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 その運命の日は、初夏だというのに酷く肌寒い日だったそうだ。


 玲子さんが三年生になり、実習にも参加し始めて、大学内の動物病院に勤める爽太さんとも面識はあった。

 この頃はまだ二人ともまさか自分たちが結婚することになるとは微塵も思わないほど医師と学生の関係だった。


「立花先生ー。花子の子供がまだ出てこないんすよー」


 夕方、診療を終えてカルテの整理をしていた爽太さんの元へ数人の学生が助けを求めてやって来た。

 爽太さんは須藤家へ婿入りする前の名字は立花さんだった。


「予定日は……あぁ昨日か。初産だから時間が掛かってるんだろう。根気よく付き合うしかないよ」


 爽太さんがそう言うと、学生たちは顔を見合わせて目で会話しているので、一旦手を止めて彼らに向き直る。


「人間もそうだけど、お産っていうのは予定日に必ず産まれるってわけじゃないんだ。それくらい知ってるでしょ。牛の出産の基本は待つことだよ」


「そうなんすけどー。俺ら明日から考査なんすよー……」


 つまり彼らが言いたいことは、お産に付き添いたいのは山々なんだけど考査に向けてラストスパートの一夜漬けをしたいので、どうしたものか、ということらしかった。


 幸い明日はローテーションで自分は休みになっている。

 一晩くらいなら徹夜をしても良い。

 今朝方、花子の骨盤を触診したら大分緩んできていたので、夕方か夜には産まれるだろうと診断していた。


「わかった。今夜は自分が見ていよう。君たちはしっかり勉強するようにね。落としたら、分かってるよね?」


「恩に着ます! 立花先生!」


 ぱあっと顔を輝かせた学生たちは口々にお礼を言って頭を下げて部屋を出て行く。

 どうせなら出産に立ち会い、生まれた瞬間に輝かせた学生の顔を見たかったな、と爽太さんは思う。

 動物の死を看取ることは辛く悲しいことで、これから獣医師となる彼らはそういう場面に直面することが多くなるのだ。

 病気で、事故で、寿命で。

 動物病院に運び込まれる動物たちは病院にお世話になる状態なわけで、喜ばしいことに出会うことはまず無い。

 無事に完治し、退院することも喜ばしいことなので無いとは言い切れないが。

 無条件に喜ばしく、感動できるのは何よりも出産であると爽太さんは思っていた。


「さて、と。乳の状態を見てからご飯にするかなー」


 椅子の背に体重を預けて両腕を伸ばし、独り言ちる。

 窓の外に目を向ければ、夕陽が目に沁みた。




 牛の花子の乳を搾ると勢いよく噴出したので、出産まであと数時間と判断した爽太さんは食事の後に毛布と数冊の本を出産の為に隔離されている畜舎に持ち込み、徹夜に備えた。

 それから夜の十時を回った頃。

 花子が陣痛の痛みから足踏みをし始め、爽太さんは当直に当たっていた同僚を携帯で呼び出した。

 幸い今夜は病院に入院している動物は居なく、急患が来なければ暇な夜勤になると同僚は夕食時に言っていた。

 ちなにみこの同僚とは、研修医時代に玲子さんに鼻で笑われた人である。

 名は山本さんといった。


 牛の出産は基本的に自然分娩なので、人間の手の助けは必要ないのだけれど、今回出産する花子は初産なので興奮して産まれたばかりの仔牛を踏みつけてしまう恐れがあり、大人二人で仔牛を母牛から引き摺って距離を置かせるために人手が必要だった。

 普段なら学生の手でするのだけれど、今夜彼らは考査試験の勉強中の為に駆け付けられない。

 そもそも学生に観察させている間は教授などが付き添っているはずで、担当の教授や指導医が本来ならこの場に居なくてはおかしいのだが、学生が居ないなら自分たちも必要ないだろうと帰宅してしまっていた。

 文句の一つも言いたいが、下っ端の自分が何を言っても帰ってしまうだろう。

 出産は病気ではないし、余程のことがなければ問題は起きない。

 それに彼らがいても待ち時間に上から目線の昔話が始まるのは経験済みだったので、むしろ帰宅してもらって良かったとさえ思う。

 出産とは感動出来るもの。

 現場で動物に触れなくなってしまい、彼らはそんなことも忘れてしまったのかと残念にも思った。


「どうどう? そろそろ?」


 グレーの作業着を着こなして現れた山本さんはそわそわとした様子で、花子の様子を見守っていた爽太さんの隣で小声で囁く。


「あともう少しで始まると思うよ。……あれ? 須藤さん?」


 山本さんが入って来た畜舎の入り口に、こっそりと中を覗いている人物がいて、爽太さんに声を掛けられて姿を現した。


「花子の子供が産まれるって聞いたので」


 医師二人のところへ足音もさせずに来た玲子さんは、腰を屈めて花子の顔を伺う。


「君も明日から考査でしょう? 大丈夫なの?」


「何がですか?」


「え、だから勉強しなくてもいいの?」


「毎日きちんとしてますから。それに……こんな貴重な場面を見逃すなんて出来ません」



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