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十四夜(中)【先生のアノニマ(上)〜8】

 同じ日の夕方六時過ぎ。

 お馴染みのTシャツ、綿パン、サンダル姿にリュックサックを背負った具衛は、仮名のタワマンにいた。サブエントランス前の緑地にあるベンチに所在なく腰を下ろして一休みしていると、中からチュニックワンピースとワイドパンツにサンダル履き、という軽装で出て来た仮名が、如才なく具衛の姿を見つける。具衛の出立ちが、いつもながらはっきりしない色味である事は最早言うまでもないが、今日は仮名のそれもはっきりしない。全体的に淡いカーキ色、と言えば収まりがつくような、地味な色合いの服は、着飾らない部屋着という事だろう。やや遅れをとる形でその姿を認めた具衛が、仮名が近寄って来るのを押し留めるように素早く立ち上がると、その女に迫る。

「何か、ダッシュが効いてるわね」

「もう外に出ても大丈夫なんですか?」

 具衛がサブエントランスのすぐ外側で仮名を捕まえた事で、自動ドアが開いたままになった。それを気にする仮名が、自動ドアのセンサーから外れるように横滑りする。

「出ていいも何も、押しかけられたら出るしかないでしょ」

「ええっ!? そうなんですか!?」

 具衛があからさまに怯んでたじろぐと、

「ウソウソ、大丈夫。昨日お医者様から、一応完治の診断はもらったから」

 と言う仮名は、気のせいか少し細っそりしたように見えた。

「そもそも表に出られないようなら、押しかけさせないわよ」

 流行性耳下腺炎。ムンプスウイルスの感染に伴い発症するそれは、一九六七年のワクチン開発以前は、世界的な小児疾患の代表選手だった。途上国では今も尚脅威となっており【おたふく風邪】という通称名は、日本でもお馴染みだ。が、仮名は未だに馴染みがなかったらしく、この度見事に感染したのだった。

 盆踊りの後、具衛が勤める施設に入所する、射的屋事件の被害少年ショウタが、おたふく風邪になった。どうやら盆踊り当日から既におかしかったらしく、祭りに行きたいがため無理をしていた事が発覚したのは、当の本人が帰所後高熱を出し、周囲を慌てさせた事による。不思議と他の子供には感染しなかった一方で、どうやらそれを、免疫を持たない仮名が一身にもらってしまったと分かったのは、今夕のあのメールだ。

 大人になってから(かか)るおたふく風邪はひどい、という都市伝説があるが、これは正しいらしい。何もおたふく風邪に限った事ではないが、大人の方が体内に入ったウイルスに抵抗する力が強いため、その反動で症状が強く出てしまうのがその理由、とか何とか。

「うちのショウタのヤツが、とんだご迷惑をおかけしてすみません!」

 具衛は周りを憚らず、駆けつけた勢いそのまま深々と頭を下げた。彼の少年がおたふく風邪と分かっていれば、施設側は祭りに連れて行く事などなかったのだが、人は欲のためならウソをつくものだ。それが精神が未発達な子供なら、特にその傾向が強い事ぐらい、子供を預かる施設の職員なら理解していて当然。ならば、例え本人から申告がなかったとしても、異変に気づかねばならなかった。外ならぬ端くれ職員の具衛も、祭りでその少年を見かけた一人だ。確かに単なる夜間の留守番職員とは言え、施設の職員である以上大なり小なり過失は免れない。ショウタの元気そうな様子に、まんまと騙された責任というヤツだ。

「そんな。あの子の事を悪く言わないであげてよ。あの子だってなりたくてなったんじゃないんだし」

 とは言うものの、大人のおたふく風邪は重症化すると、厄介な合併症を引き起こす事がある。脳炎を引き起こす髄膜炎や、精巣炎、卵巣炎になると子供が出来なくなったり、難聴の後遺症を患う事もある。事実仮名も無菌性髄膜炎を発症し、昨日まで丸々二週間自宅療養していたらしい。それは所謂風邪によく似ており、養生していれば大抵の場合、自宅療養で完治し後遺症もない。仮名も順調に回復し、本人が先程口にした通り、昨日医師から完治の診断を受けたとの事だった。今は連絡を受けた具衛が、独断ではあるが、着の身着のまま一応施設職員の格好で謝罪に訪れた、という状況だ。

「それより周囲の目を考えなさいよ」

 平身低頭の具衛に加え、威風堂々たる仮名の佇まいが合わされば、

「それこそ悪代官がいじめる構図でしょこれは」

 と言う表現は、確かに的を得ている。それを出入りが激しいタワマンの出入口でする事の、注目度の高さだ。何せ一〇〇〇世帯が入居するそこの夕方時ともなれば、流石に通りすがりの不特定多数の目が痛い。

「あ——」

 とか、慌てて周囲の様子を伺った具衛が、

「重ね重ねすみません」

 などと、また深々と頭を下げた。

「だからそれをやめなさいって——」

 言ってるのよ、と言う仮名を差し置く具衛が、今度はリュックサックの中から大きな白い買い物袋を二つ取り出し、仮名に突きつける。

「不調法なのは承知の上なんですが——」

 と、仮名の鼻っ面に出したそれは、全て貰い物という例のピオーネ一房と、きゅうりとトマトの山盛りだ。

「途中で氷買って、一応冷やしながら来ましたから」

「ちょ、ちょっと! それが分かってるんなら暴走しなさんな!」

 落ち着いて客観視しろ、とか言う仮名が、珍しくもあたふたしている。

「悪代官が農民から搾取してる構図でしょうがこれは!?」

 また例によって悪代官を持ち出すと、両手でそれを押し返した。

「だいたい感染症なんて、誰が誰にうつしたとか、はっきり分かる訳ないでしょ? 疫学調査した訳じゃあるまいし」

 と、その仮名が、押し返した袋の横に顔を突き出して来る。

「あの子が私にうつしたなんて、誰も言い切れないのよ」

 その顔をモロに拝まされた具衛が、瞬間で固まった。そのあざとさのようなものは、最近の仮名がランダムに繰り出してくれる金縛りの術だ。それが物の見事に、入れ込み気味の具衛を食い止める。

 思わず見入った仮名の顔は、いつもと比べると明らかに化粧気がない。病み上がりの影響か、只でも色白の面立ちが、いつもにも増して白いような気がする。困った事に、それが妙に色っぽいのだ。常日頃の凛々しい仮名が太陽なら、病み上がりのか細さは月のように見える。強調されたつけ睫はなく、目や眉も描かれていないようで、明らかに顔にアクセントがない。化粧も部屋着仕様という事だろう。それはよりすっぴんに近い顔で、殆ど仮名の素顔という事だ。整った顔をしている事は分かり切っていたが、普段の鋭い顔つきとは違って、

 い、意外に——

 可愛らしい顔をしているというか、

 ——何と言うか。

 その秘密をまた一つ知ると同時に、思いがけない一面に動揺する具衛だ。が、仮名にとってそれはプライベートで、他人に覗かれたくない一面だろう。そこまで考えてようやく理解する、己の軽薄さ。今更ながら、一方的な謝罪とは自己の過失を軽くしたいだけの身勝手で、厚かましい赦免の要求だと気づかされると、胸の辺りから脳にかけて、後悔の念がじんわりと重たく伝い始める。

 ——ま、

 毎度毎度の、己の鈍さと至らなさだ。

「と、とにかくこれは受け取ってください!」

 勝手にいたたまれなくなった具衛が、殆ど無理矢理仮名の顔に袋を押しつける。

「ちょ、何するのよ」

 その美声が袋のせいで少しこもった瞬間、袋が軽くなった。仮名が袋を手にしたのだろう。逃げるチャンスだ。が、

「私は帰りのバスが切迫しているのでこれで!」

 などと、素早くも逃げるように後退りした具衛が、また深々と一礼して反転した瞬間、

「待ちなさいよ!」

 と、雷声一閃。仮名に片腕を掴まれ背中に捩り上げられると、呆気なく捕まってしまった。

「あたたっ」

 見舞いと謝罪に来た上、相手は知己の女だ。精一杯抵抗出来ないもどかしさの代わりに、具衛が情けない悲鳴を小さく上げる。が、その腕は本当に極められており、地味に痛い。

「自分だけ楽になろうったって、そうはいかないわよ!」

 背中越しの仮名が、耳元で滑舌のよい早口を発しながらも、てきぱき具衛の両腕を極めてしまうその手業は相変わらず。

「どうしてもって言うんなら、ちょっとついて来なさい」

 腕を極められれば自然身体は密着する。と、立ち所に

 ——いい匂い過ぎる!

 程のフェロモン攻撃だ。(たちま)ち脳は思考を失い、頭はのぼせるばかり。腕の痛みなどどうでもよくなり、ずっとくっついていたいと思わせるそれこそ恐るべき手業としたものだ。もうどうしようにもない。それでも最後の矜持で、

「こ、これこそ悪代官が農民をいじめている構図なんじゃ——」

 と、みっともない抵抗もむなしく。結局そのまま仮名に、サブエントランスの中へ押し込まれてしまった。


 三分後。

 具衛が連行されたのは仮名の家だった。軽く三〇畳はある居間は只広いばかり。その一角にある応接ソファーに、居心地悪くも座らされている。立派なそれは、柔らかくもしっかりしており、不思議な質感だ。本来の座り心地はきっと良いのだろうが、畳間に慣れた具衛の尻には、とにかく落ち着かない。眼前は、ベランダ越しに広島湾が一望出来る。低所に住み慣れた者には有り得ないその眺望。尻も目も落ち着かず、リュックを膝上に抱えて畏まっては、只々目を瞬いている。

 腕が——

 まだ痛い。

 結局、仮名の家に連れ込まれるまで、腕を極められたままだった。受付前を通過する時など、怪訝そうに声をかけるコンシェルジュに、

「駄々を捏ねるお客様なので」

 ホホホ、と笑う仮名は、後ろから散々蹴散らかしてくれたものだ。歩けばお互いの足が絡む程の密着感で、具衛の脳内は殆ど麻酔状態。当然、ウブな男が何か言える訳もない。その行為自体は殆ど逮捕監禁紛いの蛮行だが、そこは己の浅知恵も因果を含むため、飲み込む具衛だ。

「大丈夫?」

 気がつくと、盆の上に何か飲み物が入ったグラスを、ソファー前のテーブルに置く仮名がいた。

「え?」

「腕」

 と仮名が、具衛に向かって手を伸ばす。

「あなたの関節、年の割に柔らかいから、つい思い切り捻っちゃったわ」

「も、もう大丈夫ですから!」

 また捩られては堪ったものではない。慄く具衛が、大きく身を逸らした。それを見た仮名が、

「そう」

 と、伸ばしかけた腕を止める。

 それもあるんだが——

 不用意に近づかれると、一々動悸がして心臓に悪いのだ。

「リュック、置きなさいよ」

「いや、汚いですし」

 乱雑に扱った事はないし、地べたに置く事もなく、それなりに大事に使っているつもりではある。が、余りにも整い過ぎた室内では、異物を置くような隙など見当たらない。何より具衛の存在自体が、半端ない異物感だった。

「まぁこれでも飲んでなさいよ」

 その雑な言葉遣いとは裏腹に、所作は丁寧で慎ましく、一々美しい。堪らず肩をすぼめた具衛が俯いていると、

「病み上がりの元病人に気を遣わせるって、どうなのよ全く」

 とか愚痴りながらも、仮名が籠を傍に持って来た。

「十分綺麗なリュックじゃないの。押しかけといて今更気を遣う訳?」

「すみません!」

 その愚痴に、尻尾を踏まれた猫の如く直立する具衛だ。

「ああもう、分かったから座ってなさいよ。アニメ以外で反射立ちする生き物を初めて見たわ」

 それを見せつけられた仮名が失笑しながら、

「冗談よ、冗談」

 お座り、などと、犬扱いで具衛を窘めた。そのまま徐に、テーブルの上にあるリモコンでテレビをつける。すると、室内壁面にある家電量販店でしか見た事がない、最早何インチなのかよく分からない程の大きさの画面が、電子音を発する事なく静かについた。

「テレビでも見てて」

 と、言うなり仮名は、キッチンの方へ足を向ける。

「すみません」

 具衛は、へたり込むように再びソファーに腰を下ろし、力なく籠にリュックを入れると、

「頂きます」

 と、蚊の鳴くような小さな声で、出された飲み物に口をつけた。が、静かにしているつもりが、その

「うまっ——!?」

 い物に、いきなり声を上げてしまう。

「な、なんじゃこりゃあ?」

 背の高いグラスに入ったそれは、色味だけなら抹茶だ。が、味は明らかに、抹茶のそれではない。野菜と果実が混ざった、爽やかで仄かな甘味と酸味がある。

「お気に召されたようでよかったわ」

 ハーブスムージーらしい。そう言われて納得した具衛だ。爽やかな香りが鼻や喉に抜けるそれは、季節柄体調に関わらずがぶ飲み出来るだろう。僅かに首を傾げ、然も不思議な物を見るような具衛に、仮名は続き様で、具衛が持って来たトマトの湯むきを盛って来た。

「ホントは冷やして出したいんだけど、とりあえずつまんでて」

「重ね重ねすみません」

 謝意はよかったが、一つ口に入れてはまた叫ぶ。

「田舎のトマトも、一手間で洒落るモンですね」

 軽く塩を振っただけの湯むきだ。が、皮がないだけで驚く程口触りが良くなったその上品さ。更に驚くべきは、仮名の手際の良さだった。持って来たばかりのトマトを早速調理するなど、中々手慣れている。

 具衛は、室内東側に据えられたテレビを見る振りをしながら、西側のキッチンで調理に勤しむ仮名の動きを見ていた。キッチンは西側壁面にシンク、コンロがあり、流行りのアイランド型ではない。つまりは居間に背中を向ける格好で、調理を進める事になる。具衛もそれなりに主夫歴が長い男だ。その手際の良し悪しは感覚で分かる。忙しさの中で少しでも節約するため、可能な限り自炊。そうせざるを得ない身の上だった具衛は、大した物は作れなかったが、それでも作る事は手慣れていた。同時に様々な行程をこなす計画性、包丁やフライパン捌きなど器具を扱う器用さ、調理に対する関心と配慮は、

 ——料理は愛情か。

 と言わしめる、その所以だ。

 生きるための糧を得る、その本能的な行動に愛情を注ぐ事で、料理というより良い糧を得た人類。それは、他の動物と明確に分け隔てる高度な文化文明を構築するに至る、重大な一片となった。人類が続く限り、料理のそうした側面は決して変わらない。その意義の大きさだ。

 と思うんだが——

 過去に具衛にすり寄って来た女達は、そうではなかった。現代は、性差で役割が分担される時代ではない。が、それにしてはどの女も具衛より雑で粗末で、それでいて顔はよく覗き込み手を加えた。家事は生活の基本なのに、それよりもまず顔だ。そのザマは、飯も食わずごみを放置して化粧をするも同じ。前半生の日常は、殆ど生き抜くための戦いだった具衛にとって、表面的な見映えなど足しになったためしがない。その無駄を、女達はあからさまにしていた訳だ。男と女の価値観の違いだろう。それは、より優れたオスに選ばれんとするメスの本能という事なのだろうが、具衛は次第に見た目に固執する人間を避けるようになった。その体裁が、いざと言う時、何かの足を引っ張り窮地を招く。それをまんまと自分が負わされる事の危機感。

 確かに——

 ある程度の身嗜みは必要だろう。が、具衛は、そんな女達を見るうちに、それにより失われるべきではない生活の基盤が失われる事の危うさを恐れるようになった。

 男は確かに、美人に弱い。瞬間的には見惚れるだろう。生物学的なオスなら、それでメスを選び、種を残すものなのかも知れない。が、複雑にして高度な社会性を築き上げた人類の男女だ。それだけで伴侶を

 ——選んでもよいモンかね。

 難しく考えるつもりはなかったが、そこが男女と夫婦の境目である事を、具衛は自己解釈していた。

 仮名は男女としての女という観点では、採点基準の物差しを振り切るような女だ。最早言うに及ばない。そのまま社会の中に横滑りさせても、女傑めいていて非の打ち所がない。が、家ではどうなのか。実は、気になっていた。家庭に入った時、この途方もない美女はどうなるのか。それを覗く事は、通常それなりの関係性を構築しない限り無理だ。

 それを——

 思いがけず、目の当たりにさせられるとは。外面は良くても、家はめちゃくちゃという話はよく耳にする。そうした観点で仮名の生活振りは、具衛の稚拙な想像力では正直なところ未知数だった。

 具衛が知り得る外面の仮名は、言葉は砕けているのに所作は整っている。そんなチグハグ振りがおかしい絶対美人。それが、今目の前にいるその女のエプロンの着こなし振りはどうだ。具衛は、自分の人を見る目のなさに呆れていた。何処かしら洗練された美しい所作が身についているような女が、いい加減な私生活を送る訳がない。むしろ、日頃の乱暴な言葉遣いの方がわざとらしく見えて来る。

 何でこんなに——

 何でも出来るのか。具衛は内心で舌を巻いた。てっきり、メイドに囲まれたお嬢様生活を送っているものと、勝手に高を括っていた。何処かで、世間知らずを侮っている向きがあった事は認めざるを得ない。今日の手際を見て、それをついに改めなくてはならないと痛感させられる。

「そろそろこっちにいらっしゃいよ」

 いつの間にか、テレビを見ながらボンヤリ考え込んでいた具衛は、ダイニングテーブルに配膳を済ませる寸前の仮名にようやく気づいた。

「あ、すみません!」

 また反射立ちをする具衛が、テーブルに並べられた二人分の料理に唖然とする。施設職員の代表のつもりで押しかけた結果が、晩飯のご相伴だ。その至らなさの極みに、穴があったら入りたいとは、まさにこの事だった。

「いいから食べましょうよ」

 仮名はもう着席している。

「お詫びとお見舞いに来たのに、最早何と言ったものやらで——」

「無闇に押しかけた報いね」

 と、にべもない。

 のろのろとテーブルに歩み寄った具衛は、物の二〇分程度で配膳された大小何皿もの料理に驚いた。メインはサラダうどんのようだったが、その周りに小鉢が七つ。厚焼き卵、ひじきと豆の煮物、胡麻豆腐、トマトの湯むき、かぼちゃの煮物、ほうれん草の白和え。最後は水菓子で、具衛が持って来たピオーネだ。

「この短時間でこんなに?」

「作り置きや貰い物ばかりよ」

 と言ってはいるが、うどん、卵焼き、トマトは調理しているのを見ている。やはり、その手際の良さだ。

「まぁ病み上がり食だから。そこは勘弁してね」

 言いつつ仮名は、具衛を対面席に促した。

 目のやり場に——

 困るなどと、密かに困惑しながら着席する。と、仮名が、

「では頂きます」

 と宣言して、早速箸を取った。かと思うと、

「まぁあなたはあなたで、施設の過失に責任を感じての事なんでしょうけど」

 などと、その箸を動かしながらも、核心を突いてくる仮名だ。いきなり痛いところを突かれた具衛が、つい顎を前に突き出して驚く。

「あ、ゴメンゴメン。責めるつもりじゃないから。ほら食べて。それとも粗食で箸が進まない?」

「いや、そんな——」

 その後の句で、

「——では、有り難く頂戴します」

 と堅苦しい具衛が、遅ればせながら箸を手に取った。それに

「仰々しいわね」

 と、軽く噴いた仮名が、

「がっかりしたでしょ。もう少し豪勢な物を食べてると思ってたんじゃない?」

 と、そんな図星を突きつつ、サラダうどんをズルズルと啜る。病み上がりでも、察しの良さは相変わらずだ。

「そうですね。毎日がステーキのイメージというか」

「そんな富裕層も、いないとは言わないけど——」

「古臭い成金のイメージです。偏見めいた」

「急に素直になった」

「あなたの勘の良さには、もう降参です」

「結構ね」

 微笑んだ仮名が、また別皿に箸を伸ばした。食の進み具合の早さに、少し心が軽くなる具衛だ。どうやら完治は本当らしい。

「食事は菜食中心よ。根菜や豆類が多いかしら。ランチは外食だから別として、一日の食費が朝夕で千円程度なんて事は結構あるわ」

 と言う仮名に、

「それは意外過ぎます」

 と、具衛は素直に驚いて見せた。タワマンの最上階に生活するような人間が、食費を認識しているなど。

 ひょっとして——

 家政婦的な愛人か何かなのか、と思ってしまったのは一瞬だ。それならば仮名のこれまでの言動は、大体の事の辻褄が合ってしまう。が、

 ——違うか。

 それを即否定出来る程の、仮名の大物然とした凛々しさだ。そして、そうした思考は、

「家政士さんにお世話になった事もあるけど、家事は自分でやって来た期間の方が長いわね。もちろん富豪の愛人なんかも経験がないわ」

 などと、当然の如く見透かされてしまう。

「一々すみません」

 思わず天井を仰ぐ具衛だ。

「肉や魚は、普通の人より食べないでしょうね」

 その普通を認識している事の意外。市街地の中心部で高空に住む人間が、市井を意識している事自体が奇跡に近い。

「盆踊りの時は食べたけど、普段は味の濃い物は食べないし、肉も魚も週一程度ね」

 ハムは食べるけど、とサラダうどんに乗っているそれを掴んで口に運ぶ。

「ある程度歯応えがあって、身体を維持出来る栄養が取れればいいのよ」

 と言う仮名が、

「お酒は別だけど」

 とつけ加えた。花火大会の時も盆踊りの時も、ノンアルコール製品を結構飲んでいた女だ。流石に酒は、良さそうな物を飲んでいるだろう。

「それなりの物をそれなりに飲んでたりするわね」

 やはりそれを肯定する。

「安酒は混ぜ物が多くて、身体に毒ですから」

「そう! そういう事!」

 などと、必要以上に力強く同意する仮名のそれは、建前にしか見えない。二人は軽く噴き出した。

「でも、浴びる程飲まないわ」

「イベントの時だけですか」

「うん。普段は飲んでも二、三合ね」

 とか言う酒量の言い回しが、また意外にも庶民染みている。

「健康にはそれなりに気を遣ってるつもり」

 そのフレーズに、具衛がまた凹みそうになるのを仮名が、

「食に贅を凝らさないって意味よ」

 とフォローしてくれる。が、何にしても、目のやり場に困る具衛は、常に軽く俯き加減だ。

「美味しい物にお金をかける幸せもあるんでしょうけど——」

 仮名は、身体を資本に色々楽しみたいタイプらしい。

「お陰様で、病気療養なんてのも久し振りだったしね」

 と言ったかと思うと、急に具衛の目の前が静かになった。それに正気を取り戻した具衛が顔を上げると、仮名が正面から見据えているではないか。

「な、何か?」

 その泰然たる気配に、一瞬で飲み込まれそうになった具衛が思わず仰反る。

「今日のあなたは、私の見舞いに来たの」

 その目が、具衛の目を掴んで離さない。

「私のおたふく風邪は、施設とは関係ないから」

 文字通りの、蛇に睨まれた蛙だ。こんな時に具衛は、何となく蛙の気持ちが分かったような気がした。

「あの子を責めちゃダメよ」

 その有無を言わせない圧は、

 あ、あれか——

 メドゥーサだ。途端に背筋に冷たさを覚える具衛が、本人を前に勝手な想像をする。頭髪に数多の毒蛇を有し、目力で見たものを石に変える事で有名なギリシャ神話のその怪物の元は、地母神ガイアの孫に当たる美少女神だ。それが海神ポセイドンの愛人になった事に起因して怪物にされてしまうのだが、

「聞いてるの?」

「え?」

「またボンヤリしてる」

「い、いえ」

「どうせメドゥーサあたりを連想してたんでしょ」

 と、また図星だ。あからさまにたじろぐ具衛にしてみれば、

 ——エスパーか!?

 と対峙しているかのような感覚。つい言葉を失う具衛の前で、

愛人(ポセイドン)はいないって、さっき言ったでしょうが。——じゃあ、ただの美神?」

 なんちゃって、などとしれっと捩じ込む仮名のそれは事実だ。

「分かった?」

「——え? はい」

「何が分かったの?」

「え?」

 石になる程の魔力はないが、一瞬で話の内容を見失う程の美貌は有している。

「とりあえず全部」

 参った具衛が、ヘコヘコしながらやっつけ気味に答えると、仮名が小さく噴き出した。

「分かれば宜しい」

 結果としてその配慮により、具衛の独りよがりが認定された訳だ。施設側の過失は不問。後に残った具衛の見舞いは、それ以上の返礼によって帳消しにされてしまった。

「お見舞いの品々は、有り難く頂戴しておくわ」

「いや、押しかけた挙句それ以上の返礼で——」

「言わないの」

 こんな時の仮名の一言一言は、静かな中にも二言を許さない。

「私がそれでいいって言ってるんだから、それ以上言わない」

「はぁ」

 具衛は、情けない返答をするので精一杯だった。


 午後七時過ぎ。夕食後。

 具衛はやはり、落ち着かない座り心地のソファーに座らされていた。所在なく、リビングのテレビで全国ニュースを見ている。

 食い終わってすぐ——

 帰ってもよいものか。

 具衛は、お愛想のタイミングを図っていた。そもそも想定していなかったご相伴だ。帰るタイミングを推し量るなど、想定外にも程がある。

 病み上がりで飲酒を伴わなかったためか、予想外に早い食べ終わりだった。本当に多少なりとも会話をしながら食べたのか、と思わざるを得ないような会食で、殆ど一人で食べる時とそんなに変わらなかったのではないか。そんな食べっ振りだった。如何にもせっかちなその食べ方は、仮名らしいと言えばらしく、具衛は密かに笑いを堪える一方で、予後の順調振りに安心した。その仮名は、キッチンで後片づけをしている。外はすっかり日が暮れていた。

 暖色系のフローリングとオフホワイトの壁紙のあつらえの室内は、白を基調とした調度品で揃えてあるが、真っ白という訳ではない。整然としていながら、仄かな暖かみが漂う生活感のある心地よさ。それは普段、洗練された雰囲気を纏う仮名のそれとは、意外過ぎる程遠い印象だ。

 リビングの南側は全面がガラスサッシで、カーテンはなく外は丸見え。タワマンの最上階だけに、見える範囲に同じ高さの建物は見当たらない。外の視線を気にする必要がない、という事だ。そのサッシの向こう側には、これまたタワマンの最上階とは思えない程の広さのベランダが見える。よく見るとそこにもソファーらしき物があり、リビング同様に整っていて、普通のそれのイメージとは一線を画した趣きだった。ベランダと言うより、

 ——部屋?

 だ。

 そんなどうでもいい事をボンヤリ考えていると、仮名がそのベランダ側のサッシの一部を開けた。そこのソファーの向こう側にしゃがみ込み、何やらテーブルを拭くような仕種をしている。かと思うとまたキッチンに戻り、今度はお盆に何やら飲み物が入ったグラスを乗せ、またベランダへ足を向けた。その通りすがりに、

「こっちへ来ない?」

 と、声がかかる。

「え?」

「夕涼みよ」

 短く答えた仮名はそれ以上言わず、リビング照明の明度を落とすと、そのままベランダのソファーにどっかり座った。少し迷った具衛だが、リモコンでテレビを切ると、そそくさとベランダに入る。

「これが、ベランダ——?」

 アウトドアリビング型のベランダで、居間の半分程度の広さのそこの南端には、やはりガラスサッシがあった。その向こうには幅二m程度のベランダがもう一つ。外ベランダと言えばよいのか、その南端にはもうサッシはなく、一m少しのすりガラス調の塀があるだけだ。その向こうは空、という事なのだろう。外ベランダは植栽で埋め尽くされていて、やはりタワマンの最上階とは思えない。内ベランダだけでも山小屋より広いのではないか。そんなところがない交ぜになった具衛の呟きだ。

 仮名が腰を下ろしたソファーがある内ベランダは、居間の延長のようで、フローリングのようなウッドデッキのような床面は、普通の部屋と変わらない清潔感を帯びている。床以外の面の骨組み以外は、天井も含めてガラスサッシか窓ガラスになっていて、それらが全面開放されて外気が入って来ていた。耳を澄ますと下界の騒音が僅かに届くが、街の中心部にありながら排気ガスと騒音を気にする事なく窓が開けられるという居住環境の凄さだ。

「ぼさっとせずに座ったら?」

 具衛は呆気に取られながら、腰が砕けるようにソファーの端にへたり込んだ。ソファーの横幅はちょうど畳一畳分程度。右端に座った仮名に相対して、左端に腰を下ろした具衛のそれは、山小屋で縁側右隅に腰を下ろす仮名と、居間中央の座卓に陣取る具衛との距離感よりも明らかに近い。何より二人の間に何も遮る物がない、という事に強い違和感を覚えた。

「そんなに警戒しなくても」

 と失笑する仮名だが、妙な据わりの悪さに戸惑いを隠せない具衛だ。今更ながらに、山小屋の座卓の偉大さを痛感させられるが、今この場ではどうしようにもない。図らずも右半身に力が入る。そんな具衛をさておいて、

「良い季節になったわね」

 とか言う仮名の余裕振り。今日はいつぞやのバーベキューとは異なり、土俵は名実共に完全に仮名のものだ。相撲も勝負も今の具衛につけ入る隙など何処にもない。文字通りの、なされるがままの状況。俄かにこれは、

 ——ひょっとして。

 何事か召され兼ねない(・・・・・・・)のではないか。思考が妖しくなり始めた。嫌な汗が背中を伝う。

 こんな只ならぬ状況でもなければ、街でも夜はそれなりに涼しくなっている時期柄の筈だった。天窓から入る夜気は、山小屋の夜気に比べるとまだ熱を帯びているように感じるが、クーラーはいらない。街中の事で流石に星は見えにくいが、殆ど雲がかかっていない月夜だった。

「どうぞ」

 と、仮名が座ったまま差し出したグラスは、食前に飲んだスムージーの時とはまた違った、背の高いグラスだ。それに七、八割方入った液体は淡い琥珀色をしており、一見して、

「ウイスキーですか?」

 と言いたくなる。

「な訳ないでしょ」

 当然、すぐ仮名に切られる具衛だ。

「あなた、お酒飲まないじゃない」

 これもまた、ハーブティーらしい。そのまま仮名が、グラスに口をつけた。病み上がりでいきなり酒をあおらないところなどは、豪快そうに見えて本当に健康には気を遣っているようだ。実はこうなった以上、以前仮名から耳にした曰くつきの「自家製サングリア」を飲んでみたい気もしていた具衛だった。が、それを催促する事で、仮名が飲みたくなっても悪い。

 大人しく具衛もグラスを呼ばれてみると、何種類かブレントされているらしいハーブの香りが、鼻や喉へ爽やかに抜けた。

「スッキリしますね」

「食後に歯磨きしなくてもいいぐらいにね——まあ、歯磨きするけど」

 お互い立て続けに二、三口飲む程の口当たりのよさだ。

「身体の中もいい匂いになりそうですね」

「アロマ効果ね。他にもリラックス、鎮痛、幸福作用等々かしら」 

 とか言う仮名が、

「それよりも、何か気づかない?」

 と、思い出したように言った。

「何がですか?」

「匂いよ、匂い」

「匂い?」

 首を傾ける具衛が、またハーブティーを飲む。が、

「それじゃなくて」

 部屋の匂いの事らしい。

「やっぱり気がつかないか」

 と言う仮名が、匂いを嗅ぐ仕種をしてみせた。具衛の鼻は、既にハーブティーの匂いに満たされていて、他の匂いなど全く気づかない。

「我が家もバイオ洗剤にしたのよ」

「ええっ!?」

「米糠とふすまの。売ってるのよ、世間様で」

 女の事なら、肌身に触れる物の事だ。それまでのお気に入りも、

 ——あったろうに。

 俄かに熱く語る仮名の横で、具衛は密かに、己の思いがけぬ影響力に驚く。

「洗剤も石鹸もシャンプーも。化粧品もあるから、変えられるものは全部変えたわ」

 確かに言われてみれば、嗅ぎ慣れた匂いが仄かに

 漂っているような——

 そうでないような。とにかく部屋が広過ぎて、正直具衛にはよく分からない。もっとも仮名は、それこそ他のアロマも焚いたりするのだろうから、その匂いと喧嘩せず、匂いが混ざって別の匂いになっているのかも知れない。

「洗剤はいいとしても、化粧品まで大丈夫ですか?」

「これが中々気に入ってるの。さっきのお酒の話じゃないけど——」

 余計な混ぜ物がなく、クレンジングも驚く程よく落ち、肌ツヤは良くなるばかりだとか。

「ホント良い事聞いたわ。先生様々ね」

 と、頬を突く仕種をする仮名だ。弾力や肌ツヤの良さをアピールしたつもりなのだろうが、男の具衛からしてみれば、大体基がずば抜けているだけに、その違いが全く分からない。それよりも、その素肌を拝まされた事の動揺の方が大きかった。

「はぁ、そうですか」

 本人が納得しているのだから、あえてそこに突っ込む気はないとして。具衛とっての問題は、一々絵になるその仕種だ。

「でも、部屋の匂いは気になりませんけど」

「あなたの家みたいに、原料を生で使ってないんだから当たり前でしょ。うちのは企業が作ったパッケージングされた物だし」

 と仮名は、今度は着ているチュニックの裾をバタつかせた。

「な、何です今度は一体?」

 堪らず慄いて身を逸らす具衛の鼻に、仄かな

「バニラのような香りが?」

 漂って来る。

「そうなのよ」

 それはメキシコや中央アメリカを原産とする、ラン科の常緑の蔓性植物だ。樹木などに絡まり成長し、長い物になると六〇mを超える。香の素となるのはその蔓の種子。採取する豆(種子鞘)自体に香りはないが、発酵と乾燥を繰り返す事で、世に言う独特の甘い香りを発するバニラビーンズとなる。これを抽出したものが、その名を冠したエッセンスやオイルとなり、アイスクリームを始めとする洋菓子の香料となる。が、

「バニラビーンズって、結構高級品なのよ」

 だったりする。

「レユニオンやタヒチの物が有名ですよね」

「でた、詐欺師」

 と言う仮名のそれは、今となってはその意外性を褒めるフレーズだ。その一方で、具衛にとっては、

 レユニオンとは——

 密かに懐かしかったりする。が、ひとまずここではその高級品の話。二人が言うように、このバニラビーンズは庶民にはややお高い。具衛が口にしたレユニオンとは、有名な産地の一つで、マダガスカル東方約八〇〇kmのインド洋上に浮かぶ仏領だが、そこの物だと日本円で

「一本一〇〇〇円はくだらないんじゃ——」

 その一方で市井では、バニラは安価で溢れていたりする。その理由は、香りの主成分であるバニリンが安価で合成出来るためだ。紙などの製造過程でパルプを加工する際、その廃液にリグニンという物質が副産物として得られる。が、それを酸化させるとバニリンが得られるという裏技だ。他にも、ビーバーの肛門腺から分泌される海狸香(かいりこう)からも抽出出来るなど、様々な方法でバニリンの抽出法の開発は進んでいたりする。

「そのバニリンが、米糠から取れる米油からも取れるらしくてね」

 米油を加熱すると、その成分の一つがバニリンに変換され、甘い香りを発する。米油を使った料理が仄かに甘く香る理由の一つは、このバニリンが影響していると言われる。

「米糠洗剤で洗濯して乾燥機にかけたら、何か甘いバニラみたいな香りがすると思って調べてみたの」

 などと、俄かに楽しそうな仮名だ。それは盆踊りの時以来で、生き生きとしたその表情に、具衛は改めて悩殺されそうになる。

「熱を加えたからかしらね」

「何だか楽しそうですね」

 内面に溜め込んで悶々とさせられても敵わない。具衛は素直な感想を口にした。

「あなたもそうだったじゃない」

「は?」

「ほら、あの事故の日よ」

 言われて今更ながらに、只ならぬ仮名の気を紛らわすために、そんな話をした事を思い出す具衛だ。

 そんな風に——?

 見られていた、らしい。

 確かに「山小屋生活は楽しい」とか言う話をした覚えはある。が、それがどのように伝わるとか、考えもしなかった事だ。とりあえずあの時は、仮名が妙な気になりさえしなければ

 よかった訳で——

 今その女の部屋にいる事も含めて、現状を呼び込んだ予想外の波及としたものだろう。

「この発見を誰かと共有したいと思ってたんだけど——」

 事故の日を回想していたせいか。また仮名が、例によって寂然とし始めた。

「私ホント、周りに誰もいないし——」

「ユミさんがいるじゃないですか」

「家政士よ」

 ——やっぱり。

 年齢的にも、そうではないかと思っていた具衛だ。同じ空気感を醸し出していた二人は、何となくユミさんの立ち位置が低かった。

「鈍いあなたでも、流石に薄々気づいてたんでしょ?」

「まあ——」

 そうですね、と具衛が言い淀む。

「当面は仕事が忙しくて、家事に手が回らないだろうから——」

 この春、お気に入り家政士だったユミさんを拝み倒して、殆ど無理矢理広島に連れて来た、とか何とか。

「あの年で初めての単身赴任だったから。悪い事しちゃったわ」

 と、グラスを覗き込む仮名が、

「これもユミさん特製だったんだけど、今度から見よう見まねで作るしかないわ」

 と、ボヤくように呟いた。

「そう、ですか」

 長年世話になった腹心は広島出身で、周辺の地理にも明るかったとか。東京の本家では、腕を鳴らしていた敏腕家政士。何をやらせてもその道の一流に肉薄する小器用さと、物怖じしない気丈さを頼りにしていたのだそうだ。が、

「もう土地にも慣れて来たし、仕事も落ち着いて来たから——」

 有休消化で帰京中、と白状する仮名の顔が何処か寂しげなのは、ハーブティーの効能ではないだろう。

「そうでしたか」

「ホントはあのまま」

「え?」

「喧嘩別れしたまま」

 はぁ、と畳んだ両膝の上に顎を乗せる仮名の横顔が、今度は哀愁を漂わせ始めた。

「私としては——」

 いつになく緩んだその目尻は、常日頃の凛々しさとはかけ離れた、思いがけなくも弱々しい一面。

「もう一息親密に繋がりたいと思ってたんだけど——」

 主人と使用人の根底にあるのは、あくまでもビジネスの関係だ。

「それが覆せなかったなぁ」

 その目が口程に

 ——物を言うとか。

 今日の仮名は、抑揚の激しさは相変わらずだが、素直に見える。

「まぁ機会があれば、ユミさんには土下座するなりなんなりして謝るとして——」

「土下座ですか?」

 思わずおうむ返しした具衛の横で、顔を起こした女が急に明るいが、

「——当面、ホント独りになっちゃって」

 と、また萎む。

「おたふく風邪で休んでる時は、病気よりも寂しさが堪えたりしてね」

 感情の振り幅が大きくなると、可愛げが増すとか

 ——反則過ぎる。

 うっかりすると、只ならぬ事を口走って恥をかきそうだ。

「病は気からと言いますし。病気の時は、誰でもそうですよ」

 気がつけば、何だ急に風向きが怪しい。只でさえ二人切りの密室だ。妙な事になってもマズい。が、

「あなたのせいよ」

「はあ?」

 既にまた、何処かの地雷を踏んでいたようだ。

「この年でおたふく風邪になるって言ったら——」

 盆踊りで子供とはしゃいだ時以外に考えられない。でもそれを具衛に伝えると、施設の過失に責任を感じて謝罪で攻めて来るかも知れない。例え施設に過失がなくても、見舞いで攻めて来るかも知れない。何れにせよ、攻めて来たら具衛にうつるかも知れない。となると、連絡したくても連絡出来ない、云々かんぬん。ネチネチとした恨み節で、具衛を責め立てる仮名だ。

「私は子供の頃にやりましたよ、おたふく風邪」

 流行性耳下腺炎は、基本的に一度感染すると生涯分の抗体を獲得する。つまり生涯免疫を得る訳だ。が、

「再感染する事があるのよ」

 と仮名が言う通り、実は稀に必要な抗体が獲得出来ておらず、再感染するケースもある。また、過去に罹ったおたふく風邪が実は全くの別の病気で、抗体を獲得出来ていないケースなども。その場合、おたふく風邪に再感染したと思い込んだり。そんなこんなで、

「うつす可能性があるのに連絡出来ないわよ」

 事実、仮名のメールで押しかけた具衛だ。

「弁明の仕様がありません」

 事務的な返答で、せめて恥の上塗りを防ぐ。

「だから、あなたのせいなの」

 その一方的な決めつけの一方で、

「何か取り繕って、送ってもらってもよかったような——」

 気がしないでもない。

「逆におかしいでしょ。普段はショートメール程度のやり取りなのに」

「いや、出張とか旅行とか——」

 そんな程度のウソで済む話だ。が、

「何、やろうって訳?」

 と、俄かに凄む仮名の言い分も分かる。うつされた側に気を遣わせるなど、それこそうつした側の無自覚無責任というものだろう。

「いえ、やりません。すいません」

 こうなると、また蛇と蛙だ。

「だから、あなたのせいなのよ」

 あっさり白旗を上げた具衛に、得意げな仮名が、

「ご理解出来て?」

 とか、今度はまたいつもながらの余裕を浮かべる。具衛は大人しく、

「はい」

 と言った。

「どんどん素直になるわね、あなたは」

「だって敵わないんですもの」

 大義はどう考えても仮名にある。それに何かを言って捩じ曲げるような説得力など。

「そんなもの、持ち合わせる訳もない大多数の男なので」

「あら? いつか聞いたわね?」

「今日みたいに綺麗な夜空でしたよ」

「迂闊がどうとかで?」

 七夕に仮名の武辺を、具衛がくじいた時の事だ。

「今日はやめとくわ」

「素直じゃないですか」

「だって敵わないんだもの」

 二人が同時に、小さく失笑する。お互いそれだけのやり取りをして来て、揚げ足を取り合う程覚えている、という事実。

「そろそろお暇します」

 具衛が突然言った。笑い合っている間に、深いところにはまり込まないうちに、

 帰った方が——

 いいだろう。

 社会的身分は違えども、一応妙齢の男と女が二人切りだ。邪魔をする者もいない只ならぬ状況だけに、鈍い具衛も、

 ——危うい。

 と思う。

 宣言するなり、残りのハーブティーを一気に飲み干すと、

「どうもご馳走様でした」

 と、腰を上げた。が、

「ネットカフェかカプセルホテルに泊まるぐらいなら——」

 もう少しゆっくりして行きなさいよ、と言う仮名の一言で、あっさり引き止められてしまう具衛だ。

「——知ってたんですか」

 花火の時にしろ、盆踊りの時にしろ。ありもしないバスの臨時便を出して帰宅する振りをしながら、ネットカフェに泊まっていた具衛である。

「時刻表を確かめるだけじゃないの。そんな拙い手口で、余計な気を遣わせてないつもり?」

 とまで言われてしまうと、ぐうの音も出ない。硬直する具衛は、またしてもメドゥーサに睨まれた何かだ。

「余り人を侮らない方がいいわね」

 その通りだった。

 そうは言っても具衛は、やはり何処かで仮名を、世間を知らないお嬢様として見ていた。金と地位に物を言わせ、大抵の事をそれらでまかり通して来た世間知らずだと、富裕層を侮る向きが消えなかった。もっとも仮名は、そんな振舞を余りしなかったが、根底は同類だとする向きをどうしても拭う事が出来なかった。

「すみません」

「言わなかったっけ」

「は?」

「私は一人暮らしがそれなりに長いって事」

 そうだ。食費も家事もそうだが、一人で暮らして来たからこそ、市井の暮らし向きの事に触れている。何より事ある毎に、お嬢様らしからぬ配慮に感心していた具衛だ。「バスに乗った事がない」と言っていた盆踊りの時の事は飲み込むとして、子供達と楽しげにはしゃぐ姿や何かを思いやる姿に、一般的な富裕層とは違う向きを、仮名の中に見い出そうとしていた

 ——のになぁ。

 結局今に至るまで、根底に凝り固まった潜在的な偏見は、やはり拭えなかった。

「対等かと思ってたんだけど」

 普段の言動に余り熱を感じない仮名が、ネガティブに熱を帯びる時の、その痛烈は堪らない。

「それとも世間知らずのお嬢様だから、配慮と受け取ったものかしら?」

 相変わらず察しのよい、その容赦ない物言いに、

「古臭い偏見と見られても仕方ありません」

 などと、食事時の台詞をまた持ち出した具衛は、全面降伏した。

「——すいません。情けない弱者の僻みです」

「いいから座りなさいよ」

 吐き捨てるように言った仮名が、そっぽを向く。具衛はやはり、大人しく座るしかなかった。飲む物もなくなり、手持ち無沙汰だ。針の(むしろ)を甘んじて受け入れ、行儀よく膝上に両手を置く。親に怒られた子供が縮こまっているようだ。

「何で反論しないの?」

 そっぽを向いたままの仮名が、沈黙を破った。やや置いて、

「——事実ですから」

 と、往生した具衛が返す。

「こっちは痛い腹を自分で掻きむしったのよ。反論しないなら、それこそ何か取り繕ってくれないの?」

 すっかり蟻地獄だ。正直に言っても、取り繕っても、結局は責め立てられる。理詰めと感情を上手く混ぜた攻め方は、

 ——慣れてるなぁ。

 やはりこの女は、そうした立場の人間という事なのだろう。それにしても、最早どれだけの物に例えて来たか。すぐに思い浮かべる事が困難になりつつある具衛だ。

「ウソは良くないと分かったのなら、もう取り繕えませんよ」

 配慮の底意に侮る向きがあったのは事実なのだから、

「これ以上のウソは裏切りです」

 とつけ加えた時には、そっぽを向いたままの仮名は、明らかにふて腐れていた。屁理屈を重ねられて、拙い具衛が適う訳がない。それを仮名がどう考えようと、思った事を素直に口にするしか道は残されていない具衛だった。

「私は肩書きこそ明かしていますが、素性は伏せたままなので。その上為人(ひととなり)までウソはつけません」

 それではそれこそ、ウソでウソを塗り固める只の詐欺師だ。仮名が近い将来、自分の素性に触れる可能性を思うと、具衛はそれをしたくなかった。自分の正体にネガティブなこの男は、はっきり言って自分に自身がない。が、今ウソを重ねる事は、

「過去の自分に対してもウソをつくようで——」

 その果てに今の自分がある事を思えば、見た目に反して意外に真っ直ぐなこの男は、その無責任を嫌った。

 根拠、論拠で理論武装しないと生き残れない昨今の渡世。その支えに分かりやすい肩書きを求め、それこそが為人だと言って憚らない人種が、高度経済成長を実現し経済大国となった日本には、未だ相当数存在するものだ。が、

 ——そんなもの。

 具衛に言わせてみれば、それこそが詐欺師の走りのようなものなのだが、恐らく世間の大数はそうではない。忌々しいが、やはり肩書きや素性から形成される為人の側面も無視出来ないのだ。それと向き合うためにも、これ以上のウソや隠し事は、

「したくないし、出来ません」

 それは仮名のため、でもある。

 具衛のような人間など、その身の軽重だけなら、何処にでも転がっているような大多数の一人に過ぎない。それこそウソ方便で飾ったところで、世の体制に影響など及ぼしようがないし、自由自在だ。が、仮名はきっと、そうではない。

「それが軽々しく出来ないお立場である事は——」

 鈍い具衛でも、これまでの短いつき合いの中で何となく察していた。それを具衛が、身軽をよい事に好き放題取り繕うついでのウソを吐いては、騙される向きの仮名は気の毒というものだ。

 取り繕うとか、ウソとか、騙すとか。そもそも二人は、

「素性を伏せているだけの間柄の筈です」

 それ以上でもなければそれ以下でもなかった筈だ。素性を明かす事以外は真正でありたい。それはつまり、この先も良好で有りたいと思う

 ——って事なんだけど。

 流石にそこまで口にするのはキザだと思う具衛のそれは、煮え切らないこの男の体質だ。

 侮った向きは認めて謝罪した。合わせて底意に、関係性の在り方も示した。これでまだ何か突っ込まれようものなら、具衛はもう何も言えない。とか、内心で開き直っているその男の横の女が、そんなところで、

「——屁理屈だった。——ゴメン」

 と、蚊の鳴くような声を吐いた。そっぽを向いたまま、ボソりとばつが悪そうなそれだが、それでもこの女にしては、

 随分と——

 素直過ぎるような気がする。具衛は密かに驚いた。そんな女が立て続けに、

「こんなふうに。つい、ね。甘えちゃうのよ」

 ユミさんの時と同じだと、寂しげに漏らす。

「仕事でやったら、立派なパワハラだわ」

「やらないでしょ」

「え?」

「仕事上じゃ」

「どうして言い切れるのよ」

「外で本音をぶつけられないから身内に当たるって事は、よくあるものです」

「分かった口を聞くじゃないの」

 そのまま黙り込んだ仮名が、グラスに一口つける。と、足を組んでソファーに埋もれ、天井に目を移した。問答から解放された具衛も、横の女を刺激しないようにゆっくりソファーに埋もれると、殆ど仰向けになる。天井と左端のサッシの境目辺りにある東南の夜空に、満月がかかり始めていた。

「月が綺麗ね」

「ええ」

 満月に見えたが、よく見ると僅かに左側が欠けている。

「今日は十四夜(じゅうしや)らしいわ」

「そうなんですか」

 実は知っている具衛だ。ネットニュースで見ている。

「月見なら、山小屋よりここの方がいいですね」

「単純に月だけを見るならね」

 と言う仮名と、七夕の神社で天の川を見てから、もう二か月だ。

「遮る物がないから、望遠鏡でもあればよく見えるわよ」

 二か月後に、仮名の自宅で月見をする自分を、七夕の具衛は全く想像していなかった。それを喜ぶ今の自分を否定出来ない具衛は、最近ずっと心臓の辺りが苦しい。

「十四夜の別名って知ってる?」

「うーん」

 本当は知っている。が、微妙な展開を避けようとする自制が、それを憚る。が、知っているのに知らないと言うのは、これはこれで中々辛い。

小望月(こもちづき)です」

 それは苦肉の策の、別の答えだった。中国の暦法である太陰太陽暦では、満月を望月(ぼうげつ)と言う。その前日だから小望月と呼ぶのは、日本のオリジナルだ。

「わざとらしいわね」

 結局、穿った答えは逆効果だった。お互いその意味を知っているのでは、口にしようがしまいが同じ事だ。むしろ、姑息を弄した分だけ、余計妙な気分に

 ——なったような。

 その答えは、【待宵月(まつよいづき)】と言う。月と一緒に来る筈の人を待っている宵。その、非常に情緒的な意味を含んでいるフレーズは、今この場ではNGだろう。

「心配しなくても、取って食やしないって言わなかった?」

 それを言ったのは、二か月も前の七夕での事であって、それは未だに

 ——有効なのか?

 どうなのか。この際分かったものではない。

「また迂闊かしらね。ウブな男を捕まえて」

 分かっているのは、明らかに蛇になぶられる蛙の構図だ。

「も、もうそろそろお暇——」

「さっきから何分経ったって言うのよ」

 どうせなら月が真ん中に来るぐらいまでゆっくりして行け、と、仮名の要求は徐々に増していく。

「どうせ暇でしょ」

 そう言われると、身も蓋もない。事実だ。

「生憎、私も暇でね。つき合ってくれると助かるんだけど?」

「いやしかし——」

「仙人暮らしもいいけど、たまにはカンフル剤打たないとボケるわよ?」

 口達者の仮名に、ついていける訳もない具衛は、先程から動悸が只ならない。

「の、喉が渇いたなぁ」

「そうそう。そうやってたまにはドキドキしないとね?」

「はぁ」

 サイデスカ、とか細い声が裏返る具衛に、仮名がついに噴き出した。

「冗談よ、冗談」

 喉を引きつらせるそのからかい上手が、グラスをあおる。と、テーブルにそれを置く音が一段と軽くなった。どうやら空になったらしい。

「可愛らしいから、つい口が滑るわ」

 とか、悪びれながらも、

「同じ物でいい?」

 と、立ち上がる。

「は、はい」

 具衛も合わせて身体を起こした。油断していると何のちょっかいを出されるか分からない。そんなタイミングで、何かの拍子に何かが起きたら。とにかく姿勢を正していないと、自制が怪しい。

 ソファーのテーブル越しにグラスを回収する所作は、先程来ウブな男をなぶる言葉とは裏腹に慎ましい。そのチグハグ振りが小憎らしくなる程だ。

 警戒する具衛を察した仮名が、また一つ噴いた。

「悪かったわ。これ以上やったらセクハラね」

 と、グラスを盆に載せると、

「もう言わないから」

 と、楚々とキッチンへ逃げた。

 や——

 やれやれの具衛だ。が、

「はい、お待ちどう様」

 とか言いながら、すぐに舞い戻って来る仮名は、中々一息つかせてくれない。

「や、病み上がりなんじゃないんですか?」

 そのくせ何故か、いつもにも増して絡んでくるのは気のせいなのか。

「そうよ」

 その立場を思い出したような仮名が、わざとらしくシャチホコ張った。その得意げな女が座り直して、グラスに一口つけたのを見て、具衛も再び一口呼ばれる。本当に喉が渇いていたせいだろう。何の疑いもなくそれをあおると、天然のハーブ香に混ざって、人工的なミント香が鼻を突いた。

「あれ?」

「どうしたの?」

「いや、ミントの強い香りがしたので」

 別物を疑う具衛に、

「同じ物だけど」

「そうですか」

 とか言う二人が首を傾げる。が、ややあってソファーに座り直したばかりの女が、急な鋭さを伴って、上半身だけ具衛に迫った。それを更に上回るのが、その横にいる、普段はボンヤリした男だ。

「なっ——!?」

 言葉はついてこないが、身体はしっかり躱している。いきなり今度は

 ——何だ!?

 と思いきや。仮名の目的は具衛ではなく、具衛のグラスにあったようだった。血相を変えて、その縁を覗き込んでいる。

「——ゴメン」

「は?」

「グラスを間違えたわ」

 具衛が口をつけたグラスのミント香は、仮名が唇に塗りたくっていたリップクリームによるものだったようだ。

「え、ええっ!?」

「わざとじゃないわよ!」

 などと激しいそれは、弁明なのか一喝なのか。

「ギャーギャー喚かないの! 子供じゃあるまいし!」

 とか言いながら、喚いているのは仮名の方だ。

 その化粧が在宅モードなのは、唇も同様だったらしい。いつもの口紅は、確か赤いシャインリップだ。それからすると今の唇の色は、明らかに薄い。

「乾燥するから、リップクリームを厚塗りしてたのよ」

 つまり唇は、すっぴんだったという事だ。発熱でそれが乾燥して仕方がなかったらしい。普段の口紅であれば、仮名の事だ。グラスにそれがつくような事はしないだろうから、逆に気づかなかっただろう。本人の慌て振りからも本当に間違えたようで、それを責めるつもりは

 まぁないんだけど——

 それで一気に跳ね上がった心拍数は、当然簡単には落ち着いてくれない。秋の夜は涼しいはずなのに、身体の芯が燃えている。Tシャツの中のからじわりと伝う汗は、動揺の副産物だ。それと共に、隣の方から穀物の淡い匂いがして来て、具衛の鼻をくすぐった。どうやら同じように慌てる女の体温が、着ている物の匂いの花を開かせたようだ。

「ホントにうつったら悪いと思ってたんだから!」

 それなら、病み上がりの人間が自分を追い込み過ぎないうちに、落ち着かせるべきだろう。

「わざとじゃないのは分かりましたから——」

 それにうつるのであれば、施設職員の具衛などは、

「——とっくにうつされてますよ。ショウタのヤツから」

 感染力の強いおたふく風邪の事だ。それが未だに平気なら、具衛はうつらないだろう。そのネタをバラさなければ、あるいは仮名が、何かよからぬ小悪さを企てていた時のたが(・・)になり得たのだろうが、珍しくも慌てるその絶美を前に、つい漏らしてしまった具衛だ。

「——それも、そうね」

 瞬間的に脱力したような仮名のそれは、得心の表れなのだろう。重ね重ねも、そのあからさまな動揺の意外。

 何だか——

 こういう言い方は、

 ——何なんだが。

 仮名の可愛らしさがチラついて見える、そのせいだろう。

 おたふく風邪を発症した仮名が、具衛の感染や施設の体裁を考えていたのが本当なら、要するに始めから、自分の感染自体を隠してしまえば丸く収まった話なのだ。が、仮名はそれをしなかった。しかもそれは、難しい事ではなく、逆に至極簡単な話だったにも関わらず、だ。

「出張でしばらく山小屋に行けない」

 程度のメールを具衛に送りさえすれば、単純で素直な山男は、まずそれを疑わなかった。それだけで終わる話だったのだ。そんな事が分からない仮名ではない

 ——筈なのに。

 この聡明な女は、それをしなかった。その理由は、

 何なのかって——

 要するに、本当に具衛の感染を気にしていながらも、あくまでも自己都合で取り繕わない姿勢を貫いたとは言えないか。つまり、

 ——俺と同じ?

 で、ウソを重ねたくなかった、という事なのではないか。

 そんな仮名の妙な真摯さと、らしからぬ不器用さが、ジワジワと染みてくる展開。勝手な思い込みだと思いたい一方で、隣の女はいつになく急にしおらしい、その事実。

 これは——

 マズい程参った。

「も、元を辿れば——」

 この状況は、盆踊りの時に具衛が間違えて仮名にビールを渡してしまった事に端を発している事でもある。もう一か月前の、まだそう遠からずのその事実。突き詰めればそれが仮名の自宅を知るきっかけで、おたふく風邪事件に限らず、何であれ具衛が押しかける事を可能とさせた原因だ。

「そう考えると——」

 具衛の過失は、やはり大きく、

「看過出来ないというか——」

 俄かに具衛までもが、しおらしくなる。それを、

「そ、それはもういいの!」

 と仮名が、ぶった切った。

「済んだ事をいつまでもグジグジ言わない!」

 新しいの持って来るから、と仮名が慌ててグラスを回収しようとするのを、具衛の手がそれを一瞬早くかすめとる。その上に図らずも、仮名の手が被さった。

「な、何よ?」

 僅かに驚く仮名が、敏感に手を離す。

「い、いや、病み上がりなのに」

 妙な可愛らしさを覚えたかと思えば、ここへきて今度は、甲斐甲斐しく動く仮名に申し訳なさが募り始めた具衛だ。

「もう、これでいいですから」

「も、もうって何よ、もうって」

「だって、ユミさんの特製なんでしょう? だったら仲直りするまで、飲めないじゃないですか」

 と、もっともらしい事を具衛に言われた仮名は、見るからに固まった。

「あなたはホント——」

 土壇場になると冴えてくるわね、と困った風の仮名を見る具衛が、リップクリームの跡を外して、また一口つける。

「これはこれで、美味しいですよ」

「それこそセクハラだわ!」

 とか、更に慌てる仮名がグラスを取り返そうとするのを、

「早くユミさんと仲直りした方がいいと思います」

 と言う具衛が、あっさり躱した。意外な素早さを見せるこの男は、実はこうした小競り合いが強かったりする。

「もう! 返しなさいって」

 そんな具衛にむきになった仮名が、しまいには身体毎具衛にぶつかる勢いで、グラスを取り返しに来た。かと思うと、

「あ、危ないですよ!」

 と言う具衛のそれが断末魔となって、折り重なってしまう二人だ。お互いの顔が、それこそグラスの高さ程もなく、驚いた顔でお互い鋭く引く。が、押し倒された具衛は、引いたところで下はソファーだ。逃げ道はない。一方、上に覆い被さった仮名は、反発気味に仰反った勢いで、景気良く傍のテーブルで頭を打ちつけた。またその反動で、具衛の喉元辺りに顔を押しつける格好になる。

「だ、大丈夫ですか!?」

「痛いわよ! 頭が!」

 もつれる中で、バニラとミントの混ざった甘い爽やかな香りを漂わす仮名に、またしても金縛りになる具衛だ。

「もう! 頭に来たわ!」

 そんな逆上をみせる仮名が、今度こそテーブルを避けて上体を起こすと、上から具衛を鋭く睨みつける。

「そんなに味わいたいんなら——!」

 と、言い放ったかと思うと、気づいた時には、具衛の顔の上に仮名の顔があった。目と目が目の前で閉じつ開きつ、鼻同士が隣り合って交錯している。経験した事のない芳烈と、熱を帯び弾力を有する肉感が具衛の口元にあるそれは、どうやら仮名の唇のようだった。


 月が天井の左側に入った。

 二人がどのぐらい折り重なっていたのか。瞬間でのぼせた具衛は、よく覚えていない。が、一瞬ではなかった、ように思う。息が苦しくなって、鼻で呼吸をした記憶が残っていたからだ。お互いの鼻息が絡むのと、それに合わせて胸と腹が膨らむ感覚がリアルに残っていて、一方で肝心な唇のそれは、何故か残っていなかった。理由はよく分からないが、只固かったような、それだけの記憶。

 しばらくすると、音を立ててまた起き上がった仮名が、

「風呂入って来るわ!」

 と、猛々しさをもって宣言すると、ドタドタと雄々しい歩みでベランダから出て行った。で、一人残された具衛は、内ベランダのソファーで、ぐったり仰向けになっている。

 大の大人が接吻如きで——

 などと回想しただけで、何だか鼻の奥が血なまぐさくなりそうだ。

 やっぱり——

 さっさと帰るべきだった。

 元を正せば、自分の押しかけが原因だ。施設の職員として、仮名のおたふく風邪を看過出来なかったのは事実。その端くれとは言え、いい加減な対応は許されないと思った。素早い行動は、今でも間違ってはいないと思うし、後悔していない。事実、病気をうつされたとして、感染元を訴えるケースは実際に存在する。管理責任を有する施設側との間で、法廷闘争となる可能性は現にあるのだ。こうなると勝ち負けに関わらず、施設の体裁が非常に悪いものとなる事は詳述を要しない。

 まぁそれでも——

 今回のケースでは、管理責任の点において、その過失の度合いは低いと判断する事が妥当と思われる施設側だ。それに、感染源と思われる無邪気で弱い子供を相手取った仮名が、わざわざ訴えを起こすような争い好きではない事も

 ——分かっちゃいたけど。

 それは絶対的に、うつされた側の仮名に決定権がある。感染を拡大させた過失を有する施設側に、口を挟む資格はないのだ。市中に感染を拡大させた、とも言える施設側は、仮名への対応として、ノーリアクションの不作為だけは絶対に避けなくてはならなかった。

 だからこそ——

 臆病風を振り払い、勇んで飛んで来たというのに。結果として仮名に絆された挙句、晩飯まで食わされて。とどめが何かの間違いのザマだ。完全なるプライベートで来訪したのであれば、惚れた腫れただのは好きにすればよいだろう。が、あくまでも、出だしは施設職員を代表した謝罪と見舞いだったのだ。具衛はそこを忘れてはならなかった。

 こんなんじゃあ——

 施設職員代表を騙ってわいせつ目的で接近した、と言う事も出来る。

 せめて——

 グラスを交換してもらっていれば。その事さえなければ、どうにか当初の来訪目的を、どうにか逸脱してなかった、

 ——んじゃねぇかなぁ。

 などと、完全に後の祭りの具衛だ。

 何であんな事を——

 したものか。

 認めたくはないが、自分の中では理解している。要するに、単なるスケベ心だ。男の悲しい性だ。仮名と接する事に慣れるにつれ、少しずつ足りなくなって、欲が出たのだ。いつにない不器用さと可愛らしさを見せつけられて、一瞬なりとも抑えられなくなり、つい禁断の果実に触れてしまった。それは理性が本能に負けてしまった瞬間だ。手を伸ばせば触れる事が出来る位置に、世にも稀な美女がいる事の魔。普通の男であれば、心が動かないヤツなど存在し得ないその玉姿。

 だからお互い——

 迂闊なのだ。現状の土壺にはまる前に、離れなくてはならなかった。

「あぁ——」

 などと、ソファーで仰向けの具衛が激しく後悔していると、居間のドアが威勢よく開いた。その音に合わせて慌てて起き上がった具衛が、座ったまま殊勝にも縮こまる。ドカドカと無遠慮な足音を立てる仮名は、気にも止めず何も言わず。具衛が座っている内ベランダに、猛々しく戻って来た。かと思うと、自分の分だけちゃっかり新しいものを入れ直したグラスを、わざとらしい乱暴さと共にテーブルに置く。と、物も言わず、元いた位置にどっかり腰を下ろした。その姿が、白い

 バ、バスローブ——!?

 姿に変わっている。

 均整のとれた悩ましい体線と湯上がりの芳香が、否応なしに具衛の目鼻を突く。仄かにバニラのような柔軟な香りが漂うそれは、シャンプーや石鹸を米糠物に変えた事を裏づけるものだ。虫でなくともその甘い匂いにすり寄りたくなるような、その誘惑の恐ろしさ。湯上がりで髪を巻いて纏めているせいで、うなじが露わになっているそれが眩し過ぎるが、幸いにも顔の美容パックが、妖艶レベルを落としてくれている。

 ——や、やれやれ。

 それが唯一の救いだ。が、そのパックの下は当然すっぴんだろう。それは大変な破壊力を有するに違いない、紛う事なき仮名の素顔だ。絶対に見てはならない、文字通りの目の毒というヤツだ。

 そもそもが——

 バスローブ姿とか。親密でもない男の前で、女がそれを晒すものなのか。欧米のドラマや映画でしか見た事がないそれを、日本人が着こなせる物なのか。

 ——とにかく。

 目のやり場に困る。

 ソファーに埋もれる仮名が、新しいグラスを喉を鳴らして飲むと、

「ふぅ」

 と、大きく息を吐いて、仰向けになった。

 お互い口を開く事もなく、

 重い——

 時間が過ぎて行く。

 その何処かのタイミングを見計らった具衛が、恐る恐る

「そ、そろそろ私は——」

 などと、お暇の口上を始めてみた。が、

「逃げるの?」

 と、容赦ない一言で、また金縛りだ。

「い、いえ」

 腰を浮かしかけていた具衛が、崩れるように座り直す。

 これじゃあ——

 まさに蛇の生殺しだ。また、静かな一時が過ぎて行く、その繰り返し。只でも音に乏しい室内だ。外から僅かに夜の街のざわめきが耳に入って来るが、それは音と言うよりノイズで、しかも遠い。

 静か過ぎて——

 身体がこわばる。お互いが僅かに身動ぎする時の衣擦れの音が耳につく程の静けさ。その度に、音もなくそよいでいる中秋の微風が、頼みもしないのに女の芳香を具衛の鼻先まで運んで来る事の悩ましさだ。物も言わない香気の塊は、それだけで十分、傍にいる男をたぶらかしている。

 ——ク、クソ。

 そんな妙な緊張感など持続出来る訳もない。ソファーとそよ風と匂いの三重の心地良さが、ウブな男の高鳴る感情を和らげる。と、入れ替わりで睡魔が押し寄せて来た。


 目を開くと、月が真ん中に来ていた。

 ——あ、あれ!?

 二、三回瞬きをして状況を確認しようとするが、上手く飲み込めない。瞬間で心臓の辺りに動揺が走り、慌てて起き上がる。と、ソファーの右端には、相変わらず仮名が座っていた。

 ——寝落ち!?

 してしまっていたようだ。得も言われぬ罪悪感に、また冷や汗が背中を伝う。幸いにも、仮名も目を閉じていて、

 ——寝てる?

 ようだった。

 そのまま逃げようとも思ったが、それでは次に会う時に何を言われるか分かったものではない。大人しく、ソファーに座り直した、その直後。

「う、ん」

 とか言う、仮名の色っぽい声に、瞬間でまた心臓が跳ね上がった。また

 ——何事か!?

 と、身構えようとしたが、仮名は引き続き寝ている。その悩ましい声に反し、身体は堂々と腕を組んでいるというチグハグ振りだ。

 ひょっとして——

 肌寒いのではないか。夜風もそれなりに冷えている。具衛は寒くないが、隣りにいるのは一般的に冷えやすい女の身だ。それも病み上がりの事なら、冷えは身体に障るだろう。しかもバスローブ一丁だ。 

 マズくない——

 訳がない。

 周りに何かかける物がないか探してみる。と、居間のソファーの袖にブランケットを見つけた。静かに立ち上がり、抜き足差し足でそれを手に取る。端を合わせて丁寧に折り畳んであるそれは、

 ホントに——

 生活に隙がない。その几帳面さの感心ついでに一つ息を吐くと、また内ベランダに戻って、仮名の右側に回り込んだ。早速その玉体にブランケットをかけようとしたが、

 ——それでも一応。

 軽く埃を払っておこうと背を向けたその時。また香気が動いたようで、鼻がそれを察した。

 ——うわ。

 脳が酔って身体が腑抜けた瞬間、突然背後から羽交い締めにされて引き倒される。

「わっ!?」

 辛うじてその手を払おうとするが、僅かな時間差で足元も払われると、背中を向けたまま仮名の上に倒れ込んだ。

「スキあり」

「な、何やってんですか!?」

 言いながらも抜け出そうとするが、中々見事に絡められていて、本気で抜け出せない。何より、

 あ、頭が胸に——!?

 その動揺。が、後頭部の只ならぬ柔らかさと膨らみにもがくと、不意にすっぽ抜けた。その先にあるのはテーブルの端だ。

「あたっ!?」

「さっきのお返しよ」

 額を打ちつけた具衛が、堪らずソファーとテーブルの間に滑り落ちる。

「ううぅ——」

 と、頭を抱えてうめく具衛を、起き上がって上から見下ろす仮名が、

「これでおあいこ」

 と言いながら、今度は具衛の顔に何かを貼りつけた。

「これでも貼って冷やしたら」

 額から鼻を揺さぶる鋭い痛みに目を閉じたままの具衛が、それでもソファーに座り直す。と、気持ち冷んやりしたそれが腹の辺りに落ちた。

 ——ん?

 ようやく目を開けた具衛がそれを手に取ると、白くしわくちゃになったそれは、何とフェイスパックではないか。

 なっ——!?

 驚いた具衛が、すぐ隣に座り直している仮名の方を向くと、また顔に匂いの塊が押し寄せている。それと合わせて今度は、柔らかい物で口を塞がれた。驚いて目を見開くが、口どころか目の前が良い匂いに覆われていて何も見えない。

 ——んんん!?

 二、三回、目を瞬いて、やっと目の前のそれが仮名の顔だと分かった。慌てて仰反るが、その動きを見透かした(なまめ)かしい両腕が、後頭部と首に絡められていて逃げられない。

 先程の唇の固い感触は、

 ——ゆ、指か!?

 今度こそ本物の唇だ。余りの破壊力に、脳が瞬間沸騰して思考を失う。視野がボケて感覚が麻痺すると、具衛は文字通り前後不覚に陥ってしまった。

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