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オレは母さんが「風呂敷は何でも包めるから一枚持って行きなさい」と言っていたお泊り道具入りの紫の風呂敷を膝に抱えて、絶対に出て行くもんかと丸くなった。
その様子を玉様は無表情で眺めつつ、ゆっくりと瞼を下ろす。
「仕方あるまい。熱中症で死なれても寝覚めが悪い。リビングで過ごすと良かろう。ただし、散らかすな。自身のことは自身でするように。我らのことはせずとも良い。わかったか?」
「うんうん、わかったよー! やっぱり最後は玉様だよな! 玉様大好き! ……御門森はクソだな。須藤は薄情だ」
若いくせして普段着は着物という玉様の紺色の着物の足に全力で抱き付いて頬擦りをすると、止めろと言われて蹴り転がされた。
何はともあれ、このひと夏の安全は確保された。
オレは転がりついでにそのままソファーまで身体をゴロゴロさせて、素早く荷物を解く。
着替え三日分と安眠マクラ、そして歯ブラシ。
あとはこの家にあるものを貸してもらおう、そうしよう。
だってオレの家のタオルはガサガサだけど、ここのは柔軟剤の良い匂いがしてふかふかだし、歯磨き粉はお洒落で味がついてるやつだし、布団は湿気たせんべい布団でもないし。
ただしマクラだけは譲れない。
ここの家のマクラは全員そば殻のちょっと硬いやつなんだよな。
オレの軽やかな頭にはクッション性が優れたマクラが合っているんだぜ。
いそいそと着替えを畳み直していると、黒革のソファーの背から御門森が呆れたように顔を振り向かせた。
「そのままここに住み付く気じゃねーよな?」
「許されるならいつまででも!」
「馬鹿を言うな。ひと夏だけしか許可はせぬぞ」
思いきり眉を顰めた玉様は腕組みをしながら二階へと消えて行った。
そんなこんなで始まったオレの涼やかライフが後に悪寒ライフに変わることを誰もこの時知らなかった。
玉様の家は快適そのものだった。
オレの部屋と雲泥の差である。
いつも綺麗で整理整頓され、心配しなくても三食出てくるし、何よりも涼しい。
変な臭いもしないし、飛び回るこばえもいない。
これが親元を離れて暮らす同じ学生の暮らしなのかとちょっとムカつく。しかも車も持っていやがるし。
そして何よりも良かったのは、家にはいつも誰かが居ることだった。
一人ぽっちで話し相手が居なくてテレビにツッコミを入れる必要が無い。
翌日夕方、オレがソファーに寝そべっているとピンポンが鳴って、彼女の小町ちゃんを連れた須田が三人に出迎えられていた。
お土産買って来たよーと、オレが人生で出会った中で一番の美人な小町ちゃんがリビングに足を踏み入れ、オレの姿を見るとあからさまに顔を顰めた。
顔を顰めても美人ってどういうことだよ。
艶やかに垂直に伸びる黒髪はしっとり柔らかそうで、勝ち気そうにパッチリとしている目はキラキラで、顔立ちは余計なものが一切なく洗練されて造り物っぽくて、程よい厚さの唇からは安定の毒舌が流れ出る。
「はぁ? なんで鈴木が居るのよ。あんたの分のアイス、ないからね。さっさと帰りなさいよ」
「う、うるせー。オレはここで暮らすんだ。お前こそ帰れ!」
「暮らすー?」
小町ちゃんはアイスの箱を須藤に手渡しつつ、どかりと慣れたようにオレの目の前の一人掛けのソファーに座った。
ショートパンツから伸ばされた長い足を斜めに組み、両腕は背凭れに広げて預けてオレを見下す様に形の良い小さな顎を少しだけ上向きにする。
オレ、こういうの見たことある。
黒いボンテージを着て、ハイヒールを履いていれば、女王様ってやつだ。
「なにとち狂ったこと言ってんのよ。馬鹿じゃないの。玉さま、本当?」
「諸事情があってな。ペットだと思えば腹も立つまい」
「こんなペット、お金積まれてもいらないわー」
散々な言われようだけど、オレは快適ライフ継続のため聞こえないフリをする。
玉様はあんなこと言ってるけど、実は結構優しいし追い出すことは絶対にしない。
小町ちゃんに何を言われようとも約束したことは翻さない主義だとオレは知っているんだぜ。
でも一つだけ例外があって……。
「このペット、調子に乗ってずーっとくっついて来たらどうすんのよ。鈴白村まで。そんなことになったら比和が怒ると思うけどなー」
玉様唯一の弱味である婚約者の比和子ちゃんの名を出した小町ちゃんを目を見開いて見つめた玉様は、オレに疑わし気な視線を送ってきたので、ひと夏だけだ!と言葉にすれば安心したように頷く。
くっそう。小町ちゃんめ。余計なことを言いやがって。
冬が寒かったら転がり込もうと思っていたのに。