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盆(後)【先生のアノニマ(上)〜6】

 午後七時過ぎ。

 辺りの闇が濃くなり始めると、盆踊りが始まった。真琴は半狐面の下で、ようやく取り戻した冷静さを纏い、会場の端にあるベンチに腰を下ろしていた。櫓を囲む屋台の更に外側にあるベンチで、喧騒も会場中心から少し離れている程度には落ち着いている。横には相変わらず、先生と由美子が揃って座っていた。真琴は食べたい物はあらかた食べてしまい、手持ち無沙汰でぼんやりしたものだが、先生は細々と菓子パンを食べている。

 日本の祭りで——

 菓子パンとか。

 別にそれが悪いとは言わないが、こういう祭りなどではB級グルメとしたものではないのか。日頃食いつける事がないそれらを堪能した真琴としては、パンは祭りの情緒に欠けるような気がした。庶民と言っては、大多数のそうした階層に属する人々の反感を買う事請け合いだが、これまでの真琴の人生で、庶民の祭りに参加するなど経験がなく、子供心に憧れたものだ。独立した後も結局足を向けるきっかけがなく、シーズンになると地方版のニュースなどで見かけては思い出す程度だったそれが、ようやく実現出来て密かにご満悦の真琴である。身内では、庶民の祭りを受け入れる者など誰一人としておらず、子供の頃に、

「行きたい」

 と親に言っても、

「野卑た祭りなど行くものではない」

 などと、それこそバッサリ切り捨てられたものだった。その上流意識は当然に今でも変わらず、真琴がお面を被って祭りに行き、B級グルメを立ち食いしながらノンアルコールビールをガブ飲みした、などと身内に知られようものなら、蔑視嘲笑ならまだ良い方。事の次第によっては激怒するかも知れない。真琴はそんな窮屈な家の生まれで、そんな実家には心底辟易したもので、もう何年も帰っていない。

「始まりましたね」

 先生が、遠くの櫓を中心に踊り始める踊り手を眺めながら、

「踊ってみますか?」

 と口にした。

 ベンチでの一休みが奏功し、先生に対する動揺もすっかり収まっている。実はお面の下で興奮状態だった真琴は、珍しくオーバーヒートしていたようだ、との自己分析にようやく辿り着いた。冷静沈着を旨とする自分が、らしくないにも程がある。が、長年の夢と言っては言い過ぎだが、身内が言うところの「野卑た祭り」に参加出来たのだから、それもご愛嬌という事にしておく。

「誰でも踊っていいの?」

「ええ。私は遠慮しときますが」

 自分で話を振っておきながら先生は「ほんと出店が多いなぁ」などと屋台を眺めている。どちらかと言うと先生は、踊りより屋台に興味を持っているようだった。

 人嫌いを公言する先生だが、意外だったのは会場内での認知度の高さだ。射的の子供に始まり、農家風の老人からの呼び声が多かったが、中には自治会か商工会の青年部らしき法被(はっぴ)を着た、少し気合の入った者達も。それらに何やら脅迫めいた組織加入の勧誘をされては、尻込みしながらも柔らかく断る姿が滑稽で、半狐面の下で失笑した真琴だ。人に放置されない何かが先生にある事はよく理解出来た。が、彼は不思議と誰彼からも、「宿直さん」とか「先生」と、今の仕事上での職名で呼ばれる事の違和感だったりした。揃いも揃って、顔と仕事は知っていても名前が思い出せないのか。至極当然のように職名で呼ばれている。共通して言える事は、声をかける人々が、仕事以外でも呼び止めないと気が済まないようで、皆好意的だという事だった。もっともそうでなければ呼び止めないだろうが、それにしても皆仲が良さそうで、先生としても満更でもないようだ。その何処かの折の真琴が、

「何でみんな名前で呼ばないの?」

 と、率直な疑問を先生にぶつけた。もしかすると、先生の名前を聞き出せるかも知れない、と考えていた向きもある。聞いたところで、別に何かある訳でもないが、やはり本名の方が、より親しみを覚えようものだ。そう思い当たると、真琴は半狐面の下で勝手に動揺した。

「名前を伏せている訳じゃないんですけど。顔に特徴がないから、覚えてもらえないようで」

 と、先生が苦笑いする。

 確かに顔つきは素直というか、特段の癖を感じない淡白顔の典型ではある。が、贔屓目に見ても凡庸では片づけられない、中々の面立ちではあった。

 そんな男がパンをかじる理由は知っている。それは真琴が手洗いと称して会場を離れた時、先生が共同作業所の屋台で買った物だった。障害者自立支援法に基づく障害者の通所施設である共同作業所は、自治体の支援を受けながら社会福祉法人が運営している事が常だ。就労支援型の作業所もあれば、生活介護型の所もある。近年では、業態の工夫や変化に伴い、収益を伸ばす作業所も出て来てはいるが、あくまでもそれは少数派だ。現状は中々厳しいと言わざるを得ず、手芸用品やパンの販売の形態は比較的多く見られる。この祭りで屋台を出していた作業所もそうした所のようで、先生が買ったのもそんな菓子パンだった。

 確かに先生は、

 ——そういうヤツよね。

 柔らかい印象の顔と慈善は、先生のイメージと合致する。この顔で、花火大会の時のような荒事をやってしまう方がおかしいのだ。

「パンは好きなんですよ」

 と言いながらも、到底会場で食い切れるような量ではなく、リュックサックに詰め込んでは、

「まぁ多少は日持ちしますから」

 などと、笑ったのはちょっと前の話。その思いを掘り下げてみたくなり、

「そのパンは、どういうつもりなの?」

 と言う真琴の声色が、俄かに鋭くなる。

「どう、とは?」

 僅かに戸惑いを見せた先生に、

「偽善?」

 と切り出すそれは、時間差の意地悪のようなものだ。

「人によって受け取り方は違うので、まぁ何と言われても——」

 そんな調子で濁すのか、と思いきや。

「——私は寄り添いたい。それだけです」

 意外にもあっさり言い切られてしまい、逆に軽く動揺させられてしまった真琴だ。妙な潔さのようなものも、また先生のイメージとよく被る。

「——ちょっと、試しただけよ」

 と言いながらも、まるで自然だった先生に対して、言及した真琴の方が浮いたような。下手に気取らないところは、

 何処か——

 熟れている。実はそんなところをそれなりに悩んでいる自分が、ひどく小さく思えた真琴だった。

 会場出入口の掲示板に掲示されていた案内には、協賛金出資者が掲載されていた。それは体の良い出資企業の宣伝でもあったのだが、出資額に比例した文字の大小において、真琴の企業は最も大きく掲載されていた。そのあからさまな大きさは、他を寄せつけず群を抜いており、実のところ真琴の個人的な出資金が相当底上げした結果だ。協賛金を出す時、匿名にするか、実名にするか、企業名を底上げするか、実は少し悩んだ。真琴が勤めている企業とは、真琴の実家がやっている系列会社だ。

 それなら——

 個人名を売るつもりがないのであれば、とりあえず企業を上げておこう、と考えた。実家とは上手く行っていないし、そのグループ企業を盛り上げるなど忌々しさしかなかったが、そこに勤める従業員に罪はないし、何より曲がりなりにも現に自分が勤めている会社だ。で、その結果、企業のあからさまなイメージアップを狙った底上げである事は、関係者伝いで噂となって浸透して行く。しばらくすると賛否が聞こえて来て、ややもすると直接嫌味が耳に入る事もあった。今つけている半狐面も、とりあえずこの自治体にもそれなりに住んでいると思われる従業員対策だ。その美貌由来の不躾な目を躱す意味合いより、実はそっちの方が重要だった。素顔がそれなりに通っている真琴がそれを晒してしまうと、先生に素性を勘づかれる。更に言えば、従業員からの中傷を避けたい意味合いだった。それでも少し迂闊だったと思うのは、女狐だの赤い狐だのと、被っている半狐面系統の蔑称を持つ真琴だ。この形が、真琴を面白く思わない連中に発覚したなら、格好の中傷の的になる事は確実だった。

 それにしても——

 別に悪い事をやっている訳ではないのだが、どうしてこうも世間は捻くれたものか。祭りで顔見世興行をしている、と思われるのはやはり面白くない。金持ちの金余りの気紛れ、ぐらいの見られ方ならまだマシな方で、その財を狙う物騒な輩に狙われる事すらある俗世だ。

 忌々しくも——

 善が怯んで悪が蔓延る。それも姑息で卑劣な悪が。邪な悪意に中傷され、理解される事などない真琴は、それを憎む以上にいつまで経っても未だに

 善意の伝え方が——

 分からない。その拙さに、自己の至らなさを痛感させられていた。

 確かに金は大切だ。が、金はあくまでも金だ。国家やその中央銀行による信用によってその価値が与えられている、それだけだ。そんな事はよく理解している身ではある。その分かりやすい価値に人は惑わされ、悩み、溺れてしまいがちだ。金に色がつかないからこそ、それに少しでも意義を持たせようと、寄付、寄贈、出資を重ねて来たが、未だにその伝え方に悩む。実は投げ遣りで贈呈した事など一度もない。節税という側面もある事はあるが、あくまでも側面だ。自分には有意義な使い方が出来ない代わりに、有意義に使って欲しい。そんな理由で金を贈る自分の、何と傲慢で不躾で物を知らない事か。その裏で、実は贈られる側としては、金以上に有難いものはない事もよく知っている。要するに、それをする自分が据わっていない、それだけなのだ。それに深い意義を見出そうとする余り、未だにその深みにはまりがちで、未だに悩む向きのある自分を、

「まぁ気まぐれですから」

「そうなの?」

 と、先生は、いとも簡単に答えてくれたものだった。

「まだまだ人生経験も浅いし、常に安定的な慈善家でもなく。だから思い立った時ぐらいは。その程度です」

「ふーん」

 真琴はこの瞬間、先生の意外性の根幹に少し触れたような気がした。よい意味で開き直れるからこそ思い切れる。それが意外性に繋がっている。つまりはそれが、

「詐欺師の真骨頂ね」

 と、皮肉めいた断定に至った。

 偽善だろうが、善は善だ。偽っても、贈る行為は善だ。更に突っ込んで言えば、代わりに泥を被った汚い金でも、金は金だ。それを寄贈する事自体は善ではないか。事実、人類有史において、そうした義賊は古今東西少なからず存在したものだ。

「お褒めの言葉と受け止めさせていただきます」

 この瞬間、真琴の懊悩を少し軽くした事など恐らく理解していない先生は、思わず苦笑いしてみせた。

「うむ、苦しゅーない」

 と、高飛車な真琴の贈る善意は、幸いにも偽りなどない善意だ。

 それで——

 十分ではないか。

 そもそもが、クヨクヨ悩むような事でもないのだ。が、裏を返せば真琴を巡る世の邪な目は、それ程までに苛烈だという事でもある。

「そうは言っても、まだまだ修行が足らないんですけどね」

 などと、苦笑を続ける詐欺師に内心感謝をしていると、

「まぁホント、仲がおよろしいこと」

 と、由美子がまた、したり顔で毒づいた。盆休みに里帰りで夫を堪能して来た筈の由美子だったが、逆にそれが、

 ——仇になったか。

 また別れて帰広してしまった事で、あっと言う間に足らなくなってしまったようだ。口には出さないが、真琴が見る限り由美子は何処か気鬱で、一見して

「また拗ねて」

 いるようだった。

「拗ねてなんかいませんよ」

 また、俄かに雲行きが怪しくなる、そんな時。その横で明らかにハラハラしていた

「先生」

 を呼ぶ声が傍で上がった。

 真琴がそれに気づくと、先生の顔色は既に固くなっている。子供の声だったそれは、明らかに窮状を訴える声色だ。由美子と諍いつつあった真琴だったが、由美子もそれを察したようで、共々即時休戦に入った。闇と薄暮の曖昧な明暗の中で、お面越しに目をすがめて見た子供は、射的の屋台で先生を呼びつけた男児だった。その子が、泣きじゃくる小さい男児を連れている。

「どうしたケンタ? ショウタを泣かせて」

 先生は男児をケンタと呼び、小さい男児をショウタと呼んだ。小学校三年生ぐらいだろう。

「俺が泣かせたんじゃないよ」

 ケンタの話では、ショウタがあの射的で、大物標的の野球盤をまぐれで倒したらしい。射的のオヤジはショウタに野球盤を差し出し、ショウタは一人で抱えるのがやっとの景品に興奮しながらも、一人で抱えて引き続き友達と会場を散策していた。が、そうするうちに友達とはぐれてしまい、代わりに現れたのが柄の悪そうなチンピラだったとか。チンピラはショウタをあやすようにその野球盤を取り上げると、然も新しく用意したかのように、そのまま堂々と射的の景品として的に戻した、という。

「ショウタのヤツが、泣きながらチンピラの後を尾けたんだって」

「そうか」

 先生は、ケンタから事情を聞きながらショウタの頭を撫でている。

「事実なら恐喝ね」

「詳しいですね」

「あなたこそ」

「そんなモンですか」

 真琴が見聞きする限り、一部始終をケンタから聞き取る先生は、推測と確定要素の棲み分けが適切だった。途中、年端も行かないショウタを交えた聞き取りにおいても、

 ——慣れている。

 と言わざるを得ない、慎重さを見せつけてくれたものだ。

 子供に限らず、素人の純粋で単純な正義感は、頭の中では推測と事実との乖離を理解出来ていても、口に出す段階で理路整然とそれを説明する事は難しかったりする。感情が先走り、誇張や決めつけが先行しがちなのだ。それが弁術がままならない子供ともなると、更に怪しくなるどころか、普通は満足に説明すら出来ない。よりによって今は、被害直後で感情が溢れている時だ。そうした場合大抵は、法的にもコミュニケーション的観点からも、その保護者がつき添う。が、一見して周囲に保護者は見当たらない。これでは普通、

 お手上げとしたモンだけど——

 先生に対する子供達の信は中々厚いと見え、事実を確かめてしまうとすっかり落ち着かせてしまった。これでは

「親御さんも形無しね」

 と、つい考えついでで口にした真琴が、

 ——しまった!

 と思った時には、もう言葉が口から漏れた後だった。先生に纏わりつく子供といえば、母子施設の子に決まっている。それなりの事情持ちの子供達の前で、その事情をろくに知りもしない部外者風情が、その親の事を口にする事の無神経さだ。

「今日も母ちゃん遅いんか」

 それだけ呟いた先生の一言が、思いがけず真琴を刺した。意外にも太い笑みを浮かべるその男は、ぐずつくショウタの頭を撫でながら慰めている。今この場に先生がいなければ、自分の迂闊な舌鋒が子供達を刺したままだった事を、今更思い知らされる事の鈍さだ。

「ご、——」

 と、慌てて謝罪を吐こうとした寸前で、

「周囲に保護者がいないから、狙われたんでしょうね」

 と、先生が被せた。静かだがしっかりした物言いのそれは、口を挟むなと言わんばかりだ。

「会場内では自由行動だったよな確か?」

 例年施設の子供達は、会場までは先生達に連れて来てもらうらしい。先生が確認すると、ケンタが力なく頷いた。

「俺が目を離したばっかりに。面目ない」

 また古臭い言葉で、それでも潔い謝罪をする昭和の少年に、心が疼いた真琴だ。

「ちょっと調子に乗り過ぎたか」

 ケンタに向かって言った先生の言葉である事は分かっているが、迂闊な一言の後ろめたさがそれを過剰に拾い上げせ、また真琴を追い撃つ。

「うん」

「まぁ先生達も、先生達だよなぁ」

 いくら田舎の祭りとは言え、人出を考えれば、やはり小さい子にはつき添いが必要という事だ。先生は、今度はケンタのいがぐり頭をジョリジョリと、気持ちよさそうな音を立てながら撫でた。

「どうするの?」

 下手な事を言った手前の真琴だ。

「肝心な時には、いつも間抜けな自分が嫌になるけど」

 と、ようやくここで、自虐を含めた僅かな謝意のようなものを口に出来た事に安心する向きの一方で、実は先生の出方も気になる。何せ狂犬染みた筋者相手に、実力行使でまかり通るような男の事だ。子供達の手前で流石にそれはマズいだろう。

「そのチンピラってのは、まだ射的屋におったか?」

「うん」

「よし。そんなら正面から突撃じゃ」

 先程来、春先から聞き慣れつつある広島弁のようなものを、先生が口にする事の違和感が凄い。

 ——んだけど。

 角のキツさばかりが耳についていたその方言なのに、この男が吐くと、不思議と何処か心地良いからおかしなものだ。子供に対する優しさがそう見せるのか。そんな先生は臆面もなく、二人の男児を両脇に抱えて射的屋に足を向ける。が、不意に振り向くと、

「お二人は他を見て回っててください」

 と、最低限の配慮も忘れない振舞が、何処か小憎らしく思えて来る。

「何言ってんのよ。弱きを助け強きをくじくでしょうが」

 放置して気を揉むぐらいなら、見届けた方が気が楽だ。

「そうですとも」

 由美子は由美子で、

「小さい子供を(たばか)るなど許せません」

 などと、半狐面の下から俄かに怒気を露わにしている。

「じゃあひょっとすると、手を借りるかも知れませんよ」

 例によって、何かあると急に据わりがよくなる先生だ。飄々と、それでいて不敵さのようなものが見え隠れし始めると、

「子供達の面倒を見る人間は、多い方がいいわ」

 それは傷心の彼らに対する細やかながらの、罪滅ぼしの機会到来だ。

「同感です」

 先程までの諍いが嘘のように、同調した由美子が妙な気を吐いた。


 射的屋は相変わらず子供達が列を作っており、中々の盛況振りだった。先生と真琴が撃った時にはいなかった、一見して目つきの悪い、世を僻んでいるような、柄が悪いと言わんばかりの二〇前後の男が、六〇代と思われるオヤジの後ろに控えているのが見える。

「——あれか?」

 早速先生が確かめると、ショウタがその背中に隠れながらも力強く頷いた。

「よし」

 先生がまたショウタの頭を軽く撫でると、

「後は大人の出番だな」

 と、二人の男児を由美子に託す。子供を優しくあやすのなら由美子だと思われたのか。密かに悔しがる真琴だが、女手の拝借を匂わせていた先生だ。とりあえずそれを飲み込むと、その出方を見る事にした。自分の迂闊で、傷心の子供に塩を塗りつけた結果は変わらない。ならば、挽回する機会を更なる迂闊で逃したくはなかった。

 先生の雰囲気は、また先日の花火の時のようだ。こうなって来るとこの男は意外に頼もしいが、一方でハラハラさせられもする。が、それに結果が伴うのだから、実は楽しむ向きもあったりする真琴だ。

「この子から取り上げた景品の野球盤を返してもらえませんか」

 相変わらず子供達がコルク銃を撃つ横で、射撃台の横に立った先生の第一声も、相変わらず柔な声色だ。が、内容は普段にはない決めつけで、射的屋のオヤジの背後に控えるチンピラを見据えている。見られたチンピラはというと、当然全く響いた様子はなく完無視だ。こちらも変わらず、客の子供の相手をしている。

「聞こえなかったかぁ」

 先生が力なく呟いたかと思うと、

「この子から——」

 などと今度は、その細い身体と変化のない息遣いの何処からそんな声が出るのか不思議なくらいの大声で、第一声と全く同じ台詞をチンピラに投げつけた。声を張り上げる前に、息を吸い込むとか力むとか、そんなリアクションが全くなかったその大声は、隣にいる真琴ですら完全なる不意打ちで、驚きの余り痙攣した程だ。一体それは、

 ——どんな呼吸法!?

 なのか。多少なりとも心得のある真琴ですら瞠目するその声量は、会場のスピーカーから流れている盆踊りの音頭にも掻き消されず、完全に周辺の虚をついた。これには堪らず、チンピラもオヤジも身体を震わせる程に驚いたようだ。周囲から一瞬音が消え、盆踊りの音頭がより明瞭に聞こえる。言い放った先生は先生で、射撃台で遊戯中だった子供が固まっている姿を認めると、

「あ、僕らに言ったんじゃないから」

 と、瞬間で相好を崩してみせた。

「ほら、よく狙って撃った撃った」

 合わせてライフルを撃つ真似をすると、ようやくとケンタと同年代の男児がたじろぎながらも「う、うん」と答えて遊戯を再開。俄かに周囲に雑音が戻る。

「——で、どうかな、そこのお兄さん?」

 オヤジの後ろで周りに注目されるハメになったチンピラが、口を歪めて、

「知らん、と言ったら?」

 などと、薄笑いを浮かべた。その僻んだ目を受けた先生が、瞬きせずにそれをじっとりと睨みつける、その目の強さはどうした事か。

「正攻法でこの店に引導をくれてやる」

 声色は相変わらずだが、平生にはない棘を含んだその言葉に、一方で日頃それに事欠かない真琴が言葉を失っている、その皮肉。

「知らん」

「分かった」

 静かに答えた双方のうち、早速動いたのは先生だ。言うなり射撃台の順番待ちの列に並んだそれは、正攻法の一つらしい。片やチンピラは意も介さぬ様子で、撃たれたコルクを拾うなど、下働きを続けている。

「仮名さんとユミさんも、隣の列に並んでもらえますか?」

 射撃台には順番待ちの列が三列あり、射撃台に用意されているコルク銃も三丁。三人が同時に撃てるようになっている。それを受けた真琴と由美子が、それぞれ違う列に並んだ。この状況には先を撃つ子供達も、流石に撃ち辛そうにする。俄かに成り行きを気にし始める周囲が足を止め始めると、前座扱いされてしまった子供達は、そそくさと撃って足早に立ち去って行った。

「何か、気を遣わせて悪かったねぇ」

 その注目に耐えられない子供達が人影に逃げる中で、先生が謝罪のようなものを吐いている。が、場違いののんきさの中に、日頃感じない不遜さのようなものが見え隠れしているのは、

 ——何だっての?

 俄かに違和感を覚える真琴の目の前の子が、いつの間にか誰もいない。順番が来たようだ。横を見ると、やはり大人しかいない。そんな妙な注目が集まる中、やはり淡々とした先生が真琴に、

「これから動画を撮ってください」

 と、指示を出した。後ろから撮影しろと言っている。

「分かったわ」

 大人しく従う真琴が、少し下がって巾着から私物のスマホを取り出すと、早速動画撮影を開始した。軽い電子音が一回聞こえると、

「始めたわよ」

 と、先生に伝える。

「お二人の銃は、私がまとめて使わせてもらいます」

 と言った先生が、

「——九〇発分」

 と、射撃台に千円札を三枚置いた。それをオヤジが掠め取るように取った後で顎をしゃくると、チンピラがコルクを入れたバケツを射撃台の上に乱暴に置く。

「え、数えてくれないんで?」

 随分だなぁ、とバケツを受け取った先生は、手際よくコルクを数えながらも、それを三つのグループに分けて並べた。

「仮名さん、コルクを映してください」

「OK」

 指示を受けた真琴が、射撃台の上に並べられたコルクを目算する。

「左の塊が四三個、真ん中が三〇個、右が一七個、全部で九〇個あるわよ」

 録画の意味は、後で難癖をつけられないための証拠保全だ。それを理解した真琴の先回りに先生が、

「助かります」

 と、短い謝意を口にする。その辺を略さない先生は、相変わらず

 ——なんだけど。

 その男の普段を知る真琴の戸惑いは募るばかり。

 三グループ分けされたコルクは、一見して右に行く程質感が良さそうだった。

「コルクはもういいですよ」

 先生のその声で、真琴がまた画角を元に戻す。と、次に先生が三丁のコルク銃の手に取った。先程も使った銃だが、今更空撃ちをしている。かと思うと、

「コルクはすり減ってるのが殆どだし、銃はゴムが伸びて威力が弱い」

 などと、いつになく喧嘩腰の先生だ。しかも真琴のスマホに声が入るよう、わざと大きな声で説明臭い。

「これじゃあ倒れる物も倒れない」

「言いがかりつけんなや! 気に入らんのんならやんな!」

 すかさずチンピラの罵声だ。分かりやすく射撃台に肉薄するその男を前に、やはり先生は淡々としている。それどころか、左の塊のコルクを一つ銃口に詰めると、

「どけ」

 と、早速射撃姿勢に入った。やはり腕は射撃台に預けてしゃがみ込んだが、今度は右膝を地面につけている。その姿勢が妙に

 堂に——

 入っているではないか。それ以上に、

 ——どけって。

 聞き間違いを疑いたくなるような暴力的な言葉を、ボンヤリした男が吐く事のギャップが凄まじい。が、急に只ならぬ雰囲気を纏い始める先生に、真琴の周りも声を潜め、息を飲む。

「ケンタ、倒れた景品を片っ端から拾ってくれ」

 射撃姿勢のままの先生が、背負っているリュックサックから、器用にもレジャーシートを取り出すと、ケンタに手渡した。

「これ敷いとけ。並べて置くような暇は、多分ないで」

「分かった」

 由美子の傍にいたケンタが、それを鵜呑みにして射段の右に移るのを確かめると、先生が、

「一番下の段から、右から左へ向けて倒していくで。また掠め取られても面白くないし、しっかり拾えよ」

 などと、嫌味を滲ませつつ、ついに銃を構える。ケンタがレジャーシートを敷き終えると、

「OK。いつでも始めていいよ」

「よし」

 と、先生が銃に頬を寄せ、僅かに目をすがめた。

「あ、あの、さ」

 その何かの寸前で、口を挟んだ真琴だ。要らない配慮を承知で、

「お面、つける?」

 とか、余計な一言を吐くそれは、引きずり続けている少なからずの罪悪感に外ならない。が、

「大丈夫です」

 と、軽く振り返ったその横顔が、いつになく精悍さを帯びていて、真琴の心臓を一跳ねさせた。

「私はいりません」

 その男にピンホール効果は、やはり余計だったようだ。今はふっ切れた据わり具合を見せるその男に、

 また——

 怪しさが増す。と思っていると、

「録画、頼みますね」

 と言うその男の顔を、どアップにしているではないか。

「——あ、う、うん」

 予想外にシラを切り切れない真琴が、少しギクシャクしてしまった。認めるのは悔しいが、その形に

 つい——

 吸い込まれてしまっている。

「——いいわよ」

 慌てて取り繕い、また遠望モードに戻し、声だけは平生を繕うと、それを聞いた先生が、

「じゃあ、始めますね」

 と、今度は鼻歌でも歌いそうな軽さで、早速一番右下の景品を一撃で倒した。かと思うと、素早くコルクを詰め、その隣の景品をまた一撃で倒す。一番下の段は一番手前にあり、一番倒れやすい軽い的だ。発射音と景品のヒット音、コッキングレバーを引く音がリズミカルに鳴り始めると、瞬く間に一番下の段が、文字通り薙ぎ倒されていく。

「殆ど斉射ね」

 録画している真琴が、思わず声を漏らした。百発百中も然る事ながら、照準合わせから射撃までの異常な早さだ。狙いをつけているようにはとても見えない早さのそれは、通常早撃ちと呼ばれるのだが、先生のそれは射撃間隔も異常に短かった。銃口に直接コルクを詰める煩わしさを諸共せず、上体の位置は殆どぶれない。小器用に両腕が忙しく、システマティックに射撃準備を繰り返しており、準備し終えると次の瞬間には的の景品が倒れている、と言った具合だ。まるでクレー射撃のアスリートが、次々に飛び出す皿を次々に撃ち落としている、そんな具合だった。

 周囲がその凄さに息を飲んでいる隙に、先生は下三段の小物を全弾命中で平らげる。

"すげえ"

 そんな意識外の声が、口々に漏れ始めた。おもちゃの銃、それも先生によると半分欠陥品のような銃の命中精度として、

「ありえねーだろ、これは」

 と言う感嘆が、真琴の耳にも届く。

「ケンタ、回収」

 その見事な撃ちっ振りを目の前にしたケンタが、回収を忘れて固まっていた。それを先生が、一息入れるついでに回収を指示する。

「——あ、うん」

 とは言え、地面に落ちた景品はない。雛壇の上で倒れている景品をそそくさと回収するケンタを見て、真琴は不意に

「まさか、的の倒れ方まで——」

 と言いかけて、止めた。

 コルクと銃の調子を今一度確かめ終えた先生が、的が並ぶ雛壇を順々に注視しているではないか。

「——ウソ」

 明らかに何かの示唆を思わせるその視線に、真琴の胸中が騒めいた。遊びといえどもこの技量は流石に、

 有り得ない——

 のではないか。時間制限はない筈なのに、わざわざ速さが伴っている撃ちっ振りは、太々しさすら思わせる。それは倒れ方一つとっても恐らくそうで、

 次元が違うって——

 こういう事だと言わんばかりのそれはつまり、より端的にプロフェッショナルと言う事なのだろう。

 真琴が思わず呟くのも構わず、今度は集中力を増していく先生が、ケンタが引くなり中段の的を斉射し始めた。中段も三列構えだが、やや奥に下がっている。まさに雛壇のイメージで、上に行く程的が大きく、重く、遠くなる。それを理解している様子の先生は、中段から三丁の銃全てにコルクを詰めた上で、三丁抱えで撃ち始めた。

 一発で倒れれば、その撃ち終わった銃にコルクを詰めてまた撃つ。一発で倒せなければ連射して倒す、という念の入れようだ。連射など中々見られる技術ではなく、たかがおもちゃの銃の的当てとは言え、極めれば、

「何かのプロなんじゃねぇのかありゃあ?」

 そんな声が周囲から上がり始めた。それに比例するように、射的屋の二人の顔色が青白さを増していく。

 射的には、通常の撃ち方ではまず倒れない大物も陳列されている。間違っても倒れる事はないそれが、もし倒されようものなら店側は大損害。倒した客は、安価で高価な景品を手にする事が出来る。極端な話、それを売却すれば、物によっては結構な期間を食い繋げる程の価値を有するのだから、倒れない、倒せないのは当然と言えば当然だ。あえてそれを陳列するのは、射幸性の表れだろう。客に夢を持たせ、それを狙わせる事で店側は帳尻を合わせる。それは店も客も分かっている暗黙の了解と言うか、常識めいた

 お約束なんだろうげど——

 今の先生の撃ちっ振りに、そうした妥協は皆無だ。勢いとしては宣言通りで、雛壇丸ごと倒さんばかりの、文字通りの乱射だ。それを有無を言わさず目の前で見せつけられているオヤジとチンピラの耳打ちが増えている。が、結局のところ、周囲の目の多さに姑息も何もあったものではないだろう。為す術なし、といった様子だった。

 先生はそんな敵方に情け容赦なく、またあっと言う間に中段の三段を平らげてしまう。まだコルクは、三分の一弱残っている。残るは最上段、大物群の一列。

「ケンタ、回収」

 また先生が指示を出し、また残ったコルクと銃を点検していると、突然チンピラが目の前に雪崩れ込んで来て土下座した。

「すいませんでした! 野球盤はお返しします!」

 先生の腕に観念したらしい。この勢いで最上段の超大物を取られては、店の大損害は火を見るより明らかなのだ。その辺の計算をする脳は残っていたのだろう。

「知らん、と言ったら?」

 先刻チンピラに言い放たれた一言を返す先生が、鼻で笑っている。初めて垣間見るその性悪さに、

 ——やっぱり。

 只の変人ではない先生の一面に、今更少し怯む真琴だ。

「お詫びに一品、何でも差し上げますから!」

 チンピラが頭を下げたまま絶叫した。

「——って言ってますが、ご店主?」

「店の不手際だし、しょうがない」

 お詫びをさせてくれ、と、椅子に座ったままのオヤジが、やはり頭を下げる。その一連の流れに、

 ひょっとして——

 在庫を惜しんだチンピラによる

 ——単独犯行?

 を思わせる素振りを感じ取った真琴だ。

「——よし。じゃあとりあえず、すごろくセットをいただきましょうか」

 と、即断した先生も、そう感じたのか。いつもの煮え切らない男のものとは思えぬその早さだ。と、そこへ、ケンタが慌ててしゃしゃり出て来る。

「あのゲーム機がいーじゃん——ぐぎゃ!?」

 その無様な語尾は先生のせいだ。急に立ち位置をよくした男児を事もなげにとっ捕まえると、最早お決まりのようにいがぐり頭をぐりぐり捩る。

「分かった! 分かったってば!」

 毛が抜けるー、などと奇妙な悲鳴を上げるケンタを上から見下げる先生の圧力が、またらしくない。

「いいからすごろくを貰って来い」

 と、その一方で。

「野球盤が返って来たけ、ショウタもういいか?」

 被害者であるその子に向ける言動の優しさは相変わらずだ。その器用な使い分けの中に、

 ——示談交渉?

 を感じた真琴の前で、以後の先生の言動は明瞭的確だった。

「それともお巡りさんに言うか?」

 上がりつつあった土下座のチンピラの頭がまた下がり、今度はそれを地にすりつける。

 ——それでも、だ。

 被害品は返って来ても、お詫びの品を貰っても、悪事の事実は消えない。

「悪い事をしたのは変わらんじゃろう——」

 ショウタの前にしゃがんだ先生が、いつもの柔い調子で言葉を噛み砕いて説明しているそれは、立派な

 処罰意識の確認——

 だ。

 被害に伴う損害賠償が法律上民事手続とされる一方で、被害者の犯人に対する処罰意思は刑事手続であり、双方の訴訟は似て非なるものである。被害回復がなされても、それに伴う賠償を得ても、基本的に民事は民事、刑事は刑事だ。被害回復がその後の刑事罰に多少の減刑をもたらす事はあっても、事実認定に何ら影響を及ぼすものではない。それを止める事が出来るのは、大抵の場合、被害者の処罰意思の撤回だけだ。

 被害者として罪を許せないと思うのは、大人だろうと子供だろうと、

「——当たり前じゃろう?」

 そんな被害者の立ち位置を、周囲の雑音がざわめく中で、粘り強く説明し続ける先生の誠実さが、真琴を胸を締めつける。大人も子供もない、一個の人間としての意識を対等に扱おうとする先生の真っ直ぐさに対し、ますます際立つ自分の迂闊さだ。が、そんな先生のやっている事を理解出来る程、周囲は熟れてはいない。俄かに声が大きくなり始めた外野が、ケンタの、

「しぃ——!」

 と言う声で、また静まり返った。その頭を、今度は撫でて褒める先生だ。

「お巡りさんに捕まえてもらうか?」

「どうするショウタ?」

 確認作業に合流するケンタはケンタで、やはり兄貴分として少なからず責任を感じているらしい。

「先生なら——」

 そのケンタが、また何事か口走りそうになる。が、それをまた先生が、素早い羽交い締めで口を塞いだ。

「おまえは全く。油断も隙もないのう」

「んーんー」

 相変わらず、

 ——早っ!

 動きこそコミカルで、周りも失笑する。が、何か言いかけた人間の口を瞬間で封じるなど。それは言う程簡単ではない。実は殆ど、反射に近い身のこなしを有しているという事だ。一人冷水を被らされたような真琴の横で悶絶するケンタに目が集まるのと同時に、野球盤を抱えているショウタは思いがけず注目の的になっている。その戸惑いで、今にも泣き出しそうだ。それでも先生は、周囲に構わず泰然としていて慌てない。ここは自らを取り巻く状況を、少年達なりに

 考える局面だという事を——?

 普段捉えどころのない、ボンヤリした男の雰囲気が語るとか。

 何だか——

 普段と色々違うこの後出しは、色々と反則なのではないか。

 そんな真琴の傍で、ついにショウタが半泣きし始めた。が、それでも答えを待ち続ける先生に、

「——もういい」

 と、口を開く。

「よし、分かった」

 子供なりに考え抜いたと見える、その意思を聞き取った先生の、そんな返事がいつになく力強い。合わせてまたケンタを捨てるように解放すると、

「でも後で、一応母ちゃんにも聞いてみような」

 と、大事な事をつけ加える先生は、やはりそうした事に心得があるようだった。一方で、一つの決断をした少年を褒める事を忘れない。

「一人でよぅ考えたで」

 などと微笑むその顔が、先を生きる者としてのあるべき教導を思わせる。

 ——何よ。

 しっかり先生をやっているではないか。つい引き込まれそうになるのを、内心で悪態を吐いて無駄な抵抗する真琴の前で、先生の言及は終わらない。そのままチンピラに、

「謝罪をされても、被害品が戻ってきても、お詫びの品を貰っても、本人は許すと言っても——」

 親権者の意思確認が終わっていない。それを先生は淡々とした口調で、さらりと突きつけた。

 親権者——。

 その法律用語を耳にした真琴が、また密かに先生の素性を窺う。親権者とは、この場合ショウタの母親の事で、つまり法定代理人の事だ。基本的に子供と親の関係性から見る法定代理人の位置づけとは、未成熟な思考を補充させる機能を有する法律で認められた代理人、となる。法律上本人になり代わり、つまり代理して法律行為を行う他、本人の行う法律行為について同意を与える。更には、本人が保護者の同意を得ずに行った法律行為について、取消権や追認権を行使出来る、という権能を有する。

「アンタの処遇は、被害者に委ねられたままだという事を、よく考えときなさいよ」

 真琴がその口から、

 どの程度の文言が——

 出て来るか、気にかけている一方で、先生は、

「恐喝の——」

 などと、更に後の句を用意しているようだった。が、

「すげーじゃんか、先生よう!」

 と、勝手に盛り上がる周囲にそうした機微は疎く、弁償が終わった様子に解決を見たようだ。

「まずは胴上げじゃあ!」

 先刻、先生を脅し(勧誘)ていた、気合の入った何かの青年組織めいた法被軍団が、いつの間か肉薄している。悪戯っぽく歪んだ顔触れの、ヤンチャそうな連中の事だ。それが俄かに先生を取り囲むと、

「え? 何ですこれ?」

 何かよからぬ事企んでんじゃあ、などと声を裏返らせる先生は、すっかり普段の軟弱そうな優男に戻っている。わざとらしく下卑た笑い声を冷ややかに上げ始める男達が、それぞれ優男の四肢を掴むと、

"わーっしょい!"

 などと、際どい胴上げを始めた。

「ぎゃあ!」

 射的屋から少し離れた所で、情けない断末魔が周囲に響き渡る。

「不思議な人ですねぇ」

 しばらく様子を見ていた由美子が、ここだけは家政士だ。

「そうなのよ——」

 それでようやく我に返った真琴が、吸い込まれるように録画していたスマホに気づき、それを慌てて止めた。

「——ホントに」

 と言いながら、何となしに録画内容を確かめてみると、今目の前で繰り広げられている胴上げまで入っている。その情けない断末魔に思わず失笑する一方で、その思いがけない腹の据わりように、得も言われぬ箔を感じざるを得なかった。花火大会の時もそうだったが、他人に圧を感じるなど、殆ど覚えがない真琴だ。

 ホント——

 何者なのか。

 おもちゃの銃とは言え、その構えと雰囲気は尋常ではなかった。ケンタという少年が言いかけた、「元——」に続く句は、間違いなく元々の職業かキャリアを示すのだろう。が、それもその本人の常人離れした素早い動きによって封じられてしまっている。ライフルといえば、

 ——軍人?

 だと、すぐに思いつきやすいワードに思案を巡らす。が、それにしては、今となってはなされるがまま、厳つい何かの青年連中に何故か胴上げをされている先生の悲鳴が滑稽過ぎて、どうしてもそのイメージが結びつかない。そのおかしな男が、胴上げを止めてもらえる条件として、

「青年部に入らんかい!」

 とか、またしても脅迫めいた勧誘をされている。

「た、たしけてえ!」

 などと、間抜けな声を上げている先生に、真琴は思わず噴き出した。

 確かに生活スタイルは、何処となくサバイバルめいた日常を送ってはいる。が、その裏で見え隠れする人を引きつける妙な魅力は、高い社会性の現れだ。隔離された世界で活動する軍人のそれとは、

 どうしても——

 思えない。

 勝手に頭を振って否定する真琴が次に考えたのは、社会性が求められる銃の専門家だ。

 ——と言えば、警察官?

 法的教養を思わせる物言いが散見される先生の事でもある。梅雨時の事故の時も、花火大会の時もそうだ。妙に専門性を思わせるその言動は、今日の事も含め何れも警察沙汰になり得るという、現実と結果。只それにしては、これは軍人でも共通して言える事だが、元の職業に対するプライドや匂いが、

 ——全くないのよねぇ。

 この手の独特の職種に共通して言える事は、分かりやすく一昔前の言い方をすれば【三K】。つまり、キツい、汚い、危険、という職務だ。世界的には現代において、社会的身分もそれなりに高く、これらのOBは大抵在職期間に比例して、容易にやり遂げられないその経験者にありがちな、凝り固まったプライドを有しているものだ。が、真琴がこれまでに見聞きしたそれらの人種とこの男は、プライドの一点において決定的な違いがあった。言動に全く偉ぶったところもなければ、外見的にも

 ——【反り腰】じゃないのよね。

 という事実は、大きな否定材料になり得た。軍事組織の経験者は、総じて反り腰が抜けないものだ。見映えを重んじる組織において、美しい反り腰の「気をつけ」は基本中の基本。身体に仕込まれたそうした所作は、辞めた後もその癖が抜けないものだ。が、先生にはそうしたシャチホコ張ったところが、

 ——ないのよねぇ。

 皆無、と言って良かった。

 武芸に嗜む真琴の目でも、先生の姿勢は常に、無理の少ない自然体に近い。が、逆を言えばそれは、常時臨戦態勢と言い換える事も出来る。それを見るだけで心得がある者ならば、もしやと思うものだが、だからと言って先生には、そうした厳つさもまた縁遠い。

 苦し紛れに、射的の上手さだけを捉えて、

 ——クレー射撃の経験者か。

 などと思考を巡らすが、それだと法的教養の理由がつかない。

 大学が法学部で、射撃部だったとか——

 いう線は、中々捉えてはいないか。そして

 ——大学ねぇ。

 そこで思考が止まる。

 法学部って——

 そこから最後に残った可能性として、

 ——ロークラークか。

 たった三件とか言う、スマホの電話帳登録の中には、大家の顧問弁護士が登録されている男の事だ。先生はその理由を、弁護士の家が営む「農家の手伝い絡み」だとか言っていたが、

 ——やはり。

 その事務所に出入りしているのではないか。ならば様々な案件を扱う事で、法的知識を積む事が出来る。

 そんな事よりも——

 それ以上に、急速に気になり始めた衝撃の事実が、先生の左手首にあった。行きのバス停で突きつけられ、射的の最中にその存在を認めた

 あの腕時計——

 だ。思い返せば花火の時にもつけていた。どうやら外出の折には身につけるらしいそれは、穏やかな先生には武骨な印象が否めない。漆黒の地に鮮やかな深紅が映えるそれと言うのは、世界的な国内メーカーが誇る特注品だった。タフソーラー電池に充電式電池機能も有し、電池交換不要ながらデジタルアナログ兼用の文字盤は頑強さで知られる。スマホともリンク出来て、GNSS、地図表示、位置情報、気象予測、バイタルチェック、録音機能等々。上げれば切りがない高規格時計だ。防水防圧防塵対衝撃仕様で軍用品を上回るタフさは、普段使いするには明らかに高性能過ぎてその機能が活かし切れない。極限状態での仕様を目論んだ多機能振りから、スパイが欲しがる逸品として、コレクターの間では世界的なスパイ映画の主人公の名前が冠される程の名品を、

 何故、この片田舎にいる——

 男が持っているのか。

 可愛らしさに無縁の真琴は、嗜好の一端もそうしたもので、時計はアクセサリーではない。有限の時を忙しく生きる真琴にとって、その時を刻み知らせる戦友だ。手回品が良い仕事の友としたものならば、そんなところでも真琴に妥協は許されない。その一挙手一投足が会社の先行きを、更に言えば社員の生活を左右する。そんな影響力を持つ真琴でさえ、その腕時計は先生がつけている物の廉価版モデルだった。本当は先生のモデルが欲しかったのだが、単に買えなかったのだ。理由も簡単で、値段と予約待ちという明快さのそれは、最低数百万円以上の時価相場にして数年待ちという呆れた人気振り。完全受注生産の特注品は、所謂限定モデルで製造総数も限られ、その上不定期的な予約受付だ。せっかちな真琴は諦めざるを得なかった。実家の権能を使えばどうと言う事はないのだが、それを良しとしない真琴なのだからどうしようにもない。

 それを——

 先生がそれとなくつけている。見る者が見れば垂涎物それは、先生の素朴さからすると、チグハグのレベルを明らかに逸脱していた。

 どうやって——

 手に入れたのか。それを尋ねたい気が起こる一方で、余りにも先生に不釣り合いなそれを確かめる事は、何かの藪蛇になりはしないか。あの男に限ってそれはないと思う一方で、耳目にしたくないものを見聞きする事に、

 なったり——

 するのではないか。それ程までに、先生が普段使いするには、余りにもかけ離れた逸品だ。

 そんなところまで意外にも

 ——程がある。

 真琴がボンヤリ考え込む中、ケンタが寄って来た。周りの状況は、また違った動きを見せ始めている。

「ねぇ、景品を動かすの手伝ってよ」

 そうだ。

 この子に聞けば——。

 と、咄嗟に思った真琴だが、殆ど自分自身の都合でお互いの素性を伏せているようなものなのだ。それを思うと、

 やっぱり——

 公正とは言い難い。ケンタから聞き出す案は、やはり却下だろう。結局ケンタに言われるまま、レジャーシートに盛られた射的の景品を持って、とりあえず会場の端へ移動する。

 一人の男に脳裏が囚われるなど、

 ——いつ以来か。

 と言う真琴は、先生が獲得した山のような景品を、シートの片隅を持ってヨチヨチ歩きで運んだ。お面を被り、浴衣で使役するなど。普段の真琴からは到底有り得ないそのザマを客観視するゆとりもなく、真琴は脳裏で先生の正体を巡らし続けた。

「——さて」

 その先生が蹂躙される一方で、射的屋はその腰が浮つき始めている。このどさくさ紛れに、ややもすると店を畳んで逃げるのではないか。景品を避難させた今、恐らくこの場で先生の意向を引き継げるのは、

 ——私だけ?

 のようだ。その目の端では、大の男衆がバカな胴上げに興じている。

「ちょっと後始末して来るわ」

 由美子に子供達のつき添いを任せると、相変わらずの半狐面姿の真琴は射的屋に向かった。


 具衛が有り得ない回数の胴上げで腰砕けになりながらも景品の避難先へ戻ると、ケンタがレジャーシートの上に景品を並べていた。その横でショウタは、相変わらず野球盤を離そうとせずニコニコしており、仮名とユミさんが腰を屈めて物珍しそうに景品の一つひとつを検分している。

「あら、お帰りなさい」

 具衛に気づいたユミさんが顔を上げると、

「一生分胴上げされたんじゃない?」

 と、その横の仮名も顔を上げ、口元で笑みを浮かべた。

「そ、そうですね。もう胴上げはいいかな」

 力なく漏らした具衛に、小さく噴き出した仮名だ。その横で、

「全部で六〇個あったよ」

 と、景品を並べていたケンタが、数を報告した。

「六〇個かぁ」

「取るも取ったりね」

 いや我ながら、と人ごとのように呟く具衛に、仮名が呆れた様子で溜息を吐く。

「まあ、昔遊びセットですって」

 そんな周囲に構わずのユミさんが、

「懐かしい」

 と、中物レベルの景品の中から、メンコやベーゴマなどが入った箱を手に取った。

「今時の子達に使い方が分かるかしら」

 そんなユミさんが、それを仮名に手渡す。

「あら懐かし」

「それが、ですか?」

 メンコやベーゴマ遊びと言えばその起源は古く、両方とも平安時代まで遡る。もっとも現代風の紙メンコ、鉄ベーゴマになったのは近代に入ってからだ。が、それは文字通り幾時代を跨ぎ、長く子供達に受け継がれた遊びだったりする。戦後の高度経済成長期ともなると、次々に新しいおもちゃが登場した事で、流石に代表的な遊戯の座を明け渡したが、昭和五〇年代まではその技を競って子供達が遊ぶ光景が見られたものだ。逆にそれ以降は、ゲームウオッチに始まるコンピューターゲーム時代の幕開けであり、メンコやベーゴマなどはそれ自体を見つける事すら難しくなる。それを一見アラサーの仮名の口から「懐かしい」とか。

「一昔前の遊びに馴染みでも——?」

 具衛の思わせ振りな口振りを敏感に察したのか、

「お婆ちゃんに教えてもらった事があるのよ」

 と、口を歪める仮名だ。

「年を勘繰ろうとしないの」

 その様子が、半狐面の狐のくせに、やはり何処か絵になるというか、胸を締めつけるというか。ついたじろいだ具衛に、鼻を鳴らして見せる仮名だ。

 ク、クソ——。

 いつまで経っても、見た目のポージングが一々目について敵わない。が、優位性を取り戻した仮名は、

「しかし、この景品どうするの?」

 などと、具衛に構わず、さっさと話題を次に転じた。

「そうですねぇ——」

「考えてなかったの?」

「不届き者を懲らしめる事しか頭になかったもので」

 その射的屋は、周囲の屋台が祭りの盛り上がりに乗じて勢いづく中、細々と営業を続けている。

「あなたの撃ち残したコルクは、近くにいた子供達に譲っておいたわ」

 合わせて射的屋と盆踊り本部の仲立ちに入り、母親に対する落とし所をまとめたとか。中々面倒な事をあっさり言ってのける仮名だ。

「流石です」

「あなた達が呆けている時間があれば、それぐらいはね」

 さらっと嫌味を吐いてくれるが、それが差配のお駄賃ならば格安だろう。

 会場内には他に射的屋がなく、それなりに子供達の需要がある事。

 あれ程の騒ぎを起こしていれば、少なくともこの祭りでは、もう悪さはしないと思われる事。

 被害者の母親の意見を聞く前に射的屋をこの会場から締め出すのは、後の展開を考えれば労が嵩むばかりである事。

 元来薄利の商売を続ける屋台など中々なく、子供達の需要を考慮すると、これを機に恩を売っておく方が利が多い

「って事で——」

 被害者自身も処罰を望んでいない事を鑑み、罰を与えるより実を得た方が得策である旨で話をまとめればよいのでは。と、示唆したとか何とか。

「——で、良かったのかしら?」

「十分です」

 実のところ具衛は、懲らしめるだけ懲らしめて、刑事罰まで取るつもりはなかった。それは文字通り、刑事的な罰を獲得するだけだからだ。被害者がその意義と価値をよく理解出来ないのであれば、それは時と労が嵩むばかりの慣れない事だらけで、逆に負担が多かったりもする。被害者がそれにより無念を晴らす向きも当然あるが、突き詰めれば法支配を謳う国が体裁を維持するためでもある。より分かりやすくは、何だろうと検挙実績を伸ばしたいという事だ。だから、犯人に対する処罰意思が盛り上がらないようなら、一個人が無理をしてそれにつき合う事もない。

「あの僕なら、おもちゃを沢山貰える方が嬉しいと思ってね」

 被害者側が溜飲を下げる事が出来るのであれば、その分実のある弁償を得る方が、後腐れなくてよかったりするものだ。が、それで忘れてはいけない事は、被害者が理解出来るまでの説明と精神的なフォロー。

「その辺は——大丈夫よね」

 仮名は心配する向きを見せかけるが、すぐに止めた。母子施設には大抵臨床心理士が在職しているもので、具衛の施設にも常勤している。また法務的な事は、大家であり施設理事長でもあるその人お抱えの、フットワークの軽い顧問弁護士もいる。これまで具衛が話して来た事を覚えていれば、仮名が口にしそうになった懸念はあえて確かめるまでもない。その辺りも含めて、

 やはり——

 聡いと思った具衛は、改めて仮名が、只のお嬢様ではない事を再認識する。

「あの若い子(チンピラ)が先走ったとか言ってたわ」

 そのお嬢様の辣腕の片鱗は、まだまだ続く。

「やっぱりですか」

 本部詰めの関係者によると、射的屋は毎年来ている常連屋台という話だった。勿論これまでに、あこぎな商売でケチをつけた事もなかった、とか。

「ちょっとよれたコルクと銃を使い回していた事ぐらいですか」

「あの屋台だと利益率はシビアだろうし、まぁ分からないでもないけど」

 それはそれ、これはこれだ。という事で、それをネタに更にお詫びの品を追加させたらしい。

「それはようございました」

「立件されないんだから、これぐらいは当然よ」

 示談金、と言われるそれは、世の人々が想像する以上に、実は高額だったりする。恐喝罪の示談金であれば、

「数十万レベルですか」

「情状が悪いもの」

 被害者に弁護士がつけば、それくらいは請求するだろう。

 後程、盆踊り実行委員会本部を通じて、ショウタ宛てに射的屋から、追加で一万円クラスのドローンが贈られた。それにより母親が溜飲を下げたのは、また別の話だ。

「店主が一人で切り盛りして来たそうだけど、加齢で疲れて。この度臨時雇いした子がいきなりあれで——」

「そうでしたか」

 同情の余地はあるようだった。が、汲むべき事情こそあれ、それをもって店の落ち度がなくなる話でもない。

 先にも少し触れたが、悪事を働く者に対する懲罰は、基本的に国家の役目だ。現代の法律では、私刑は禁じられているのだから、当然と言えば当然なのだが、だからこそ被害者はその無念を晴らすべく訴えを起こす。が、その届出の裁量は、基本的に被害者のものだ。罪によっては、その申告の有無に関わらず、国家が直接介入するケースもあるが、基本的には被害者の意向を尊重する。その一方で罪人の更生は、罰の有無に関わらず、最終的には罪人自身の資質だ。真っ直ぐ生きようとする決意の有無が、その後を左右する。性根が悪ければ、再び他者の脅威とも成り得る訳だ。それを簡単に示談してしまっては、

「再犯に及ぶかしら?」

 その可能性は高いだろう。罪を軽く見る悪癖がつく。が、それは一般的な一被害者が考える必要のない事だ。自分に害をなした者の事など、その後どうなろうと知った事ではないと思うのが普通だろう。が、具衛と仮名は、どうやらそういう人間ではない、一段高い視座を持っている。

「どうでしょうね——」

 まずは罪人の資質次第だろう。が、被害者にも原因が全くないとは言えない。文字通り、大なり小なりどちらにも原因がある、という事だ。どちらも今回の事を一つの経験として、全うに、

「——歩んで欲しいと言ったら逃げですか?」

「逃げね」

 と言う、仮名の声色は、ここに至っては何故か挑発的になる。

「じゃあ、ゲーム機を貰わなかったのは何故?」

「何の問答ですか?」

 明らかに何か探られている様子に苦笑いする具衛だが、とりあえず、

「——そういう事もあるという事で」

 と、最後につけ加えてやった。

 示談金をせしめるのであれば、例えその相場が分かっていても、そこはきちんと弁護を仕事とするその専門家の説得力をもって獲得するべきだ。その資格を持たない具衛が、これで下手にお礼でも貰おうものなら、弁護士法に言う【非弁行為】、つまり、彼らにしか認められていない、報酬を得る事を目的とした示談行為の代理と捉えられ兼ねない。

「まぁ、そんなつもりは更々ありませんけど——」

 報酬さえ得なければ、示談の代理をしても法には触れない。が、何にしてもとにかく具衛に言わせてみれば、犯人の短絡といい、ショウタや周りの大人達といい、一切合切が迂闊だった。

「こう言っては、被害者には厳しいんでしょうけど——」

 今日日は何かと、防犯的な生活が求められる時代だ。

「——盗人にも三分の理って事?」

 今日日、めっきり聞かなくなったその

 ——渋い!

 格言を、思いがけず見た目にそぐわない仮名が吐いた。が、それを口にしては、恐らくまた地雷だろう。そのギリギリのところで、

「——まさに」

 と言い変えた具衛が追認する。この際言葉の渋さはいいとして、それは具衛の言いたい事を濃縮した一言だった。

 非は圧倒的に罪人にある。が、被害者にもその原因がある、という事だ。人間には理性があるとは言え、煩悩に振り回され、悩み苦しむ側面もある。そんな人が織りなす世において、絶対善など存在し得ない訳で、ならば絶対悪も存在し得ない。

「殊更利権を振りかざす今日日のやり方は、私はどうも——」

 物事にはそれなりに落とし所がある。徹底的にやり込めてしまうと、後に残るのは怨念だ。

「排他性の弊害としたものかしら?」

「結果至上主義とも言えるのかと」

 辿れば原因はいくらでもある。それを結果が発生した部分だけ咎めていては、いつまで経っても根本的な問題は解決しない。そうした匙加減が、仮名の差配は中々巧妙だった事に、具衛は感心していた訳だ。

 ホント、何者——?

 なのか。

 ふと気にはなったが、この女傑の事だ。見た目に違わず、明晰な才知を有する事など、むしろ当然と言える。そんな事より、大変なセレブのようでいて、実は庶民の汲むべき事情に意外に理解がある事にこそ、驚くべきだと気づいた。

 ——意外に庶民派?

 とは、どういう事なのか。

 バスに乗った事がなかったり、屋台でスマホ決済しようとしていた世間知らずだ。その分かりやすい見た目や体裁に惑わされ、侮る向きがあった自分こそ傲慢だったと言えないか。これまでの偏見の呪いが、少しずつ解けて行くようだ。その最後に何が残るのか。そもそも残るものが存在するのか。気になり始めた具衛は、いつの間にかその玉姿を目で撫でている。

 ——マ、マズい。

 悶々と想像を巡らせたところで、その容貌ありきだ。どうしても自分のいやらしい目線を制御出来なくなる。出ている所やくびれている所など、ろくな所に目が行かない。考えれば考えるだけ、男の悲しい性を痛感させられるだけだ。勝手に呆れた具衛は、とりあえずそれを無理矢理畳んだ。

 まずは何にせよ、

「子供達の楽しみをそれなりに与えてくれる程度には、営業して欲しいと——」

 願わずにはいられない。そんな細やかな、祈りめいたものを口にしてみる。と、

「それよ! それ!」

 いきなりそれに噛みついた仮名だ。

「な、何です? 急に?」

 一方で、急接近して来た半狐面に、具衛はたじろぎ盛大に仰け反る。つい今し方、目で撫でつけていたその御身だ。非常にばつが悪い。が、一向に構わない様子の仮名は、少し興奮気味に追いすがった。

「景品のおもちゃの使い道よ! 考えがないんだったら、私に預けてくれない!?」


 小一時間後。

「じゃあ、そろそろ始めようと思います」

 などと、相変わらず半狐面の仮名が、声を張りながら何度か手を叩いた。その挙動で、その前に陣取る数十人を数える大小様々な人々が粛然とする。

 ——学校の先生かよ。

 その堂々と振舞う様子を、すっかり膨れ上がった仮設屋台の端で、具衛がユミさんと並んで眺めていた。仮名が企画した射的の景品を元手とした昔遊び大会だ。それに閃いた後の仮名は、またしても実に手慣れていた。

 具衛に噛みついた直後から、

「先生は会場作り、ケンタ君は触れ込み、ユミさんと私は指導員ね」

 などと、てきぱき仕切り始めると、一〇分もしないうちに、メンコ、ベーゴマ、おはじきの即席遊技場が出来始めた。仮名の指示の下、具衛が屋台を巡り、余り物の中華鍋や段ボールを集めて作った遊技場に、ケンタの触れ込みで子供達が集まり始めると、仮名やユミさんが指導を始める。

 ——って、指導?

 出来るのか。思わず不審を募らせる具衛だったが、ベーゴマを手に、

「ねぇこれどうやって巻くん?」

 と、紐の巻き方が分からない子や、

「うまくひっくりかえらん」

 と、メンコを手に持て余している子に対して、日頃せっかちで一見冷たい印象すら帯びる仮名は、いきなり見せつけてくれたものだ。

「はいはい、なぁに?」

 とか、子供達を優しく諭しているその別人めいた変わり様は、具衛でなくとも

 ——何だその反則技は?

 と思うだろう。今まで一度も見たことがない母性愛のようなものに、まずは只ならぬ動揺をさせられた具衛だ。

 その一方で仮名は、

「こうやって、紐のこぶをコマの先に絡めて——」

 などと事もなげに、器用にベーコマに紐を巻きつけ、勢いよく中華鍋の中に向かってベーゴマを投げ入れる。すると鉄鍋の中で、如何にもブレのない回転軸を保持して回るベーゴマを目の当たりにした子供達が、

"おおーっ!"

 と、揃って歓声を上げた。

「投げる時に、掌が上を向かないようにするの。地面と平行に、手首を使わずに前後に振るのよ」

 そう言いながらも、仮名は既にメンコを手にしている。今度はそれを素早く、平たく畳まれた段ボールに叩きつけた。手慣れたそのスイングで、予め置かれていた別の二枚のメンコが綺麗にひっくり返る。

"すげー!"

「手投げじゃダメよ。野球のボールを投げる時みたいに、腰を入れて手首を効かせるのがコツ」

 分かったら練習練習、などと手を叩いて囃し立てる仮名の平生を知る具衛は、

 へぇ——。

 と、半分放心しながら、子供達と同じように感心させられていた。日頃、何処か油断ならないクールビューティーが、母性愛もそうだが、

 メンコとベーゴマって——

 意外にも程がある。しかも、子供と楽しそうに交流するとか、余りにも普段の印象とかけ離れているのではないか。

 ——聞いてないんだけど。

 胸を鷲掴みにされたような思いで呆然と立ち尽くしていると、

「先生、ちょっと」

 と、その仮名に呼ばれた。

 ——あ。

 それでようやく我に返り、それこそ学校の先生から注意されて呼ばれたように、殊勝さをもって近寄る。と、

「この紐を水で洗って来て」

 などと、忙しそうにするその女先生に、ベーゴマの紐を突きつけられた。

「洗う? 紐を?」

 何の意図か、矢庭の不明で返事の語尾が上ずる。

「新しい紐は糊が効き過ぎて、固くて巻き辛いのよ」

 また妙に手慣れた事を言いつけてくれるこの女傑が、

 ——大体ベーゴマとか。

 大体が、細やかな遊び道具の質感を気にするような、そんな庶民ではない筈だ。

「糊、ですか?」

 何がどうして紐の糊が何とかと言われても、今の具衛の脳味噌は、目の前の女の事で満たされている。それを、その目下の人に、

「ほら、早く行った行った」

 と、けしかけられた。

「じゃぶじゃぶ洗うんじゃないわよ、糊が落ちる程度でいいから」

「やった事ないんで加減が分かりませんよ」

「そんなに難しくないから。早く行きなさいって」

 忙しくなるわよ、と言った本人は、その言葉尻を捉えられるように、あっと言う前に何人かの子供に裾を掴まれている。

 いや、アンタは——

 そんなとっつきやすい女ではなかった筈だ。半狐面越しだが、明らかに普段とは異なる、幼子に合わせた丸みを帯びた声と柔らかい所作が、具衛の脳を激しく揺さ振る。が、ケンタの触れ込みが度を過ぎたのか。その後子供達の数と共に、何やら腕に覚えのある大人も集まり始めると、それどころではなくなった。すると仮名は、やはり仕切り慣れたもので、具衛には会場の増設を指示し、子供達に対するレクチャーは集まって来た大人達に任せる。そして自分はというと、

「ちょっとまた、本部に顔出して来るから」

 とか言い残して、また盆踊り実行委員会本部へ出掛けて行った。

「——では、開催に当たりまして、盆踊り実行委員会様からご挨拶を賜りたいと思います」

 とかで、現状だ。

「しかしまあ——」

「大所帯になっちゃいましたね」

 一応格好としては、会場内の空いているスペースを使った仮設屋台なのだが、人の集まり方は中々のものとなった。その端で、ユミさんと具衛が苦笑いをしている。すっかり大所帯になったその理由は至極シンプルで、仮名が人の集まり方を見るなり、実行委員会本部に掛け合って景品を出資させたのだ。射的屋の悪事絡みで、すっかりその手腕が買われていた仮名は、「キツネさん」とか言う通称で、すっかり本部連中を虜にしてしまっていた。で、あれよあれよと言う間にテントや長机、椅子などが備えつけられ、事の発端となった射的屋からも追加の景品や何かの特典めいたものが提供されると、実行委員会公認の無料屋台となるまで然程時間はかからなかった、という状況。

 盆踊り実行委員会の何らかの役を担っているおじさんが、月並みな挨拶を済ませて拍手が起こると、「キツネさん」の仮名が、

「それでは開会に際しまして、ルールを説明します」

 などと、真面目腐って何やら説明をしているのが何処か滑稽で、不自然に俯く具衛だ。学校の運動会のような開会式が思いがけず懐かしく、それを仕切っているのが半狐面を被った美女と来たものだから、そのチグハグ振りに、つい失笑が漏れてしまった。

 しばらくその微笑ましい光景を、迫り上がる喉を抑えつつボンヤリ眺めていると、俄かに会場のそこかしこで歓声が上がり始めた。大会が始まったようだ。

「大人やお年寄りが混ざると、子供達の取り分が少なくなりませんかね?」

 今更ながらにそれに気づいた具衛が口を挟む。つまり、それまで思考が止まっていた。次々に繰り広げられる仮名劇場に圧倒され、満足な言葉を失っていたのだ。が、薄く笑ったユミさんが、

「大丈夫でしょう」

 と、事もなげに言った。

 事実として具衛の懸念通り、それなりのキャリアを持つ大人を前に、子供達が太刀打ち出来ていない様子だ。

「大人の勝ちが立て込んできたら、仮名さんが出て来て掻っ攫うでしょう」

「そんなに強いんですか?」

「強いなんてものでは——」

 それを心配する向きなど露程も見せない調子で、ユミさんがあっさり答える。言ったそばから、

「うわ! キツネのお姉さん強っ!」

「まだまだ! こんなモンじゃありませんわよ!」

 おーほほほほーっ、などと盆踊りの音頭を背後に、仮名の得意げな声が炸裂し始めた。文字通りの老若男女が、メンコとベーゴマで俄かに真剣勝負を繰り広げる、近年見ない光景が微笑ましい。が、それに構わずその後の場は、果たしてユミさんの言う通り、大人が勝ちそうになると仮名がしゃしゃり出て来て景品を掻っ攫い続けた。で、その仮名が獲得した景品は、というと、

「じゃーんけーん——」

 などと、その仮名がまた、普段のイメージをぶち壊す大声を張り上げて音頭を取り、新たに子供限定の景品争奪じゃんけん大会が始まる、と言った具合だ。

「なるほど。しかしイメージと合わないと言うか——」

 具衛が素直な戸惑いを漏らすと、

「まぁ珍しいですよね。男の子の遊びですし」

 と、ユミさんもあっさり同調する。

「でも、子供達が楽しそうで。よかったですよ」

 人嫌い、と言って憚らなかった仮名が子供に寄り添う姿は、日頃の雰囲気からするとかけ離れ過ぎだ。が、それは眩しさでしかない。

「そのようですね」

「まさに白狐(びゃっこ)さんです」

 仮名が被っていた白色の狐のお面は、即ちそのままそういう事だ。

「それはつまり、女狐?」

 と、ユミさんが悪戯っぽく笑うと、両手を合わせた具衛が拝んで見せた。

「いえ、神様なんですよ」

 神格化された狐であるそれは、土地に恵みをもたらす有難い神として、実は身近に信仰されていたりする。その白狐が子供達に寄り添い戯れている。その只ならぬ神々しさは、

 ホントに——

 神の遣いなのではないか。つい、目が離せなくなって困る程だ。が、実のところ狐は、現代では田畑や家畜を荒らすと言われる。人畜共通の感染症を引き起こす【エコノキックス】なる怖い寄生虫を媒介するなど、農業関係者には余りお呼びでない厄介者だ。

「実は近隣の農家さんも、気にされてたりするんですが——」

 その一方で、古くは正反対の考え方だった。農期が始まる春先に里に現れては、農業の大敵である厄介者の鼠を退治し、秋の収穫が終わる頃に山へ戻って行く。その行動パターンが、まるで農耕を見守るようで、それがいつしか神格化されたのだ。

「昔は守り神だったそうです」

「お詳しいんですねぇ」

「農家の皆さんの受け売りですよ」

 その神格化された狐は霊狐(れいこ)と呼ばれる。人間に幸をもたらす善狐(ぜんこ)だ。本来それは透明で、人には見えない。が、それをいつしか、

「白色で表すようになって——」

 以来白狐と呼ばれる。後、田畑を守るありがたいお狐様を、古事記にも登場する五穀豊穣の女神【宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)】の眷属(けんぞく)として祭るようになった、というのが、日本全国におわすお稲荷さんの御前に鎮座する狐の正体だ。

「狐がお稲荷さんなんじゃないんですか?」

「ええ。農家さんから教えてもらうまで勘違いしてましたよ」

 日本書紀では【倉稲魂命(うかのみたまのみこと)】と表記されるこの五穀豊穣の女神こそが、お稲荷さんの愛称で世に親しまれ、崇め奉られている【稲荷大明神】であって、白狐はその眷属。つまりは、

「お側仕えの神様だとかで」

 そんな勘違いは、この二人に限った事ではないだろう。が、人に幸をもたらす五穀豊穣の女神の遣いである事に変わりはないのだ。

「十分に有り難いですよ」

 因みに狐は雑食で、好物とされる油揚げも実際に食べる。

「そうなんですか?」

「ええ」

 この由来は、神格化された狐を崇める人々のうち、好んで鼠を食べてくれる狐のその巣穴の前に、

「鼠の油揚げを置いていた人達がいたそうで——」

 その習慣が、一部の地域で存在した事を発端とする説が有力だ。では何故、狐に与える鼠を揚げたのか。そこは歴史のミステリーとしたものらしい。それにより、お稲荷さんにも鼠の油揚げを供物していたところ、仏教的な殺生忌避の観点から、代わりに薄切りにした豆腐の油揚げをお供えするようになった。それが好物として伝わるようになり、今に至る。神事に仏事の教えが交わるとか、

「寛容的な日本らしいお話ですこと」

 他国の他宗教ではこうはいかない、その良い典型と言えるだろう。更にでは何故、鼠の代わりが豆腐の油揚げとなったのか。これはやはり、諸説入り乱れだ。鼠の肉に代わる畑の肉説。白狐を派遣されるお稲荷さんに感謝して五穀を供物していたのが、そのうち豆の加工品である油揚げに変わった説、等々。何れにしてもこの変遷が、油揚げで包む食べ物の事を【稲荷】と呼ぶようになった経緯のようだ。

「まあまあ。『コーン』なんて言って——」

 両手で狐の耳真似をする仮名が、子供達と一緒になってはしゃいでいる。梅雨のある(事故当)日、稲荷寿司を出した時にそれをした具衛が、不意にそんな事を思い出す。

 俺なんかより——

 よく似合う。いくら女傑でも、やはり女性特有の丸さには敵わない。そんな仮名は無理なく本人と重なって見えた。

 よく笑って——

 無邪気な笑顔を見せるとか。初物尽くしもいいトコだ。そう思うと、口元しか見えない事が妙に悔やまれた。その顔全体を想像すると、何やら胸が苦しくなる。

 ——ただでも暑いってのに。

 更に身体が火照り始めるとか。まるで白狐に誘惑されているかのようだ。

 ——あ。

 よくよく思い出すと、白狐と神社と言えば、山小屋の前にある神社は、お稲荷さんを祭っていたのではなかったか。神社の扁額に【稲荷】の文字こそないが、鳥居の側に神使の白狐がおわしたような気がするのを、今更ながらに思い出す具衛だ。

 まさか——

 今までの有り得ない出会いとその展開は、お稲荷さんが独り身の男を哀れんで白狐さんを遣わされた

 ——とか。

 そんな思案を勝手に巡らす具衛は、一方で敬虔な信仰心を持っている訳でもない。それどころか、どちらかと言えば、どの面下げて神社に参るのか。そんな、後ろ指差されるような人生だった。が、だからと言って、悪と言い切れるものでもなかった筈だ。そうなって来ると、あの白狐さんはお稲荷さんの何かの悪戯か、気紛れか。そんな気がして来る。日頃、何処となく感じる寂然とした雰囲気やシャープな印象は、実は神のそれだ、とか。先刻、冗談紛いに両手を合わせた自分の行動でさえ、何らかの示唆なのではないか。お狐様なら変身は得意だろうし、人を(たばか)る事にかけては、古今東西逸話に尽きないのだ。事実、実行委員会の連中は、すっかり籠絡されてしまっている。

「いやいやいやいや——」

 逸話などと。具衛は慌ててそれを自分で否定した。それこそ昔話なら許容出来ても、今は一体何世紀だ。そんな懐疑的な声が、当然ユミさんに届く。

「どうかしましたか?」

 その顔に覗き込まれた具衛が、思わず目を泳がせた。

「いや、特に」

 所謂類友としたものか。仮名の知人もまた困った御仁だ。近過ぎると目を合わせられない。

「そうですか——」

 戸惑う具衛を知ってか知らずか、ユミさんが、

「あんなにはしゃいでいる姿は、見た事がありません」

 と、仮名の常にない様子を追認した。

「それは、良かったです」

 それは偶然にも、日頃仮名が具衛に向けてよく発するフレーズだ。仮名のそれは、総じていつも上から目線で、確固たる地位を占めている人種である事は最早疑いようがない。そんな事は具衛も意に介していないのだが、そんな仮名は、いつも何となしに嬉しそうだった。具衛は決して同じ目線ではないが、気持ちとしては同感だ。

「関わる人が楽しんでいるのを見るのは、本当に嬉しいものですね」

 感慨深そうなユミさんが、柔らかく口にした。

「さっきも景品を一つ、然も大事そうに巾着に納めてましたのよ」

「仮名さんのお目に適う物があったんですか?」

 具衛は素直に首を捻った。景品は何れも、子供向けのおもちゃばかりの筈だ。しかもその殆どは百均で買えるか、それに毛が生えたような物ばかり。

「物に込められた思いは、必ずしもその物自体の価値と同じじゃありませんわ」

「——と、言う事ですか」

 はしゃいだり、安っぽいおもちゃに興味を示したり。

 ——意外。

 のオンパレードの仮名だ。

 それをユミさんも感じたのか、

「あの人は、いつも表情が固くて冷たくて。誤解を受ける事ばかりで、本当に友と呼べる人がいないようですから」

 と、訳知り顔で両方の口角を下げながら笑う。

「ユミさんがいるじゃないですか」

「私では役不足ですわ」

 言うなりユミさんが、深々と前に腰を折った。突然の仕種に、足元に何か落としたのかと思いきや。一定時間、その美しい所作が維持されたそれでようやく、自分に向けられたお辞儀である事に気づいた具衛が、半狐面の鼻先辺りを伺うように中腰になる。

「あ、あの——」

 慌てて頭を上げさせようと両肩を掴もうとするが、やはり大層な淑女だ。迂闊に触れる訳にもいかず、不格好にも両手が泳ぐ。

「——ど、どうしました?」

 こんな時に、月並みな言葉しか持ち合わせない具衛だ。改めて、自己の薄っぺらさを痛感させられる中で、ユミさんがようやく頭を上げた。

「あの人を、どうか宜しくお願い致します」

「え?」

「あの人にはいい加減、良き理解者が必要です」

 と言われたところで、それが

 ——何で俺?

 それこそ理解が及ばない具衛だ。今でこそ、メンコやベーゴマを前に無邪気にはしゃいでいるが、女として類を見ないステータスの高さは、最早言うに及ばず。合わせて地位も富も、相当なものを持っていると思われる仮名なのだ。果たしてそんな女に、世捨て人のような具衛が、

 理解者に——?

 成り得るのか。

 只ならない大物振りに、自身の不甲斐なさに打ちのめされ続けている具衛なのだ。そんな女傑に、

 俺が何を——?

 出来るというのか。

 一人で何役も兼ね備えているような仮名のステータスだ。男も女もなく、大抵の人間は愚かに見えて仕方がないだろう。平和呆けした日本人観光客を見るのが嫌でリゾートに行きたがらず、物好きにもこんな小さな町の盆踊りなんぞではしゃいでいる偏屈者だ。これでは確かに、理解が追いつく者はいないかも知れない。だからと言って、その役を、

「——私が担えるとは思えないのですが」

 そんな調子で、延々振り出しに戻り続ける具衛だ。が、

「いえ、あなたが必要です」

 と、言い切るユミさんは、何故かブレない。

 幸か不幸か、何故か手近に置かれる自分。癒しを求める向きで山小屋に通い始めた彼の女の中に、

 まさか俺を——

 求める向きまである、とか言う事なのか。謎が謎を呼ぶような堂々巡りを勝手にやっている具衛の横で、ユミさんは水を打った。

「運転手ですわ」

「はあ?」

 予想を大きく外れるその答えに、具衛が語尾を上げる。と、ユミさんが数少ない女の子のためにこしらえたおはじき台の横にしゃがみ、その傍に置いていた缶を手にして見せた。

「あ、それ」

 具衛がメンコやベーゴマ台に使うビールケースを借りる時に、屋台から何本か買わされた缶ビールの三五〇mL缶だ。買って来るなり具衛が、二人に飲んでもらうために手渡したそれの口が、既に空いている。それは別に良いのだが。

「これ、ノンアルコールみたいなんですよ」

「ええっ!?」

 ユミさんが手にしているそれを慌てて確かめた具衛が絶句した。確かに缶の下の方に「アルコール度〇.〇〇%」の記載がある。普段酒を飲まない具衛だ。興味もなければ種類もよく分からない。にも関わらず、最近のビールは中々複雑だ。酒税法上の種類だけでも何種類もある上、各社から新商品が次々と発売される。それが一見して税制上どのタイプのビールになるのか。普段酒を嗜まない具衛にそれは酷というものだ。それでもノンアルコールとアルコール製品の別ぐらいは、見分けがついても

 ——良さそうなモンだがなぁ。

 などと脳内で愚痴ったところで、まさに後の祭り。その祭りの雑音や明暗、高揚感、開放感に伴う気の緩みなどによって、間違いは起きたようだ。更に言ってしまえば、この時の具衛は、仮名の意外過ぎる母性愛にやられたせいで舞い上がっていたという事に尽きた。

 つまり具衛は、ノンアルコールビールと普通のビールを一本ずつ買ったのだ。車の運転を控える仮名にはノンアルコールビールを、ユミさんには普通のビールを渡したつもりだったのだ。が、結果は実に、お約束めいたものである。

「まぁ私は別に良いのですけど——」

「あちゃぁ」

 と、片手で頭を掻く具衛が、そのまま天を仰いだ。

「酒の勢いもあった訳ですかぁ」

「普段はあんなにはしゃぐような人じゃないんですが」

 いつになく楽しいのと、ビールのほろ酔いで気持ち良くなったのだろう。そう言うユミさんに拘りはないようで、引き続き手にしているノンアルコールビールを飲んでいる。

「これはこれで美味しいですよ」

「はあ」

「因みに私は、ペーパードライバーですから」

 ユミさんから突き放された具衛に、当たるところなどない。

「白狐さん、盛り上がってますねえ」

 人数と言い活気と言い、他の屋台以上に盛り上がっている即席屋台の中心で、ほろ酔いらしいその女は、相変わらず愉快痛快としたものだった。

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