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「全部聞こえてるから。どうするの、これ。届けるの?」
須藤くんは麦茶のグラスを鈴木くんに手渡して、左手に持っていた重そうな紺色のお弁当袋を掲げる。
「しかも高校生の頃から地獄耳なのよね。ほんと小姑だわよ」
「母さんの声が大きいだけだよ。で、どうするの?」
須藤くんと玲子さんの会話からして二人とも仲が良い。
須藤くんは不遇な少年時代があったけれど、お母さんの玲子さんがこういう明るい人だったから真っ直ぐに育ったんだろうなって思う。
中学生の時に澄彦さんに誘われて、須藤くんの家の庭先で流しそうめんをした時のことを思い出す。
あの時も同じようなことを私は思った。
「届けなきゃだわ。えーっと、今日は診療所にいるはずだから鳴黒ね」
「わかった。じゃあ行ってくるよ。良いよね? 二人とも」
須藤くんは鈴木くんを見て、鳴黒村は畜産業が盛んだから牛が見れるよ、と微笑んだ。
鈴白村は米や野菜農家、鳴黒村は畜産農家、緑林村は林業、藍染は物造り、赤石村は漁業とそれぞれの村では基幹産業に特色があり、競合することを避けられた仕組みになっている。
だからと言って緑林村だから農業をしてはいけないとかそういう訳でもない。
ただし、畜産関係は鳴黒村に限られていた。
庭先で飼う鶏くらいはどこの家でも大丈夫だけれど、養鶏場や養豚場、養牛場、酪農は鳴黒村でのみ許されていた。
国の許しではなく、正武家の許しである。と言えば誰でも何となく何かがあるから鳴黒村以外で畜産関係を営めば『良くないことが起こるのだろう』と暗黙の了解をしている。
ちなみに、だけど。
五村の特色を玉彦から教えてもらった高校生の時、養牛場という言葉を初めて私は聞いた。
玉彦によれば養牛場の牛は食用で、酪農の牛は牛乳やチーズなどの乳製品を製造するための乳牛なのだそうだ。
再び須藤くんが運転する車に乗り、開けたウィンドウから外の景色をぼんやり眺めていると、牛の姿よりも先に独特な匂いが私の鼻に届く。
「おおおっ! これぞ田舎の香り!」
鈴木くんは目を閉じて感動している。
正直、鈴木くんは目を閉じていれば動物園に行っても田舎の香りは経験できそうである。
須藤くんのお父さんは爽太さんというお名前で、五村に一軒だけある動物病院のお医者さんである。
動物病院は鳴黒村にあり、畜産医も兼ねているため年がら年中忙しいらしい。
数年前には新たに二名の獣医師を雇い、三人の医師と十人の動物看護師が勤務していた。
ちなみに須藤医師以外は全員五村の美山高校進学特化の出身である。
恐らく澄彦さんの指示で人員が増やされたことは想像に難くない。
昔はお爺ちゃん先生が一人で頑張っていたのだけれど、かなりのご高齢で引退を希望していたそうだ。
後釜の医師を探していたところに、大学で村外に出ていた玲子さんが四歳年上の爽太さんと結婚して戻って来た。
既に獣医師として働いていた爽太さんは当時勤めていた動物病院を辞め、鈴白村へ戻り家の跡を継がなくてはならない玲子さんと結婚し、婿入り。
とりあえずは須藤家の猟師家業を手伝って、収入が足りないと感じたらどこかで働こうと考えていたらしい。
しかし村八分状態の須藤家の人間を誰かが雇ってくれることは難しく二人は頭を抱えたが、ふらりと須藤家を訪れた御門森の九条さんが鳴黒村で獣医師を探していると教えてくれて無事に働き口が見つかった。
爽太さんは鳴黒村の畜産農家さんたちから諸手を挙げて歓迎され、須藤家の人間だけれど村の外から来たお婿さんだし、何の事情も聞かされずに玲子さんに騙されて結婚してしまった気の毒な人と勝手に決めつけられて現在に至る。
爽太さんは事あるごとにそうではないですよ、と誤解を解こうとしたのだけれど耳を貸してはもらえなかった。
本当のところは、きちんと玲子さんは爽太さんに自分の家がどういう家なのか全部全部洗いざらい説明をして、結婚するならば村に戻らなければならないこと、婿養子にならなければならないことを伝えられても爽太さんは玲子さんと結婚すると決断したのだった。
と、ここまでは私が祝言の席で玲子さんから聞いた話である。
玉彦と私の馴れ初めの話から玲子さん夫妻の話になり、村外からの婿入りや嫁入りは何かと大変であると私の叔父さんの奥さんの夏子さんや南天さんの奥さんの紗恵さんが頷き合っていたので、よく覚えている。
私と須藤くんのお父さんである爽太さんは何度か顔を合わせたことはあるけれど、挨拶をする程度で込み入った話はしたことがない。
玉彦の誕生日会には玲子さんと出席してくれていたけれど、大体は私のお祖父ちゃんや叔父さんたち、澄彦さんと話をしていて、まぁそもそも自分の息子と同じ年の私と話をしても楽しくはないだろうなって思う。
私だって何をお話すれば良いのか分からないもん。




