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瑠璃繁縷(前)①【先生のアノニマ 〜27】

 夜が明けた。

 夜中に真琴を背負って宿を出た具衛は、只ひたすらに歩き続けていた。宿を出る時に降っていた綿雪は、今は止んでいた。が、積雪は腹に達しており、その上吹雪いている。

 季節外れの驚くべき三月雪は、日本列島各地に記録的豪雪をもたらしていたが、特に北信越、関東はひどく、雪絡みの気象記録と言う記録を塗り替える程の猛威を奮っていた。それは当然、具衛が決死行に挑んでいる奥多摩も例外なく、それどころか最もひどい地域の一つとなっている。

 何たる——

 難路か。

 山間はとっくに夜が明けていたが、積雪を嵩増しさせる綿雪が止めば、今度は吹雪く。夜な夜なその呆れた繰り返しのせいで、辺りは白昼夢の如くとにかく白かった。どれ程歩いて来たものか。フードの周りにはびっしりと、風雪に晒された痕が寒々しく残る。

 クソ——。

 やはり止めておくべきだったか。

 具衛は今更、後悔した。

 重い雪は、一歩一歩黙々と歩みを重ね続ける具衛のその足から、少しずつ確実に体力と体温を奪い続けた。早い段階で爪先の感覚がなくなった。それは想定通りではあった。

 まだまだ——。

 めげずに歩き続けていると、今度は股関節がおかしくなり始めた。一歩一歩、重い雪を蹴り上げるように押し退け続けたのだ。関節も擦り減って当然だった。

 下まで持てばいい——。

 それでも騙し騙し、粘り強く進んでいると、次に膝に力が入らなくなって来た。下り坂の雪道で、二人分の重さを支え続けた膝である。

 ——ヤバい。

 膝は体重をしっかり支えなければならない荷重関節であるにもかかわらず、人体最大の関節にして非常に不安定で適合性の悪い関節と言われる。それを靱帯、筋肉、腱などで安定させて、無理矢理にでも動かせるようにしているものだから、疲労しやすく耐性も決して高くない。人の足は膝から衰える。これを患う事は、つまりは致命傷であった。

 膝を庇うようになると、限界は早かった。足首を捻り転倒すると、

 し、しんどい。

 いつの間にか心肺機能も限界が来ている事に気づかされた。

 背負っている真琴の着衣は、一応万全を期したつもりだ。着衣で悩ましいのは体の中心から遠い部分で、特に手足である。よってその悩ましい四肢には、特殊ゴム仕様のカバーをつけておいた。発熱による発汗やそれに伴う冷えを起こさないように配慮したそれは、実はつけ心地が良くない。背負われて動かない病人に、果たしてどれ程の効果があるのか。凍傷にならない、との受け売りを知識としては保有していたものの、実際には具衛も使った事がない新たな技術がもたらした装備だ。つまりは、半信半疑にして未知数の物であった。

 い、急がないと——。

 つまずき、正面からダイブするように転倒した具衛だったが、これは深い新雪が幸いした。転倒によるダメージは殆どなかったが、気力体力は限界に近く、中々起き上がれない。その背中では、真琴が薄く意識を繋いでいる。雪中に埋もれた事で、今は吹雪いているその轟音が少し和らいだ。風が遮断されると不意に暖かさを感じる。

 起きないと——

 こうやって凍死するのだ。ビバークするのであれば、かまくらを作るぐらいでなくては山中の厳冬期では命を繋げない。だが、

 力が、入らない——。

 起き上がれなかった。

 少しすると、何処からともなく音が聞こえて来た。が、しばらくすると、また聞こえなくなる。

 何の——

 音か。

 雪の中で、ぼんやりまどろんでいると、また聞こえて来た。

 携帯——か。

 それに気づくのに、しばらくかかったようだ。ようやくその場に座り、スマートフォンを見ると、真純の着信歴が立て込んでいる。事前に位置探索アプリをインストールしていたため、山中で具衛の足が止まった事が分かったのだろう。

 それにしても驚いたのは、その画面に記録された外気温だった。マイナス一七℃と表示されている。

 ウソだろ——。

 下山開始前は、マイナス一桁レベルだったと記憶していたのだが。誤表示か、とも思ったが、よくよく考えて見れば、東京とは言え奥多摩だ。山を越えれば秩父山中であり、この豪雪の悪天候ならありえる話ではあった。現実として夜通し、降り積もったり吹雪いたりしている。特に吹雪いている時の寒さは、辛いの一言に尽きた。吹雪けば当然、それだけ気温が下がるのだ。体感気温は、風速が一m毎秒速くなる毎に一℃低くなる、と言われる。吹雪いている時は、単純にそれだけ寒さが加算される事を思うと、体感レベルでは厳冬期の北海道と同レベルの寒さと言っても過言ではなかった。

 その中で、ホワイトアウトなのだ。山を下りて来た感覚はあったが、果たして方向があっているのか。甚だ怪しかった。事前に一本道である事は確認していたが、あれでも地図にない脇道に入ったりしてはいないか。と、言われると自信がない。それ程の疲労で意識は朦朧としていた。

 真純に折り返そうとしたところ、寒さで電池がやられたらしく、電池残量がなくなってしまっている。画面から表示が消えると、

「あ——」

 具衛は、動かす事が既に億劫になっているにも関わらず、その頭で思わず天を仰いだ。何分、それなりに使い古したスマートフォンである。やむを得なかった。

 それにしても、少しまずい。これでは真純が心配してしまう。

 早く戻らないと——

 が、立ち上がろうにも、身体に力が入らなかった。座っていると、尻から寒さが這い上がって来る。益々動けなくなる条件が満たされて行く事は理解していたが、もうどうにも動けなかった。

 ——大丈夫?

 そこに真琴の声が聞こえた、ように思ったのだが、肩越しにその顔を少し伺ってみると、真琴は目を閉じたままだ。一方で、自分の呼吸の荒さだけが耳についた。

 周囲は何処もかしこも真っ白だ。山間を貫く山道を歩いているため、標高がそれ程高くない奥多摩の山中ならば、傍には当然樹木がある筈なのだが、視界が極端に悪く数m先も見えないのだ。ややもすると三次元的感覚すら失いかねない、そんな真っ白闇だった。

 ますます——

 まずい。

 強まる遭難、そしてその先にある死。だがその状況が、つい心地良過ぎて身動きが取れない。夜通し寝ずに歩き続けたのだ。疲労に負けて寝てしまいそうだった。

 少し、休むか——。

 真琴の装備は万全だ。大丈夫な筈だ。少しぐらい休んでも罰は当たらないだろう。ついにうとうとし始めると、顔に触れる物があった。それが邪魔で、気が散る。それと一緒に、また音が聞こえて来た。スマートフォンは、先程電池が切れた筈だ。もう他に音を出すような物はないのだが。

 ——煩わしいな。

「——ぅぶ?」

 するとまた、何かの音が耳についた、ような気がした。

 ——声?

 先程錯覚したそれか、と真偽を確かめるべく目を開こうとする。が、辛うじて開こうとする意識がまだ残っていたその目の瞼が、早速凍り始めていて開かない。ちょっとした力で開く筈が、それすら振り絞る力がなく、気力も萎えている。

 その瞼を、今度は乱暴に叩かれた、ように感じた。

 痛!

 まどろんでいた意識が戻されると、

「具衛さん」

 今度はしっかりと聞こえた。

 意を決して目を開くと、その目の前にごわつく登山用グローブをつけた手がふらふらしている。驚いた具衛が思わずその手に片手で触れると、触れた途端、安心したかのように脱力した。その脱力した手を支える事が出来ず、手が絡んだまま一緒になって地面に落ちる。すると今度は、肩越しにある真琴の頭が具衛の頭を擦り始めた。

「大丈夫?」

 その声に反応して顔を捻ると、目を閉じたまま、静かで細い息の合間を縫ったような真琴が僅かに鼻で笑っている、ように見えた。お互いのフードが邪魔をして、表情は分からない。

 一度地面に落ちた重い腕を緩々と上げ、そのフードをはぐると、

「具衛さん——大丈夫?」

 今度は、表情と声をはっきり捉えた。具衛の異変に気づいた真琴が声をかけていたようだ。想像通り目は閉じていたが、穏やかな顔をしている。

「ちょ、ちょっと休憩を——」

 息が辛くて、後が続かない。

 が、それで安心したのか、

「そう」

 真琴は、然も素気なく答えた。

 その顔が力なく笑っている、ように見える。またその手が、今度は身体の側面で何かを求めて喘いでいた。それを握ってみると、もじもじし始める。それに合わせて指を絡めると、ようやく安心したのか、また脱力した。

「あったかい——」

 そんな筈はない。グローブ越しで熱は遮断されている。外から熱が伝わるようでは、この寒さではとっくに凍傷になっている。

 急がないと——

 只でも過酷な環境下に加え、真琴は病人だ。出発時の容体からして、既に身体の感覚はおかしくなっている事だろう。朝を迎え、薬の効果も切れる頃だ。が、立ちあがろうにも、すっかり足が萎えてしまい、立ち上がれなかった。

 ——まずい。

 慌てて余った片手で足を摩り始めるが、触っているその感覚からして既に怪しくなっている事に気づく。具衛は固唾を飲み込んだ。

 こ、ここまでか。

 ビバークしようにも、四肢に力が入らない。判断ミスだった。真琴の病状が気になり、ついオーバーペースになってしまった。更にその勢いで、体力の限界まで攻めてしまったのだ。結局潰れてしまい、風前の

 ——灯か。

 遭難死の状況が満たされつつある。

 そうか、灯火——

 真琴の手を一度放し、思い出したように、足の側面ポケットに入れていた発煙筒を取り出した。が、これが中々着火しない。着火させる手の力が残っていなかった。

「どうか、した?」

 また細く掠れる声で、真琴が問いかけて来る。

「いや、発煙——」

 と言いかけて止めた。これでは身動きが取れなくなった事を公言するようなものだ。着火も止める。では、

 ——どうする。

 助かる道を模索しなくては。三人分の命だ。首を突っ込んだからには、完遂しなくてどうする。

「ありがとう」

 その一言は、具衛の脳を痺れさせた。気がつくと、一度放した筈の真琴の手がまた握られている。

「もう、充分だよ」

 悟ったように言う真琴は、状況を把握しているようだった。

「私、幸せだった」

 また目を濡らしている。その睫毛にびっしり霜がついていた。

 ま、まずい——

 この寒さで身体から体表に出る水気は厳禁だ。目の下まではネックウォーマー、目にはゴーグルをつけさせていたのだが、ずれて隙間から冷気が入ってしまっている。余りきっちりつけて顔に変なしみがついても悪いと思う気持ちが、装着時にバンドを緩くさせたのだ。今思うと、これもまた浅慮に他ならなかった。その目を覆う涙が、凍傷を呼び込んでしまう。

「あなたと、一緒だった、から」

 ——ダメだ。

 ここで感情的になっては。

 この寒さでも、生きてさえいれば目が凍る事はないが、感極まって溜めに溜めた涙が瞼や睫毛にくっついてしまうと、弱った身体ではそれが凍りついて目が開けられなくなってしまう。目が開かなくなると、脳が休まり睡魔が押し寄せる。いくら服装に注意を払っているとは言え、この極寒の野晒しでの昏睡は余りにも危険過ぎる。真琴に対しては、辛いだろうがなるべく寝ないよう言い聞かせ続けた道中ではあった。が、ここに至っては、真琴どころか自分すら危うい。せめてその涙を拭き取ってやりたかったが、タオルは真琴の身体の前面を覆っているリュックの中で、取り出す体力はとても残っていなかった。

「真琴さん、しっかり!」

 苦し紛れのその声も、情けない事に息絶え絶えだ。当然、その甲斐もなく真琴はまた涙を流してしまった。目尻を流れた涙の筋に早速霜がつく。また不覚にも、その目元の美しさに見惚れてしまった。その霜に、仏軍在隊時に属した山岳部隊の訓練中、たまに見かけた氷瀑の美しさを思い出す。

 どんな時でもこの人は——

 その氷瀑のように、気高く美しいのだ。

 今日の真琴は、すっぴんだった。宿で温泉から上がると身動き取れなくなったとかで、流石に化粧する気力もなかったようだ。そう言えば、ここ最近具衛は、真琴の外出用の化粧姿を見た記憶に乏しかった。化粧映えする真琴は、確かに如何にも仰々しい睫毛や、真紅の口紅なども良く似合ってはいたが、

 やっぱりこの人は絶対——

 薄化粧こそよく似合う。時と場所を忘れて、そのすっぴんに引き込まれた。

 よくよく思い出せば、越年前後からこちらと言うもの、真琴と会う時は何かとばたばたし通しだったのだ。だからこそのすっぴんなのだが、落ち着いてそれを見る事が出来なかった事が、最期の心残りになりそうだった。

「ホント、ありが、とう」

 この只ならぬ状況で、礼を重ねる女のその透き通るような美しさに我に返る。生体反応的観点としては乏しいと言わざるを得ないその肌の美しさは、雪女でないならば、文字通り死に化粧の美しさだった。

 ——じょ、冗談じゃない!

「でも、ごめん、な——」

「真琴さん!?」

 具衛が慌てて身体を捻ると、真琴の瞼は既に凍りついていた。

「真琴さん! しっかり!」

 慌ててレスキューハーネスを外して真琴の正面に回り込み、両手袋を取って素手でその顔や額に触れて体温を確かめるが、すっかり冷え切っている。そのままネックウォーマーの中に手を突っ込み首筋も触れてみたが、保温している筈が、具衛の手よりも明らかに冷たかった。

 ——低体温!

 温度管理が難しい四肢はゴムパッケージで万全を期したが、ボディーは通常装備だ。立ち寄った登山用品店に全身を覆えるそれがなかったため、止むなく吸汗仕様の速乾性インナーを重ね着させていた。が、やはり、発熱を伴う病人には装備が太刀打ち出来なかったようだ。解熱剤の効果が切れてまた発熱し、それに伴う発汗量がインナーの仕様を上回ったのだろう。

 腕時計を確かめると、既に朝の九時を回っている。往路の積雪量なら、とっくに踏破を見込んでいた時刻だ。予想を覆す復路道中の積雪に伴い、どうしても歩速が低下せざるを得なかった事が全ての原因だった。

「あなたを、巻き込、んで——」

 ——クソ!

 危機管理の匙加減を誤った。全ては寒波レベルの目算を間違えたせいだ。想定外とは情けないが、つまり自然が軽々と人間の浅慮を超えて行った、と言う事だった。想定外を考慮し、出発前にもう少し時間を割いて装備の充実を図るべきだったのだ。つい真琴の容体が気になり、気持ちが突っ走って装備品の収集にかける時間を惜しんだ結果が現状に繋がって

 ——しまった。

 やってはいけない場面での、失態。

「最期に、答、え——」

 真琴は、透き通る程の美しさを湛えた穏やか顔のまま、動かなくなった。

「真琴さん! 真琴さん!?」

 片膝立ちした具衛が、今にも脱力しそうで頼りない真琴の頭を片手で抱き抱えながら、余った片手をその背中に回して摩りつつも身体を揺する。

「もう一踏ん張りですから! しっかり!」

 それでも反応が返って来ず、慌てた具衛はすぐに両手で背中を摩り始めた。すると、すっかり力を失った真琴のその首が、なす術もなくがっくりと後ろに落ちる。文字通りの氷肌の如き美顔が、具衛の目の前で無造作に天を仰いだ。

「真琴さん? 真琴さん!?」

 具衛の顔全体が、小刻みに震え始める。

「真琴——!」

「うわっ!」

 激しく跳ね起きた具衛が驚いた顔で周囲を見渡すと、吹雪は止んでいた。それどころか、雪すらない。状況が飲み込めず目を瞬いていると、傍の椅子に座った真純が及び腰で具衛を見ているではないか。

「具衛さん——分かる?」

 白を基調とした清潔感のある二〇畳程度の部屋の、

「ベッド、の上?」

 の、ようだった。

 いつの間にやら、薄い青色のパジャマのような物を着ているそれは、病院の患者衣らしい。

「覚えてないの?」

 真純も、いつの間にか軽装になっていた。少しの間、記憶を探るが、

 ——全く、

 思い出せない。

 傍にある窓から外を見ると、七、八階程度の高さから見る市街地の景色は、雪に覆われており真っ白だ。積もりそうな雪ではないが、やはり雪がちらついている。状況がある程度進んでいる事は何故かすぐに分かった。が、復路の山道で転倒した後の事が思い出せない。

「真琴さんは!? お母様は無事なんですか!?」

 瞬間で顔を険しくした具衛が、遠慮なく真純の両肩にしがみついた。

「うわわわ!」

 慌てた真純が、更に及び腰になる。

「真純さん! 真琴さんは!?」

 形振り構わず真純に追いすがる具衛がベッドから落ちそうになるのを、どうにか押し返した真純がベッドに戻した。

「ちょ、ちょっと! 落ちる! 落ちるよ!」

 呆気なく押し返された具衛が縮こまって身体を固くし、うなだれながら目を閉じる。片手で両こめかみを挟み脳裏の記憶を探るが、やはり思い出せなかった。

「だ、大丈夫。助かったよ」

 一息ついた真純が分かりやすくも端的に答えると、

「そ、そうでしたか」

 そこで具衛は、盛大に溜息を一つ吐いて落ち着きを取り戻した。そのままベッドの後に脱力し、その調度品で頭を打つと、普通に頭を打った程度の痛みが普通に頭に伝わって来る。

「痛たたた」

「具衛さんも、その様子だと大丈夫そうだね」

 良かったよ、と安心した真純が語った救助の経緯は、具衛にとって殆ど初耳の事ばかりだった。

 真純が待機していた所、これはつまり、具衛が真琴の愛車で山道を突っ込めるだけ突っ込んで乗り捨てた前線基地だったのだが、そこから具衛が転倒して、スマートフォンが電池切れになった現場までは、一km程度の距離を残すのみだったらしかった。具衛のスマートフォンのデータが取れなくなった真純は、その少し前に前線基地に到着していた医師以下、高坂総合病院の救急スタッフ一同と共に、意を決して猛吹雪の中をラッセルで迎えに行く事にした。のだったが、迎えに行くまでもなくその約一〇分後には、鬼気迫った具衛の方が凄まじい勢いで、残り行程の三分の二以上を踏破して来て合流したそうだ。素人とは言え、数人がかりでラッセルするような積雪にして猛吹雪の中を、である。一見して、荒れ狂うかのように猛々しくも突き進んで来た具衛に、その場の者は目をひん剥く程驚いたと言う。

「ホントに覚えてないの?」

「——ええ」

 言われてみればあの後、一念発起して下山を再開した事は、何となく既視感的に思い出したものだが、それでも合流時は全く思い出せない。

「呼び止めても歩き続けてたから、止めるのに一苦労だったんだよ」

 追っつけで自治体の救急車も一台駆けつけており、その全員で取り押さえないとどうしようにもなかったそうだ。挙げ句の果てには、

「鎮静剤を打つ始末でさ」

 で、今の今までよく寝ていた、と言う事らしい。

「今は?」

「日曜日の昼過ぎ」

 丸一昼夜、寝ていたようだった。

 ち、鎮静剤——。

 それが使用される状況を、見守る側の人間としての経験は有していた具衛ではある。それは戦地であり、警察署内であり、ちょっとした修羅場だったものだ。何らかの事情や原因で覚醒状態に陥った人間は、そうでもしないと止められない。

 それを、俺が——?

 そこまで荒ぶるなど、覚えがなかった。その出自故、人生の早い段階から観念的に生きて来た具衛である。

「具衛さんが目を覚ましたら、先生を呼ぶよう言われてるんだ」

 席を外すそうとした真純の腕を、具衛が慌てて取った。今は自分の事よりも、真琴の事が何よりも気になる。

「真琴さんの具合はどうなんですか!?」

「だから、大丈夫だって」

 肺炎になりかかっていたようだが、結局発症しなかったらしい。インフルエンザも喉も迅速な処方が功を奏し、回復傾向なのだそうだ。

「とは言っても、」

 やはり重症肺炎に陥る寸前程度には衰弱しており、一応ICUにいるらしかった。

 救急車と合流後、二人はそのまま高坂総合病院まで搬送された。朝を迎えた都市部の交通網は、一応走れる程度には回復していたようで、搬送には具衛が爆走した往路程の時間はかからなかったらしい。が、それでも、

「普段の倍はかかったらしいよ」

 とは、都市部の雪害の怖さである。

 具衛の奮戦は言うまでもないが、その状況に合わせて、医師が救急車で前線基地までやって来た事は大きかった。結局のところ、具衛と医師のその連携が適切な処置の開始を早め、真琴の病状の深刻化を食い止めたのだった。

「母さんは、昨日の夕方には割とけろっとしてたんだけどね」

 とは言え真琴は、搬送時は殆ど昏睡状態で、有無を言わさずICUに担ぎ込まれたらしい。

「そうなんですか?」

 諸々の症状に加え、最終的にはやはり低体温症が少し足を引っ張ったようだった。

「まあ、それでも。若かりし頃は、相当鍛えてたようだし。ある程度、基礎体力の貯蓄が物を言ったようだよ」

 で、今は落ち着いている、と言う。

「そうでしたかぁ——」

 具衛はようやく合点がついたように、また大きく溜息を吐いた。

「インフルエンザの回復が顕著なら、明日にでも一般病棟に移るそうだよ」

「——良かったです」

 無意識とは言え、救助を完遂出来た事は何よりだった。転倒した時は正直、

 ダメだと思った——

 限界に来ていた筈なのだが。何がそうさせたのか、よく思い出せない。

「心配してたよ?」

「はい?」

「具衛さんの事。意識が戻らないって言ったら」

「そう、ですか」

 とは言え具衛は、救急車内の診断であっさり過労と診断されたため、そのまま一般病棟だったらしい。

「まぁ、救助の際のまさかの大捕物で、鎮静剤打ったせいだって説明したら笑ってたけど」

「お、大捕物?」

「取り押さえようとした人間を、まとめて何人か投げ飛ばしたんだよ? 覚えてないの?」

「——全く」

 結局、リミッターを振り切った無茶をした、と言う事らしい。寝不足と過労に加えて鎮静剤を打ったため、その反動で爆睡していたようだった。

「あちゃぁ——」

 具衛は堪らず片手で額を打ち、顔を顰めた。

「まぁ、その分だと心配ないね。簡単な検査はあるだろうけど」

 ここまで説明すると、

「納得したようだし、先生呼んで来るよ」

 真純はようやく解放された、と言わんばかりに立ち上がる。

「——あ」

 かと思うと具衛ににじり寄り、只ならぬ事を小声で囁いたものだった。

「お腹の赤ちゃんも、多分大丈夫だろうって」

 訳知り顔でウインクする真純に、具衛は絶句し言葉が出ない。

「ホント、具衛さんには感謝に尽きないよ。僕は今日はこれで帰るけど、改めてお礼させてもらうから」

 覚悟しといてよね、と捨て置くように言って広い部屋の端にある扉を開けると、真純は嬉しそうに手を振りながら部屋を出て行った。

 感謝だとかお礼だとか覚悟だとか、

「なんだそりゃ——」

 呆気に取られる具衛は、重大事に思い至った。真純が知っているのであれば、高坂宗家の主要人物は知っている、と言う事だ。

「ま、まずい——」

 あのご両親に、何と顔向けをしたものか。

 具衛は広い個室で一人、顔を青くした。

 加えて、

「日曜の——昼!?」

 予定では、昨日の午後には帰広している筈で、その夕方には勤務先施設で宿直業務に就いている筈だったのだ。慌ててスマートフォンを探すと、いつの間にやら、頭の後ろに充電済みの状態で置かれている。表示を見ると、確かに日曜日だった。

「うわ」

 丸々一直、無断欠勤した事になる。

 具衛は両手で頭を抱えてうなだれた。


 しばらくすると、真純と入れ替わりで医師が入って来た。具衛に真琴の処方薬を手渡し、リモートで診断していたあの男性医師だ。具衛より一回り程度年長の、細面ながら何処か武骨な壮健さで、かつ豪放気なその医師は

「お具合は如何ですか?」

 などと口にしながら、人懐こそうな笑みでニコニコと、それでも如才なく診察に入る。少し簡単に診られたが、

「流石に頑健でいらっしゃいますなぁ」

 のんびりと感心して、あっさり翌朝の退院を命じられた。寝ている間に検査は済ませたそうで、ちょっとした擦り傷以外に異常は見られなかったらしい。

「あ、あと右足首に軽い捻挫、ですな」

「はぁ」

 転倒した時に捻ったせいだろうが、こちらが申告していない捻挫を中々どうして良く分かるものだ。内心感心していると、

「婚約者の方の容体も——」

 と言われ、思わずむせかえった。

「婚約者?」

「そう伺ってますが?」

 真純さんから、と言う医師に

 余計な事を——

 具衛は密かに歯噛みする。

 真琴の方も、総じて後遺症めいたものも心配されず、予後も順調らしい。

「母胎のお子さんの事もありますので、産婦人科と連携しながらですが、」

 一週間で退院見込み、との事だった。「お子」と言われると、より強くそのイメージが押し寄せて来る。

 俺が、子供を——。

 今は、それはともかく、

「そうですか」

 真純に聞いて一安心してはいたが、やはり医師に聞くと、より安堵するものだ。そこは職業柄の説得力なのだろう、とまた感心したが、後は散々だった。

 リモート中に「周囲を憚らず口移しなど中々出来ない」だとか、「着衣のセレクトは中々見事なもので感心したが、着替えが大変だったろう」だとか、「長年救急やってて患者に投げ飛ばされたのは初めてだ」とか。

 ずけずけと——

 痛いところを突かれたもので、今更ながらに、宿ではリモート中だった事を思い知らされる。他意はないようだが、

「流石に特殊部隊上がりの方は、違いますなぁ——」

 などと、おそらく真純から吹き込まれたのだろう情報をネタに延々喋られると、

「インフルエンザ患者の口をあれだけ吸ってもうつらない」

 止めを刺され、更にむせ返った。

「いやいや、結構結構——」

 ぐいぐい無遠慮に食い込まれ、その無遠慮に呆れた具衛は、両目に片手を宛てがい天井を仰ぐ。その無遠慮な声は、最低限の一線は守るようでとりあえず敬語なのだが、音色はまさにがなり系で、人を食ったような趣きは

 ——滝川さんの親戚かよ?

 具衛が知る警視庁の骨太刑事のそれを彷彿とさせたものだった。

 大体が、口移しを仄めかしたのはこの医師だったのだ。真琴の喉は殆ど閉塞寸前で、切開する術がないのなら

「口移しでも何でも、無理矢理にでも薬を捩じ込むしかない」

 と言う医師の指示に過ぎなかったそれは、その時点で真琴の命を最も追い込んでいた症状だった。咽頭蓋炎はまさに危機一髪だったのである。宿で具衛が「口移し」を躊躇していたら。更にはその薬が効かなかったなら。真琴は宿の時点で間違いなく窒息していたのだ。それを如何にも、色沙汰めいた言い方で冷やかすなど大概である。

 何処にでも、

 ——いるなぁ、こんな人。

 などとたじろいでいる具衛に、その骨太医師は最後の最後で、更にとんでもない止めを刺した。

「後で、会長ご夫妻がお見えになりたいそうです」

「ええっ!?」

 またもや絶句の具衛である。

「もっとも予後がよろしければと言う事で、今は私が預からせて頂いておりますが——どうされますか?」

 などと言ってはいるが、

 よくもまあ、抜け抜けと——

 翌朝には退院を命じられた、予後に何ら心配がない身なのだ。会わない口実を探す方が難しい。医師は、この土壇場の一連の目撃者であり、

 ——楽しそうだなぁ、この人。

 具衛が苦虫を潰していると、それが伝わったようだった。

「ご心配には及びません。大変感謝しておられます。お嬢様の予後の良さは、紛れもなくあなたのご活躍があってこそですから」

 まあそこは少し盛っておきましたから、などとけたけた笑われたものだ。

 それはともかく、事実として件の温泉宿周辺は更なる豪雪に見舞われ、未だに孤立状態らしかった。積雪は今や屋根の軒下に迫り、山道は除雪すら出来ない有様だと言う。車が通れるレベルまで雪が引くには、どんなに早くとも一週間から二週間単位で物を言わなければならず、救援物資を輸送しようにも手立てがない、とか何とか。

 とは、一連の具衛の決死行は常に尻に火がつきっ放しだった、と言う事の裏打ちでもあった。例えば、宿へ向かう手段にもたついていたら。或いは、宿からの出発を躊躇していたら。どちらにしても手間取った分だけ積雪が嵩み、真琴は宿から脱出出来なかっただろう。それは危急の状態にありながら、医療過疎地で自らの自然治癒能力に命運をかけざるを得ない事態に陥る事を意味していた、と言う訳だ。

「宿に取り残されていたならば、本当のところ、どうなっていたか分かりません」

 インフルエンザは薬で抑える事が出来ても、肺炎はどうなっていたか分からない。咽頭蓋炎に至っては、常に窒息の危機に瀕していたのだ。そうなれば母体はおろか、少なからず胎児にも悪い影響をもたらした事は

「まぁ、間違いなかったでしょうな」

 と、医師は言い切った。

「あれ程の大雪の猛吹雪の中を、その細い身体で人一人背負ってよく歩けたもんです」

 我々など、数人がかりでほんの数百m歩くのが精一杯だった、とは医師の謙遜ではないだろう。素人ならば、数分で遭難するような状況下だったのだ。

「あなたはそれを、一人で歩き通した訳ですから」

 その事実は何であろうと不動だ。その一事に関しては大功の一言に尽きるのだ。と、持ち上げておいて、例え他のファクターが後で物議を醸そうが、

「頼られて役目を果たした分だけ大物振っておくものですよ」

 などと見え透いた口振りで好奇の目を湛えて薄く笑う医師は、真純をネタ元に明らかに具衛の微妙な立ち位置を理解した上での確信犯である。

「腹が減ったでしょう?」

 院内食を持って来させる、と、とりあえず好奇心を満たしたらしい医師は、言う事を言うとさっさと部屋を出て行った。

 面会の認否は、結局どちらも口にしなかったが、流れとしては間違いなく襲撃される方向である。と、言っても昼飯時だ。とりあえず、

 飯でも喰わせてもらって——

 一息つく事にした。

 その前に、一二なく早速武智へ連絡を入れる。それこそ昼時だが、無断欠勤しているのだ。どの面下げて、ではないが、とりあえずスマートフォンの電話帳を開き、武智をコールする。電話向こうの人物が出て、いの一番に謝罪をしようとしたところ、

「おー、大変だったのう」

 などと、鷹揚な声が聞こえて来た。

 具衛が訝しむと、

「高坂の大奥様自ら、連絡をくださっての」

 美也子により、事情は承知しているらしい。

「そう、でしたか」

 随分と手回しが良い、と思っていると、武智はそれを上回る事を口にしたものだ。

「その大奥様立ってのご依頼で、お前は昨日つけで首になった」

「——は?」

 何の悪戯かそれは、などと瞬時に頭に血を上らせ始めると、

「まあ、詳しい事は高坂様か大奥様に聞け」

 わしはちょっと忙しい、などと武智はさっさと畳んでしまったものだった。

 ——な、

 何だそれは。

 一方的に切られた電話の向こうから聞こえて来るのは、只々、話中音である。首になった、と言う事は、

 無職か——。

 契約満了を果たせなかった、と言う事だった。それは如何にも、

 ——情けない。

 いくら自由の身になったとは言え、契約事に疎漏を来たすなど、これまでの具衛の人生においては、中々有り得ない体たらく振りである。と、言う事は、

 山小屋も出て行かないと——

 などと、思い始めた。

 元はと言えば昨春の時点で、ほんの少しだけ残ってしまった父の負債を完済するために、武智から融通して貰った仕事であり、住居である。負債も完済し職も失えば、引き続き住み続ける事の大義を失う。

 ——残念。

 近々真琴がサカマテに復帰する見込みであり、また以前のように山小屋に真琴が立ち寄る事も合わせて復活するのか、などとぼんやりとした青写真を描いていただけに、ショックは大きい。特に春から初夏にかけての景色などは、人嫌いの具衛が人に勧めたくなる程だったのだ。

 桜から新緑へかけての麗かな日々。日差しも風も穏やかで心地良い山間の秘境は、まるでここが故郷だと錯覚するような懐かしさを感じたものだ。昨春などはそれを一人で堪能しては

 何だ、何もいらんな。

 それまでの激務から一変した開放感に、山小屋の縁側でぼんやり本を読んだり、惰眠を貪っては最良の平穏を満喫したものだった。

 が、今となっては、その平穏も何処か寂しい。真琴を知ってしまってからと言うもの、その一欠片が埋まっていなくては、最良など有り得なくなってしまった。

 その女に、

 求婚された——

 のだ。

 宿を出発する直前に、追い詰められた真琴が口走った一言に、まだ答えていない事を思い出す。もっともあの場で答えるつもりなど、それをせがまれた瞬間から考えもしなかった。生命に危機が及んでいる遭難者は、余程安全安心が確保された状況下でない限り、救助が完遂されるまでは決して安心させてはならない。気が緩むと、身体が脱力するのだ。一度緩むと、只でさえ擦り減っている状況に加えて切羽詰まっている。普通、取り戻す事は難しい。となると、むざむざ目の前で絶命を目の当たりにする結果を招く。

 だから、例えすぐに答えをくれてやりたくとも、励まし続ける一方で安心させない。その意義と重要性に託けて、その場では答えを保留していたのだが、結局のところ逃げだった。

 嬉しくない訳がない。あれ程の美女にして聡明で財力も申し分ない、と来ている。世間の男が聞けば、怨嗟の的だ。要するに、

 ——自信がない。

 と言う事だった。

 一歩引いて考えれば考える程、二人の環境は有り得ない程に違う。この先の将来を確約されている真琴に対し、具衛などは明日の着る物、喰らう物、住む所を心配しなくてはならない。そんな有様の二人である。冗談抜きで、先刻首になってしまった、と言うおまけつきなのだ。こんな状況で、どうやってあの女傑を娶れと言うのか。自分の何処をとれば、あの女傑が欲するものを持っていると言うのか。

 さっぱり——

 理解出来ない。唯一考え得る、と言えば、

 ひも——か。

 としか、自分の価値など見出せなかった。が、それは流石に

 あ、有り得ん。

 どんな苦境も、曲がりなりにも自分の足で歩いて来た人生である。負債に追われ続けた男は、特に他人の施しには敏感だった。それは貧者のつまらない意地や見栄、と言ってしまえばそれまでなのだが、その節度をはみ出す事を、実は大それた行動力を持つ一方で普段は小物と言う、このチグハグな男は最も恐れた。お互いの尊厳を重んじる関係でない限り、所帯など構えられない。それは相当早い段階で、父母と言う身近な反面教師から得た教訓でもあった。

 が、あの女傑と

 ——対等?

 それを望む事自体に、今の自分の立ち位置では相当な無理がある。

 そもそもが何だってこんな

 ——デカい一人部屋に?

 然も特別室めいた個室に押し込められているのか。立って半畳寝て一畳で、それなりに満足出来る人生を生きて来たと言うのに、今この状況そのものこそ、まさに分不相応にも程があると言うものだった。一角にはちょっとした応接セットまであるではないか。どんな階層の人種が使う部屋なのか、それで分かろうものだ。

 これこそ有り得ん——。

 一体一泊いくら取られるか分かったものではない。今更ながらに不安になって来ると、昼食が届いた時にでも

 さっさと退院させて貰おう——

 と、身の回りの物を確かめ始めた。

 ベッドから降りてみると、医師の言う通り右足首に少し痛みが残っており、しかも固い。ズボンの裾を上げてみると、包帯が巻かれ湿布が貼られているではないか。合わせて膝や股関節も、何も施されてはないものの、何処となく力が入らず頼りなかった。どうやら相当無理をしたらしい事を思い出すと同時に、年齢を痛感させられる。何せもう、四〇前のオジンなのだ。

 あの美貌なら、どんな燕でも

 寄って来るだろうに——。

 何でよりによって、このなけなしのオジンなんぞに求婚したものか。思えば思うほど謎は深まるばかりだ。

 謎と言えば、合わせて部屋の何処を探してみても、スマートフォンと財布以外、所持品が消え失せている。つまりは、着替えを入れていたいつものリュックがないのだが。何処にいったものか。

「うーん」

 思わず片手で頭を掻きむしっていると、部屋をノックする音が聞こえた。昼飯が届いたらしい。

「どうぞ」

 が、その返事と共に入って来たのは由美子である。

「ご無沙汰致しております」

 相変わらずの折り目正しさで深々と立位の最敬礼で傾首するその淑女を見るのは、正月明けの武智邸で、涙ながらに真琴の窮状を訴えられた時以来だ。

「こ、こちらこ——」

 真琴を助けた事よりも、身籠らせた後ろめたさが断然優っている具衛である。また何を言い出されたものか分からず、途端に緊張感をみなぎらせては、由美子に合わせてよそよそしくも姿勢を整え返礼していると、

「——そ?」

 続けて後から入って来た二人の老夫婦の姿に絶句し、その場で立ち尽くした。

「もうお加減はよろしいようですな」

 高坂次任と、

「流石に頑健でいらっしゃいますこと」

 高坂美也子その人である。

 その不意打ちの来訪に只々驚く中で、とりあえずその顔色にどうやら険は見えない。この二人からすれば具衛などは、恩による合縁と言うより因縁による奇縁とした忌々しさだろう。何とか相反する要因で相殺出来ないか、などと思案を巡らせるが、それは普通相手がいない時に落ち着いて考える事であり、

「あ——」

 いきなりの俎上で情けないばかりに目が泳ぎ、言葉が出なかった。戦々恐々とはこの事と言わんばかりに立ち尽くす具衛を尻目に、続けて二、三人の小間使いの者が入って来る。瞬く間に、一角の応接セットに三人前の重箱とお茶を用意したかと思うと、微かに衣擦れの音を残して静々と部屋を出て行った。

「お昼はまだと聞きました。よろしければご一緒させて頂きたいのですが?」

「合わせて、積もるお話もしとうございますし」

「いや、しかし——」

 本当に困ったと言わんばかりの顔を憚らない具衛は、如何にも腰砕けの小物感満点である。

「よもやお忘れとは言わせませんよ?——武智中尉殿」

 が、美也子のその一言は、まるで何かの暗示のように、具衛のスイッチを入れた。

「まさか——」

 急に姿勢が改まり体幹が据わり始めた具衛に、美也子が目を細める。

「私のような者を、覚えておいでとは——」

 勝手に名乗った「アノニマ」とは言え、武智の名跡を出されてはいい加減な事は出来ない具衛である。実のところ、厳しい軍務の土壇場で観念的な具衛を支え続けたのは、恩人にして文字通り本家本元の主のその名を汚してはならない、と言う意地と見栄でしかなかったのだ。

 それが未だに身体に染みついている。条件反射のように顔つきが引き締まる具衛が、何やら泰然と熟れて来ると、

「逆にあなた程思い出深い方は、他にいませんでしたよ?」

 それに対して嘯いてみせた美也子が、小さく目配せして次任を促した。

「うん——」

 小さく一度頷いた次任は、瞬きの度に少しずつ顔を綻ばせる。

「不破様——どうぞお掛けくださいまし」

 まだ室内で控えていた由美子が、応接の椅子を引きながらも、固まりかけた場を動かすと、

「立ち話も、何ですな」

「そうそう。お加減が宜しければ、お掛け頂ければ嬉しいのですが」

「——では、ご一緒させて頂きます」

 三人は銘々口を開きつつ、テーブルを囲み座り始めた。


「あれから二〇年と少しですが、お元気そうで何よりです」

「そんな事まで——恐縮です」

 高校三年の一学期に天涯孤独となった具衛は、武智が送り込んで来た弁護士の山下と知り合った事で、早速後の展望を見据え、なけなしの金を元手に渡仏した事は既に書いた。

 が、渡仏後から仏軍入隊の間には、ちょっとしたエピソードがある。貧困層で世の歪みを同年代より多く見て成長して来たとは言え、治安の良い日本で暮らして来た事の弊害は大きく、いきなりの渡仏は、未成年の具衛にはやはり少し冒険が過ぎた。そんな世間知らずの日本人の若者は、到着したばかりのパリでいきなり身包み剥がされる、と言う強盗被害に遭い、パリの警察署に保護されたのだ。なけなしの全財産を失った後、泣きっ面に蜂の具衛を引き取ったのが、在仏日本大使館の職員だった。

 大使館としては、年端も行かないこの如何にも危うそうな軟弱者など後難の憂い以外の何物でもなく、さっさと帰国させる手筈を整えていたようだ。それをすんでのところで止めたのが、当時駐仏大使の美也子だったのである。強盗被害の折の負傷で、あざまみれの腫れぼったい顔をした当時の子供染みた具衛が、

「外人部隊に入る」

 と言って笑わない者がない中で、美也子が出した条件はユニークだった。

「毎月一通、私宛に必ず手紙を寄越しなさい」

 その温情に答えた具衛は、ものの二、三年のうちに目紛しい成長を遂げると、今度は美也子の方が具衛を頼る事になった。当時仏大統領だったアルベール遭難事件の発生に伴う決死隊への志願依頼である。日本人隊員の決死隊参加が日仏の有効な外交カードとなり得ると判断した美也子は、当時既に山岳兵としてスペシャリストの尊称を手にしていた具衛を動かした。具衛の決死隊参加を決定づけたのは、他ならぬ美也子だったのである。

 当時まだ在隊五年未満のアノニマ隊員だった具衛は、本来であれば外人部隊の「厳格なアノニマ」の原則に則り、外部との接触を断たねばならない身だったのであるが、そこは上手くやっていたものだった。実は実家の負債返済絡みで、武智の顧問弁護士たる山下とも定期的な連絡を怠らなかった具衛である。

 以後、美也子が国連軍縮大使に就任した事を契機にその文通は終わったのだったが、それでも実に五年、

「やり取りした殿方です。忘れる訳がありません」

 美也子は、実の夫の前で抜け抜けと言ったものだった。

「そんな、大使——」

「気にしないで頂きたい」

 美也子は今でこそ流石に年齢には抗えず高齢女性を呈してはいるが、それでも実年齢よりも一回りは若く見える見事な淑女振りである。その二〇年前ともなれば、美貌の女性大使として仏国でも俄かにちやほやされた存在だった。そこはやはり、真琴の母である。それを思い出し、憚る具衛の前で次任は気にも留めずに言った。

「逆に何故文通をやめたのか、そちらの方が気になる」

 具衛の記憶を遡れば、確か美也子は駐仏、軍縮両大使の任期中は、単身赴任だった筈である。妙な事でも言われると、妙な事になりかねない。が、美也子は、

「つい、頼り過ぎてしまう事を恐れたのよ」

 フィクサーらしからぬ情を滲ませ言ったものだった。

「今回が良い例です。知っていると、何度も何度も頼ってしまうでしょう?」

 世の中、ギブアンドテークが原則だと言うのに、

「あなたは相変わらず欲がなくて」

 困ったものです、と美也子は口を濁した。

 実は、仏軍の次に日本警察の特殊部隊アドバイザーに就任したのも、他ならぬ美也子の依頼が発端だった。仏軍の契約を五年延長し、その二期目の契約満了が近づいたある日。再延長するか否か判断する前に、明日の見通しすら不安定だった具衛は、とりあえず元気なうちに、渡仏後の心的支援に謝意を述べるべく美也子を訪ねた事があった。訪ねた先は、ジュネーブに構える国連軍縮会議の日本政府代表部である。当時、そこの大使だった美也子に、アポ無しで訪ねる事など有り得ないにも程がある事に加えて、何かの合間を縫うようにバタバタと訪ねた具衛を、美也子は追い返すどころかやはり歓待したものだ。

 日本警察の特殊部隊の実情を聞かされたのはその席での事だった。実戦が余りに少なく、訓練ですら実弾を撃つ事すらままならない隊員を「鍛え直しては貰えないか」と言う美也子の憂いに答える格好で採用された後の顛末は、既に書いている通りだ。

 因みに何の因果か、具衛も美也子も任期を残り少なくしていたこの頃、真琴はパリにあるフェレール財団のシンクタンク「フェレール平和基金」にいたりする。日本に失望し、傷心の真琴が大成する足掛かりとなった場所だ。その真琴が真純を伴い、具衛と美也子がこの時顔を合わせた国連ジュネーブ事務局へ後を追うかのようにやって来るのは、その二年後の事である。新進気鋭の国際関係学研究者として名を上げ始めた真琴が、国連傘下のシンクタンク「国連軍縮研究所」へ赴任するのを、当時の美也子は予見していたかも知れないが、具衛は当然知る由もなかった訳だ。

 似たような所で似たような事をする母娘は、今思えばやはり母娘としたものだった。人生一〇〇年時代にして、まるで社会的階層が異なる具衛と真琴にとっては、二年の誤差はニアミスと言えばニアミスかも知れない。そんな二人が出会うのは、そこから更に約八年を要する。この八年がなければ、間違いなくこんな展開にはならなかっただろう事を思うと、つくづく人生の不思議に感じ入る具衛だった。

 そんな邂逅を懐かしむ具衛の前で、

「頼ってばかりで、本当にあなたには頭が上がりません」

 美也子が深々と頭を下げると、次任も黙って続く。

「いや、そのような——」

 具衛も慌ててチャンネルを戻すと、深々と頭を下げた。何せ、大切な愛娘を孕ませているのだ。いつスイッチが入って雷が落ちるものやら分かったものではない。真純の拉致事件にせよ、真琴の救出にせよ、そんなものはたまたまが重なって具衛に白羽の矢が立ち、たまたま成功しただけの話である。具衛からしてみれば、感謝される事の

 意味が——

 分からない。功など、あってないようなものだった。

 それからしばらくは、ぽつぽつ世間話を交わした事ぐらいしか覚えていない。三人が三人とも、それぞれの思惑で身動きが取れない三つ巴のような状況になっているようだった。具衛の思惑と言えば真琴の妊娠しか頭になく、どう謝るか、いつ言い出すか。それだけである。

 こんな事なら、

 のっけに拝み倒しとけば——

 などと、今更後悔して止まない。しかし、こんな状況下でも、

 ——クソ。

 重箱が美味かった。腹が減るのは正常な証だ。おそらく高坂家お抱えの料理人によるものだろうそれは、箸を止めるタイミングを悩ませた。

 一方で次任と美也子の思惑など、具衛には分かる筈もない。日本経済を牽引している企業グループの創業宗家の人々の考えなど、庶民が逆立ちしたところで分かる訳が

 ——ない。

 と言えば聞こえとしては素直だが、結局のところ、何を言われて咎を追及されるか。その一事であった。それには真琴の妊娠以外にも、国産戦闘機の件もそうであるし、フェレールとの業務提携の事もあるし、裏で暗躍するような人間でもないくせしてとにかく、

 首を突っ込み過ぎ——

 たのだ。如何にも、世相を毛嫌いする自分らしくない。それどころか、見事に逆を行ってしまっているではないか。

 いっその事「責任を取れ」と凄まれた方が気楽で、生殺しのような現況よりは良いと思い始めると、ベッドの枕元に置いていたスマートフォンが素気なく鳴り始めた。

「申し訳ありません」

 慌てて席を外した具衛が着信を確かめるが、知らない登録外の番号だ。とりあえず応答せずに、バイブモードにして放置する。しつこかったが、しばらくすると切れた。

「出なくてもよろしくて?」

「ええ。登録外の番号からで。またかかって来るようなら——」

 などと説明している矢先、また着信する。ベッドの上で、鈍い連続した震音が三人の耳を突き始めると、

「ちょっとよろしいかしら?」

 その瞬間で、何事か思い当たったような美也子が、具衛にスマートフォンを見せるよう求めて来た。

「はい」

 それに従った具衛がそれを渡した途端、美也子は眉を寄せ表情を曇らせる。合わせて和装の内ポケットから自らのスマートフォンを取り出して何かを表示させると、二人のスマートフォンを並べて具衛に見せた。

「高千穂です」

 一方の画面上には、着信中の電話番号が、もう一方のそれには、電話帳登録上の電話番号が表示されていたが、どちらも同じ番号である。

 つまり電話番号を、

 ——覚えてんのか?

 と、言う事らしかった。

 この時代にそれを記憶しているところなどは、流石の切れ具合である。それは良いとして、どうしたものか戸惑っていると、

「今更あの男が、あなたに何を言ったものか。少し興味が湧きますこと」

 美也子は応答する事を促した。合わせて次任も頷く。

 これはもしや——

 その様子に、夫妻の思惑を知るきっかけになる可能性を直感した具衛は、あえてスピーカーモードで受話してみた。

「もしもし、不破ですが?」

 わざと、名前を先にぶつける。

 間違い電話ならこれで振り落とせるし、故意なら故意で反応が試せる。

「俺が誰だか分かるか?」

 しかしてその声は高飛車で、何らかの意図を持って電話して来た事を確定させた。確かに聞き覚えのある、どすの利いたがなり声である。

「外務大臣の高千穂隆介さんですか?」

 何やらきな臭さを感じ始めた具衛は、高坂夫妻を前にぐいぐい絡み始めた。電話向こうの声が、素直に感心する。

「じゃあ、何で電話して来たか分かるか?」

「二日前の金曜日に、下手大臣に国家公安委員長室に呼び出され件ですか?——仲間になれって言われたんですが」

 具衛は、この際どんどん推定事実をぶつけた。それを相手が認めてしまえば、それはつまり何らかの罪が成立する状況となる。この際、この賊を葬る事が出来るネタを仕込めれば、と瞬時に考えた。そうすれば真琴や真純など、高坂の人々の苦しみが少しは軽くなるかも知れない。

「ふーん。流石に少しは察しがいいな。真琴をたらし込むだけの事はある」

 が、自分がネタで葬り去る、と言う事は、逆恨みを買う、と言う事だ。こう言う相手は、それを逆手に取って傍若無人となる事を、具衛は嫌と言う程仕事上で経験して来ている身である。

 随分と——

 舐められたものだ。それでも淡々と、あえて小物を装いながら話を引き出し始めた。

「もう寝たのか?」

 が、話が途端に性的に傾くと、内心ぎくりとした。

「確かに良い身体をしてるが、それ以上に声が良いだろう?」

 この下衆な男にしてみれば、話の切り口のつもりなのだろうが、一人でそれを言われる分には、意に介さないぐらいの図太さは持ち合わせている具衛だ。が、如何せん目の前にその両親がいるのだ。急転直下、顔色を変える老夫妻を目の前に、具衛は思わず固唾を飲んだ。それと同時に、高千穂の衰退振りの早さを感じ取る。

「ご用件は? 冷やかしだけなら切ります」

 このまま高千穂に暴言を吐かす事は、個人的には何ら苦にはならないが、老夫妻の反応は予見出来ない。見るからに苦虫を潰しており、やはり聞くに堪えないようだった。いくらいがみあっているとはいえ、実の娘の秘部を晒されるのだ。嬉しく思う親などいよう筈がない。それに対する同情と合わせて、無意識の内にその忌々しい声が聞こえて来る自分のスマートフォンを壊されかねない、と思った具衛は、話の先を促した。

「せっかちなところまで真琴に似て来たか?——まあいい」

 悔しくも、真琴の内外を少なからずこの下衆は知っている。それを聞かされる度胸は備わっているつもりだが、それを聞かされる両親の無念を思うと、不肖ながらに腹が煮えた。

「で、どうするんだ? 俺についてくれるんだろうな?——それともまさか、断わると言う選択肢が存在し得るのか?」

 その有無を言わさぬ物言いは、

 相当——

 追い詰められている事を裏づける。

 声色こそ優位性を醸し出してはいるが、水面下では溺れかかってもがいているイメージが具衛の脳に浮かんだ。下手が告げた回答期限は明日の夕方、の筈である。それを待ち切れず、その首魁がわざわざ、社会的地位の低い具衛のような小物を手に入れる事に躍起になっている。

 つまりはそれだけ、

 ——手が足りないらしい。

 その裏返しであった。

 その獲得工作が、安易な脅迫にすがらざるを得ない事に、高千穂一派の力の衰退と疎漏を垣間見ざるを得ない。首を切った元秘書が大それた跳ね返り方で捕まり、悪事はだだ漏れになりつつある。権力を握っている時は、その有無を言わさぬ絶対的な力でまかり通ったものだが、落ちぶれると転落は殊の外早い。あっと言う間に求心力を失い、文字通り丸裸にされてしまうと、後に残るのは見窄らしい浅ましさを纏った負け犬でしかなかった。

「断ったら、どうなりますか?」

 あえて受ける事の条件は聞かなかった。聞いたところで、どうせ方便だ。高千穂に残されているのは、精々はったりでしかない事が手に取るように分かった。使える手駒が、急速に手元から消えているのだろう。

「何分手駒が少なくなってな。出来れば有能な駒として雇いたいんだ。分かってくれんか?」

 高千穂は、電話向こうでそれをあっさり認めた。事実なのだろう。でなくては、高坂宗家の当主夫妻が、現に同席している状況下の具衛になど電話をかけてくる筈がない。何せ自分の野望のために、高坂グループを蝕んだ男である。特に美也子としては、忌々しい事この上ないだろう事は、鈍い具衛でも想像に易しかった。操っていた筈が、いつの間にか操られるどころか足元が蝕まれていたのだ。その怨念を思うと、他人事ながらに恐ろしい。

「それでも嫌だ、と言ったら?」

「その時はお前の周りの人間が、困った事になるだろうな」

「それは、どう言う意味で?」

「いくら弱ったとは言え、お前ら下々の人間の一人や二人、消す事ぐらい訳ないんだよ、俺は」

 そこまで話を引き出すと、具衛は何も答えず電話をぶつ切りにした。脅迫事実の担保はこれで充分である。合わせて即座に、てきぱきと着信拒否の設定をした。

「お耳に障るような話をお聞かせしてしまい、申し訳ございませんでした」

 着座のまま深々と頭を下げると

「それは構いませんが——」

「録音済みです」

 美也子の意を察した具衛が、頭を上げるなりその言を被せる。美也子は、小さく溜息してみせた。

「士別れて三日——」

 美也子はその後の句を省くと、

「あなたはもう、二〇年ですものね」

 目を細めたものだ。

「即ち更に刮目して相待すべし——」

 美也子の後の句を引き継いだ次任が語ったそれは「男子三日会わざれば刮目して見よ」と言う、中国の三国志が元となった慣用句だ。が、

「——で?」

 良識ある凡才の次任は、腹は太かったが、細かい事は苦手な御大尽だった。

「あなた様と来たら、もう——」

 それに美也子が呆れ、

「ついでと言っては何ですが、この鈍いお方に説明がてら、あなたの見解をお聞かせ願えませんこと?」

 具衛に説明を求める。

「——では、僭越ですが、」

 それを受けた具衛は、今後の展開の私見を語り始めた。

「あくまで推測の域を脱しませんが——」

 高坂グループの上層部によるインサイダー取引で、既に金融庁の証券取引等監視委員会が犯則調査を行っている展開に加えて、警察は警察で、高千穂の秘書による真純拉致事件を端緒に、その元親玉の黒い噂に漕ぎ着ける余罪を掘り下げている筈である。

 一方で検察は、証取委の告発待ちだが、水面下ではおそらく既に情報提供を受けて、高千穂を突き上げるネタを掘り下げている事も、まずまず固いだろう。

「そこへ、二日前の金曜日に、」

 現役国家公安委員長によって具衛がもたらされた、二件の脅迫事実を確定づける出来事が起きた。過去に担当した事件捜査時に受けた時効前の脅迫事実と、この度高千穂一派に入るよう脅迫された事実である。その録音データは検察修習中の真純に託しており、

「大掛かりな合同捜査が始まると思われます」

 と、言う事を匂わすには充分な状況だった。お互いネタを掴んでいるのであれば、権力の中枢に斬り込む検察の捜査力と、経験豊富な刑事達をそれなりに有する警察の組織力を生かさない手はない。検察は太い情報元を、警察は一派の一人を取り押さえているのだ。

 そして今日、たった今、

「高千穂本人の脅迫事実が取れました」

 時節は三月。通常国会開会中の現職国会議員、それも現役閣僚二人を逮捕する事が出来るネタである。検察も警察も、飛び勇んで喜ぶ垂涎もののネタである事は間違いなかった。

「でも、国会会期中じゃあ、内閣は渋るんじゃないかしら?」

 美也子の指摘はもっともである。

 現職閣僚のスキャンダルは、支持率に多大な影響を及ぼす重大事だ。もみ消されるか、逮捕自体を先延ばしにされるか、

「どちらかじゃありませんこと?」

 と言う見解はもっともだった。

 本来、国会会期中の現職国会議員の逮捕に関しては、所謂「不逮捕特権」が物の見事に当てはまる。現行犯を除くと、国会の議決なくして捜査機関は、会期中の議員を逮捕出来ないのだ。が、逆を言えば、議決さえ得る事が出来れば逮捕出来る訳だが、それはあくまでも建前上の筋道である。

 本音は、水面下での権力がダイレクトに物を言う。それが巨大与党に守られた議員ならば尚さらで、政府内や党内、更には派閥自体やその中での力の大きさが物を言う訳だ。大抵の場合その大きさは難儀なもので、それを相手取り逮捕に漕ぎ着けたいのであれば、それを覆すムーブメントは必須である。無理なら揉み潰されてあえなく終わりな訳で、そうなってしまうと捜査する側も公務員の事。即刻人事に影響が及び、最悪の場合、首が飛ぶ。議員も捜査員も共に国家権力を握る者同士。そのぶつかり合いは、まさに「やるかやられるか」の瀬戸際なのだ。

「それに関しては、今後真純さんと打ち合わせる予定です」

「あら、また何か策があるのですか?」

 美也子が悪戯っぽく笑むと、具衛は思わず縮こまった。国家の表裏でそれを駆使して来た豪腕を前に、

「策などと、言えるものではございませんが」

 それを口にする事がどれ程の事か。それでも具衛が語るのには訳があった。

「確かに、放っておいてもそのうち御用になる事は目に見えていますが、」

 そこまで待っていては、最も気になるのは、他ならぬ美也子の身の振り方だった。グループ上層部を巣食った元凶となった高千穂の、これ以上の傍若無人を、操られかけていた美也子が許す筈もなく、下手をすると

 ——直接手を下しかねん。

 加えて、刺し違える事すら有り得ると具衛は思っていた。

「武門の習いは、今日日見逃す事は出来ません」

 昔でさえ、ややもすれば喧嘩両成敗だ。両家の遺恨の大きさは計り知れない。そして美也子に限らず、高千穂の形振り構わぬもがきは、浅からぬ縁を持つ高坂と高千穂両家を延々苦しめる。更に言えば、その毒を過去に喰らった真琴や、その一子たる真純の苦悩を思うとやり切れなかった。

「首を突っ込んでしまった以上、黙って見ていられません」

「しかしあなたの被害が、その突破口になってしまうと——」

 おそらく生涯、高千穂の逆恨みを買う事になる、とは、美也子は流石にその辺りの機微には聡かった。傲慢な者は、万事他人のせいにしたがるものだ。特に、一見して貧相で何ら力を有しないような具衛に足元を掬われたとあっては、高千穂のプライドが許さないだろう。

「それで、大使と元総理の間柄も、辛うじて体裁が保たれると思いたいのです」

 つまり、高坂を発端として高千穂を切ったのではなく、あくまでも体裁としては、余罪捜査の果てに浮いて出た膿、と言う格好が、

「ご両家にとっては宜しいのではないかと。——いささか出過ぎた事を言いますが」

 と、言う事だ。

 美也子の力の所以は、この元首相によるところが大きいのである。これをいきなり断たれる事の危うさを、具衛は危ぶんだ。その良い例が、急降下する高千穂に他ならない。

「それは——確かにそうではありますが」

 美也子は、少し収まりがつかないようで、言葉を濁した。

 やはり——

 身から出た錆は、自分で始末をつけたいようだ。しかし自ら手を下してしまうと、苛烈極まった挙句美也子自身は愚か、その周囲が後に只ならぬ苦悩を抱え込むような気がしてならない。

 ——それは、いかん。

 そのための、国家機関である筈だ。

 自ら毒を吸い出しては、吸い出した者が毒に犯されてしまう。こんなどうしようにもない男のために自ら業を背負う事はない。少なからず、既にそうなってしまっている人々が存在するのだ。これ以上はプロに任せれば良い。

「出過ぎついでと言ってはなんですが——」

 具衛は畳みかけた。

「何でしょう?」

「風の噂で、これを最後にご勇退されると伺いました」

 あえて二人に向けて言う具衛に、老夫妻は小さく失笑する。

「我々はもう、充分に年をとりましたからな」

 それを次任が肯定して答えたところを見て、具衛はある思いを確信した。

「私はお二方から見れば、まだまだ年端も行かぬ青二才ですが——」

 改めて頭を下げると、

「だからこそ、浅い、青い、拙い視座だからこそ見えるものもあるとご容赦頂きまして、少しお耳を拝借させて頂きます」

 伏し目がちに、淡々と語り始める。

「——お二方と、お嬢様とのご関係の事です」

 すると、具衛がそれを口にした瞬間、夫妻の雰囲気が何処か一瞬、揺らいだように見えた。

 ——やっぱり。

 反応を示すと言う事は、関心があると言う事だ。それも敏感になる程に。そしてそれは、悪い感情である

 筈がない——

 と信じたい。

 一方で実娘の真琴は、こと親子関係に関してはすっかり冷静さを失っている。昨年末のあの夜、真琴に相談された時も、美也子の為人をそれなりの年月をかけて知っていた具衛には、俄かに信じられない思いだった。具衛の知る美也子は、確かに世間一般ではフィクサーとして恐れられた美也子だったが、その実、気働きの優れた人でもあった。しかしやはりそれは、外部から見た美也子でしかなく、家庭内での愛憎と言うか確執めいたものをネットなり真琴なりに見聞きした時には、そのギャップに少しばかり驚いたものだ。

 何が——そうさせるのか。

 これまでは理解出来なかったのだが、それも今対面してみて、何となく分かってしまった。

 具衛がそれなりの年月をかけて知った美也子とは、高校を中退後、生き死にをかけて渡った仏国の大使館で、その無謀さに失笑が絶えない中、只一人、年端も行かない貧相なその男の志を見抜き、当たり前の一人前扱いを憚らなかった人だ。その貧相な男の行く末を案じ、約五年間も文通をすると言う、酔狂な律儀さを持った人だ。

 そもそもが、いくら仏軍でアノニマによる偽名を使っていたとは言え、当時はパスポートの情報を知り得る立場だった人なのだ。その一風変わったファーストネームを、その才知が忘れる訳がない。何せ今の時代に、他人の携帯番号を一々記憶しているような几帳面さを持っている頭脳の持ち主だ。真琴が梅雨時に知り合った具衛の素性など、美也子の情報網からすれば、とっくの昔に知り得ていた筈だ。その上で昨年末まで黙認するなど、何故不自然と気づかなかったのか。

 世間が恐れるその辣腕が、高千穂の動きが怪しくなるのを見兼ねるや、実はそれを食い止めるよう、武智家に由美子を遣わせてけしかけさせたのではないか、とさえ、今更ながらに思えて来る。具衛は、元仏大統領遭難事件における救出の立役者であり、その口実を持ってすれば高千穂の悪巧みなど優に覆せる手駒を隠し持ちながら、その只ならぬ力の大きさに怯み持て余していたのだ。その具衛を見兼ね、由美子を遣わす事でけしかけたのではないか。

 その証左が、その後間もなく発生した真純拉致事件後の、迅速的確なグループ内調査と称した粛清劇だ。高千穂と接点を有していたとは言え、その元秘書の失態を察知するや否や、反乱分子を僅か半月の内に大量処分するなど常軌逸脱にも程がある。いくらなんでも、多少は下準備していなくては出来ない所業だ。大抵の企業であれば、処分の根拠は司直の決、またはその起訴など、捜査機関や司直の判断を拠り所とするものであり、何らかの段階の区切りを得た上で社内処分を科すのが一般的である。と、したものなのだが、それを鑑みると、そこにあえてすがらなくとも揺るぎないレベルで下調べがついていた、と考える事に無理はないだろう。

 真琴の窮地にも、企業立病院とは言え多忙を極める救急医と高規格救急車を動員させたのは、間違いなく他ならぬ美也子の指図だろう。またそれに伴い、具衛が仕事をすっぽ抜かした事にならないよう武智に手を回したのも美也子だ。御大尽ともなると、そうした細事は大抵執事などの従者に一任してもおかしくないものだが、あくまでも親としての筋を通そうとする機微が垣間見えるようであり、その在り方と美也子の雰囲気は、具衛の中では違和感を感じない。

 そして今日、スマートフォンのスピーカー越しに高千穂の下卑た声で語られる娘の恥辱に、瞬時で顔色を変えた美也子である。全ては決して思い過ごしではない、と思いたかった。

 要するに、距離の取り方が難しい家柄故の苦悩だったのだ。高貴な富豪の家柄故に、並々ならぬ系譜を紡いでいる武門故に、世間体の厳しさは言うまでもない。それに負けない強さを養うためあえて辛く当たるとは、獅子の千尋の谷の慣用句そのものである。厳しさ故の優しさとは、古今東西難しい。言葉では理解出来ても、感情としてそれを受け入れ、理解出来るようになるには長い年月を有する。それまでに親子関係が破綻するケースは、人文史を紐解けば腐る程あるだろう。大抵の人の親とは、その形や多少こそ様々なれど、我が子に愛情を有している筈なのだ。

「人間ならば、その善性を信じたいものです」

 とするならば、この豊かな知性を有する家の人々の事である。言葉さえ重ねていけば、その拗れた関係を修復出来ると思ったのだ。とどのつまりが、一見血が通わぬように見える厳しい親子関係も、平たく言ってしまえば、

「それもまた転じて、過保護に見えてしまうのです」

 何処にでもある、誤解が誤解を招いた故の悲しさなのだ。

 具衛の一人語りを黙って聞いていた夫妻は、しばらく身動ぎもしなかったが、どちらともなく溜息を吐いたり、目を動かしたりし始めると、

「まだ決めていなかった真純さんの事件のお礼の件ですが、」

 具衛は更に畳みかけた。

「今、決めました。無粋を承知で言わせて頂きますと、今回のお嬢様の件も合わせて一緒に頂きます」

 虚を突かれた夫妻が、

「まあ」

「ほう」

 などと素直な感嘆を漏らす中、

「他は何もいりませんが、この際ですから図々しくも、あえて高坂宗家のお家大事を解決した者として、その意を汲み取って頂きたく上申させて頂きます」

 具衛は抜け抜けと、言い募ってみせる。

「随分と仰々しい事」

「まあ、聞こうじゃないか」

 やはり少なからず気分を損ねていた美也子が声色に僻みを滲ませると、それをやんわりと次任が咎めた。

「お礼の筈なのに、意見なのですか?」

 その多少なりとも、捻くれた論い方が、

 ——母娘そっくりだ。

 とは口にしなかったが、具衛が口にした謝礼は、果たして夫妻を戸惑わせるのに充分な

「意見ではなく、決まり事です」

 だった。

「今日からお亡くなりになるその日まで、一日最低一回以上、お嬢様と会話をしてください」

「ええっ!?」

「ほう?」

 驚きと興味を示す夫妻に構わず、

「直接話しをする事が難しいようでしたらメールでも構いません。むしろ最初のうちは、声色が伝わらない分、その方が良いかも知れません」

 具衛は淡々と続ける。

「そんな——無理です。そんな事」

 それまでの苛烈な美也子を知る人々が今この有様を見たら、きっと噴き出した事だろう。その子供染みた戸惑いを隠そうとせず、困り果てたように眉根を寄せて首を何度も横に振る姿は、明らかに現代日本に君臨したフィクサーのそれではない。

「他の事になさい。——あ、してくださらないかしら」

 言葉にも明らかな動揺が出始めると、堪らず次任が噴き出した。

「いやぁ——見事見事!」

「何がおかしいんです!」

「これがおかしくないと言う人が、我々の知人の中にいるかね?」

 美也子が拗ねる中、次任はひとしきり笑うと

「中々どうして、策士ですなぁ。真琴や真純が一目置くだけの御仁であらせられる」

 素直に感心を示し始める。

「何かにつけて物や金の価値に偏った今日日の事。このような変わった要求をされた事は、いつ以来ですかなぁ」

 恐らくそれは、真琴が幼児の頃まで遡るのだ。他人に寄り添うための決まりや言葉は、挨拶、感謝、謝罪などに見られる社会に寄り添う道徳だ。そうした事の規範意識を、今でこそ頑固な老夫妻のこの二人といえども、若かりし頃は、それなりの愛情をもって幼児期の真琴に諭した筈なのだ。

 それを金目の謝礼の代わりに要求する事の価値が、具衛には手に取るように理解出来た。高坂宗家にしてみれば、金目の謝礼の方が楽だろう事を思うと、それは法外な要求とも言える。それはその事情に接する者でなくては思いつかない事であり、出来ない事でもあった。それを今この瞬間のみ、その事情に踏み込む事を許される立ち位置にいる具衛が、金と天秤にかけて躊躇なく踏み込んだ。それだけの事だ。具衛にしてみれば、只、真琴の人生の憂いを少しでも取っ払ってやりたい。それだけだった。

「そもそもがお礼であって、人の家に妙な呪いのような決まり事を作るなど——」

 美也子は尚もしばらく抵抗を示したものだったが、

「母さん、いや美也子さん」

 次任が名前を呼んで窘めると、美也子は目に見えて固まった。

「我々は、最初からやり直す機会を与えて貰ったんだよ。有り難く乗っからせて貰おうじゃないか」

 なぁ美也子さん、などと次任が重ねて言うと「何です思い出したように」などと、具衛の目の前で小競り合いを始める。それがこの二人では、特に美也子などは、有り得ない程に子供染みた駄々捏ねだった。この夫妻でさえこのような、

 可愛らしさがあったもんだな。

 思いがけないそのやり取りに、その娘たる真琴と同様の一面を垣間見た具衛は、やはり似た者同士の母娘である事を強く確信する。

 一方で、その微笑ましさに迂闊にも噴き出しそうになってしまい困った。堪り兼ねた具衛が、ごまかすための咳払いをすると、また思いがけず、目の前の二人の方が如何にもばつが悪そうに収まってしまう。自分の失笑をごまかすためのそれが、逆に更なる滑稽を呼び込んでしまい、

「ふっ」

 と、具衛の口が堪え切れず、小さな失笑を漏らした。

「あ、いや——」

 それにより美也子が僻む事を思うと肝を冷やしたが、美也子は美也子で、小さく悪態を吐いたものの、最後は何処か往生した様子を見せてくれたものだった。それがまた、世間向けの様子とは明らかに異なる可愛らしさであり、具衛はその素顔にまた母娘の血を確信する。

「必ず、守らせます」

 夫婦で小さくつんけんやり合った挙句、次任が代表してまとめた。

「因みに守らなかったら、どうなりますかな? 何か罰でも?」

 調子づいた次任が、何やら突っ込んだ事をつけ加えると、具衛はまた小さく失笑しながらも、

「いえ。只、守って頂ければ——とにかく声を届けて頂きたいのです」

 暗に真琴の心情を掻い摘み始める。

「最初はお互い戸惑うでしょう。喧嘩になるかも知れませんし、無視されるかも知れません」

 そう、最初は子供と同じだ。きっと通じない。そこまで拗れた関係だからなのではない。甘えを許さず、厳しさを求め、突き放したからこそ、そこから先の関係が構築されていないだけの事なのだ。

「それでも言葉にしないと、伝わらない思いと言うのが、人間社会には絶対にあると思うんです」

 分かりやすい外殻に決めつけられやすい目に見えない想いは、誤解が先行しやすいものだ。そこに隠された深い愛などは、例え子供でなくとも、言葉を紡いで伝えないと届きにくい。

「明確な言葉のコミュニケーションは人間の特権です。これを放棄するのは余りにも惜しい。しかも親子間でそれがなされないのは、余りにも悲しいものです」

 誰しも惑いやすいのに、表情も固く言葉も紡がないのでは、何が伝わると言うのか。負の感情以外の何がもたらされると言うのか。

「ですから、そのお二方の過保護とも言うべき深い想いを、思う存分言葉で伝えて頂きたいんです」

 日本人特有の慎ましさとでも言うべきか。高坂夫妻のような戦前後世代ともなると、愛情表現をためらいがちだ。安っぽく語れ、とまでは言わないが、それでも日本人は様々な関係性においてそれを伝える事を憚り、我慢し、ややもすると悪とさえ捉える向きがある。

「順番として、子に愛を伝えるのは、親の役目の筈です。あの年までその分かりにくい親の愛に気づかず、拗ねておいでです」

 正しく伝えて良い関係性において、それが伝えられないとは、悲劇と言わずして何であろうか。

「ですから、思う存分——」

 今となっては、これ程の大仕掛けでしか、愛を伝える術を持たなくなってしまった夫妻である。だから、

「この取り決めのせいにして——」

 精々盛大に伝えれば良いのだ。

「これまで伝える事が出来なかった分を——」

 熱苦しく伝えれば良いのだ。

「それは、ご両親の特権でもある筈です」

 親の正当な愛情を喜ばない子などいよう筈がない。正々堂々、精々親である事をひけらかして、散々にこれまで溜めに溜めた想いをぶつければ良いのだ。

「分かった。分かりました」

 具衛の物静かながらも、熱のこもった取り決めを理解した次任は、しっかりと受け止めた、と言わんばかりに深く頷いた。

「参りました」

 お噂はかねがね耳にしていたが、確かにこれは中々大した御仁だ、などと三味線を弾き始める。

「つきましては、順番が違うのは重々承知してはおるのですが——」

 何分、滞っていた期間が長い分「一筋縄では行かない事はご理解頂きたい」などと前置きした次任は、

「その愛情とやらを伴侶として、我が娘に伝えては貰えませんか」

 一足飛びに先走った事を言い始めた。

「い!? いや、それとこれは——」

「同じです!」

 腰が引けたと見るや、押し黙っていた美也子が逆襲を仕掛ける。

「あの跳ね返り娘が、随分とあなたに熱を上げているようです」

「しかも、少し先走っておられるご様子、でしたな?」

 次任も悪乗りし始めると、具衛は急に全身に冷や汗を覚え始めた。

「あえて責任云々は取り沙汰致しません。それはどうやら、真琴の方が望んだ結果のようですから」

 すっかり息を吹き返した美也子が、

「私共と致しましても、曲がりなりにもこれまであなたが熱弁された通りの愛娘です」

 常の落ち着きで迫り始めると、具衛が頭をテーブルに押しつけ

「申し訳ございません!」

 絶叫したのと、美也子の次なる

「ですからあなたには、しばらくの間、日本を離れて頂きます」

 その一言が被った。

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