を打ち据えるものだった。基本的に既存法を著しく侵害しない限り、他人の家に立ち入る際はその家のルールが全てだ。来客の素性を押さえるなどは、家人の平穏を守るための正当な防御反応であり、社会通念上当然認められる行為である事は言うまでもない。それが何処の誰なのか、という程度の基本情報なら、それを隠す方にこそ問題がある
——としたモンだ。
と言える。
「因みに客商売でも、顧客に匿名が通用する事は少ないと思うんですが」
客だからといって、匿名が許されると思うのは大きな誤りだったりする。
「分かってるわよ」
女は即答した。
業界によっては、先に氏名や連絡先を担保として押さえるケースもあるそれは、宿泊業など業界法を根拠とする行為だったりする。が、基本的に、店舗敷地内に客が立ち入る折に素性を押さえる事は、業界法を根拠とする事を要しない。むしろそれを妨げる法は、
「——存在しないわ」
という、女の言う通りだ。
飲食店でも宿泊業でも商業施設でも、実は一向にそれを実行しても構わないのだが、来店客に面倒をかける結果、客離れにも繋がり兼ねないため、流石にそこまでやる店は多くない。
そうした中で、飲食業に見られる【一見さんお断り】は、実は店側の正当にして中々巧妙な防御反応の一つだったりする。こうしておけば、素性が全く分からない客は来ないし、何かあれば辿る事が出来る。一部の大衆にその面倒を忌み嫌い、その理解が及ばない者が散見されるが、実はそれこそが、
「甘い認識の最たるものよね」
と今更言う女は、それをしようとしていた訳だ。客であることをまかり通し無理に入り込めば、店側の許可を得ず無断で立ち入った、つまり住居侵入となる。客は神ではない。人間だ。ならば、高度な社会システムを構築している現代の事。何事も社会通念や法が存在するのは言うに及ばない。それが法治国家であれば尚更だ。日本人は個人の住居では、塀や生垣など明確な仕切りで外部と遮断する割に、飲食業を始めとするサービス提供施設における客の部外者たる認識が、
「——低いのよ。情けない事に」
それは【お客様は神様】という接客業界における過度の【お客様信仰】がもたらした弊害なのだろう。客である事を逆手に取り、金に物を言わせて何でも出来ると思い込むような増上慢こそが【一見さんお断り】のターゲットである事を、俗世間はどこまでサービス業界に寄り添って
「——想像出来るものかしらね」
等々と。
「よく、ご存じで」
その立て板に水の女の弁舌に、あんぐり口を開ける具衛だ。
「釈迦に説法って、聞いた事があって?」
「まぁ人並みには」
窮地であるにも関わらず、女は相変わらずの上から目線で、具衛はつい失笑を漏らした。
「敵いませんね」
「分かればよろしい」
結局最後は、やはり女の土俵だ。
「でも、あなたの言う事ももっともだと思うし」
とか、平生を取り戻したような女は、
「メールアドレスだけってのはどう?」
と、素直なすり合わせを始めた。
「メールアドレス?」
名前をひた隠す意図が見え見えのその提案は、そこが
——デッドラインか。
という事らしい。
そんなビッグネームなのであれば、見た事がありそうなものだが、見覚えは
——ないんだけどなぁ。
やはり具衛が首を捻るその横で、
「あ、メアドかぁ——」
とか、女は女で、やはり渋い顔で首を捻っている。どうやらそれが名前に繋がる事は、あえて聞くまでもなさそうだ。何れにしても、その私有車と思われるアルベールのナンバーは当然押さえている。が、追跡手段がそれだけという状況は避けるべきだろう。情報は多いに越した事はない。
具衛は密かに嘆息して、
この辺が——
妥協点と判断した。結局はやはり、土俵も勝負も女のものという事になるが、バカで説得力を持ち合わせないのは事実なのだから仕方ない。それならせめて相撲くらいはものにしようと、
「それなら、フリーメールアドレスを作りますか?」
と、提案をしてみる。
「何個か持ってるでしょ?」
具衛がつけ加えると、俄かに女が色めき立った。
「SNSが一般的ですが——」
それだと大抵、電話番号やIDがバレてしまう。それに具衛は、今時の通信アプリやSNSを使っていないのだ。一方で、IT大手の管理によるフリーメールアドレスは、
「都合に合わせていくらでも作れるでしょう?」
その上いざという時は、作成者も辿れる。もっともその手段は、基本的に何らかの法を根拠とした活動であり、大抵の場合素人レベルでは難しいのだが。
「それ! 妙案だわ!」
「いや普通でしょ!?」
妙案って——
人の事を古風と指摘する割に、そういう女も似たようなもので
——表現が固いな。
と、勢いよく突っ込みかけた具衛だったが、寸前で飲み込んだ。ここでヘソを曲げられては、まとまる話もまとまらない。
「じゃあ、ニックネームを頭につけるってのはどう?」
「ニックネームは開示出来るんですか?」
「今決めるのよ」
具衛は急に勢いづいた女を脳内で、
——鉄子だな。
と呼んでみる。冷たい印象と頑固そうな意思の具現化だ。が、流石にそれでは反撃が怖い。そんな具衛を、
「何?」
と、女が敏感に察して顔をしかめた。
「いえ別に」
勘の鋭さは流石としたものだったが、その拍子に、
——そうか。
ニックネームという事なら、そのまんまの別案が閃く。
「仮の名で『カナ』ってのは、どうですか?」
「何の捻りもないわね」
「わざわざ捻る必要ないでしょ。文字通り『仮の名前』ですし『カナ』は女性の名前の音としては一般的で、そのまま呼んでも違和感がありません」
そこまで説明した具衛は、
「我ながら妙案だと思うんですが——」
と、軽く悦に浸り始めた。女は悔し紛れに軽く鼻を鳴らしたが、納得したらしい。
「もし人前があるようなら、アクセントは『カ』の方につけなさいよ」
「『ナ』の方につけたら疑問系じゃないですか。それこそ違和感出まくりですよ」
「——それならそれでいいわ」
——ホント負けず嫌いだな。
呆れを通り越して、噴き出しそうになる具衛だ。そもそも
——勝ち負けじゃないだろうに。
あっさり中々妙な名前をつけられた女は、明らかに逆襲の機会を狙っている。
「じゃあ、あなたの通り名は?」
「宿直さん、ですかね」
言葉の端にまだ少し悔しさが滲む女の横で、引き続き冴えている具衛が、またあっさり言った。
「宿直さん?」
「職場でそう呼ばれてるんです」
具衛の介護施設での職名のそれは、
「それが職場とは全く関係ない人達にまで浸透しているので」
と苦笑する。
氏名はアイデンティティーの最たるものだが、それを中々受け入れてもらえない階層がある。職域では管理職と非正規層だ。何れも職名で呼称される事が多いが、管理職のそれは名誉の高い地位である事から敬称、尊称の一種でもあり、そう呼ばれる事自体が誉れとする向きもある一方で、
「私は非正規職員なので」
下層のそれはつまり、蔑称でしかない。あえて氏名を呼ばず、低い職位による呼称をする事で、
「それは職域差別って言うんじゃなくて?」
正規職員としての既得権めいた優位性を誇張しようとする正社員との軋轢は、解決困難な根強い労働問題の一つでもある。
「そんな深刻なモンじゃありませんけどね」
「ダメよ。それは蔑称じゃない」
女は事情を理解するや、即却下した。
「名ばかり管理職よりはマシですよ」
一般社員に対する超過勤務手当などの各種手当を渋る一部企業で散見されるそれは、業務内容は一般社員のそれと変わらないのに無理矢理管理職に引き上げるというヤツだ。その手当や守られるべき法定労働時間を帳消しにし、文字通り使い潰すという、これもまた混迷を呈す現世の労働問題の一つ。
「そんな事をする社会福祉法人があるのなら、お目にかかりたいものね」
普通それは、著しい超過勤務を強いては労働者を人間扱いせず、薄利多売で収益を上げる小売業界に散見される。
「それに私は、名前で呼ばれるのは余り——」
世の中から存在を消して、匿名世界の中で生きようとする人々も一定数存在する時代の事だ。が、具衛の場合は少し違う。
「山奥に隠棲して、煙に巻きたいから?」
そんなところをあっさり女に、
「図星でしょ?」
と言い募られ、思わず女の方を向いた途端。それこそ不意打ちの、
美笑——!
を浴びせられ、タジタジになってしまった。
「ホント男なんてたわいないわ」
それで少しは、それまでの悔しさが失せたようだ。
——や、やれやれ。
本当に負けず嫌いというか、プライドが高いというか。扱いにくさに呆れて一息つく。気を取り直した具衛が、
「私の地元なら、地元で呼ばれてる呼び方の方が自然でしょう」
と、理屈を唱えてみる。
「それはそうだけど。でも『さん』づけを前提とした蔑称ってのは、やっぱり違和感があるわ」
「別に『宿直』って呼び捨てでも構いませんけど。それだと相当傲慢に聞こえますね」
具衛は軽く噴き出した。女の顔色が俄かに険しくなる。
「呼び捨てにする人、いる訳?」
「いませんね」
「それを私にさせるの?」
「だって『さん』づけ嫌なんでしょう?」
「周囲に対する聞こえ方ってモンがあるでしょうが!」
「低層の職名に『さん』の有無なんて関係ありませんよ。蔑称は蔑称です」
具衛が淡々と続ける中で、勢い余った女が、
「私はそんな事を平気で口にするような悪代官じゃないわよ!」
と、啖呵を切った。
「悪代官って——」
その予想外の古さに、壺にはまった具衛が堪え切れずに噴き出す。
「例えが極端ですよ」
「誰かさんが、くノ一がどうたら言うからでしょ!?」
湧き上がる失笑を堪える具衛が、
「私は『カナ』さん、と『さん』づけしますけど」
などと、早速第一声すると、女が不自然に顔を背けた。敬称をつけられた文字通りの仮名が、予想外に恥ずかしかったようだ。
「呼び捨ては性に合わないので」
「そ、それは好きにしなさいよ」
その女がそっぽを向いたまま、
「——とにかく、私は人を蔑むような呼称で呼ぶ趣味はないの。別名を考えなさい」
とか、真摯な向き合い方には好感を覚えたものだが、自分で言い出した割に決めようとしない女だ。が、これは、
「私が決めると、上から目線の悪いイメージしかつかないでしょ。これでも自分の事はそれなりに分かってるつもりだけど」
との理由らしい。その意味するところは、
意外に——
思慮の深さを思わせる。常に上から目線で高飛車めいた女であるが、たまに垣間見る情念は、悪人のそれではない事は確かなようだ。
「何か他にないの?」
「そうですねぇ」
片手で顔を撫で回す具衛が、変顔を作りつつも、
「他に——」
と、考え込む風情を見せる。
「何よそれ。ちゃんと考えなさいよ」
「考えてますよ」
これもまた防御反応の一環だ。これ程の美女に言い寄られるなど経験がないのだから、顔どころか身体のあちこちが凝って仕方がない。
「マッサージして血の巡りを良くして、無い知恵を絞ってるんですよ」
「屁理屈は達者ね」
と言う女こそ、テンポよく噛みつくものだ。その早さに負けない口を持ち合わせない具衛としては、
やれやれ——
そんな脳内の愚痴が止まらない。
——別名ねえ。
実は結構持っている男なのだが、どれもこれも自宅周辺で使えるものではなかったりする。具衛の中でそれは過去の悪名に近く、近辺で使って違和感がない呼び方など、
「——やっぱりアレか」
その不本意な一つをおいて他になかった。
「何よ、勿体つけて。あるんならさっさと言いなさいよ!」
具衛が手を止めると、女がまたその達者な口で食いついてくれる。
「そんなに怖い顔しなくても」
「ぐずは嫌いなのよ」
きっぷが良さそうな女に対し、具衛は「然いですか」と冴えない事極まりない。それを見た女が、また何か言い出そうとした時、
「『先生』ってのはどうですか?」
と、やんわり被せた。忽ち女の顔が驚きに変わる。が、またすぐ何かに食いつきそうになるのを、
「実は私の勤める施設は、母子の支援施設も併設されてまして——」
などと、立て続けに具衛が制した。
母子生活支援施設。一八歳未満の子供を持つ母親を支える施設の事だ。家計の良し悪しを理由とせず、配偶者のない女性、またはそれに準ずる事情のある女性を対象として、生活上問題を有し、児童の養育に支援を有すると認められる母親とその子を支援する。昨今では自治体の委託を受け、
「社会福祉法人が運営するケースが多いんですよ」
「それは知ってるけど——で?」
——知ってんのか。
福祉業界は、人生の何処かのタイミングで誰もが世話に成り得る筈なのに、世のニーズと比べて職員の待遇も注目度も決して高いとは言えない。それを即答する女は、
——何者なんだろう?
具衛でなくともそんな疑問が頭をもたげるものだ。と、それはとりあえず脇に置いた具衛が続ける。
「母子施設の職員は、子供達からするとみんな先を生きているので、役職に左右されず『先生』と呼ばれてまして。その延長で職員間は、誰でもみんな先生と呼び合ってます。それが施設の外にも波及して、外でも先生と呼ばれたりも——」
具衛は片手で頭を掻きむしった。
「そんな柄じゃないんで恥ずかしいんですけど。教員免許も持ってませんし、当然やった事もありませんし」
と、追加でひどく恐縮している。
「——まあでも」
女は出しかけていた舌鋒を収め、一応の理解を示した。これなら蔑称でも呼び捨てでもない上、冗談にしても敬称の向きが強い。事実そう呼ぶ声があるのであれば、この近辺で使っても全く違和感がないのだから、それは物の見事におあつらえ向きと言えた。が、
「センセーねぇ」
何かが引っかかるらしい。
「実は『宿直さん』より『先生』と呼ばれる事の方が多いです」
「じゃあ何で最初からそれを言わないのよ!」
「それこそ傲慢でしょ! 自分の事を先生と呼べって、普通言わなくないですか? それこそ悪代官でしょ」
「それこそ例えが極端よ」
お互い言葉尻の応酬の中で、少しばつが悪そうな女が、またぎこちなく顔を背けた。が、
「——言い得て妙だわ」
と、また固い表現で是認する。
「あなたは『先生』に決定ね」
「はぁ」
「そんな声出すと、センコーって呼ぶわよ」
「それは好きにしてくださいよ」
具衛はやや持て余し気味に口を歪めながらも、土壇場でまた女の言葉をあげつらった。