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十四夜(後)【先生のアノニマ(上)〜9】

 目が覚めたら朝だった。

 どこからともなく雀のさえずりが聞こえ、慌てて起き上がると、いつになく柔らかいソファーの上だった。

 頭を二、三回、素早く大きく振って周囲を確かめると、山小屋ではない。

 ——広い。

 軽く三〇畳は超えるのではないか。そんなフレーズが頭の中で理解された時、居間のドアが開いた。

「あ、起きたわね」

 颯爽と入って来た仮名が、具衛を一瞥しながらそのままキッチンへ入る。

「朝ごはんにするから、顔ぐらい洗って来なさいよ」

「は?」

「は? じゃなくて、洗顔。タオル用意してあるから」

 と、言う事を言うと、

「部屋を出て左ね」

 と言う仮名は、また背を向けて、手際良く料理を始めた。

 トーストの香ばしい、良い匂いが具衛の鼻をくすぐる。思い出したように腕時計を確かめると、何と八時を回っていた。

「ええっ!?」

 うわぁ、と具衛が勝手にのらりくらり驚いていると、

「ほら、もう出来るわよ。早く顔洗ってらっしゃい」

 と、小さく失笑する仮名が、柔らかく窘めてくれる。

 らっしゃい——

 とか言われても。そのいつにない、ソフトな物言いは何なのか。それを初めて耳にした事で、その声は元来、柔らかい質である事に気づかされた。いつもの少し尖ったような、歯切れ良く弾むその声は、外見相応に凛々しく、よく通る。思わず耳を傾けさせられる程の力があるそれが、今は明らかに丸い。優しく接しようとするその声と共に押し寄せる、好意のような感情。

「ほら、早く」

「は、はい」

 そのくすぐったさに身震いした具衛が、フローリングに足を下ろした。足に力が入る事を確かめると、ノロノロと立ち上がる。それに伴い意識がはっきりすると、ベランダに鳥など見当たらなかった。そもそもが雀の飛行能力では、マンションの六〇階は厳しい。では、

 ——何て鳥?

 妙な疑問を抱く具衛が、ドアの方に足を向けていると、

「新しい歯ブラシも用意してるから」

 磨きなさいよー、とか。また思いがけずもくすぐったい声に身体が感電して、思わず足が止まった。幸いにも、仮名はキッチンに向かっていて背を向けている。その動揺は伝わってはいない。

 まさか——

 その美声が、鳥のさえずりに聞こえた、

 ——とか?

 その背中を見た具衛が、また身震いした。見た目といい声といい、

 どんだけ——

 破壊力を持っているのか。自分は未だ、それを受け入れる腹が

 まるで——

 据わっていない。

 大きな溜息を一つ、こっそり吐き出した具衛は、ドアを開けて居間を後にした。


 広いベランダの向こうにある外は、雲一つない真っ青な秋晴れ。目の前に広がる海と島の、風光明媚のこの上なさだ。室内は室内で隙なく整えられ、陽光が映える事これまたこの上ない。実に清々しい空間で、清々しい朝。そして卓上の朝食は、十前後の皿が並ぶ、ちょっとしたバイキング形式の質の高さで、止めは目の前に座っている、薄化粧の極上美人だ。今朝も相変わらず、部屋着のチュニックをゆったり身に纏っている。

 ——これは、夢だ、絶対。

 目の前からか、それとも鼻の奥の記憶だろうか。仄かにバニラとミントの、甘く爽やかな良い匂いがする。軽く鼻を啜ってみると、どうやらそれがテーブルを挟んだ目の前の人間から香って来る

 ——とか?

 夢どころか、実はもう死んでいて、あの世の縁の神仙の戯れなのではないか、とか。と、そこへ、

「まだ寝惚けてるの?」

 と言う仮名が、更に良い香りのする物を目の前に置いて来た。淹れたてのコーヒーだ。

「先に飲んだら?」

 キッチンのカウンターには、当然の如くコーヒードリッパーが置かれている。嗜好品に金をかける趣味も余裕もなければ、人づき合いの希薄な具衛だ。個人の家でそれにあやかるなど、これまた経験がない。今度はそれから、嗅いだ事もない、何とも言えない良い香りが漂い始める。

 これが——?

 コーヒーの香りなのか。思わずカップに鼻を近づけて香りを嗅いでいると、その先でもう一杯淹れている仮名が視線に入った。お互い向き合っているが、ドリップ中のその女は目線を外している。それをよい事に、カップ越しの絶美を覗く。

 ビジネルスタイルが良く似合う仮名だが、基が良いだけに、カジュアルも良く似合う。朝とは言え、もういい加減な時間だ。それが未だ部屋着という事は、今日も仕事は休むらしい。

 それにしても——

 何処か上機嫌のせいだろうか。滲み出る良質なオーラが眩し過ぎる。

「そのコーヒーはブラックで飲むの」

 現を抜かしているところへ、目線を変えない仮名が声だけを具衛に投げて来た。

「いや、香りが良過ぎて鼻が離せなくて」

 それにかこつけて盗み見していたなど言える訳もない。が、事実として、良い匂いで飲むのが勿体ないぐらいだ。

「おかわり出来るから、先に飲んで目を覚ましなさいよ」

「すみません」

 縮こまったまま、言われた通りカップに口をつけた。コーヒーに詳しくない具衛は、どんな種類の豆なのか全く分からない。大体が、殆ど飲む事がなく、口にするにしても、精々缶コーヒーレベルの安物しか飲みつけていない男だ。が、それでもそれが

「うまっ!?」

 と叫ぶ程、美味い事ぐらいは分かる。エスプレッソ風のそれは、これまた当然、今まで飲んだ事もない美味だ。が、風味の詳細を口に出来る程の語彙を持たない具衛は、

「何ですかこれ!?」

 などと、稚拙な驚きしか口に出来ない。

「あなたのそういう素直なところは、ホントに感心させられるわ」

 その仮名が、自分のコーヒーを持って戻ると、椅子に座りながら微笑んだ。

「目が覚めた?」

「そうですね、それなりには」

 とは言ったものの、実は未だに夢見心地だったりする。コーヒーを一口つけた時のリアルな嚥下反応だけが、現実感を支える唯一の手がかりだ。が、一方で、そんな具衛の様子に気づかない訳がない仮名は、深追いする様子を見せない。

「じゃ、食べましょうか」

 頂きます、と独り言のように宣言すると、目の前の女が何の拘りもなく膳に手を伸ばし始めた。それにやや遅れた具衛も、ノロノロとご相伴に預かり始める。

 何という——

 出来過ぎた食卓か。それを脳内で再認識すると、勝手に身震いする具衛だ。

 ——これは、あれだ。

 後でとんでもないしっぺ返しが待っているヤツだ。そんな事をボンヤリ考えていると、それは意外な早さで具衛の何処かを貫いた。

「しかし、三八にもなってキスで気を失う男を初めて見たわ」

 完全に意表を突かれたその口撃に、コーヒーを啜っていた具衛が激しく咳き込む。

「草食系だとは思ってたけど、ホントウブねぇ」

 免疫ないの? などと、立て続けに嘯く仮名をよそに、顔を背ける具衛は、耳を真っ赤にしてむせ返っている。

「欧米なんて日常茶飯事なのに」

 いつもは何処となく冷めていて、落ち着き払った澄まし顔の美女が、ケタケタ声を上げて笑っているそれは、明らかに狙い打ちだ。

「口同士ではやらないでしょ!?」

 ようやく声を取り戻した具衛が噛みついたが、

「似たようなモンよ」

 と、それを軽々といなす仮名に隙はない。そんな中でもその手と口は器用に食事をしており、良く食べ良くしゃべる女は、やはり機嫌がいいようだ。この歪な関係が始まった頃など、冷めた顔か怒った顔しか

 ——持ってなかったくせに。

 今の楽しそうな顔は何なのか。それだけで後出しの反則も過ぎるというのに、加えて昨夜のあれ(・・)だ。

「何で、あんな——?」

 事を。その確認のようなものが、野暮な事は分かっている。それを正面から聞く度胸などない、中年のウブな男だ。ナヨナヨと身をくねらせ、口に手を当て目を逸らす。

「それが男の言う事?」

 もっともな事だ。微妙な機微を男が女に尋ねるとか。情けないにも程がある。が、

 やっぱり——

 ある程度は、言葉としてはっきりした答えが欲しい具衛だった。素性を隠しているとは言え、二人の格差は明らかなのだ。遊びだと思いたかったが、仮名はそんなつまらない男遊びをするようには見えない。では何故、その相手が自分なのか。混乱が混乱を呼ぶ有様。そんな体たらくの具衛を前にした仮名は、やはり動じない。

「——やるんじゃなかったわ」

 と、バッサリ切り捨てるように言った。

「病み上がりなのに、居間のソファーに運ぶの大変だったんだから!」

 まったく、などと鼻息荒く抗議する仮名に、具衛は状況を振り返る。

「そうでした! す、すいません!」

 昨夜【口撃】されたのは、外のソファーだった筈だ。が、起きたのは、居間のソファーだった。自分で移動した記憶などない具衛だ。他に住人がいなければ、仮名が運ぶしかない。気を失った人間の重さを思えば、憤慨はもっともだろう。

 それを、忙しく表情を変える仮名が、クスリと小さく失笑したかと思うと、

「美女のキスで気絶って——」

 御伽話でも聞いた事がないんだけど、と、容赦ない追い討ちだ。

「悪い魔女に眠らされたお姫様が、王子様のチューで目を覚ます話があるわね?」

「え? ええ」

 チューとか、また仮名にしては随分と生臭な言い方だが、

「じゃあ、逆に眠らされる私のそれ(・・)って、魔女かなんかの悪い魔法って事?」

「い、いやそんな事は——」

 ないのだが、その話の法則では、そうなるのかも知れない。

「差し詰め、色魔か何か?」

「極論過ぎやしませんか?」

「だってこっちは現実に、目の前で気絶されたのよ?」

「い、いや、それに関しては——」

 確かに、目の前で失神されれば驚くし、ショックだろう。しかも、その後処理(・・・)をさせられた女の身になれば、

「——すぃません」

 と男は、小さくなるばかり。

「別に締めた(・・・)訳でもないのに、接吻で落ちる(・・・)男って。まぁこれも、時代の流れかしら?」

 と、腕に覚えがある男らしい仮名に、ぐうの音も出ない具衛だ。

「はあぁ——」

 そんな溜息が精一杯の、その口を開けたまま天井を仰ぐ。が、そんなところを如才ない仮名は見逃さない。

「まあ。処置歯がないって凄いわね」

 あなたの年代で、などと、また妙なところで意表を突かれてしまうと、無様が男が慌てて口を閉じ、背筋を伸ばしてしゃちほこ張った。

「——忙しいことね」

 完全に手玉だ。大体が、仮名の家に押しかけてしまった時点で、具衛に何か言えたものではない。勤務先施設の入所者が発症した伝染病を物の見事にうつされてしまった、その相手方に対する謝罪のための訪問。その訪問中の事なら、何があろうと具衛の立ち位置は、必ず初期の訪問目的に落ち着く。例えそれが具衛の勇み足だったとしても、それを理由に押しかけた立ち位置は絶対的に変わらないのだ。たまたま具衛と仮名が知り合いだった。それで仮名から、一宿一飯の配慮を得た。どこまでいってもあくまでもそれは、病気をもらった仮名の配慮なのだ。

 それを——

 良い事に、具衛はスケベ心を起こし、

 ——くくう。

 あのグラスを取り上げなければ。返す返すもあの痛恨時だ。具衛の立場は弱い。そして、目の前の大変聡明な美女は、

「お見舞いで押しかけたくせに。人の揚げ足を取るような事をするからよ」

 などと。状況は当然全てお見通し、という質の悪さだ。

「何なら争ってもよくてよ? あなた何故だか、その辺の事情(・・・・・・)に詳しそうだし?」

 そっちの方に話が向き始めると、具衛の立場は更に悪くなる。これまでの状況でさえ弱い立場だというのに、あの接吻の場面に限っても、やはり事の発端は、具衛のセクハラ紛いの暴挙が原因だ。

「い、いやいや」

 どう考えても勝てそうにない。

 実のところ、はっきりしているのは、仮名によるその報復めいた実力行使(接吻容疑)だけだ。具衛がその気になれば、仮名を強制わいせつで訴える事も出来る。一方で、具衛の行為自体は、どれもこれもあからさまに訴えるにしては弱い。平面的な事実だけを見れば、結果的には仮名のみが有罪と言えるこの状況。だが、それは罠だ。

「——前後の状況は、どう考えても私に非があるので」

 実際に法廷闘争しようものなら、時間と金を悪戯に注ぎ込むような、それこそ泥試合の争いになるだろう。

「あら? 私を有罪に持ち込めてよ?」

「分かって言ってますよね、それ絶対」

 どちらの言い分が正しいか。二人切りの密室だ。

 ——そんなもの。

 そこは世間的な見方が、それなりに物を言う。腕力が強い男が悪く見えて当然で、それが不利に働くのもまた当然。それよりも何よりも、

「後の民事で、前後の状況を思う様盛られて——」

 恐ろしいのはむしろそっちだろう。民事訴訟は、多くの証拠を集めた方の勝ちだ。そうなると状況は、只でも不始末塗れの具衛の事なら、

「無理矢理家に押し入られて、二人切りをいい事に脅されて、とか言われたら——」

 とても勝てるものではない。

 二人の関係性を知る者ならば、具衛が無理矢理など有り得ないにも程がある。が、重ね重ねも額面的には、男が女の部屋へ上がり込んで、二人切りの密室だ。この構図に持ち込まれた男は、普通女の敵と言われても仕方がない。つまり、

「こういうのを迂闊って言うのよ?」

 詳しい事は流石だけど、と言われたところで、まんまとその罠に自らはまったような具衛だ。

 嬉しい訳が——

 ない。が、実際のところ、こんなケースは示談か和解となる事が多い。正直なところ、司直も判断し兼ねるという事だ。としても、

「私なら、肉をちょっと切らせて盛大に骨を断つわね」

 と言う仮名は、実際にやるだろう。

 大体が、これを訴える男がいるのなら、

 ——それを見てみたいわ!

 むしろそうした興味しか持てないような沙汰だ。何せ相手は絶世の類いの美女で、それに誘惑されたとかで訴えを起こす男など。それは一般的な男ではない。つまり状況は、まさに仮名の土俵という、覆しようのない事実。この状況を上手く使えば、ちょっと手の込んだ美人局(つつもたせ)のようでもあり、

「これまでの全てが、美人局のための壮大な罠だったりして、ね?」

 とか、具衛が思いつく事などは、当然仮名の頭の中にもある。

 まぁ抜け抜けと——

 当然それは、見え透いたウソでからかわれている事ぐらい分かる具衛だが、では反証と言われると、そんなものはあやふやな推測と感覚的なものでしかない。そんなところを少しでも女から聞きたかった具衛だが、聞き出すどころか逆にやり込められている。

 これぞまさに——

 何の説得力も持たない

 ——バカな男。

 という事だ。

 こんな不確かな論拠で美人局を否定しようものなら、逆に面白おかしくその凄まじい弁術に思う様なぶられるだけだろう。わざわざ切られるのもバカらしい。ダンマリを決め込む事にする。

「反論を待ってるんだけど?」

 などと、やはり仮名は意地が悪い。

「もう降参です」

 白旗を持っているかのような具衛が、手にしているそれを振ってみせた。

「素直な心がけは見上げたものだけど、如何にも私が意地の悪い口達者みたい思われてるようで、ちょっと気に障るわ」

 それこそ魔女扱い? とか、そんなところまできっちり覗かれてしまうと、これまたぐうの音が出ない。

「まぁ朝から重いのはゴメンだわ。食べましょ」

 澄まし顔で言った仮名がリモコンでテレビをつけると、女はそのノイズを背景に、また手口を動かし食事を再開する。


 食後。

 具衛はコーヒーをおかわりし、ダイニングテーブルにそのまま居座り、遠目にあるテレビを眺めていた。朝からバラエティーのような情報番組をやっている。普段見ている、もう少し真面目な情報番組が放送されていない事に気づいて、今日が週末である事を思い出した。何せ二日に一直のシフトで、季節感なく働いている身だ。一人者であれば尚の事、カレンダーを気にする事は少ない。

 一方で仮名は、キッチンで食器の後片づけをしている。さり気なく下膳を手伝ったが、食器洗いまではさせてもらえなかった。

「まぁそこは、気持ちだけね」

 思えば本当に、病み上がりだというのに、

「一宿二飯で——」

 申し訳ない限り。と、その背中に言ったそれが、壺にハマったらしい。

「いつの時代の人よそれ!」

 盛大に噴き出した仮名が、堪り兼ねたように洗い物の手を止めた。文字通り腹を抱えて身体を折るその声が、ひどく揺れている。

 ——そんなにおかしいかい。

 流石に小さく呆れる具衛を察したらしい仮名が、

「ゴメンゴメン」

 悪気はないの、と喉を震わせながらも謝ると、

「前にさ——」

 こういう時は謝らないの、と言った。

「——お礼を伝えるの」

 と、洗い物を再開するその背中が、

「何か芋侍みたいで微笑ましいけど」

 とか言う仮名は、言いたい放題だ。その例えは、実は具衛の何かに近づく比喩だったりして、

 ——あんまり笑えないんだよなぁ。

 と、密かに肝を冷やす一方で、たわいない過去の会話を覚えている事に内心驚いた。聡明な人間の記憶力は凄まじいものだが、仮名もやはり、そうしたものらしい。

 これはやっぱり——

 下手な事は言えない。と、密かに防御線を巡らせる具衛の所へ、洗い物を済ませた仮名がコーヒー片手にテーブルに戻って来た。

「今日はシルバーウイーク中だったんですね」

「あなたは夕方から仕事よね」

 仮名の仕事の復帰を確かめるつもりが、逆に自分の仕事を気遣われる。確かに、一日おきに夜勤をするという分かりやすいシフトパターンだが、その配慮のようなものには感心せざるを得ない。

「ええ。そろそろお暇しようかと」

 逆に際立つのは、ここまで居座っておきながら、気の利いた事を一つも言えない己の幼稚さだ。

「あら。ゆっくりしてもらって全然構わないんだけど」

 その月並みな社交辞令が、また一々染みてしまう。仮名の場合、受け手が捻くれない限り額面通りだ。この女は、言いたい事をはっきり言う分、良くも悪くもその辺りの事は分かりやすい。

「お心遣いは恐縮ですが、お気持ちだけ」

 具衛は本心で言った。が、目の前に座る女には伝わらない。

「また意地悪女の口真似かしら?」

 口を歪めて妖しく目を流す仮名が、鼻で小さく失笑した。

「いえ、ホントですよ!」

「おだてなくても、コーヒーぐらい何杯でも出して上げるわよ」

「ホントですって! 茶化されるのは、それこそ心外です」

 泰然として凛々しいその声は、いつもは何処か冷めていて辛辣に聞こえる事すらある。が、時として、心の隙間に入り込む一言で人心をくすぐる、天然人たらしの一面があったりする仮名だ。使い慣れた感謝の言葉もその一例だが、そうした配慮の一つひとつがジワジワと何処かに溜まっているようで、何かに効き始めている。そんな感覚。ただ具衛は、そんな好感のようなものを、当然上手く伝えられない。

「本当ですから」

 感情をぶつけるだけの、己の口先が呪わしい具衛だ。

「子供みたいね」

 そんな具衛を、豪快さも持ち合わすこの女傑は、あっさり笑ったりもする。

「まぁ、それこそお気持ちはいただいとくわ」

 皮肉を含ませつつも斟酌するような仮名に、

「意外に人たらしですよね」

 と、思わず本音を吐露してしまう具衛は、やはり迂闊だ。

「言うに事欠いて今度は人たらしって——!?」

「い、言い方を間違えただけで! 良い意味で解釈してください」

 と、土壇場で修正を捩じ込む。

「どうかしらね。まぁそういう事にしといてあげるわ」

 素直な気持ちは伝わるらしい。

 ——やれやれ。

 小さく一安心してコーヒーを啜っていると、

「それに免じて、送って行ってあげるから」

 と仮名が言い始めた。

「いや、流石にそれでは——」

 甘え過ぎの上、いくらなんでも病み上がりに障るのではないか。そう重い状態ではなかったとは言え、その御身は二、三週間自宅療養していたのだ。が、

「ずっと家に籠ってたから、いい加減外に出ないとカビが生えるわ」

 職場復帰はシルバーウィーク明けらしい。今更ながらにそれを明かした仮名は、

「外にも身体を慣らしておきたいから」

 とか言いながら、具衛のコーヒーカップを掻っ攫う。と、てきぱきと準備を始めた。

「でもあなたの家までは、運転してくれない?」

 と言われ、その一〇分後には仮名の愛車(アルベール)のハンドルを握らされている具衛だ。

 ——どーなってんの!?

 こういう時、女の身支度はそれなりにかかるものなのではないか。そんな具衛を前に、仮名の化粧と着替えは、五分少々の早業だった。ズボンはデニム、上はポロシャツに着替えただけ。化粧はやはり薄いままで、いつものつけ睫毛もなければ口紅も控え目だ。その代わりと言っては何だが、クローシュ型の麦藁帽子を被り、目にはウェリントン型のサングラスをかけている仮名だった。

「しかしあなた、左ハンドル慣れてるわよねぇ」

 またしても、実は微妙なところを突く仮名だが、言った本人は当然それに気づいてはいない。

「と言われましても——」

 現代の普通車は殆どオートマチック車ばかりで、殆どシフトチェンジを要しない。とは言え、実は海外が長い人間が左ハンドル車に乗ると、左右の通行原則で混乱してしまう事があったりする。世界の国々の約三分の二は右側通行だ。

 そういう仮名は確かに、海外生活が

 長そうな——

 感じがしないでもない。

「通行原則さえ間違わないように気をつければ——」

 いいだけですから、と具衛があっさり答えると、

「まぁ安全運転だし別にいいんだけど。あ、高速経由ね」

 と、てきぱき指示を出す仮名に、いきなり進路を変えられた。余計な金を使わせまいとした具衛の密かで細やかな抵抗は、

 実にあっさりと——

 覆される。


 結局、山小屋に着いたのは、午後二時前だった。仮名のタワマンを出発したのは、午前九時前だった筈だ。それが高速に乗るや否や、

「天気もいいし、どうせならこのままお昼も食べましょうよ」

 夕方まで予定ないんでしょ? と、勝手に決めつけられてしまい。

「行ってみたいお蕎麦屋さんがあるのよ」

 と、高速を島根県側に越境させられ。それこそ具衛の町に似たような、山深い何の変哲もない田舎に連行されてしまう。

 目的地の蕎麦屋周辺に着いたら着いたで、

「お昼には少し早いわね」

 と、車から降ろされ。見て歩く所もない片田舎をブラブラと。

 散策と言うか——

 デート、と言うか。

 そんな気のせいにドギマギしつつ周辺を歩き、それなりの時刻になると素気なく蕎麦を食って、その後約一時間かけてようやく山小屋に戻るという、壮大な遠回り。

「ああ、久し振りだなあ——」

 などと、声を上げながら伸びをする仮名を横目に

 ——やれやれ。

 と密かに呆れながらも、そそくさとお茶の準備をする具衛は、今の今に至るまで、未だに振り回され続けている。そんなここ一両日。

「いつ以来振りだっけ?」

 とか言いながら、ちゃっかり縁側の右隅に腰を下ろす仮名は、相変わらず奔放なお嬢様だ。

「三週間でしょうか」

「そんなに経ったの?」

 そうかぁ、と素直な感嘆を連発する仮名は、久し振りの分だけ口数が多い。

「相変わらず涼しいわ」

「これこれ、このお茶よ」

「風鈴は何処にやったの?」

 云々かんぬん。

 ——子供染みてる。

 とか言ってしまおうものなら、後で何倍返しされるか分からない。危うい言葉を飲み込む具衛は、いつも通り居間の座卓に座る。

「夕方まで出ないのよね?」

 と、左に身体を捻り、座卓の具衛に話しかける仕種も三週間振りだ。図らずも、昨日の夕方から行動を共にしているのに、その仕種に全く慣れない具衛は、一瞬痙攣して硬直する。

「——え? ええ。家を出るのは五時過ぎです」

 辛うじて返事をしたそれに、

「よし」

 と、また前を向き直した仮名が、嬉しそうに足をバタつかせている。

「じゃあ三週間分、居座っちゃおう」

 そう勝手に宣言すると、急に静かになった。あえて触れない具衛は、とりあえず本に活路を求める。そうしていれば、妙な事にはならないだろう。昨日の今日だ。またしても、只ならぬ美女と二人切りという空間を、具衛は警戒した。正直なところ

 早く帰って欲しかったんだが——

 ここへ至っても、昨日の押しかけの暴走が尾を引いている。返す返すも、後悔先に立たずだ。

 暦的には中秋だが、実際の気候的には晩夏のこの頃。晴天の山小屋周辺は麗かだった。空の高い所にうろこ雲が浮かんでいる。空気も風も穏やかで、市街地と比べると季節感が早い気がするのは気のせいではないだろう。周辺に差し込む日差しはすっかり柔らかくなっており、昼下がりの情景は一足早くやって来た小春日和のようだ。

「彼岸花が沢山咲いて——綺麗ねぇ」

 女のそんな独り言ももっともな事で、今が最盛期のそれは、そこかしこに咲き乱れている。黄味が増してきた田や、畑や山野の緑の中に、背の高い茎に支えられた一際目立つ赤色の大輪の数々。それが風に吹かれて、静かに小さく揺れている。

「この辺りは、一昔前に沢山植えられたそうです」

「害獣対策よね。農家の方から聞いたの?」

「ええ」

「そう」

 たまたま農家の人に聞いて知った具衛と違って、この都会的な女は、どういう経路でそれを知り得るのか。

 毎度の事ながら——

 感心でしかない。

「別名や迷信がひどいんですよ」

「人の都合で植えられたのにね」

 やはり仮名は、当然の合いの手を出してくる。

「——知ってるわよ?」

「流石です」

「まぁね」

 と思いきや。得意気に嘯くそんな女が、急に相好を崩した。

「ウソウソ。つけ焼き刃よ」

 暇を持て余した療養中に、興味の向くまま色々調べたらしい。

「ここに立ち寄るようになって、里山に興味があってね」

 そうしたところ、先程足を伸ばした山奥の蕎麦屋の事を知り、

「今日行く予定だったって訳」

「え?」

 つまり、計画的犯行という事らしかった。確かに蕎麦屋では、連休中でそれなりに客がいる中で、何となくあつらえられた様子だった事を思い出す。

「そうでもして連れて行かないと、あなたいつも遠慮するじゃない」

「また余計な気を遣わせてしまいましたか」

「そう言う事」

 ほんの少し、口を尖らせた女が、またふんわり穏やかになる。どうした心境の変化か、鈍い具衛には良く分からないが、悪い気はしない。

「風が気持ちいい」

 そんな独り言で、足をブラブラさせている仮名は、靴を脱いでいる。本当にくつろいでいるのか、それとも何か企んでいるのか。

 ——分からん。

 本に目を落とす具衛が、たまにチラ見する仮名は、機嫌がいい事だけは間違いない。その何気ない仕種が、辺りの風情と同調するように見える、

 ——とか。

 気の利いた事を言える人間なら、浮いた事を口に乗せたり

 ——して。

 より親密になろうと

 ——するんだろうねぇ。

 と思ったところで、不意に心臓が跳ねた。よからぬ潜在意識がなくはない、煩悩塗れの一般的なバカな男だ。

 まさか——

 その男が何かしでかすのを待っている

 ——とか。

 いう展開もあるのか。それならそれで一大事だ。いつもの位置に陣取ったとはいえ、本の内容など。開いた瞬間から、何が何だかさっぱりの具衛だ。行き場を失った目は、必然チラ見する回数が増える。そんなバカな男の一方で、柔らかく微笑んでいた筈のその絶美の横顔が、いつの間にかまた怪しい。

「人にとって、存在意義の大きい美しい花なのに——」

 とか、目線を遠くに投げる仮名が、ぼそぼそ呟き始める。

「人に忌み嫌われてるなんて——」

 また何を——

 ナヨナヨと思い詰めているのか。例の甘えか何かの症状のようだが、何かが違えて昨晩のような事になっても困る。

「ああ、健気ですよね」

 と、とりあえずやっつけ気味に相槌を打ってみると、

「何その取ってつけたような言い方は!」

 ムードぶち壊しね、などと食いつかれた。が、

 ムードって——

 その一言が引っかかる。

 まさかホントに——?

 また、昨夜のような展開でも狙っているのか。それを思い出すと、妙に喉が渇き出す。堪らずお茶を飲むが、喉に気を遣わないと誤嚥でむせそうだ。喉を鳴らしたり、咳払いをしたり、鼻をすすったり。急に様々な音を出し始める具衛に、

「ぶはっ!」

 と、仮名が盛大に噴き出した。

「だから、取って食やしないって」

 その屈託ない笑い声が、先日の盆踊りの時の仮名と被る。

 ぐぬぬ——

 人の心を弄ぶような素振りが気に食わないが、盆踊りの時は半分お面を被っていて分からなかったその笑顔だ。

 ——ク、クソ。

 冷艶の君にあるまじき、眩し過ぎる明るさに、

 悔しいが——

 目が眩む。

 具衛は堪らず、顔を背けた。

「ゴメンゴメン!」

 悪気はないんだけど、などと謝る仮名は、流石に具衛の懊悩までは見抜けない。

「そう落ち込みなさんなって!」

 悪かったわよ、とか言いながらしばらく笑うと、また元の鞘に戻る。

「はぁあ。やれやれねぇ全く」

 それは、

 ——こっちの台詞だよ。

 の具衛が、また湯飲みに手を伸ばした。水分補給は十分のつもりだが、悪い緊張のせいだろう。今日も喉が渇いて仕方がない。密かに嘆息した具衛が立ち上がると、台所からやかんを丸ごと持って戻った。

「マナー違反なのは承知の上で、もう省略させてもらいますよ」

 面倒だと言わんばかりの具衛が、その目の前で、まずは自分の湯飲みに追加を継ぎ足す。

「変なところはホント意固地ねぇ」

 それだけで気づく仮名は、やはりそうした事(・・・・・)が日常の嗜みとなっているという事だ。

「一応これでも、気は遣ってきましたからね」

 と、仮名の湯飲みにも追加を入れてやる。本来お茶のおかわりは、湯飲みを茶托毎交換するのがマナーだ。が、湯飲みを変えず目の前で継ぎ足せば、少なくともその場では混ぜ物は出来ない。要するに、最後の最後でも怠らない気遣いは、無毒の証明だ。

「あなたの事は、随分前から見切っていたわよ」

 でないと何度も来ない、という仮名の言う事も、確かに理解出来る。返す返すも、ここは人気のない山奥の小屋な訳で、そこへ男女が二人切りという状況だ。見境いない男なら、その状況だけで何をしたものだか知れない。それを仮名が望む訳もなければ、つまり本人の言う通りなのだろう。

「大体が、もう最初の日から、あなたが出す物を色々と飲み食いしてたでしょうが」

「そりゃそうですが——」

 それでも潔癖のスタンスは見せておく。とにかく昨日の今日なのだ。こちらから妙な事はしないという意思表示でもある。

「まぁでも、そんな今までをひっくるめて、お礼を言う場面でしょうね今は。——ありがとう」

 ストレートに腹に落ちて来るその謝意が実に、

 小憎らしいというか——

 梅雨時以降、心臓が度重なる動悸に悩まされているなどと。どの口で誰に言えというのか。要するに、この男はこの男で苦しい。が、女は女で、何を考えたものかそれを弄ぶ。今の追加のお茶は、その答えにして、結界で、戒めだ。

「いえ」

 と答えて、座卓まで後退る具衛は、あくまでもそれを崩さない。とにかく、こちらから手は出さないという事だ。

「この距離感も」

 それに合わせるように、仮名がまた呟いた。僅かに男女の掛け合いを思わせるその一言が、また呼び水になったのか。

「花言葉がまた、切ないのよね」

 とか言う、彼岸花話の再開で、何となくムードが再構築されていく。

 ——やっぱり。

 その花言葉など、具衛が知っているような事だ。仮名が知らない訳がない。

「ホント、嫌になるわ」

 その仮名が、吐き捨てるように言った。

「私そっくり」

 立て続けに、鼻で笑って口を歪める。

「そうですかね?」

「そうよ」

 と決めつけられてしまうと、もう何も言えない具衛だ。

「人の事を何だと思ってるのかしらねぇ」

 またしても、急転直下。

 ——まさに。

 女心と秋の空だ。最早、何を考えているのか。何かにイラついている事だけは、何となく理解出来る。実際の天気は頗る良いと言うのに、

 実に——

 悩ましい。

「——何てね」

 そんな中で、また仮名が舌を出して、再び嘯いて見せた。

「こんな感じで、腫れ物扱いされては、寂しい思いをしてる人間なのよ、私なんて」

 そう言うと、また目を遠くに投げるその女が口を閉じる。その横顔が、やはり

 ——怪しい。

 今度は今にも泣き出しそうな、そんなか細さだ。

「ホントにホントね——」

 また不意に、独り言が漏れる。

「彼岸花だ。私」

 田野を見ているその目が、明らかに弱い。気がつくと、

 また——

 寂然としている、いつぞやの展開だ。なまじ頭の回転が早い分、思考の展開も並ではないのか。具衛の拙さでは、気の利いた事など言える訳もない。放置していると、顔どころか既に身体毎放心状態のようなザマだ。

 ——は、早過ぎる!?

 このまま不意に、何かに魂が抜かれてしまうような、そんな只ならぬ雰囲気。今度のこれは、人ならざる物だと錯覚していた当初の感覚だ。先程まで、笑っていた人間とは思えない程の自失。まさかとは思うが、何処か倒錯し兼ねない危うさすら感じるその心底に、

 一体何が——?

 巣食っているのか。

 またお茶を一口飲んだ具衛が、

「仮名、さん?」

 と、呼びかけてみた。裏返りそうな程の重苦しい声がまた情けないが、何もしないよりはマシだろう。

「——何?」

 急な頑なさは、僻んでいるようでもある。

「どう、しました?」

 三度目のこれは、演技ではないだろう。

「声が震えてるわよ」

 一方で仮名のそれは、すっかり冷たく棘々しい。そもそもが当初から、口では全く歯が立たない間柄だ。

「私はこういう時、言葉を持ちません」

 具衛は、開き直るしかなかった。

「でも、聞く事は出来ます」

 今まであえて、知ろうとしなかったその素性。それを聞く時が来たのかも知れない。その大物振りに、何かに巻き込まれる不安がつき纏う。が、その気持ちを少しでも軽く出来たなら、このどうしようにもない美人はどうなるのか。その先は、見てはならない禁断の園なのかも知れない。が、こんな時に一緒にいるのだから

 ——仕方ない。

 これも一つの縁というヤツで、後の祭りというヤツだ。

「よかったら、話してみませんか?」

 悩み事というものの大抵は、人に吐けば、

「少しは軽くなるかも知れません」

 それが例え、相手が何の力も持たない具衛であったとしても、ガス抜きぐらいは出来るだろう。が、思えば具衛は、この瞬間からしばらく鬼蛇の道に足を踏み入れる事になる訳で、人生の岐路とは思いがけないところにあるものだ。

 そんな辿々しい具衛の思いがけぬ吐露に、相変わらず冷ややかな仮名は、そっぽを向いている。が、

「フ」

 と、突然緩んだ口が失笑を漏らしたかと思うと、その横顔が穏やかさを取り戻していた。

「突っ張ろうと思ったけど——」

 と悔しそうに微笑むその目が、少し潤んでいるように見える。が、

「あなたのその可愛らしさは、最早罪ね」

 などと、この土壇場でも嘯く仮名は仮名だった。その一方で、

 おっさんを捕まえて——

 可愛いとか。具衛は具衛で、思わず突っ伏しそうになる。

「まぁいいわ。私もあなたに聞きたい事があったから」

 そんな具衛を構わず、続け様の仮名が、

「あなたには、私がどんな人間に見えてるの?」

 と言った。

「どんな——?」

 と言われても。

 富豪の美女が、メイドに囲まれて思い通りの人生を歩んでいる、と言えば、それは明らかに地雷だろう。

 ずぶ濡れの凄然たる美女が、妖艶さを伴い始めたかと思うと、何やら可愛らしげな一面を覗かせるようになった。具衛に見えている仮名は、そんな仮名だ。だがこの場の仮名は、そんな事を聞いているのではないだろう。

「世間知らずの金持ちと、中傷される事を望んでいるように聞こえてならないんです」

 具衛は、そんな疑問をそのまま口にした。

「あなたは、そうは見えないので」

 事実だからこそ、はっきりした事が言えない自分が嫌になる。確かに富豪の令嬢だろうが、それに甘んじているようには見えない。が、具衛にはそれを理路整然と、それも仮名を納得させる高いレベルで、論拠に基づいて説明出来る程の確証もなければ語彙力も有しない。自己の力なさに打ちのめされる具衛の口端に、悔しさが浮かぶ。

 すると仮名は、

「そりゃ言いにくいわよね。私が無理に答えをせがむから」

 などと、やはり如才なく諦観する。言葉で人を救う事の難しさだ。今度は潔いような仮名が、

「あなたには感謝しかないけど、世間様はそうは見てくれなくてね」

 と、愚痴をこぼした。

「有り余る金に目をつけられ、ろくな人間に絡まれない、不自由で孤独な行かず後家の高飛車女」

 との自己分析は、実に端的で自虐的だ。こんな時はそれを言葉に出来る聡明さが仇になる。長年のそんな鬱積を、

 俺なんかが——

 聞き切れるのか。餅は餅屋だ。上流社会の事などさっぱり分からない具衛では、その世界の膿を引き出し切れないのではないか。大体が、山奥の小屋に住んでいる厭世の世捨て人だ。何の力も説得力も持たない、大多数の貧者の一人だ。

 愚痴すら——

 まともに聞く事が出来ない体たらくとは。それは男の甲斐性として許される事なのか。

 口を閉じたままの仮名と言い淀む具衛の間に、晩夏の爽やかな冷涼さが染みる。

「私って、只でも面倒臭いのに、出自も面倒臭いから。下手に首突っ込むと、火傷じゃ済まないわよ」

 その一言は、明らかな突き放しだった。

「気持ちは嬉しいけど」

 その口は笑っているが、目は諦めている。

「もうちょっと夢を見たいから、これ以上は無理ね」

 と、聞き始めたばかりだというのに、いきなりのデッドラインだ。その壁の高さや幅は、ある程度分かっていた事だが、予想外に近い。それ程までに語りたくない身の上とは一体、

 ——どんなんだそれ?

 これでも具衛は、それなりに現世を見て来た人間、のつもりだった。それこそ上下左右、大抵の階層の人間には一通り接して来たつもりだ。が、結局は、つもり(・・・)で終わっていたらしい。頼れないと見なされた、という事は、外面に伝わる生き様に厚みがない、という事だ。そんな自分が、今はとにかく不甲斐なく悔しい。夢を見たいのは、

 こっちだって——

 そうだ、と堂々と言い切れない、何もない自分がまた悔しい。

 その悔し紛れに、

「ひょっとして、許婚がいらっしゃるんですか?」

 と、とりあえず、思いつくままを口にする。

「そんなんじゃないわ」

 完全には言い切れないけど、と、つけ加える仮名は、

「どっちにしたって、私を相手取って遜色ない男なんて——」

 そういない、と、高らかに鼻で笑った。それもそうだと納得していると、

「今、こんな気難しい女なんか、男の方から願い下げだって思ったでしょ!?」

 などと、また微妙なところを見事に掬われる。が、珍しく、その精度が微妙にズレた。

「そんな事ないですよ」

 世の人間はそう思うかも知れないが、

「そんな事、ないです」

 ——俺は違う。

 と、はっきり思う具衛だ。確かに気難しいが、それ以上に、どれだけ踊らされた事か。

「まともな人間なんて始めから寄りつかないから、残るのは野心家のろくでなしばかりなのよ」

 と、持論を吐き続ける仮名に、具衛の言葉は届かない。

「煩わしいったらありゃしない」

 などと、一人芝居でツンケンし続けている。

「だから私にとっては、今のこの状況は夢なのよ」

 と、またしてもその口から出た今度の()とは、鈍い具衛の耳にも

 かなり——

 突っ込んでいるように聞こえてしまう。最初のそれは、自由に対する渇望だと思った。が、今のそれは明らかに、具衛の結界に何歩か入り込んでいる

 ——ような。

 こう言う時、

 どう言ったら——

 その侵入者と収まりがつくのか。双方が暴走する事なく、傷つかず、とりあえずそのままでいられるのか。悩んでいると、

「——ね。そうやって善良な隣人は、みんな引いちゃうのよ」

 と、仮名が諦めたように苦笑した。

「引いてませんよ」

 後退ろうとする女を引き止める言葉が見つからないだけだ。女傑から夢だと迫られるとか、

「想像が追いつかないだけです」

 そんな素直な吐露が、つい出てしまう。そんな子供染みた、幼稚な自分。そんな事を考えているうちに、

「そんな素直なところが、あなたの素敵なところね」

 と、言われて、また心臓が跳ねた具衛が、忘れかけていた感情を取り戻す。人としての根幹に近い部分を、

 ——褒められるとか。

 自分に厳しくあろうとする者にありがちな自己肯定感の低さが、この男の大きな欠点だ。が、今まさに肯定された素直さは、それを上回る長所でもある。

「言葉なんて、知らなくていいのよ」

 幼い子供は言葉を知らない。が、その素直な感性から繰り出される言葉は、

「時として大人を考えさせる力を既に持ってるの」

 本音だからだろう。人生経験に比例して、常識やステータスに目が曇りがちになり、口先で言葉を飾るようになる。それは世の中の多数派から漏れないよう、偏見に晒されないための建前で、綺麗事だ。だから、

「——言葉は知らなくても大丈夫」

 必要な時には、それを上回る感情が思いを伝えてくれる、とか。

「あなたの場合、物に取り憑かれてないところがまたいいのよ」

「は?」

「質素に生きているだけでしょ? あなたは」

 金はないが貧乏ではない、慎ましく生きる自分。そんな自分を見切っていた(・・・・・・)仮名。気がつかないうちに、長年刷り込まれた固定観念に苦しめられていた事に、言われてようやく気づく

「——己の鈍さですね」

「そんな事、今に始まった事じゃないじゃないの」

 そう言う仮名の辛口振りもまた、素直という事だ。

「いや全く」

 色々吐かせてガスを抜いてやるつもりが、逆に教えられるとか。全くもって不甲斐ない。

 偶然にも、お互いの素性を伏せたまま始まった間柄だ。その縛りがなければ、出会ったところで絶対に続かなかった関係だ。それを求めた仮名は、今この瞬間まで、一見してスッカラカンの男の中に何を見て、ズルズルと絡んでいるのか。それが分からない具衛だった。昨日の自分の口先が、為人だけは真正でありたいと吐いたばかりだというのに、

 ——答えもクソもあるかよ。

 何も持たない男が虚飾に目が眩み、あらゆる物を持つ女が素直な目を持つとか。中々世の中、それこそ気の利いた、

 ひでぇ皮肉を——

 かましてくれるものだ。

 今の今のまでその女の目に興味を持たれ、少なからずの好感を得ている事を改めて思うと、一瞬全身が身震いする具衛だが、今はそれに浸る時ではない。

「見たまんま、感じたまんまって事ですね」

 同じように、それを伝えてやる時だろう。

「あなたはそれだけじゃないと思うけど?」

「そういうあなたこそ、そうでしょう?」

 でも、そのままで十分魅力的だ。

「まぁそれが悩ましいのよ——」

 と茶化す仮名を、

「彼岸花の話ですよ」

 と、被せた具衛が話を巻き戻した。

「人の都合で害獣対策用に植えられた彼岸花が——」

 有毒植物である事は、

「知ってるわよ」

 今更そんなの、と口を歪める仮名が早速、

「まさか、うんちく?」

 と、脅しのようなものをかけてくる。

「ホント、せっかちですよね大概」

「どこが!?」

 そこが、とは言い返さない具衛に、仮名もそれっきり押し黙るそれは、どうやら続きの催促らしい。そんな短い駆け引きで、一瞬静かになる室内。遠目に見えるその花々は、相変わらず音もなく揺れている。

「健気というか、達観してるように見えてくるわね」

 と呟く仮名が、また遠い目をした。

「——そうですね」

 その花の迷信が苛烈なのは、小さい子供が触るのを戒めるためのこじつけという説がある。その毒を子供に触れさせないため、更には害獣対策の効果を持続させるためだろう。多年草でもある事から、基本的に触れなければ、害獣対策の意義を全うし続ける

「ありがたい花ですからね」

 だからこそ、自生させる向きを人々に定着させるためにも、周知されているような汚名を着せられた訳だ。それを健気と言わずして何なのか。更に言えば彼岸花は、またの名を【曼珠沙華(まんじゅしゃげ)】といい、釈迦は法華経の中で【天上の花】と説いている。それを知っていれば、達観しているように見えて当然だ。

「加えて綺麗で情緒的。非の打ち所がないでしょう?」

 人類有史以前に大陸から渡来したとも言われ、それを墓地でよく見かけるのにも当然理由がある。答えは簡単で、仏教の伝来と共に伝わったとも言われるそれは、実のところ問答無用の弔花だ。事情が理解出来ない者には忌み嫌われる一方で、それを知る人々には受け入れられていたりする。そんなところは何処か人間臭い、そんな花。それを悲劇的に比喩するとか、

「実にあなたらしくないと思うんですが——」

 そもそもが、そのややこしい周辺事情など、

「花には関わりがない事ですよ」

 ネガティブな見方をすれば、彼岸花に限らずこの世の全ては悲劇的にすり替える事が出来るのだ。

「こう言っちゃ何ですが——」

 悩まなくていい事で悩んでいる。一言で言えば杞憂だ。

「大多数の人はそうでも、私は違うの。とにかく面倒臭いのよ。周辺事情が、多分国内有数で」

 そんな水掛け論になりそうになるのを、珍しく具衛がバッサリ切った。

「事情なんて関係ないですよ」

 何だろうと、素敵なものは素敵。

「それだけです、私は」

 そのものの美しさだけで判断して何が悪い。

「誰が何と言おうと、私は好きですけどね。彼岸花」

 今のその感情は、紛れもない事実なのだ。

「な、何よそれ。それで答えか何かのつもり?」

 クソ、と口汚く吐く仮名が、ぎこちなく震えている、ように見える。

「まぁ言葉を知らないので」

 それでも感情は伝わっているようだ。仮名がしてくれた事を返しただけなのだが、やはりこの女も、肯定される事に慣れていないらしい。

「し、白々しいわね!」

 と、今度は声まで震わせている分かりやすさだ。が、すぐに持ち直すと、

「だからあなたは可愛いって言ったんじゃないのよ!」

 綺麗だとか好きだとか、

「よくぞ言ったモンね!」

 とか、

「彼岸花のネガティブな印象づけは策略か!?」

 などと。恨み節に事欠かない、勢い余った仮名がついには、

「バカじゃないの!?」

 と、ストレートな感情を吐き出した。

「それに関してはその通りですから——」

 気楽なモンですよ、と言う具衛は、

 ——実は侮辱罪なんだが。

 という言葉を飲み込んでいたりする。そんなところは、普段の仮名なら分からない訳がないのだろうが、

「何よ! 自分だけスッキリして!」

 と感情的なその姿に、そんな法的見地は見られない。

「そもそも私の話を聞いてくれるんじゃなかったの!?」

「聞きますよ」

 聞く用意は、もう出来ている。

「それを渋っているのは、あなたの方です」

 珍しく筋が通ってしまうと、そっぽを向いた仮名が、身体を小さく痙攣させた。

「くっ」

 縁側の右隅から、珍しく悔し紛れの声のようなものが聞こえて来る。

「——知って後悔しても知らないわよ」

「大抵は知らない事こそ後悔が——」

 生まれる、と思う。

「いいところだけ切り取って見て、それで満足出来るとは——」

 もう思えない。

「好きこそ物の何とかでしょう?」

 と、取ってつけた事を言うと、また仮名が一瞬小さく震えた。どうやらこの手の言葉に免疫がないらしい。

 そういやぁ——

 以前、仮名の叔母を騙った家政士のユミさんに、

 ——突っ込まれまくってたっけ。

 そんな事を思い出す。

「ず、図々しい事をシャアシャアと——」

 普段大した事言わないと思ったら、

「卑怯よ!」

 などと、感情が突っ走り始めた仮名の言葉は、いつもにも増して言いたい放題で失礼だ。が、

「悪い気はしませんね」

 と思う。普段やり込められている腹いせが全くない訳ではない。が、それこそそれは、今まで知らなかった新たな一面だ。それを見せてくれる事が、

 ——嬉しい。

 と言ったら、仮名は絶対怒るだろうから、口にはしない。

「だから私のは、大抵から外れてるんだって!」

 と、言い渋る仮名は、

「ホントに何度言っても分からない子ね」

 などと、今度はわざとらしく子供扱いしてくれる。

「うむぅ——」

 とか、声にならない唸り声のようなものを上げたかと思うと、何かを決心したのか。饒舌なその口が、ついに身上の一端に触れ始めた。

「——まぁそこまで言うなら、今この場で年だけ教えてあげるわ」

 言うなり唐突に、その御尊顔を具衛に突きつける。

「さあ、何歳に見える!?」

「はあ?」

 何をまた急に言い出すのかと思ったが、確かに未だに知らないし、そういうところは素性の走りとしたものではある。

 にしても——

 今更、

 ——何歳?

 とか言われても。

「うーん」

 何歳なのか。アラサーだと思っていたのだが。という事は、それを外れるのか。

 ——分からん。

 と、思ったところで、

「クイズ形式じゃなかったと思うんですが?」

 という事を思い出した具衛だ。

「淡々と話すだけじゃ、それこそ只でくれてやるみたいでつまらないじゃないの」

 と、

 ——口を尖らせるとか。

 その仕種が、また具衛の脳天を大きく揺さ振ってくれる。大体がその前に、顔を突きつけられた時点で心臓も鷲掴みだ。不健康体なら、その天然振りの破壊力で、酸欠どころか突発性の病を引き起こし兼ねない。

 と、年だけで——

 これ程動揺させられるとか。

 こんな調子で——

 他の事を聞いて、受け止め切れるのか。密かに生唾を飲み込む具衛の目の前の女が、また唐突に、

「還暦」

 と呟いた。

「ええええっ!?」

「ウソ」

 絶叫の最中の訂正は、明らかに作為的だ。

「なっ——!?」

 中々、

「もっ——!?」

 盛ってくれる。何かが破裂しかけた具衛が、ガス抜きついでの声にならない溜息を、

「——んぐはぁ」

 と吐き出した。

「な訳ないでしょ。いくら何でも」

 しれっと嘯く仮名が、知らん顔で湯飲みに口をつけ一服だ。勿体つけてくれる。

 具衛もつられて気を落ち着かせようと、湯飲みに手を伸ばした瞬間、

「今年で四二」

 と、またしても作為的に被せられた。

「な——!?」

 何をまた、と言いかけた勢いで、つい湯飲みをひっくり返してしまう。

「あっ!?」

 と、慌てて立ち上がり、台所へ逃げついでに、動揺を隠す具衛だ。

 今度の年は、

 と、どうやら——

 本当臭い。予想より一回り上という微妙な年齢層を、あえて還暦と噴いた後で言う必要などないからだ。

 ウ、ウソだろ——!?

 あの外見で、

 ——四二!?

 とか。

 ——年上かよ!?

 今まで敬語を使ってきたとは言え、勝手に年下女のつもりで接していただけに、今更ながらの衝撃の大きさだ。

 ——み、見えねぇ。

 どう見てもアラサーだ。が、精神的には確かに適齢かも知れない。浮ついたところがなく、かと言って年寄り臭くもない。若々しいのではなく、実際に外見は若い、

 お転婆令嬢——

 というフレーズが、実にしっくりくる印象。開示された年齢を受け入れようとすればする程、今まで知らなかった分だけ何かが込み上げてくるかのような、動揺が動揺を呼ぶ展開。グルグルと目を回す具衛が、延々とお茶をこぼした座卓を拭き続けている、そんな時。

「いつまで拭くのよ?」

 と突っ込まれる程、アラフォーの女を放置した事を思い知らされる。

「——え?」

 あ、いや、などと、痛いところを突かれて固まるとか。

「よく言えたものね」

 そんなんで私の話を聞くとか、と言われて、

 ——全く。

 その通りだと轟沈する具衛だが、

「——あ、わ、悪く捉えないでください」

 と、口がもつれる程の動揺は、ポジティブなものだ。

「だ、だって——」

 風格とは、一般的に年輪を積み重ねる過程で得ていくものだ。それを得ておきながら、見た目は変わらず若いとか。そのいいとこ取りは普通有り得ない。が、老化の原則を盛大に踏み外した女が、目の前に約一名。

「あなたは素敵過ぎます」

「黙ってると思ったら、またそんな歯の浮くような事を——」

 大概にしなさいよ全く、と言う女が、

「これでもう、妊孕性(・・・・)の低い女だけどね」

 と、また口を歪める。

「にんようせい? ですか?」

「妊娠する力の事よ」

「はあ」

 と、具衛が新しく入れ直したお茶をあおったところで、

「まぁ男は子作り(・・・)が出来れば何だっていいんでしょ?」

 などと、またしれ顔で捩じ込んだ仮名だ。

「——んぐっ!?」

 そんな断末魔と共に、ウブな男が両手で口を塞いで、また台所へ飛び退る。が、小さいシンクを抱えて盛大に咳込み始める具衛に、

「何をまた大袈裟に——」

 と、冷ややかな仮名の声は届かない。そのまま十数秒。

「ちょ、ちょっと、大丈夫!?」

 流石に異変を察した仮名が素早く縁側から上がると、咳に喘ぐ具衛の背中に取りついた。

「どれだけ肺に入ったのよ!?」

「だ、だい——」

「いいから吐きなさい!」

 独りでは、あるいは危なかったのかも知れないし、独りなら誤嚥する程のショッキングな出来事もなかっただろう。何れにしても、気づいた後の仮名は早く、しかも躊躇がなかった。

「水の誤嚥で肺炎になる事は少ないけどね——」

 少しは気をつけなさいよ、と背中をさすってくれるその手の心強さだ。

「うぐぅ——」

 とか、情けない声しか出せない具衛は、涙塗れのよだれ塗れで、全く締まらない。

「ああ、しゃべらなくていいから——大丈夫、大丈夫」

 今度は子供をあやすような、そんな優しさが不意に染みる。

 ク、クソ——

 これもまた、反則が過ぎるのではないか。

 しばらく後。散々シンクを抱えてえずいた(・・・・)具衛が、その場にへたれこんだ。喉は落ち着いたが、酸欠になる程むせたせいで身体に力が入らない。そこを仮名が、

「そのままでいいから」

 と今度は、手早く用意した濡れタオルで具衛の顔を拭い始める。台所の布巾かけにあるタオルを使ったようで、てきぱきとした機微は流石の仮名だ。そのままフニャフニャの具衛は、なされるがままで、

「ちょっと横になりなさい」

 と、身体の何箇所かを掴まれると、あっさり仰向けに転がされてしまった。居間の真ん中に置いている筈の座卓は、いつの間にか部屋の隅に避けてある。

「全く、鈍臭いわね」

 具衛の回復の様子に比例して戻っていく憎まれ口が、耳に心地良い。そんな仮名が具衛の傍に正座すると、今度は有無を言わさず膝枕だ。

「いや、それは——」

 ようやく言葉を取り戻した具衛が、思わず抵抗するが、

「うるさい、少し黙ってなさい」

 と、畳んだ濡れタオルで目元を被せられると、そのまま両手で額を押さえ込まれてしまった。正直なところ、もう座っても大丈夫そうな具衛だが、物を言うと怒られそうだ。せめてもの救いは、散々むせたお陰で心身共に疲れて感覚が鈍くなっている事だろう。そうでなければ膝枕など、恥ずかしくて耐えられない。それでも鼻先に、相変わらず良い匂いが漂って来るそれは、昨日来嗅ぎ慣れた仮名のそれだ。

 ——ヤ、ヤバい。

 その柔らかい膝に置いた頭から動悸が悟られそうな程に、心臓がバタつき始める。

 これはやっぱり——

 逆に疲れる、と起き上がろうとするが、額を押さえられていて起き上がれなかった。二、三回同じ事をすると、頭の上から失笑が降ってくる。

「いいから、少しこうさせて」

 してろ、じゃなくて——

 させて、とか。

「は、はあ」

 喉が楽になったのに、入れ替わりで頭がのぼせてしまった具衛だ。が、おあつらえ向きに目と額に当てられた濡れタオルが、顔の火照りを取ってくれている。それがなければ、今頃顔は真っ赤だ。

 少しすると額から手の重みが消え、代わりに頭を撫でられ始めるではないか。

「あ、あのぅ」

 昨日の夕方前から風呂に入っていない身だ。流石に気が引ける。

「なぁに?」

 ——な、

 聞き覚えのないその甘い音色に、反射的に一瞬身体が痙攣する。と、それに合わせてまた頭の上から失笑だ。

「どうかした?」

 そんなあざとさがむず痒いが、それがまた心地良くもある具衛は、すっかり毒気が抜かれている。

「丸一日、風呂に入ってないんで、髪臭いですから」

 と、とりあえず口を動かすと、また仮名が小さく笑った。

「あなたはホント——」

 素直で可愛い、のだとか。

 三八のオヤジを捕まえて——

 などと開きかけたその口を、具衛が密かに閉じる。仮名の方が年上なのだ。それが分かった事で、相手のために出来る事が増える感覚が素直に嬉しい、とか。

 俺も大概——

 浮ついている。

「好きでやってるんだからいいの。今の私は、こんな事しか出来ないし——」

「こんな事って」

 これ以上の事など今はない、と口走りそうになった具衛を、

「例えば——」

 と、仮名が転じて被せた。

「さっきの話の続きで——」

 それはこの状況の元凶で、今度は誤嚥しないよう、具衛は予め生唾を飲み込んでおく。

「将来私達が結婚したとしても、年齢的に子供を授かる可能性はとても低いの」

 念には念を入れた仮名の仮定は、それでも具衛の心臓に重い圧力をかける。

 年を明かしたばかりなのに——

 その次が、

 ——子供の話とか。

 突飛な話振りは全く理解不能だ。結婚すら夢のまた夢だというのに子供など。と思ったが、仮名には必要な話なのだろう。内に抱えず話せと勧めたのは、

 ——俺だしな。

 それが意見を求められる状況なら、答えてやらないと無責任というものだ。

「二人だけで生きていく選択肢は?」

 それで十分だと思える具衛が、また勝手に動揺する。この小面倒臭い、可愛らしい美女と二人で生きていくとか。それは動揺以上に、期待値が振り切れてはいないか。

「うーん」

「里親って方法もありますけど」

「そうだけど——」

 仮名にしては、いつになく歯切れが悪い。その声が何処か、いじらしいように聞こえるのは気のせいなのか。仮定の話とはいえ、好意を持ち合わす事なくこのような話を男とする女がいるのだろうか。

「どうせなら、もしそうなったら——」

 私はあなたと私の遺伝子が混ざった子供が欲しい。それを女に言われる男とは、生物学的にステータスなのではないか。それも、重ね重ねも只ならぬ美貌の君に、情緒的にせがまれるなど。

 う——。

 喉は落ち着いた筈なのに、またむず痒くなるし、頭の据わりも妙にソワソワし始める。

「どんな子が生まれて来るか、何か面白そうだと思わない?」

 そんな生物学的興味のような言い回しで、何かを紛らわしたつもりのようだが、実は密かに似たような事を考えている具衛が相手では、激しく逆効果だ。

「そんなモンですか?」

「そんなモンよ」

 昼日中だというのに、今度は妙に男女の絡みが妖しくなる。お互いの身体が一部でも触れ合っているせいだろう。いい加減、離れないとマズいと思った矢先。

「だって私、あなたの事好きだもの」

 などと、高飛車なお転婆令嬢が血迷った事を吐露した。

「——え?」

 周りに邪魔立てする事物はなく、静かな環境下で二人切り。それこそ子供染みた、恥じらいが乗った仮名の告白は、とても冗談には聞こえない。

 俺なんかが——

 それに乗ってよいものか、と思ったのは一瞬だ。そんな逡巡(しゅんじゅん)など、抑え切れる訳がない。

「わ、私も——」

 と、濡れタオルを取ろうとした手を、逆にまた上から押さえられた。その瞬間でまた身体が一々痙攣する。と、立て続けに、具衛の鼻先に甘美の気配が強くなり、同時に唇が熱を帯びた柔らかい物で塞がれた。合わせて触れる微かな吐息が、忽ち脳の沸騰させ、瞬間で鼻の奥が血なまぐさくなる。

 ま、また——

 気が遠退く、次の瞬間。

 今度は両頬を目一杯摘まれ、盛大につねられた。

「いっ——!?」

 お陰で意識は飛ばないが、

「いでででで!」

 そんな無様な声が、未だ重なる唇越しに漏れ出てしまう。それでも構わず、唇を重ね合わせ続けていた仮名が、少しして堪り兼ねたように、噴き出しながら離れた。

「ホント、ムードってものがないわねあなたは!」

「地味に痛いです」

「また失神したらマズいじゃないの。今日はこれから仕事なんだし」

 そんな愚痴のようなものと共に、合わせて膝枕も外す。そのまま立ち上がる気配と共に足音が離れた。ようやく解放された具衛が半身を起こすと、一瞬遅れで濡れタオルが額から腹に落ちて、出て来たのはやはり上気した間抜け面だ。昨夜もやられた

 ——ってのに。

 スキンシップに弱いのは、

 ——俺も同じだ。

 人の事など言えたものではない。

 タオルを手に取ると、すっかり温くなってしまっていた。それ程火照った具衛に構わず、仮名はさっさと帰り支度を済ませている。

「出勤までもう少し時間あるでしょ? お風呂入って支度したら?」

 流石に年の功と言うべきなのか。口元で薄く微笑む仮名の余裕振り。そんな、粋な雰囲気にすっかり飲み込まれている具衛に、

「また来るわ」

 と言い置いた女は、そのまま車に乗り込むとあっさり立ち去った。ラブシーンから続く、流れるような立ち去り際の振舞いの、何と鮮やかな事だろう。それこそ、何処ぞの歌劇団の

 ——役者みたいだ。

 事が絡む土壇場では、結局リードされっ放しだった具衛だ。

 俺に——

 彼の女の相手が務まるのか。

 目を瞬かせながら、間抜けにもつねられた頬を手でさすっていると、その麗人が乗った車は、あっと言う間に見えなくなった。


                  終

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