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十四夜(前)【先生のアノニマ(上)〜7】

 具衛が射的屋の不正に立腹し、その景品を元手とした仮名企画の景品争奪大会が終わったのは、午後一〇時前だった。祭りはまだまだ盛り上がりを見せていたが、チラホラと会場を後にする人々も出始めた頃合いだ。仮名もすっかり堪能(たんのう)したと見え、盆踊りに来ていたにも関わらず結局踊る事なく、具衛や盆踊り実行委員会本部員による片づけが終わるなり、

「そろそろ帰ろうと思うんだけど」

 と言い出した。

「もう少しいたい気もあるんだけど——」

 実は明朝から出張らしい。

「分かりました。()まで送ります」

 それを聞いた仮名は、素直に「ありがとう」と言ったものだが、主催者運行のバスで山小屋まで戻ってから、家の意味(・・・・)の履き違えが発覚する。

「——え?」

 具衛の手違いで、車の運転を控えている仮名にビールを手渡していた事を、

「私が飲んでたのって、アルコール入りだったの?」

 などと、仮名はこの期に及んでようやく気づいたらしい。

「二本飲んだのに——」

 はしゃいでいた割に冷静さを見せる仮名は、

「——味の濃い物を食べ過ぎたせいね」

 と、祭りで見せた陽気はすっかり失せている。少なくとも外見上は、酒気を帯びているようには見えなかった。

「どうされますか? タクシーを呼びましょうか? この際タクシー代は持ちますが」

「いや、お金はいいとして——」

 実は出張直前に、ディーラーへ直接代車を返す事になっている、とか。

 花火大会(交通トラブル)の後難を避けるため、具衛のアドバイスで仮名の自家用車(アルベール)は、ナンバーと塗色の変更中だ。その車が、明日戻って来るそうだった。

「ディーラーで代車を返した足で、車を受け取ってそのまま広島空港へ行くの」

 と言うそこは、広島県のド真ん中やや南寄りにある。広島市内中心部からだとリムジンバスで約一時間という山間部だ。それが鉄道になると、乗り継ぎを要するという中々の曲者振り。広島における鉄路と空路の関係は、首都圏方面への競合交通にしてライバルだ。鉄道が空港へ乗り入れないのは当然。その不便さもまた当然だ。その不評も語るに及ばずの一方で、空港周辺には駐車場が多くある。利用者は自家用車で行くケースが多かった。

「じゃあ、運転代行を呼びましょうか?」

 と、具衛が更に食い下がるが、

「今からタクシーや代行を呼んでも、時間がかかって仕方がないわ」

 と、あっさり否定する仮名だ。三人がバスで戻って来る時、盆踊り会場に押しかけた車は、少しずつ会場を後にし始めていた。その影響で、周辺道路では渋滞が始まっているだろう。集落を貫く国道も、普段より交通量が多い。

「申し訳ないんだけど、送ってくれないかしら? あなたの運転で」

「えっ?」

 思わず首を突き出した具衛の目の前で、ちょうど仮名が半狐面を剥ぎ取った。髪を掻き分ける艶っぽい仕種と、その玉顔を思い切り直視させられた具衛の心臓が瞬間で跳ねる。想像以上に、お面姿に慣れていた事の油断だろう。

「い、——」

 魅入ってしまい固まりそうになるのを、どうにか口を回して回避する。

「家まで送ってもいいんですか?」

 と、率直な疑問をぶつけた。それはつまり、詐欺師を自称するこの男に、居所を知られるという事だ。更に言えば、仮名が名前を明かしたがらない理由の一つに違いない。住所とは、私生活を送っている所だ。名前と同レベルのプライバシーと捉える向きが普通だろう。そんな住所と代車を天秤にかける理由が、

 ——よく分からん。

 が、代車が気になるのであれば、二人はやはりタクシーで帰り、代車は具衛が別便で自宅近くの指定場所まで持って行くという方法もある、と言いかけて止めた。それなら結局のところ、始めから具衛の運転で二人を送るのが、時間も金も一番ロスが少ない。何も仮名の自宅まで帰らずとも、その付近のコインパーキングに止めておけば、具衛に自宅を知られる事もないのだ。

「ご理解いただけたようね?」

 などと、具衛の思考を読んだ様子の仮名が、

「面倒かけて悪いんだけど」

 と言った。

「もうタクシーで空港を行き来したくないの」

 何でも以前、ひどい事故渋滞に捕まった事があるらしい。それ以来、その行き来は自家用車と決めているのだ、とか。渋滞に捕まるにせよ、見ず知らずの他人と同じの車内で長時間を共にさせられるのが、

「我慢ならなくてね」

 とは、如何にも人嫌いを公言する仮名らしい。だから代車を置いて帰る選択肢はない、とか何とか。

「あなたも責任を感じているようだし、挽回の機会って事で——」

 タクシーは時間がかかる。代行となると尚更だ。加えてハンドルは情を知る人間に預けたい。ディーラーに都合を変えさせるのも悪い、云々かんぬん。

「——こんなところでどうかしら?」

 と、立板に水の仮名だ。具衛は、

「はい」

 と言うしかなかった。

 情を知る人間としての位置づけとは、

 随分俺も——

 信用されたものだ。が、それは反面、プレッシャーでもある。仮名にハンドルを預けられる人間など、そう多くもないだろう。自分はその信に足る人間だとか、とても言えた柄でもない。

「気づかなかった私にも、多少は責任あるし」

 と、そこで、

「それだけ浮かれてたって事ですよ」

 と割って入るユミさんは、まだ半狐面のままだ。それを、

「えい!」

 などと、わざとらしい掛け声と共に、報復と言わんばかりに仮名がお面を取り上げる。と、

「まあ、乱暴な」

 と、途端にユミさんが目を釣り上げて見せた。

「こんな立ち話は車中でも出来るわ。そうと決まったら早速お願いね」

「分かりました」

 代車はクーペだが、幸か不幸か四シーターだ。仮名のアルベールは二シーターで、三人は乗れない。

「これも何かのお導きかしら」

「すみません。私の迂闊のせいで」

「だからそれは私もだって言ってるでしょ!」

 具衛と仮名がまたごちゃごちゃ始める中で、ユミさんは一人さっさと狭い後席に乗り込んだ。

「それは車の前列で、隣同士やったらどうです?」

 わざとらしく「プンスカ」などと口にするユミさんは、年の割に可愛らしい。

「時間が過ぎるばかりですよ」

 言われた仮名も仮名で、

「ほら、言われたじゃないの」

 後はもう頼んだわよ、と口を尖らせると、さっさと助手席に乗り込んだ。

「ユミさん、運転席側の方が広いから」

 と言う仮名は、ユミさんを運転席側に移動させると、自分は助手席自体を後ろへ下げて背もたれも倒した。片や具衛は、その逆をいく。

「ね」

「よくご存じで」

「三度目だからよ」

「回数まで、よく覚えてらっしゃること」

 隙のないユミさんの指摘に、助手席の気配が窓側へ逃げるが、後の祭りだ。

「もう! あなたが余計な事言うから、一々突っ込まれるじゃないの!」

「え? 私のせいなんですか?」

「いいから早く出しちゃってよ! 運転手さん!」

 すっかり焚きつけられている仮名の方から、俄かに仄かなハーブのような匂いが漂って来た。相変わらずの品の良さのそれは、どうやら発汗で発したのか。口で遅れをとるなど、珍しくも思いがけない仮名の可愛らしさであり、そのネタが自分である事の動揺もある具衛だ。

「まあまあ、もう言いませんから仲良くされたらどうですか」

 後席から聞こえて来た嘆息に、固い雰囲気が漂う。それを察したような仮名も押し黙った。

「——じゃ、出ますよ」

 誰に言うでもなく、車内に言った具衛に、

「高速経由だから」

 と、相変わらず左窓に顔を向けたままの仮名の指示が素気ない。が、一瞬だけナビに顔を向けたかと思うと、またすぐ左窓に顔を戻した。その意固地なところに、思いがけない可愛らしさを感じる具衛が息を飲む。気をつけないと、鼻で笑ってしまいそうだ。その刹那、ちょうどよいタイミングで、ナビがしゃべり始めてくれた。中性的で感情のない、如何にも機械的なその声が、自宅までルート設定をしたとアナウンスする。

「ご自宅まで、ですか?」

「くどいわよ」

 急転直下、訪れる低気圧。具衛は改めて、自分の口の拙さを思い知った。人と会話を楽しむ経験に乏しいこの男は、こんな時に、気の利いた事を全く言えない。今まではそれを悔いた事などなかったが、見た目は詐欺師でも、肝心要の口振りは、実はそんなところも全く逆だった。

 山小屋の前にある橋を渡って国道まで来ると、右折して北部方面に頭を向ける。高速までは約一〇kmの道のりだが、代車とは言えそこは高級車だ。高性能なナビが周囲の交通状況を読み取っては、リアルタイムで目的地までの到着時間を計算し、その結果を律儀にパネル上に表示し続けている。その表示も垢抜けたもので、スイッチという物がまるでない。最新の、流行りの機能美なのだろう。そもそも具衛はナビを使う、更に言えば車を運転する事自体がすっかりご無沙汰だ。自然、慎重になる。

「その乗車姿勢がハンドルを預ける理由ね。今時いないわよ、そんな自動車学校スタイル」

 今更ながらに、仮名がそんな事を吐いた。

「ユミさんはどちらまでお送りすればいいんですか?」

「私の家の近くだから、心配しなくていいの」

 と一方的な仮名だが、ユミさんは宣言通り、口を閉じたままだ。

「——旦那さんがいないからって、少し大人げないわよ全く」

 仮名のそんな呟きは、宣戦布告には十分だった。

「誰のお陰様で、この年にもなって単身赴任なんかさせられて、寂しい思いをさせられてるものやら全く!」

 何やら突っ込んだ事を口にし始めるユミさんだ。

「ちょっとユミさん? 今それを言わなくてもよろしいんじゃなくて?」

「それはお嬢様の方じゃございませんこと?」

「あら、どういう意味かしら?」

「どうもこうもございませんよ!」

「寂しいだろうと思って帰省させてあげたじゃないの!」

「あんなモンで足りるモンですか! 私達は御家に尽くしながらも、長年一緒に連れ添って来たんですから」

「まぁ言ってくれるわね。暑苦しいったらありゃしない!」

「ご家庭を築けば分かりますわよ」

「うわ嫌味!」

「そんな風に人の揚げ足ばかり取ってるから男が寄りつかないんでございますよ!」

 只でも隙がないのに。女はちょっとぐらい隙があった方が可愛げがあるものだ、とか。

 ——いやはや。

 仮名の場合、全くそうなのかも知れないが、先程来どうも聞いてはならない内容がチラホラしているのは、具衛の気のせいではない。

「今度は説教!」

「その捻くれた性根を考えませんと、誰も見向きもしなくなりますわよ?」

「それは大いに結構な事ね! 済々するわ!」

「そこまでおっしゃるのでしたら——」

 とそこで、

「まあまあまあ!」

 と、流石に具衛が割って入った。いい加減頭に血を上らせたどさくさで、思いがけず何かの秘密に触れてしまった後味の悪さが車内に漂う。

「折角のお祭り気分が、勿体ないです」

 そもそもそれは、出掛けの仮名が口にしていた事だ。と言うのに、今回はその張本人が墓穴を掘っている。そしてそのきっかけは、間違えて酒を手渡してしまった具衛だ。その間の悪さが、

「家に帰るまでが祭りです」

 などと、使い古されたような、つまらない仲裁文句を吐かせる。俄かに見たくもない女の愛憎とか劣情のようなものに巻き込まれたところで、明らかに経験値が低い具衛に言える事など何もない。

 ——き、気マズい。

 急に静かになる車内に音を求めようとするが、ろくにスイッチのないコンソールだ。ラジオのつけ方すら分からない。

 ——参った。

 すると怒ったままの仮名が、一見何の表示もないナビに指を当てて、クラシックを流し始めた。タッチパネルがスリープモードで、何もないように見えていただけのようだ。

「これでいい?」

「み、耳に優しければ何でも」

 素直にぶっちゃけた具衛に、仮名が小さく噴き出した。

「素直でいいわねあなたは。誰かさんに爪の垢を煎じて飲ませたいわ」

 それがまた余計だ。

「先生の爪の垢を、仮名さんが飲みたいそうですよ。何でしたらそのまま手を舐めてもらったらどうです?」

 すかさず応戦するユミさんが、また際どい事で火に油を注ぐ。

「人の話聞いてた? 私には必要ないの!」

「あら、私が舐めて差し上げてもよろしいんですか? そうなったらお困りになるのは、何処のどなた様でしょうねえ?」

「困るのはそっちでしょーが! だいたいあなた不倫を公言する訳!?」

「このまま単身赴任が続けば、どうなるものやら知った事じゃありませんよ!」

 夫より良い人が現れれば、何がどうなるものか。先の人生など誰にも分からない、などと言うユミさんが最後に、

「ねぇセンセ」

 と妖しい声で、運転席の背後に身を寄せて見せた。

「いやぁ、私にはその辺の事は——」

 腰砕けの具衛の横の仮名が、今度は何やら血相を変えて、またナビを操作する。クルーズコントロールの設定速度を変えたようだが、非常時以外の運転操作の優先権は、一般的に運転席にあるものだ。特に変化は起きない。

「ちっ!」

 と口汚く舌打ちをしたかと思うと、今度は助手席側から運転席側へ、稀有の美女が御御足を突っ込んで来るという無茶振りだ。

「うわっ!? 何すんですか!?」

 浮かせた腰から突っ込まれたそれは、当然はだけた浴衣から出ている。しかも生足という、垂涎もののおまけつき。迂闊に目を向けようものなら、おまけの上にある本体の大当たり(・・・・・・・)が見えてしまいそうだ。

「うるさい!」

 ブレーキを踏むつもりだったようだが、当然具衛の足と絡んで失敗に終わる。と、一瞬で引っ込めて、また元鞘に収まった。その切り替えの早さは大したものだが、ウブな男はそう単純ではない。女の肌とニアミスなど、記憶もなければ電気ショックのような衝撃だ。思いがけず絡まった生足の感覚が下半身に残り、時間経過と共にむず痒くなる。

 と——

 突拍子もないと言うか、とんでもないと言うか。大体が、親は別として、女に近寄られる事自体全く未経験の具衛だ。

 お——

 女は恐ろしい、と密かに生唾を飲み込む乳臭い男の横では、女達が相変わらず諍っている。

「あれ程の旦那を持っていながら図々しい! だいたい草食系は嫌だって言ってたじゃないの! メロドラマの見過ぎも大概にしなさいよ!」

「大事に育んでらっしゃるところを邪魔されるのは、そりゃ面白くありませんわよねぇ」

「な、何を訳の分からない事を——!」

「図星のようで。ご聡明が売りとは言え、惚れた腫れたは制御出来ませんことよ?」

 状況はユミさんに傾いているようで、

「くっ」

 と、絶句する仮名など初見の具衛だ。反論しないところを見ると、それ程的を抉られたのか。そしてそれを当然、

「如何お考えですか、センセ?」

 と、ユミさんに仕向けられて、ようやく理解するその気恥ずかしさと己の鈍さ。

「と、申されましても——」

 言葉がない。辛うじてすぐに出たのは、

「——あ」

 という、間抜けな一言だけだった。ナビに従い、ちょうど町の北隣の自治体に位置する高速のインターチェンジに流入したのだ。

「しまったぁ——」

 車は具衛の、そんな声を置き去りにしつつ、広島市の北縁を東西に走る中国自動車道に入る。ナビの到着予想は四〇分。やはり指し示したゴールは、市街地のド真ん中だった。左右で半分に割れたパネルは、右側が現在地周辺の拡大図、左側が出発地から目的地の全体図だ。その左側のゴール地点に、聞き慣れないマンションの名前が付されている。

「どうかしましたか?」

 明らかに悪乗りした様子のユミさんが、後席中央から顔を覗かせる。と、あからさまにそれを毛嫌いした仮名が、顔を更に左窓に近づけて逃げた。

「妙なお話が続くようなら、私は帰ろうかと思ってたんですが、もう高速に入っちゃいました」

「全くだわ」

 と、仮名が小さく同調する。

「肉食系も程々にする事ね」

「たまに野菜を食べないと、身体に悪いでしょう?」

 ユミさんが「ウフフ」と意地悪く食い下がると、然しも仮名も黙り込んでしまった。


 自動車学校スタイルの運転姿勢に裏打ちされた具衛の運転は、まさに教科書通りだった。速度こそ周囲の流れに任せているが、アクセルを踏み過ぎる事はなくエンジンは静かだ。操作のどれを取っても、ギスギスする車内の雰囲気の一方で、落ち着き払って急のつく操作をしない。まさにBGMのクラシックの如き、穏やかな運転。

 その一方で目の配りは忙しく、様々な所を見てはナビ同様次々情報を更新しているそれは、落ち着きのない子供のようでもある。年齢不相応に年配の貫禄を漂わす、言うなれば妙にじじむさいその運転で、無言の三人を乗せた車はナビが示した定刻通り、仮名のタワマンに着いた。運転に関しては、誰かの期待通りと言ってよいだろう。が、

 結局——

 気マズいまま口論が収まった車内は険悪で、それに関しては全くお手上げの具衛だった。唯一、終始安定していたのは、空気を読まないナビだけだ。

 タワマンの入口の取付道路を進むと、高速道路のインターチェンジの出入口にあるような、進入防止用のバーが降りていた。徐行に近い速度でそれに肉薄して行くと、

「近づいたらバーが上がるから」

 そのまま進んで、と久し振りに車内に人間の肉声だ。どうやら登録車しか入れないシステムらしく、仮名の言う通り、ある程度接近するとバーが上がった。そのまま地下駐車場に入ると道が二股に分岐しており、一方は更に下に降りる道、もう一方は白色の壁だ。具衛がまた、迷うように速度を落とすと、

「ドアの方に進んで」

 と、仮名がまた指示を出した。

「ドア?」

 と言われても、道と壁の二通りだ。ドアなどない。

「ああ、壁の方よ」

 また仮名に言われるまま壁に近づくと、その白い綺麗な壁の一部が、音も立てずに横滑りした。まさかその一部が自動ドアとか、驚いた具衛が、

「開けゴマかっ!?」

 などと、世界に名の通る物語の、有名なそのフレーズを感嘆ついでに口走る。と、それまでふて腐れていた女二人が、堪え切れない様子で瞬間的に同時に噴いた。すると、ばつが悪そうな二人が、今度は鼻を啜ったり咳をしたりで、それとなく体裁を整える。いち早く落ち着いたのは、日頃何かとせっかちな仮名だ。

「一応防犯モデルマンションらしくてね——」

 駐車場もそれなりにセキュリティーが高いのだと、それとなく説明する仮名の横で、

「これが駐車場?」

 と目を剥く具衛は、その内部の様子に呆れていた。地下駐車場とは名ばかりの、普通以上の室内空間だ。高い天井も、道幅も、一つひとつの駐車枠も、明らかにゆとりがある。一番の違和感は明度だろう。路面こそコンクリートだが、ホワイトコンクリートの丁寧なあつらえで、他三方向の壁面は一見して大理石調だ。どれ程の照明が設置されているのか知らないが、何処ぞの商業施設並みの明るさで、一般的なマンション駐車場の薄暗さは微塵もない。

 こんな造りで——

 全戸の駐車枠が確保出来るのか。密かに疑問を呈する具衛を見透かした仮名が、

「駐車場は地下四階層なの」

 と、補足した。

「地下二階は高層世帯向け」

 要するにセレブ向け、という事らしい。

「一〇〇〇世帯分の枠ともなると、駐車場もそれなりに広くなるわね」

「一〇〇〇世帯——」

 そこでまた素朴な具衛が、

「うちの町より人口が多いですよ」

 などと思わず漏らすと、残り二人がまた噴き出した。町の世帯数やマンションの人口など、詳しく知らない具衛だが、感覚的にはそうしたもので間違いなさそうな、それ程の巨大マンションだ。

「この一棟で——」

 笑われるのも何処吹く風の具衛が、周囲をキョロキョロ見渡していると、

「ここにバックで止めてくれない?」

 と、また仮名が指示を出した。が、やはりそこは壁に阻まれている。例によって近づくと、その一角が唐突に、今度は上へスライドした。壁に囲まれた個別枠のようだ。

「ま、また壁が——」

「開けゴマパート2よ」

 駐車枠の入口が開くと、中は奥行きと幅は一台分には十分だが、二台は置けないような中途半端感。高さは二台分はあるだろうそこには、よく見ると床面の一部に隙間が見える。どうやら個別の立体駐車場だ。

「地下駐車場で個別の立体枠とは」

 無駄な関心を示すばかりの具衛に、仮名は早くも飽きたようで、

「そのまま下がって」

 と素気ない声は、何処か感情が薄い。

「車は一台だけだから」

 言われた通りに具衛が止めると、

「ありがとう」

 と、さらっと謝意を口にするそれは、如何にも使い慣れたフレーズ感だ。場所柄の相乗効果もあるのだろうが、人を使役する事に手慣れた仮名との階層格差を、まざまざと突きつけられたような。

 駐車場だけで——

 これ程にも違う、そんな仮名の世界。そんな女だと気づいていながら、あえてそれに触れないようにしていた分だけ打ちのめされた具衛だった。

「どうかした?」

 声がかかり、ようやくハンドルを持ったままボンヤリしていた事に気づく。

「いえ、出口は何処かな、と——」

 口では言いながら、己の不甲斐なさに怯む。が、そこは例え、聡い仮名に悟られたとしても堪えておく。慄くばかりでは余りにも情けない事ぐらい、理解している具衛だ。

「送るわよ」

 と言われた貧者は、山小屋へとんぼ返りする。

「帰りのバスは、ホントに大丈夫なのよね?」

 こんな時間でも、と言う仮名に、

「主催者のバスが、最寄りの駅まで来るので」

 と言ってごまかした。そのバスが駅まで来るのは事実だったが、もうすぐ日付が変わるような時間だ。会場方面の便はとっくに終わっていた。普通の路線バスなどは言うに及ばずだ。実は先日の花火大会の時も、「路線バスの臨時便が出る」とウソをついて、市内中心部のネットカフェで仮眠して朝帰りした経緯があった。今日もその予定の具衛だ。本当の事を仮名に言えば、タクシー代かホテル代が出てくる事ぐらい分かる。が、全てにおいて甘える事は、やはり余りにも情けないというものだ。どうやら何処かの部分を有り得ない美女から見込まれている以上、ブレてはいけない部分がある。それが何処か分からないのなら、貧者なりの自分のポリシーは保持しておく。つまり、

 つまらない——

 強がりでしかない。

「じゃあ出口まで、お願いします」

 その細やかなプライドのようなものが、つい要らぬ一言を吐かせた。

「何それ?」

 鼻で笑う仮名は、あるいは何かを察しているのかも知れない。そんなところで、

「また二人の世界ですか。いい加減降ろしてもらいたいものです」

 と、ユミさんに容赦なくぶった切られた。それを、

「フン」

 とか、鼻で捨て置く仮名は、わざと放置していたと言わんばかりの、これまた要らぬ小器用さを見せる。が、片や具衛は、その場に飲まれていた口だ。すっかり失念していただけに、

「すみません」

 と、慌てて降車し前席をスライドした。その返事の代わりなのか。

「私は先に帰らせて頂きますよ」

 と、相変わらず角を見せるユミさんは、さっさと何処かへ立ち去る。

「今日はお疲れ様でした」

 せめてその背中に声をかけた具衛だったが、僅かに顔を向けてくれたのがせめてもの救いだろう。ユミさんはそのまま、下駄の音を控え目に鳴らしながら消えてしまった。数秒後に二人が駐車枠を出た時には姿も見えず、その足音すら聞こえない。

「え?」

「まあ、逃げ足の早いこと」

 戸惑う具衛の横で、小さく笑う仮名が駐車枠のシャッターを下ろす。と、すぐ隣の壁が開いて、エレベーターホールが出て来るではないか。

「パート3でしたか」

「そ」

 駐車場側からは壁にしか見えないが、EV側からは駐車場が見えるそれはマジックミラーだ。外部からの侵入者を想定した、そこもやはり防犯対策なのだろう。その中の、六機あるEVの一つがすぐ開くと、それに乗る。その扉が閉じたかと思うと、殆ど浮上感なく再びドアが開いた。

「えっ?」

 EVの表示は地上一階だ。

「ワ、ワープ?」

「何言ってるの、降りるわよ」

 半信半疑で具衛が続いて降りると、目の前に受付があった。コンシェルジュらしき二人の女性が座っている。その二人の、

「今晩は」

 という丁寧な挨拶こそが、別階の証だ。狐にでもつままれたような具衛は、その返事を忘れ、辺りをキョロキョロ見渡す田舎者。一階は、受付を挟んで左右がEVホールとロビーになっており、その正面は広く綺麗なエントランスだった。

「これはまた——」

 その壮麗さに呆気に取られながらも、遅ればせながら辛うじてコンシェルジュに頭を下げる具衛だ。当然慣れている仮名について歩くと、エントランスの自動ドア前で浴衣の女が立ち止まった。

「——あ」

 そこで、出入口直前までつき合わせてしまった間抜け振りに気づく。防犯モデルマンションとは言え、中から外に出る時にセキュリティーが影響する事はないだろう。ドアが開いた隙に、外からよそ者が入り込む事を警戒するぐらいの事だが、それは管理者サイドの仕事だ。田舎者は自動ドアから外に出る事だけを考えればいい。

「すみません、ドアの直前まで」

 変な見栄を張るのは外に出てからの話だ。そういう事で、自分に収まりをつける具衛の前で、

「今日は楽しかったわ」

 と、仮名が別れ際の社交辞令を口にした。が、

「社交辞令じゃないわよ」

 と、捩じ込まれる。

「ホントだから」

「それは、良かったです」

「あら、誰かさんのマネ?」

 得意げな仮名の決まり文句を吐いた具衛が、今更ながらその副産物に気づいた。他人に、

 ——楽しかったとか。

 今まで一度も言われた事がなかったような。しかもそれは、何だか身体の何処かがくすぐったい。

「あんなに笑ったのは、ホント久し振り」

「普通の祭りじゃ、あんな事はありませんから」

「そうなの?」

 獲得した景品を元手に、参加者自ら催し物をするとか。

「——聞いた事ありませんよ」

「まぁ、そうよね」

 それを思い出すその顔が、すぐに曇った。

「帰りの事がなければ——」

 と、見るからに顎が下がると、後悔のようなものが滲む。

「あなたの言う通り」

「え?」

「帰るまでが祭り」

「いえ、生意気でした」

「ちょっと表に出ようか」

「え?」

「ドア」

 気がつくと自動ドアの前で突っ立っていて、それが開いたままになっている。外へ向けては、このドアの向こうにも更に自動ドアが二枚。直ちにセキュリティーに影響はないだろうが、遠目にコンシェルジュが気にかけている。その目を気にした仮名が、具衛を表へ誘ったという展開。

「あ、帰ります。明日早いんでしょう?」

 朝から出張だと言っていた仮名だ。既にいい加減、翌日が迫っている時間の事でもある。慌てた具衛が一人、いそいそと外へ出て行くと、

「いいからちょっと来なさいよ!」

 と、語気強めた仮名が呼び止めた。

「え?」

「——あ、いや」

 思わぬそれに戸惑う具衛と、ばつが悪そうに口を濁す仮名のその横を、自動ドアの内外から人が出入りしている。都市の中心部だけあって、休日の深夜帯でも人車の出入りは途切れない。仮名の浴衣姿は確かに凄まじい見映えだが、周囲にそんな形の人など皆無だ。盆踊りは田舎だけの話のようで、その格好は流石に浮いて見える。

「ほら、邪魔になるから」

 と言う仮名が、勝手に外へ出て行った。仕方なく具衛も、その後をついて行く。

 中も中なら玄関口もそうしたもので、ビジター向けの車寄せは、一般的なマンションにはない広さだった。周辺施設へ連絡する地上二階の歩道の下になるそこの整然たる機能美は、高級ホテルのエントランスと遜色ない。天井も高く、三階建てのビジター用駐車場がある程の広さで、それは隣地とエントランスを隔てる壁替わりとなって一画を占めている。そんな車寄せには、まさにホテルのドアマンの如き警備員が一人配置されており、人車の出入りに目を配っていた。その警備員から離れると、

「つい甘えちゃうのよ」

 と、呟いた仮名が足を止める。

「え?」

「ユミさん。本音で話せる人、少ないから」

 どうやらこれは、

 ——話を聞け、と?

 言う事のようだ。が、それを聞いたところで、口の拙い具衛に何かを言える訳もない。

「そ、そうでしたか」

 精々そんな、下手な相槌を打つので精一杯だ。大した言葉を持たない田舎者の事なら、夜だというのに周囲の喧騒が耳について仕方がない。市街地のド真ん中にあるマンションのエントランスは大通り沿いだ。山小屋の住人には、声が拾いにくかった。

「山の人には賑やか過ぎる?」

 またそんなところを仮名に笑われると、具衛は苦笑いをするしかない。ふと、言う事に困ったその口が、

「これでも何か月か前までは、東京に住んでたんですが」

 などと呟いた。それを自分の耳が聞きとった時の、嫌な動悸。

 口が——

 軽くなっている。他人に自分の過去を話すなど、覚えがない具衛の事だ。密かに動揺していると、

「ちょっと裏へ行こう」

 と、仮名がエントランスから裏手へ足を向けた。すぐに見えて来たのは、これまただだ広い緑地だ。頭上にはあった歩道の天井はなくなり、空が見える。流石に山程星は見えないが、呆れた広さだ。とてもマンションの裏庭とは思えないそこは、どうやら隣接する街の公園なのか。何れにせよ、コンクリートジャングルに突然現れる広大な緩衝地は、それだけで落ち着く。

「ここなら少しはマシでしょ」

 仮名はその縁で足を止めた。遠目に東屋(あずまや)やベンチも見えるが、腰を下ろす程話し込むつもりはないのだろう。とりあえず、

「こんな公園まであるんですね」

 と、言ってみた。昼間なら青空ランチに良さそうな所だが、今は深夜帯だ。流石にこの時刻では、人影も見当たらない。

「都心のタワマンだと、こうはいかないような——」

「そうね」

 その深夜の公園へ誘い込んで何のつもりか。誘い込まれて何としたものか。

「ここなら気にならないでしょ?」

「何が、です?」

「何って、騒音よ」

「あぁ、そうでした」

「そうでした、って——」

 誘い込まれたのはそんな理由だった、とまた勝手に動揺する具衛だ。

「ちょっと健忘症が、ハハ」

 などと言う苦しい言い訳は、当然仮名には見透かされている。

「健忘症になる程、何かお悩みかしら?」

「いや——」

 今や厭世の山奥暮らしの具衛だ。悩みらしい悩みなど。あるとすれば、それを尋ねた本人と自分の境界線に戸惑っているぐらいの事だ。

 春先までの東京暮らしは、中々ハードだった。それが今や、喧騒が耳につく程に、都会暮らしは遠い過去になりつつある。その過去は、人の中で生きていながら、今と変わらず孤独だった。その過去を、

 誰かに——

 漏らすとか。

 ——有り得ない。

 梅雨時の事故の折は、単なる通りすがりの場繋ぎのつもりで少し開示しただけだ。ここまでのつき合いになるなど完全に想定外で、今やその間柄は立派な知己の部類に格上げされてしまっている。

 ——そうとも。

 困っている。

 言葉を交わし続けていると、その分だけ情が移る。これ程の美人だ。高飛車だのせっかちだの、その程度の欠点などは、その美貌の前では霞んでしまう。そのせいで、気がつくと好意的に接しようとする向きが強くなるのだ。

 そうなると——

 それに反比例して、自分の暗い過去が重たくのしかかり始める。余り語りたくない過去とは、自分に纏わりつく忌々しい業だ。それを口にしようものなら大抵の人間は構えて、引いて、離れてしまう。そんな過去でそんな業だ。当初は例えそれを仮名に知られようが、関係ないと思っていた。どうせ人の会話など、他人の噂話で満たされているのだ。その口に蓋など出来ない。何処へ行っても気がつくと、自分の素性など筒抜けだった。好意的な向きはほぼ皆無。悪意を含んだ好奇に晒され、気がつくといつも孤立無縁。そんな事を何度も繰り返して来た人生。今回もきっと、

 ——そんなオチだ。

 そう思っていた。

 それがお互いの素性を隠した交流だと、ありのままを晒すのみで、過去に触れる機会が全くない。そうなると少しずつ、しかして確実に、知れば知る程、もっと知りたくなってしまう。今を象るその為人(ひととなり)の形成経過は、どの様なものだったのか。

 ——気になる。

 片割れの具衛が思うのだ。相手方の仮名も、似たような思いをきっと持っている。そんな事になる前に、なぜ知己になる前に、後腐れなく終わらせなかったのか。これではまるで、何かの期待を膨らませて、大きくなったところでそれを割られて笑われる何かのコントのようではないか。既にある程度大きくなっているそれが、今後どうなるのか。今は只、それが知りたい。いつか何処で割れるのか。それとも限界まで膨らみ続けるのか。膨らんだら、いつか宙に浮くのか。中身を吐き出しながら勢いよく飛び回った挙句、また萎むのか。それとも膨らむだけ膨らんで、静かに萎むとかいう事もあったりするのか。

 何にせよ、今ここで過去や業を知られては、この風変わりな関係性はきっと終わる。お互いの素性を伏せたまま、今のありのままを当たり障りなく、まさに仮名で呼び合う間柄の都合の良さだ。当初は殆ど仮名の都合でしかなかった

 それが——

 ここへ来て、具衛にも只ならぬ好都合をもたらし始めている。

 ——まさに今更だな。

 そんな自己認識が、また具衛を動揺させた。この(いびつ)な間柄を続けて行く事を望む自分。仮名の為人に興味を覚え、その過去と詳細な素性を求め始めている自分。それを望む自分だけ、都合よく殻に籠っていられる、

 なんて事が——

 ある訳ない。そんな厄介な過去で、業の持ち主たる具衛だ。結局はそんな、見事なまでの堂々巡り。

「ちょっと」

「え?」

「何か、本気で悩んでる訳?」

「え?」

「さっきから『え』の疑問形ばっかり」

 どうやらしばらく、黙り込んでいたらしい。仮名がわざとらしい不機嫌面で、悪戯っぽく失笑した。

「いえ、別に」

 また苦笑いする具衛は、他に術を知らない。そんな、口に出来ない事に対する懊悩(おうのう)だ。

 ——そうとも。

 困っている。その堂々巡りの原因の片割れに。

「別にって——」

 こうして言葉を交わし続けていると、憎まれ口でさえ思いがけず恋しいその声に。その凛として弾むような声が、

「そうバッサリ切られると、取りつく島がないわね」

 と、小さく呆れて溜息を吐いた。

「切ったつもりは——」

「詐欺師のくせに舌足らずね」

 またその紅唇が失笑する。取りつく島と言われたところで、身軽さだけが取り柄の具衛だ。

 そんなもの——

 島はおろか、陸地めいた物など何一つない。文字通り、絶海を揺蕩(たゆた)う葉っぱのように、気ままにふらふらと。そんな頼りなさでしかない。思う様侮蔑され、蹂躙されるだけだったその前半生が、具衛をそうさせたのだ。そんな誰にも言えない鬱憤を、俄かに心中でたぎらせていると、

「——なんて。そういう私こそそうだけど」

 とか、仮名の何かの素直な肯定のようなものが、思いがけず心を軽くしてくれる。

「え?」

「取りつく島なんて。何処の口がどの面下げて言えたものやら」

「そうですか?」

「仕事上のつき合いはあっても、プライベートは全然だし」

「そうは見えませんが」

 こんなマンションに住んでいながら、島がないとか。

「島はあっても、取りつける所は用意してないの」

 またしてもあっさり具衛の思考を読む仮名が、重ね重ねも自己の至らなさの様なものを認める事の珍しさだ。

「いつも自信満々で、社交的じゃないですか」

「それはビジネスの姿ね。プライベートなんて社交も何も。今はホント、あなたとユミさんだけだわ」

 良い意味でふっ切れている様に見える。が、具衛はともかく、数少ないもう一人とはすっかり拗れてしまっている仮名だ。

「ユミさん、大丈夫ですか?」

 気になったその人の名を、あえて具衛が重ねて出してみる。と、口を真一文字につぐむ仮名の後悔は、やはりそれなりに強いらしい。

「——今度、謝っとくわ」

 ばつ悪そうに吐き出したそれは、前向きなもののようだ。

「そうですね」

「あなたにも——」

「え?」

「ごめんなさいね、見苦しい言い争い見せちゃって。わざわざ連れて行ってくれたのに——」

 何やら捲し立てるその口が、また急にそっぽを向いたかと思うと、

「——今日の埋め合わせは、また今度させてもらうから」

 とか、ボソりと捩じ込む。

「え?」

 その忙しい機微の変化についていけない具衛の疑問系が立て込み続ける中、

「もういい加減遅いし、気をつけて帰りなさいよ」

 と言った仮名は、そのまま緑地側のサブエントランスから、マンション内に滑り込むように消えてしまった。

「——あ」

 最後はやっつけ気味の畳み込みに、置き去りにされた具衛の追いすがる声は完全に独り言だ。が、確かにいい加減夜も更けている。

 今日のお礼って——。

 サブエントランスでさえ二重構えのセキュリティードアだ。その玉姿がそのままEVに消えると、具衛にはどうする事も出来ない。呆気にとられたまま、予定通りマンションを後にした。

 埋め合わせが、

 ——何とか言われても。

 確かに今回のホストは、

 俺だったけど——

 それが次なる伏線なのだとしたら。そのための取り繕いである事は、何となく分かってしまっている。では、そうまでする本心は何なのか。それを思うと、歩速以上に脈が速くなった。何かは分からないそれが、未だ膨らみ続けている。以前は懐疑的でしかなかったそれが、今の具衛には嬉しかった。


 九月に入った。

 山小屋周辺は既に初秋めいていて、市街地の暑気とは明らかに一線を画した涼気を帯びている。真琴は相変わらず、週に一度は仕事を早く切り上げ、山小屋を訪ねていた。そこの主とたわいない会話をついばみながら、移り行く景色を愛でる。平日の夕方だというのに、日常感に乏しい山間。目の前に広がる牧歌的な田園に人の姿はない。柔らかく白んだ風景の中を涼しげな風が抜けては、黄味が増した稲穂を揺らして行く。

 蝉の声が遠くなり、周辺の林間を抜ける風の音が大きくなったこの頃、縁側に吊るしてある風鈴が景気良く鳴るようになった。盛夏に慣れた身体には清涼この上ないそれは、先生が盆踊りの射的屋からせしめた景品の余りだ。物欲の薄い先生が、唯一持って帰った物だった。

「涼しくなって風鈴も元気になったのかしら」

 そんな先生と言えば、相変わらず真琴を放置し、本を読んでいる。

「しかし、ホントあなたも欲がないわね」

 こう言っては何だが、暮らし振りはお世辞にも裕福には見えない。そんな男が射的屋の景品を殆ど根こそぎ取ったのだ。

「売れそうな物は、換金すれば良かったのに」

 百均商品やその延長のような物に紛れて、実はネットオークションに出品すれば、それなりの値がつきそうな物もあったとは、景品争奪戦の折に耳にした話。が、

「そういう物は、ガキんちょ共の餌食でしたし」

 私は本があれば、と言う先生は、相変わらずブレない。

「あ、そ」

 お人好しと言うか、

 ——何と言うか。

 真琴は鼻で嘆息した。そんな今更ながらの、ドウデモ話の油断だろうか。

「それを言うならあなたこそでしょ。あれだけ横槍入れたのに、一つしか持って帰らなかったそうじゃないですか?」

 と言われて、脈が跳ねた真琴だ。景品争奪戦では、場を盛り上げる大人の勝ち過ぎを抑制するため、真琴が最強の横槍を入れ続けた経緯がある。それはそんな折の、一つの魔だ。

「何持って帰ったんです?」

 と、不思議そうな顔をする先生に、他意はないのだろう。普段は単純で、それこそお人好しのこの男の事だ。

「な、何も持って帰ってないわよ」

 急転直下の窮地に、反射で否定する事の愚かさを知らない真琴ではない。が、それ程の動揺が、この女をしても口を滑らす。

「大事そうに巾着に入れてたって、ユミさんが言われてましたけど——」

 挙句、そんな罠とも言えない後出しのネタばらしに引っかかる事の迂闊。

 ——余計な事を!

 持って帰った物に痛い向きがある事の羞恥が、その紅唇から無様な舌打ちを繰り出させると、

「——フ、フーリンよ! フーリン!」

 とか言う、やっつけ仕事でそっぽを向いた真琴だ。

「そうですか。いいですよね、風鈴」

 そんな鈍い先生に助けられ、密かに胸を撫で下ろす事の、半端ない一人相撲感。

 ——や、やれやれ。

 本当に素直と言うか、何と言うかだ。近頃、この素朴な詐欺師の、そんな心地良さに気づいた真琴だが、一方でそれを認めたがらないプライドが忌々しくもある。

「お陰様で、獣が寄りつかなくなりましたよ」

 先生はそんな事など、まるで気づきもしない。真琴の言葉を額面通りに受け止めては、淡々と口を動かすのみだ。

「獣?」

 勘繰られない事をよい事に、とりあえずその話に乗っかる。

「狸とか鹿とか猪とか」

「猪って危なくない?」

 動揺が収まった真琴が先生を一瞥すると、

「接し方さえ間違わなければ、そこまで危なくは」

 と言う先生は、本に目を落としたままだ。

「ある農家さんなんて、飼ってる方もいますし」

「んふ!?」

 油断していた訳ではなかったが、真琴は出された茶を啜ったタイミングだった。聞きなれないフレーズに、むせてしまう。

「大丈夫ですか?」

「あなたがまた——」

 途端に拗れる喉でも、言いたい事は先生に伝わったようだ。

「ウリ坊から飼うと、よく懐くそうです。私も撫でさせてもらった事があるんですけど——」

 立派な成獣なのに意外に大人しいとか、呆気らかんと答えた。

「ふーん。聞いた事ないわ」

 喉を取り戻した真琴は、首を捻った。

「全国的には、稀にあるみたいですよ」

「猪って、飼える——のか」

 素直な疑問を勝手に解決する真琴は、それなりにそうした知識を持っていたりする。

 適法に捕獲された場合、つまり狩猟期間中に捕らえた個体なら基本的に、

「許可や届出はいらないようですよ」

 とか。その根拠は主に、

「狩猟法絡み?」

「まぁそうですね」

 一般的にそれは【鳥獣保護法】とも略される。

「ホントここは、興味が尽きないわぁ」

 少し喉の予後を気にする真琴を、控え目に失笑する先生が、

「そう言えば、熊はまだ見た事ないですね」

 などと、また只ならぬ事を呟いた。

「まさか、熊飼ってる人は?」

「この辺では流石に聞いた事ないですね」

 が、広域的には、実はない事はなかったりする。因みに熊を飼う場合、日本では、

「環境省令——?」

「特定動物ですか」

 それは法律が指定する【危険動物】という事だ。外来生物法などにも見られるが、それらの飼育は基本的に、許可や届出を要する。

「ウリ坊なら飼ってみたい気もしますが、流石に熊はちょっと——」

 と笑う先生を、それとなく試した向きの真琴が、

 やはり——

 その男に意外性を見る。素直さにかこつけた、厚かましい真琴の言葉遊びこそ何かの罠というヤツだ。しかもそれは、実は思わせ振りも兼ねているいやらしさだったりする。

 ——私も大概としたものね。

 相変わらず本に目を落としながら柔らかい笑みを浮かべている素朴な男。それを目の端で捉える真琴は、密かに頬を紅潮させた。事ある毎に見惚れる先生を前に、一方で悦に浸る向きがなかったと言えばウソになる。男の気を引こうとするそんな女らしさを、この稀有の美貌を携える女傑は忌み嫌っていた

 ——筈なのに。

 先生に免疫のようなものがついてくると、その分あざとさが増している自分に、ふと我に返っては呆れる有様。いつから自分は、そんな安っぽい人間に成り下がったのか。

 身形は良品で固めてはいるが、デザインはシンプルで端正な物を好んでいる。それでも化粧だけは年々濃くなっているように感じるのは、恐らく気のせいではない。何処かでリセットしたい思いはあるが、きっかけが掴めないでいる。結局これでは、世の女と同じだと分かっているのに、それに流されてしまう自分。それでも加齢に勝てず色気が乏しくなったのか、それとも先生が慣れてきたのか。ウブな男の動揺をなぶっていた筈が、いつの間にかそれを落とそうと力んでいる自分。一貫して変わらないのは、先生の牙城の堅牢さだ。

 自分の見た目だけですり寄って来るような男は、生来眼中にない。財を目当てに絡んで来る連中は、吐いて捨てる程に吐き捨てて来た。真琴に近づく世の男共は、この二通りという絶望感の中で、先生はどちらに転んで捨てる事になるのか。何となく気にはしていた。が、今のところ、一風変わった可愛らしいこの男はどちらでもない。身体目当てで手を出す事もなければ、金目当てで何か言う事もない。幸か不幸か、ずば抜けた魅力で何らかの野心を持つろくでなしに絡まれてばかりだった真琴の人生で、先生は極めて平凡な男だった。逆に言えばこれこそが常識的な男と言う事なのだろうが、ろくでもない男達のせいで歪み切った真琴にしてみれば、回り回ってその様は、単なる意気地なしにも負け犬にも見える。こと女絡みでは熱量を感じない、そんな草食系の山男。梅雨以来、約三か月。真琴の目に映る先生は明らかに異質で、興味は募るばかりだった。

 盆踊りの帰りに住まい(マンション)を教えたというのに、いつまで経っても先生はその事に触れてこない。お陰で二人の立ち位置も、全く変わらない。いつまで経っても、仮名と先生のままの二人。

 ——放置プレイってヤツ?

 性別を問わずすり寄られ、すり減るばかりだった真琴の交友関係で、不作為を基本とする人間などいたためしがない。

 それなら——

 自分が能動的になると、この男は、

 ——どうなるんだろう?

 と、俄かに気になり始めている今日この頃。

 ——人嫌いのこの私が?

 本を読んでいる先生を、それとなく横目で観察する。ボンヤリとして力感に乏しく、ファジーで大人しい。そんな緩い形容に尽きない優男は、まさに山奥の自然に塗れて草を食んでいる山羊のようだと思うと、うっかり噴き出しそうになる。が、これで実は、有事にそれなりの立ち回りが出来るというのだから、今更ながらに世の中の広さを痛感させられている真琴だ。その見た目とのギャップは、どういう生き様で養われたのか。そんな男が、自分が能動的に、より分かりやすく籠絡するとどうなるのか。そんな不埒(ふらち)な事を考えている女の傍で、何処吹く風の先生は、今日も例に違わず放置プレイだ。相変わらず空気のような穏やかさで、これの何処を見れば、腕に覚えがある真琴の意表を突くと言うのか。

「——な、何でしょう?」

 気がつくと、つい先生に見入っていた真琴だ。悶々と思いを巡らせていたとは言え、不覚にも程がある。瞬間で無駄に跳ね上がった心音は、それを認めたくない自分に対する罰のようだ。それが一気に臨界点に達すると、自己認識出来る程の痙攣を引き起こし、一瞬全身を震わせてくれた。

「い、いや、何を読んでるのかな、と思って」

 返答に窮して言い淀むなど。その軟弱さが、今度は顔の火照りを誘った。大体が、

「かな」ってどの口が——!?

 そんなもの、自分自身でも見た事もなければ聞いた事もない。

「これですか? ライトノベルですよ」

 真琴の機微など全く理解出来ていない様子の先生が唯一の救いだ。

 ふぅ——。

 密かに長息する真琴の向こうにいる、その愛すべき質朴(しつぼく)が、また本に目を移す。

「日本のライトノベルはレベル高いですよ」

 などと嬉しそうな先生は、

 どうやら——

 本当に、真琴の異変に気づいていない。

「そう」

 それをいい事に平生を装い直す真琴だが、一方で物足りなさを感じる自分がいたりする。

 ——どんだけ我儘なのよ!?

 と、内心で勝手に自己嫌悪しているところへ、更に先生の不意打ちが刺さった。

「ユミさん」

「え?」

「どうなりました?」

「あ——」

 開いた口が言葉を失うなど。これまたかつてない経験をさせられる真琴だ。先日の口喧嘩から三週間超。それは真琴の中では、既に過去の事だった。

 実は由美子とは、あれ以来冷戦状態となり、余りの気マズさから何日か前に帰郷させた。一応表向きは、長年溜まりに溜まった有休消化の名目だ。が、今後の事は未定で、恐らくはまた本家家政士に復帰するだろう。

「あ、謝ったわよ」

 とは真っ赤なウソだ。辻褄合わせもクソもない。が、忌々しさを辛うじて堪え、そういう事に決め込む。どの道【ユミさん】の出番は、もうないのだ。幕引きなら、それこそウソも方便だろう。

「仲直り出来ました?」

「ええ」

「それはよかった」

 と、本と真琴の間を行き来する先生の目が、最後は必ず前者に落ち着くのを確かめた後者が、今度は聞こえよがしの嘆息をした。が、先生はやはり放置プレイだ。

 ——何よ急に!?

 真琴にしてみれば、思い出したくない事を蒸し返された忌々しさでしかない。久し振りに一人暮らしに戻って約一週間。家事の手業に不自由しない真琴の生活レベルは、確かに落ちてはいない。が、仕事は相変わらずキリキリ舞い。その状態で帰宅して全部をこなすのは流石にしんどい。余暇の時間は殆どなくなり、入れ替わりで増えているのはストレスだ。どれ程由美子に依存していたか。失って気づくその大きさ。ストレスも疲労もそうだが、何より独りは

 やっぱり——

 寂しい。その痛感。

「何か、マズかったですか?」

 いつの間にか先生の目が、また真琴を見ている。本を読みながら器用な事だ。殆ど本を

 ——読んでるくせに。

 まるで盗み見されているような気がして来る。と、それが、

「別に」

 と、僻んだ声となって出てしまった。

「何か、怒ってます?」

「怒ってないってば!」

 自分の耳が、その子供染みた稚拙な言葉を捉え、我に返る。

「——ゴメン」

 ばつの悪さに耐え切れず、ついそっぽを

 向くとか——

 これまた実に子供染みていると思うが、またしても後の祭りだ。一々それに気づいていながら感情が抑えられない。それでもすぐに謝罪出来たのが、また何かの救いだ。由美子との関係が修復困難な中、先生やこの山小屋まで失う訳にはいかない。そんな本能的な防御反応が働く程、

 依存してる——?

 とか。別の視座の自分が一々客観的に考えてくれるせいで、また勝手に動揺する真琴だ。

「いえ」

 殆ど八つ当たりのようなものだったのに、先生は相変わらず穏やかだった。

 これは——

 それこそマズい。このまま居座っては、ズルズルと色々ぶちまけてしまいそうだ。

「今日はそろそろ帰るわ」

 動揺のせいだろうか。妙に体が火照る。

「いつもありがとう」

 とってつけたような謝意だが、それでも言わないよりはマシだろう。真琴はそのまま、すっかり夕暮れが早くなった山小屋を後にした。


 九月下旬。

 シルバーウィークにもなると、山小屋はあっと言う間に秋めいて来た。日中でも涼しいのは当たり前で、朝晩の肌寒さを思うと、今から冬の厳しさが怖くなる。具衛はすっかり、世間から置き去られたような生活を営んでいた。それもその筈で、唯一と言ってもいい世間との繋がりが途絶えたのだ。つまり、仮名と連絡がつかなくなった。当然来訪もなければメールも届かない。所謂、音信不通というヤツだ。

 本好きの具衛が、それに集中出来ない事の異常。来訪の度に存在感を増していた、そんな仮名の最後の来訪は二週間前だった。つまり先週は、何の前触れもなく飛んだ訳だ。

「どうしたんだろう」

 何の気なしに、独りで声に出してみる。と、軒下の風鈴が声を掻き消してくれた。

 いい加減——

 もういいだろう。それを取ると、物干し部屋に移した。座り直してまた本に目をやるが、何を読んでいるのか分からない。

 長年の読書癖のせいか、具衛は速読の部類だ。一日読む機会があれば、文庫本なら軽く二、三冊は読む。特に山小屋暮らしを始めて以降、邪魔が入らないためペースが早くなった。町の図書館などは、すっかり常連さんだ。そんな男が本を前に、ボンヤリしている。

「うーん」

 ついに、座卓の傍で仰向けに転がった。本が読めないなど、経験のない事だ。理由ははっきり認識している。

 またノソノソ起き上がると、縁側の右端に目を移した。仮名の姿を思い起こそうとするが、上手くその残像が捉えられない。徐にそこへすり寄って見たが、やはり右端には座れなかった。そこは既に、仮名のプライベートスペースだ。今ならそこから、見頃を迎えたあちらこちらの彼岸花がよく見える。

 ——儚気だな。

 秋の彼岸でお馴染みのそれが、畔や土手、墓地などに咲き乱れる理由は、人為的に植えられた事による。彼岸花に毒がある事は有名だが、それは主に鱗茎(球根)にあり、それを利用した土壌保全目的だ。土を掘り返して土地を荒らす習性があるモグラや鼠などが、彼岸花の毒を嫌がり寄りつかなくなる。具衛はそれを、やはり農作業の手伝い先で聞いて知った。

 世の中ってホント——

 知らない事だらけだ。仮名ではないが、このような山奥にいながら、この世の興味は尽きる事がない。彼岸花に限って言えば、人間様の手前勝手な

 ——ご都合主義だよなぁ。

 そのザマを、見事に呈していると言えるだろう。

 その花は墓地でよく見られる理由から、【死人花】や【地獄花】など、芳しからぬ別名を持つ。花言葉もまたそれを強く連想させるもので、何処となく漂う悲壮感は気のせいではないだろう。極めつけはその迷信だ。

「彼岸花を家に持ち帰ると火事になる」

 とか、

「彼岸花を摘むと死人が出る」

 などと、言いたい放題の扱いひどさは、気の毒さすら覚える。それでも彼岸花は、健気かつ几帳面に、害獣対策をアピールしつつ、毎秋の彼岸に日本各地で咲き乱れる訳だ。

 晩夏初秋の儚気なこの風物詩を、仮名ならきっと、薄く感嘆しながら目を細めて愛でる事だろう。

「情熱、独立、再開、諦め、悲しい思い出——」

 スマホで調べたその花言葉は、一般的な赤い彼岸花のものだ。花の色によって花言葉も違うようだが、その情緒的な言葉の羅列が、物の見事に身体のそこかしこを刺す。

「はぁ——」

 盛大な嘆息と共に、また仰向けに大の字になった。気になるのなら、メールを送ればよいだけの話だ。が、その踏ん切りが中々つかない。メールのやり取りを始めて約二か月。その内容は殆ど事務連絡の域だ。発信するのは仮名ばかり。対する具衛は返信するばかり。要するに、未だ具衛から発信した事がない。

 俺なんかが——

 送ってもよいものか。悩んでいるのはズバリそこだ。いずれは捨てられ、忘れ去られる身である事は認識している。もしかすると既に、仮名の山小屋ブームは過ぎ去ったのではないか。それへ向けて、嬉しげにどの面さげて

 ——何を送る?

 その有り得なさ。後ろ向きな発想は事欠かない。大体、これまでの展開が出来過ぎだったのだ。事故で知り合い、以後何故か絡まれるようになり、トントン拍子に花火大会に盆踊り。気がつくと、何処かへ一緒に出掛ける仲。一般的にそうした男女は、何かの枠組みに入るものなのではないか。と思うと、その有り得なさにまた絶句する。

 ——あの美女と俺が?

 少なからずの疑心暗鬼も経験したが、いつ頃からかアホ臭くなって考えなくなった。間違いなくセレブだろう美女が得られるメリットなど何もない、すっからかんの我が身。つまり、一時の慰み物という結論に至る。

 その一方で、もしかして、

 ——もしかするのか?

 などと、目の前にある神社に足を向ける事が増えた。鳥居の左右におわす白狐さんの様子に変化が、

 ——あるとかないとか。

 そんな神秘に、今更ときめくような年でもない事は理解しているし、盆正月でさえろくに参拝した事もない俗物だ。今更何かにあやかるつもりもなかったが、何度か通っていれば気づく事もあるのではないか。神社の白狐さんからすれば、しばらくうっとおしかった事だろう。当然何かある訳もなく、気づきと言えば、我が身の平凡さを再認識した事ぐらいだ。

 やっぱり——

 捨てられて終わりという、ありきたりな展開。お互いの素性を隠す念の入れ様も理解出来ようものだ。後腐れなく断ち切れる。が、それにしては、何かを育んでいるような気がしないでもない。今更恋愛ごっこするような年でもないのに、肉体的なアクションも皆無。ホスト扱いにしては、

 何だか——

 大事にされているような。結局、何れ捨てられる事は分かっていながらも、

 ——何がしたいんだろう?

 そんな堂々巡り。

 何となく分かってきたその女の性質が、取っ替え引っ替え男を食い散らすとは思えない。が、一方で、ウブな中年に女の魔性が理解出来る訳もない。何れにしても、これで終わりとは思えないし、思いたくもない自分がいる事だけは認めざるを得ない。

 何か理由が——

 あるんだろう。

 とりあえず今は、そう思う事にした。

「今日ならブドウがあるんだけどなぁ」

 農家の手伝いで貰った【ピオーネ】だ。黒葡萄の一種で、備北は日本有数の産地の一つだったりする。何でも好き嫌いなく食らう具衛に、その高級ブドウの味の事は分からないが、食ってみると大粒なのに身が詰まっていて、酸味と甘味の塩梅も良く、とても美味かった。

 海外出張でも——

 行っているんだろう。

 非番日の事なら早風呂を済ませ、後は晩飯を食って寝るだけの身だ。そんな男やもめが台所へ立とうとしたその時。座卓に置いていたスマホが、素気ない音で一回鳴った。飛びつくように慌てて確かめると、やはりすっかり見慣れた名前が現れる。

「来たっ!」

 誰もいない山奥である事をよい事に、いい中年がみっともないはしゃぎ様だ。それ程までに、仮名の素気ないメールに依存してしまっている自分。今はとりあえず、捨てられる運命は考えない。

「やっぱり海外出張だったか」

 などと、勝手な推測を口にする具衛が、メールを開封する。と、そのタイトルに、

"病み上がり"

 とあった。

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