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「比和子ちゃーん」
襖の向こうから小さな鈴木くんの声が聞こえて、私はよっこらせと立ち上がって襖を開ける。
そこにはペットボトルのお茶を二本持った鈴木くんがニコニコしながら立っていた。
一晩ゆっくり眠って、午前中も身体を休めたお陰か体調はそこそこ戻ったように見える。
「どうしたの?」
「みんな仕事だって出払っちゃって、一人ぼっちになっちゃったから遊びに来たよっ」
「みんな?」
午後は確かにお役目が入っていたけれど、全員が出払っていることは無いはずだ。
最低でも黒駒をお目付け役に任命した多門は、黒駒に私を任せて母屋の雑事をしている。
「玉様も御門森も須藤も居ないんだよ」
「でも坊主頭の人がいたでしょう?」
私がそう言うと、鈴木くんは苦笑いしつつ顔を背けて横目を流す。
「アイツ、ちょっと怖いんだよね」
「怖い?」
「とげとげしてるっつーか、たぶんオレの事嫌ってる」
「そんなことないわよ。これから少しの間一緒に生活するんだから親睦を深めた方が良いわよー」
「……比和子ちゃんも一緒に深めない?」
「仕方ないわね。ちょっと待ってて」
開きっぱなしだった顛末記を文机に置いて、私は黒駒を従えて部屋を出る。
鈴木くんは狼のような大きさの黒駒にギョッとして目の下をひくひくさせていたけど、あえて何も聞いてこなかった。
二人と一匹で井戸端会議場となっている台所に足を踏み入れると、片付けをしていた多門がこちらを一瞥して無言で作業に戻る。
私からすればいつもの事で、特に話が無いならこれで良いと思うんだけど、鈴木くんにとっては話し掛けて欲しいのだろう。
自分から声を掛けないのは転がり込んだ居候としてちょっと引け目があるのかもしれない。
私は鈴木くんをダイニングテーブルの椅子に座らせて、自分も隣に座る。
すると多門がいつもの様にお茶を二つ淹れてくれた。
ほらね。二つあるもん。鈴木くんを嫌っているわけじゃないのよ。
「たもーん」
「今、お仕事中」
私たちに背を向けて包丁を研ぎ始めた多門は放って置いて、隣の鈴木くんを見れば正面の椅子にちゃっかり陣取ってお座りしていた黒駒と見つめ合っている。
というか黒駒は見ているだけなのに、鈴木くんは蛇に睨まれた蛙の様になっていた。
「鈴木くん?」
「な、なんだい、比和子ちゃん」
黒駒から目を逸らすと襲われると思っている感じの鈴木くんは私を見ずに返事をする。
「その子ね、黒駒っていうの。犬」
「犬ぅ~!? これが!?」
思わず私を二度見した鈴木くんはヤバいと視線を黒駒に向けたけど、当の黒駒は後ろを向いて多門の背中を眺めていた。
ほっと息を吐いて、鈴木くんは出されたお茶に口を付ける。
「普通の犬より大きいけど、無暗に噛んだり吠えたりしないから大丈夫よ」
「ま、まぁ大人しくてよく躾けされてるなとは思うけど……存在自体がなんていうか不思議な感じだね」
「不思議?」
「生きてる感じがしないっていうか……」
鈴木くんの鋭い洞察に包丁を研いでいた多門の手が一瞬止まり、再び規則的な音を再開させる。
鈴木くんは自分の積み重ねてきた経験が直感となって普通では無いものを無意識に識別出来ている。
なのにどうしてあんなに黒い靄を背負いこんでしまったのだろう。
きっと変なモノには近寄らない様にしていたはずなんだけど。
鈴木くんとは当たり障りのない話しかしていないと玉彦から聞いていた私は、ちょっと一歩踏み込んで質問してみた。
「鈴木くんはお化けとか幽霊とか信じる?」
自分的には何気なく聞いたつもりだったけど、鈴木くんは今回実家から逃げ出してきた理由を玉彦から聞いた私が興味本位で尋ねてきたと感じたようで、顔を伏せて黙り込んでしまった。
数回しか会ったことがなかった鈴木くんだけど、彼は会うたびに明るくノリが良い感じだったのに、唇を引き結び、私との間に見えない線を一瞬にして引いてしまった。
聞き方がマズかったと後悔してももう遅く、黙りこくった鈴木くんは微動だにしない。
まだ話を振るのは早すぎて、玉彦よりも出しゃばったことをしてしまったと私も段々顔が俯く。
玉彦に任せておけば良かった……。
彼だったらお役目の謁見で相談者の話を聞くことや、不可思議なものを信じない、信じたくない人達の扱いにも長けている。
まだそういう話をするには早いと判断していたのに私ってば最悪だ。
気まずい雰囲気の中、多門の手が止まり水音が流れる。
蛇口をキュッと締めて多門は濡れた手を拭い振り向く。
「信じるも信じないも居るんだよ。そこここに。鈴木だってそれで困って屋敷に来てんのに比和子ちゃんボケてんの?」
「ボケっ……!」
多門は乱暴に椅子を引くと黒駒の隣に座り、私と鈴木くんを見てから片眉を上げる。
「もう隠してたってしょうがないだろ。で、鈴木だって何となく気付いてんだろ? ここがどういうところかって」
「……うん。はい」
「どういうことよ?」
「普通に考えて禊とかすぐに出来る家っておかしいじゃん。本殿とか。仕事のことをお役目って言ってることだって朝餉の時におかしいなって思っただろ?」
「……うん。思った」
「思ってたの!?」
振り被った私に背を仰け反らせた鈴木くんは、気まずそうに視線は合わせてくれない。
「玉様たちがなんにも話してくれないから聞いちゃまずいことなのかなって。知らないふりした方がいいのかなって」
「そうならそうと言ってくれれば良かったのに……」
「だから比和子ちゃんとこっそり話そうと思ったんだけどさ……」
チラリと多門を見た鈴木くんは再び顔を伏せた。