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夕餉の席を後にして、私たちは手を繋いで外廊下を横切り、母屋へと帰る。
いつも通りに過ごしていても、ふとした時の玉彦の気遣いが以前とは違う。
お布団は上げ下げしてくれるし、襖を開けようとすれば私よりも先に腕を伸ばす。
お屋敷の中だっていうのにお風呂へ行く時でも手を引いてくれて、脱衣所の籠も椅子の上に持ち上げてくれたりする。
至れり尽くせりな待遇は玉彦だけではなく、澄彦さんや南天さんを始めとする稀人にも拡がっていた。
今までダイエットの為にしていた石段の掃き掃除は豹馬くんへと代わり、金魚池の管理には多門が手を挙げた。
台所仕事は須藤くんを中心に回り、私が何か手伝おうとすると冷たい水や包丁には触らない、火には近付かない様になど制約が多く、お手伝いするどころか邪魔になってしまうので早々に退散する羽目になった。
母屋の家事全般はこれまで以上に稀人たちが完璧に済ませてしまい、私の出番は全くない。
そしてお役目は澄彦さんからのお呼び出しが無い限り、当主や惣領の間に足を踏み入れてはならないと言われていた。
ついでに多くの客人が訪れる離れにも立ち入るな、と玉彦に釘を刺されている。
万が一風邪などをうつされたら大変だと馬鹿真面目に何度も私に五寸釘を打った。
そうなってくると私が自由に動けるのは母屋と、本殿と竹婆と香本さんが住まう本殿の離れのみ。
暇でブラブラして蔵の扉に手を掛ければ、黒駒がすっ飛んできて着物の裾を引っ張る始末である。
玉彦の誕生日から七日目。
正武家屋敷全体が過保護の塊で、予想以上に自分の身の回りが一変した私はうんざりして縁側で項垂れた。
贅沢な悩みなのかもしれない。
世の中には懐妊しても様々な事情から働かなくてはならない女性は沢山いる。
働かなくても家事はしなくちゃならないし、育児をする人もいる。
家族に介護が必要な人もいるだろうし、家の中で全く何もせずに居られることは恵まれているのかもしれない。
こうして考えていると、正武家に嫁いだ頃を思い出す。
あの頃も私は屋敷の中で何かできることは無いかと探し回り、澄彦さんと玉彦に外で働きたいと直談判したのだ。
その時二人から言われた私の仕事は、玉彦とこれから生まれてくる子供のお世話、あとは玉彦曰く彼の心の安寧の為に大人しくしていることだった。
学生時代は良かった。
正武家屋敷で生活していても学校へ行くことが仕事のようなもので、玉彦が大学へ通うために通山市で生活していたころは、日中は御門森の九条さんのところへ足繁く神守の眼の修行に通った。
単調であっても一日のルーティンワークがあったのでやるべきことが明確だった。
でも今はどうだろう。
何も、本当に何もすることがないのだ。
本や顛末記を読んだり、台所でテレビを観ながらお役目の終わりを待ち、部屋で玉彦を出迎えて夜になる。
玉彦は好きなことをすれば良いというけれど、前に作った庭の畑は手に雑菌が触れると言われて更地に戻されてしまった。
やることなすこと危ないと言われて、私の鬱憤は溜まりに溜まっていた。
これは誰かに聞いてもらわねばなるまい、と玉彦の言葉を心の中で真似て私は縁側の下から草履を足に引っかけて降りた。
五月から半年間は澄彦さんの下知により、お屋敷外へ出る時には当主か次代、稀人と一緒でなくてはならない。
家出騒動の咎なので仕方の無いことだ。
流石に私も申し訳ないと思っているので、きちんと従うのだ。
庭を左手に進み、産土神の大社前を通過、澄彦さんの母屋の庭を横切って、外廊下の脇をこっそり通る。
離れを横目に奥まで歩くと、岩肌に半分飲み込まれた本殿が姿を現した。
扉は硬く閉じられており中に神様が遊びに来ている気配はない。
最近御倉神を見かけないけれど元気にしているだろうか。
御倉神の為に用意されている台所の油揚げに手を付けられていないのを何度か確認していたので、ちょっと心配ではある。
でも神様だから何かあっても早々に死んでしまったりはしないだろう。
私は誰も居ない本殿に一礼して、隣に佇む離れの戸に手を掛けた。
「おはようございます」
挨拶しながら開くと、竹婆と香本さんが朝のワイドショーを観ながら丸い小さな卓袱台を囲んでいた。
竹婆は私を見ると滅多に見られないくらい破顔させて、中へ中へと勧めてくれたので遠慮なく勝手に座布団を敷いて卓袱台の輪の中に加わる。
三日前、竹婆は珍しく玉彦の母屋を訪れて、お祝いの言葉を私たち贈り、よくぞよくぞと何度も玉彦の肩を叩いた。
竹婆は玉彦と私が高校二年生の時にさっさと契れと爆弾発言をしてから、ずーっとこの時を待ち望んでいたので、大層喜んでくれたのだ。
ちなみにまだ私のお祖父ちゃんたちには報告はしていない。
次の生理予定日が過ぎ、医学的にも懐妊したと確定するまで事実は伏せることになっていたからだ。
揺らぎのお力が確実に自身の身体に宿っていると私も、お力を流し込んだ玉彦も自覚はしているのにおかしな話である。