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「な、なんてことするのよ!」
一歩踏み出せば玉彦は私を目で制止し、懐から黒扇を取り出した。
黒扇は正武家の当主や次代が無駄にお力を消費するのを抑えるために、新年になると本殿で舞い、手にした白い扇を自分たちの血に流れている業で染め上げたものだ。
業を吸収した黒扇は、弱小のものであれば振り翳してトントンと対象物を叩くと宣呪言が無くても祓うことの出来る優れものだ。
そんな優れものの黒扇だけれど、注意点が一つだけある。
扱えるのは業を染め上げた本人のみなのだ。
以前部屋の文机に置かれていた黒扇を私が触ろうとしたら、玉彦がそう言って慌てて止めに入った。
本人以外が触れると、薄墨と化した業が触れたものに流れ込み気が狂うか、長時間触れると最悪死んでしまうそうで、そんなものをおいそれと置かないでほしいと思った。
普段は玉彦がきちんと片付けていたのに、なぜその時に限って文机に在ったのかは謎である。
玉彦は片膝をついて黒扇を閉じたまま、呻く人間の頭と思われる箇所に何度も打ち付ける。
その度に薄墨は霧散して、玉彦の身体から発せられていた白い靄に巻かれて消えていく。
この白い靄は正武家の人間を護る為に度々眼に視える形で現れる。
弱小なモノはこれに触れると自動的に祓われた様に消えてしまうのである。
白い靄の正体は正武家代々子々孫々に護りを与えている神様たちのお力だそうで、一体何をどうしたらそんなに神様の協力を仰げるのか不思議である。
そうこうしているうちに段々と黒い靄は消えてゆき、駐在さんの手元が普通に私の目に映る。
うつ伏せに倒した男の人の首根っこを両手で、背中を膝で押さえていたようで、男の人は痛い痛いと両手を地面に叩き付ける。
あれ……? この声って……。
玉彦は男の人の顔を覗き込み、深い深い溜息を吐いてから駐在さんに放してやれと命令をした。
放せと言われても国家権力である駐在さんが大人しく従うものかと思っていたら、彼は私の予想に反してスッと放して立ち上がった。
え、いいの?
警察が民間人に放せと言われて放しちゃっても、いいの?
困惑する私は、そう言えば鈴白村を含む五村は正武家様が絶対のしきたりだと思い出す。
でもさすがに万引き犯を放せという玉彦はどうかしていると思いつつ、私はもう近付いても安全だと判断して歩み寄った。
恐る恐る寝そべったままの男の人を確認の為に覗き込めば、やっぱり私の知っている人で、彼が万引きするほど悪い人じゃないと解かっていた私はしゃがんでいた玉彦と視線を絡めて頷く。
「た、玉様~。会いたかったよー。オレ、なんもしてねぇんだよー」
「解かっている。大方憑かれて訳が判らなくなっていたと言うところだろう。駐在、手間を掛けた。この者、正武家にて預かる。そういうものだから異存はあるまい」
『そういうもの』とは、正武家玉彦が云うのだから、という意味と、正武家の事案に関わるものだから、という意味合いだと理解した駐在さんは、よろしくお願いしますと頭を下げてから、集まっていた野次馬たちを解散させた。
起き上がってへたり込んで俯き、余程怖い目に遭っていたのか両手で顔を覆って泣き始めた彼を玉彦は一瞥して、駄菓子屋の中に入る。
懐から財布を出して如何程か、と尋ねられたお婆ちゃん店主は、枯れ枝の様な腕を差し出して十円と言った。
このお婆ちゃんは私が知る限り、中学生の頃から老婆で、一体何歳なのか疑問である。
私は支払いをしている玉彦を横目に、彼の前にしゃがみ込む。
よくよく彼を見れば、服装は紺色のスーツなのに土埃に塗れ、駐在さんに押さえ込まれる以前から何かに巻き込まれて逃げて汚れてしまったことが解る程にくたくたになっていた。
革靴は田んぼの中を走ったかのように泥まみれで、頭はぼさぼさ、手の甲には擦り傷さえある。
駄菓子屋の入り口付近にはコンパクトな二、三日分の着替えが入れられるカーキ色のキャリーバッグが倒れていて、同じような汚れ具合から彼のものだろうと分かる。
「大丈夫? とりあえず一緒にお屋敷に帰って、お風呂に入ろ? 鈴木くん」
「……ひ、比和子ちゃーん」
私に両腕を伸ばして抱き付こうとした鈴木くんだったけれど、駄菓子屋から飛び出してきた玉彦に気安く触れるなと肩を足蹴にされて、後方へと転がり、ポケットからコーラの飴玉を落とした。