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16


 多門と黒駒が寺に現れた時に纏っていた不穏な気配を含む靄が冷やりと足を掠め、俺は無意識に手で払った。

 訝し気にこちらを見る多門には何も視えていないようだ。


 俺に視えていて、多門には視えていない……。

 そんなことはあり得ない。


「その、荷物の中には何が入っているんだ?」


「はぁ? 着替えとかだけど?」


「しかし、ではこの黒いものはなんなんだ」


 俺の問い掛けにハッとした多門は荷物を引っくり返して中を弄り、一瞬眉を顰めて手を引き抜く。

 右手に掴まれた薄紫色の札からはじわりじわりと靄が生み出されていた。

 禍々しい気配の元凶は多門でも黒駒でも無く、この札だったのか。


「比和子ちゃんの仕業だな……」


 ぽつりと呟いた多門は札を荷物の中に入れ直し、荷物の口をしっかりと閉める。

 すると靄は一切漏れださずに室内は通常の気配に戻った。


「黒いものが視えた?」


「黒い、水蒸気のようなものが視えた」


 俺の答えに多門は首を捻る。


「オレにはただの御札なんだけど、信久には黒く視えるのか。やっぱり仏教とは相性はそんなに良くないんだな」


「相性?」


「……こっちの話だから気にしなくていい」


 そこで話題を打ち切った多門にそれ以上聞くことは出来ず、俺は部屋を見渡す。


「そう言えば竹筒は」


「あそこ」


 多門の指先は部屋の隅に丸くなる黒駒を示す。


「黒駒が抱いてる。番犬」


「なるほど」


 黒駒は元狗神で今は式神と説明を受けていた俺は感心して頷いた。

 確かにこれ以上の番犬はいない。

 眠らず、主の命令を守る。人間以外のものにも対応出来る。

 黒駒が竹筒を見ていれば多門の手は空くという寸法か。

 明日、宿坊に黒駒を残して窟へと行くつもりなのかと思っていると、俺の考えなどお見通しの多門は竹筒は持ち歩くと聞いてもいないのに答えた。

 それから多門と俺は無駄な押し問答を繰り返し、ともかく明朝また説得に来るからな、と就寝時間が迫った俺は捨て台詞を残して宿坊を後にした。


 僧房に戻ると風呂上がりの優心が神妙な面持ちで待ち構えており、俺の冴えない表情を見止めると次は僕も行きます、とだけ言って布団に入った。

 何としてでも明日の朝に多門を止めなくてはならない。

 俺一人では無理だが優心が居れば何とか力尽くで、いけないか……。

 優心は力に訴えるような説得はしたくないだろうし、何よりも、非力だ。

 二人で付き纏っていれば足手纏いの俺たちを連れて窟へは行けないと多門が思ってくれれば良いのだが。

 望みは薄いのだろうな……。

 そんな事を考えつつ、俺は肉体的な疲労感と精神的な消耗から深い眠りに就いた。












 翌朝。午前四時。


 目覚ましを掛けることなくいつも通りに目が覚めた俺は、むくりと起き上がり隣を見た。

 優心は既に起きており、布団は畳まれ押し入れにしまわれている。

 窓際を見ればしっとりと濡れた手拭いが干され、手洗所での身支度も済んでいるようだった。


 優心はいつも俺よりも後に寝て、先に起きる。

 半年ほどだが俺の方が先に寺へと来ていたので、同等の僧階だがいつも俺を上として扱う。

 年も同じなのだからそんなに気を遣わなくても良いと言ってはいるが、優心は性分だと言って笑う。

 確かに優心は下の僧侶であっても懇親丁寧に接するので、俺とは違い人望もある。

 しかし時としてその人望には邪な感情が込められてしまうこともあった。

 数か月前に襲われた優心はそれ以降、僧房には鍵を掛け、絶対に返事があるまで中を誰も覗くなと口調を荒げたことは記憶に新しい。

 たまたま部屋に戻った俺が組み敷かれた優心を助け未遂に終わったが、肝を冷やしたのと同時に俺は肌蹴た裾から覗いた優心の男ながらに艶めかしい細い足が目に焼き付き、数日間煩悩に苦しんだ。


 朝から何故かそんなことを思い出して、俺は激しく首を振った。

 そうして箪笥から手拭いを出し、肩に引っ掛けて僧房を出れば、なにやら宿坊へ向かう回廊が騒がしい。

 朝から騒ぎを起こすと上の者に叱られると窘めに行こうと足を向ける。

 宿坊には現在、多門と黒駒が滞在しているだけだ。

 大方優心が朝から多門を説得に出掛け、一悶着起こしているのだろうと俺は思った。

 朝早くから起こされた多門が優心に悪態でもついているのだろうと。


 回廊を渡り、宿坊が面している廊下には手洗所帰りの僧侶が三人、中を伺い、けれど外に出ていた黒駒に威嚇され動けないでいる姿が目に飛び込んできた。

 頭を低くし牙を剥く黒駒に尋常ではない何かが中で起こっていると感じた俺は駆け出す。

 もしや竹筒から小さな狗神が飛び出し、多門が襲われているのではと駆け付ければ優心の悲鳴にも似た叫びが耳に届く。


「後生です! 後生ですから! お止めください!」


 磨かれた廊下を横滑りして黒駒を目の前にすれば牙には血が滴っていた。

 黒駒から顔を上げ、開け放たれた宿坊の入り口から見えたものは、丸く身を屈めた優心の背に馬乗りになった黒いスーツ姿の多門で、優心の作務衣の襟首を掴み身体を起こそうと格闘していた。

 頑なに前身頃を両手で守り、脱がされまいとする優心の手からは血が流れており、俺はカッと頭に血が上った。

 多門がそう云う人間だとは思いたくも無かったが現状を目にすればそれは明らかで、立ち塞がる黒駒を掻い潜り、優心を襲う多門に体当たりを喰らわせる。

 しかし多門は一切揺らがずに俺を弾き返した。


「馬鹿野郎! 優心を放せ!」


 三歩踏鞴を踏み振り返り、多門へと腕を伸ばせば呆気なく振り払われ片手で投げ飛ばされた。


「勘違いしてんじゃねーよ!」


 起き上がる俺に一瞥をくれた多門は再び優心の身ぐるみを剥がそうとし、けれども抵抗される。

 俺は多門の背中に飛びつき、廊下で右往左往していた僧侶に蘇芳様を呼んでくるように叫ぶ。


「何をしてる! 止めろ、多門!」


「止めるのはお前だ、馬鹿!」


 羽交い絞めにされそうになった多門は俺を振り払う為に優心に跨ったまま、両手を脇下に入れていた俺の腕を取り、豪快に背負い投げる。

 押し入れの襖に背中から落とされ、俺は痛みでのた打ち回ったが、優心は這い蹲って多門の足元から抜け出したのを見た。


「逃げろ! 優心!」


 俺を見て頷いた優心は胸元を押さえながら廊下へと駆け出す。

 後を追おうとした多門と黒駒の足を倒れながらも掴んだ俺は必死だったが、頭上で多門の怒鳴りを聞いて茫然と手を離した。


「管狐と狗を奪っていったんだぞ、アイツは!」




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