12
片側一車線の橋はオレンジに照らされて人気もなければ車通りも無い。
ケツのポケットからスマホを出して時間を確認すると十時過ぎ。
丑三つ時じゃなかった事にホッとする。
辺りを見渡しても変な気配はなし。
小町ちゃんから聞いたお婆さんが登場することはないだろう。
そもそも、だ。
ここを通る人間みんなにお婆さんがちょっかいを出していたら、都市伝説的な噂が立っているはずだ。
……でも待てよ。
時間を戻すことを誰かに話すと殺すとか言われたら、噂にならないよな。
しかも寿命を払いまくって尽きた人間は誰かに話すことすら出来ないよな。死人に口無しってやつだ。
橋の下から温い湿った風がゆっくり流れてきて、立ち止まっていたオレの頬を不愉快に通り過ぎる。
早く、玉様の家に帰って涼しくて清潔な空間でテレビを観よう。早く早く早く。
オレは恐怖心と焦りからスマホを握ったまま走り出す。
子供みたいだけど嫌な場所はさっさと走り抜けてしまえばいいんだ。
早く早く早く。
家に帰る帰る帰る。
戻ってシャワー。戻ってテレビ。戻って冷蔵庫のお惣菜!
心の中で念仏の様に繰り返し、橋を渡りきってオレは後ろを振り返った。
何も変わりがない。
こういう時、前を向くとお婆さんがいるパターンだと思いつつ進行先に視線を向ける。
その先は小町ちゃんが言っていた様な奇妙な景色ではなく、普通に住宅街が続き、お婆さんの影すらなかった。
「なんだよー。全然平気じゃんかよー。ビビって損したわー」
誰に聞かれることも無い独り言を口にしたのは、本当に安心したからだ。
「ったくよー。何がお婆さんだ。ボケェ! 夜道にお婆さんなんかいたらそれだけでも普通に怖いわ! ちくしょー。ビビらせやがって」
安全を確信したオレは悪態をついて歩き出した。んだけども。
左足を一歩踏み出して、右足を持ち上げようとしても掴まれた様に動かない。
「あ、あれ?」
サッカーボールを蹴る勢いで足を振ってみても動かない。
イヤーな汗が全身から流れる。
ちなみに足元を確認する勇気はオレには無い。
足は固定されて動かないだけなんだよ。
嫌な気配もないし、ただ道路の隙間に足が嵌っているだけかもしれん。
でもよ……踝にしっかり絡む手の感触があるのはなんでなんだぜ?
オレは手に持ったままのスマホを見て、小町ちゃんにヘルプを出すことにした。
いや、小町ちゃんにヘルプしても須藤に連絡が行くだけだから直接須藤に電話した方が早い。
顔を少しだけ俯かせて画面を操作していると、身体とスマホを操作する両腕の三角の隙間にすっぽりとハメ込まれたようにニヤニヤと笑うお婆さんの顔が浮かび上がった。
白い髪はふんわりウェーブで、前髪はない。
小顔のパーツは小町ちゃんが言っていたように上品な感じで、午後の優雅なひとときに庭のテーブルで読書しながら紅茶を飲んでいる感じだ。
でも、表情はニヤニヤと笑ってこれでもかというくらい不気味なものだった。
「うっ、うぎゃー!」
オレはスマホを握り締めたまま尻餅をつくように後ろへ倒れたけど、ケツの辺りにはふかふかした感触があり痛くなかった。
よくよく見れば道路に寝そべったお婆さんの上に尻餅をついていたようで、腹にオレの意図しないヒップアタックを喰らったお婆さんはニヤニヤ顔を保っていたけど、ちょっとイラついたのが解かった。
お婆さんはオレの下からするりと身体を移動させ、空中に浮かんでこちらを見下ろす。
「戻る? 戻る? 戻る?」
お婆さんの問い掛けに答えず、オレは固まった。
コイツは本当にヤバい奴だ。
変な感じがあるものっていうのは、自分を隠しきれていないからなんだよ。隠す知恵がないっていうか。
逆にこのお婆さんの様に絶対に普通じゃないのに変な感じがしない奴っていうのは、自分が悪いモノっていう自覚があって、意識して存在を隠してるんだ。
黒いものに憑かれていた小町ちゃんや後ろ姿が歪んだ紅美ちゃんは、お婆さんの残り香が纏わりついていただけだったから隠しようがなかっただけで。
固まるオレの顔を覗き込んだお婆さんはニヤニヤして同じ問い掛けを繰り返す。
あぁ、呪文ってこれだったのかと思ってもすでに遅し。
オレはさっき心の中で繰り返していた。
てっきりもっと訳の分かんねぇ言葉の繰り返しだと思っていたのに、日常的に使うような言葉だったのかよ。
そうならそうと言ってくれよ、小町ちゃん!