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澄彦さんの住所は宿帳に書かれている。
しかも別館を貸し切りにするくらいのお金持ちなんだと仲居さんは思っただろう。
たとえ依頼者の村長さんが宿の支払いをしたとは言え、そういう待遇を当たり前のように受ける人物なのだと。
酒宴で話をすれば、自分の恋を応援してくれている。
子供の予防接種はまだ終わっていないから海外に連れ出すことは出来ない。
予防接種が必要な子供の年齢は……。
「あ、あれ?」
とぼけて首を傾げた澄彦さんはニコリと引き攣りながら笑う。
ここに玉彦が居なくて本当に良かった。
居たら絶対、ぜーったい、成敗すると喧嘩になっていた。
「その子供って、例のS様宛の子供なんじゃないんですか!?」
「あ、比和子ちゃんもそう思った? 僕も今、そう思った」
しれっと言ってのけた澄彦さんは苦笑いに変わって、南天さんを見る。
「私も全く気が付きませんでした。恐らくそうなのでしょう。明日、すぐに連絡を付けます」
「そうしてくれ。もし彼女が既に海外へ行っているようなら、しばらくはこちらで預かろう。応援するって言っちゃったし……」
という訳で、翌朝南天さんから旅館へ連絡をすれば彼女は旅館を辞めていたのだけれど、まだ日本には居たそうで、彼女の長女が赤ちゃんの行方を捜していたそうだ。
おそらく長女も子供を産んで大変な時期なのに。
問題の仲居さんは澄彦さんが応援してくれるって言ったし、お金持ちそうだから子供の一人くらい面倒をみてくれるだろうと安易な考えだったそうで、長女は母とは縁を切ります、と南天さんに宣言したそうだ。
何はともあれ解決への糸口が見つかり、ホッとしていると私の正面に座っていた竜輝くんが変人ではなくただの常識が無い人なのでは、と呟いた。
「変人には変人、常識が無い人には常識が無い人が寄ってくるのよ。まったくもう」
私がそう言うと澄彦さんは何かを言いたげだったけれど、御猪口へ口を付けて言葉を飲み込んだ。
これくらいの嫌味で収まるなら良しとしたのかもしれない。
だってここに玉彦が居たらこれだけじゃあ済まなかっただろうし。
何とも言えない雰囲気になってしまった晩酌の席だったけれど、その空気はお風呂上がりの須藤くんの登場で一掃された。
須藤くんは高彬さんに飯野親子と鈴木くんを託して、五村からは出ずに戻って来た。
てっきりお家まで送るのかと思っていたのに、流石に玉彦と豹馬くん、そして多門が不在とあっては心配だったようだ。
普段でも誰かが不在の場合は有り得ることだけれど、当主次代の過保護が感染し、須藤くんも過保護になってしまっていた。
須藤くんはS様の件が解決しそうだと聞いて、素直に良かったと微笑んだ。
そして私がやっぱり澄彦さんが原因で、と付け加えると苦笑いを浮かべる。
澄彦さんの母屋に全員集合して雑談に花を咲かせていても、私の視線は数分おきにテーブルに置いてある南天さんのスマホを横目で確認していた。
そうして晩酌が終わりを迎えそうな午後二十二時。
ジリリリリンと黒電話の着信音が台所に響き、全員の視線がスマホを耳に当てた南天さんに集まる。
はい、と応じた南天さんはしばらく無言で、分かりました、と言って私たちを見てから通話を切った。
「豹馬からの連絡です。負傷者が二名いるので病院へ寄ってから戻るようです」
「二名って! 玉彦と多門ですか!?」
椅子から立ち上がりテーブルに乗せた両手の指先から冷えが襲う。
怪我をするようなお役目だったのだろうか。
玉彦が怪我をするって相当厄介な相手だ。
しかもお役目で負傷してもお屋敷に帰って来て、竹婆に診てもらうのが通例になっているのに。
お役目で負った傷は禍に依ってもたらされるから、普通の病院じゃ診られない。
普通の治療をしたとしても効果が無いのだ。
以前玉彦が白猿に左腕を噛まれた時は深い傷だったにも係わらず病院へは行かずに、松梅コンビに止血して縫ってもらい竹婆特製の塗り薬と痛み止めの粉薬で治した。
澄彦さん曰く、普通に治療しても穢れに冒された傷は腐っていくのだそうだ。
前のめりになる私に南天さんは眉根を寄せて腕を組む。
「負傷者は多門と……蘇芳様のお寺の僧侶の様です。多門は恐らく腕が折れているのではないかと。僧侶の方は胃洗浄をするそうです」
「骨折!?」
ふらふらと椅子に座った私の背中を竜輝くんが擦ってくれる。
「多門が骨折って……。よっぽどなお役目じゃないですか……。黒駒が居るのにどうして多門が」
そんなお役目なら私のお守りなんかしないで、須藤くんと二人で向かうべきだったんじゃないの?
どうして蘇芳さんは多門一人だけを指名したんだろう。
気を許してはいけない、と言った日中の竹婆の言葉が頭を過る。
まさか蘇芳さんは稀人を減らし、正武家の弱体化を狙っていた?
今回は玉彦と豹馬くんが外のお役目に出ていたからすぐにお寺に駆けつけることが出来た。
でももし、鈴白村に居たなら到着するまでに倍の時間が掛かって多門を助けられなかったかもしれない。
ぐるぐると疑心暗鬼な考えが頭を回る。
蘇芳さんは澄彦さんの悪友であって、正武家の傘下ではない。
従えられている人間ではないから、いつ裏切られるかわからない。
通山の陣さんたちのようにお役目を振り分けられ、そこに金銭が絡む雇用の関係性すらない。
現状は澄彦さんと蘇芳さんの信頼で成り立っているだけの関係だ。
段々と唇を噛み締めた私を見て、須藤くんが顔を覗き込んだ。
「とりあえずみんな生きてるから、大丈夫。病院で処置をしてからになると明け方近くに帰宅ですかね、南天さん」
「そうですね。三時か四時になるかもしれませんね。ひと眠りする時間はありそうです」
そう答えた南天さんは、テーブルの上のおつまみなどを澄彦さんに断らずに片付け始め、澄彦さんはごちそうさまおやすみなさい、と言って顔を顰めたまま台所を出て行った。
機嫌が下降気味になったのは、強制的に晩酌を終わらされたからなのか、蘇芳さんに対して思うところがあったのかは解らない。
南天さんの手伝いをする竜輝くんを残し、私と須藤くんは母屋へと戻り、一先ず休むようにと私に言った須藤くんは部屋から出ると足早にどこかへ行ってしまったのだった。