第一章『玉彦の揺らぎの行方』
六月某日、正武家玉彦二十五歳の誕生日、夜。
私が高校二年生の時に正武家へと引越しをしてきてから、玉彦のお誕生日は人並みに祝うようになった。
それまでは朝餉の席で誕生日おめでとう、と言葉を交わすだけだったそうで何とも呆気ないお祝いの仕方に私が驚き、ケーキを焼いたりプレゼントを急遽用意したのが始まりで、今では澄彦さんのお誕生日も皆で盛大にお祝いする様になっていた。
しかし、今夜の玉彦のお誕生日会は夕餉のデザートがケーキだったということ以外、日常と変わりない。
しいて言えば、とある理由から、今夜玉彦側の母屋に常駐していた稀人には二日間の休暇が出され、当番になっている稀人の豹馬くんのみ離れで待機していた。
澄彦さん側の母屋には南天さんが滞在しており、急なお役目に対応するための準備は万全だった。
ちなみに二日間は当主の澄彦さんの命により、お役目は一切ない。
とうとうこの日がやって来た……。
私は一人で檜の湯船に浸かり、手にしていたタオルで首筋を拭う。
あの日。
須藤くんと通山市の実家で二人きりになったあの夜……。
鈴白村へ帰って来たのはもう日付が変わる時間で、裏門で出迎えてくれた玉彦は文句の一つも言いたげだったけれど、車から降ろされた大量のアルバムを見ると理由を察した様で運び入れるのを手伝ってくれた。
私と須藤くんが実家でアルバムを見ながら昔話に花を咲かせていたとでも思ったのだろう。
私室に運び込まれたアルバムから写真を取り出して玉彦のプレゼント用にしようとしていたら、せっかくお父さんやお母さんが考えてアルバムに貼り付けたものをわざわざ剥がすことは無い、と優しい玉彦はそのままで良いと言ってくれた。
両親が遺してくれたものに手を加えてしまえば思い出が色褪せてしまうかもしれない、と玉彦はちょっとだけ悲しそうに微笑んだ。
私は帰宅して玉彦の微笑みを見て、思った。
彼を裏切る様な真似をしなくて、本当に良かったと。
少しでも後ろ暗いことがあったら、私はこの先ずっと真っ直ぐに彼を見つめることは出来なかった。
そして、大人な須藤くんの判断にも感謝しかなかった。
私が変に思い込んで考え、暴走を察知した彼の判断は素晴らしかった。
「きちんと『フッて』よ、上守さん」
「え?」
握りしめた鈴を指差した須藤くんは、前屈みに座っていたソファーの背凭れにグググッと背中を預けて伸びをする。
「鈴。返事をしないと上守さんと僕に在らぬ疑いを掛けられちゃうよ」
「あ、うん。『ごめんね、須藤くん』」
私がいつもの様に四回鳴らせば、鈴は安心したかのように三回返事が返ってくる。
間髪入れない返事に玉彦が鈴と睨めっこしている姿が思い浮かぶ。
「あのさ、須藤くん」
「なに?」
「子供のことなんだけどさ」
「あぁ、あれね。上守さん、深く考え過ぎ。僕もちょっと面白くなって弄っちゃったけど、ごめんね。玉彦様と上守さんの子供は、将来僕たち稀人が護っていく。それこそ親が子供の成長を見守るようにね。きっとそういうことなんだと思うよ。南天さんを見ていて思わない? 自分の弟と同い年の玉彦様に対して。僕からすればこれから生まれてくる上守さんの子供は、自分の子供みたいなものだよ」
「あ、そんな感じなの? まぁ私も南天さんに妹みたいなもんだって言われたことあるけど」
「そんな感じだよ。だって冷静に考えて、僕と上守さんがそんなことになったら、正武家というか五村が引っくり返ってしまうし、須藤家も上守家もただじゃ済まないでしょ。それに何より、上守さんが玉彦様以外の人間と幸せになれるとは思わない。上守さんは玉彦様と一緒に在るべきで、そう在ることで護られる。上守さんの幸せを願う僕は、二人の邪魔をする人間を追い払うことはあっても、二人の仲の邪魔をしようとか考えないよ」
「なんだか、変な考えをしてしまってすみません」
「僕の方こそごめんね。まさか上守さんがそこまで真剣に考えるとは思わなくってさ。笑い飛ばしてくれたら良いなーって思ったんだけど、ちょっと裏目に出ちゃったよ……」
苦笑いした須藤くんは再び三回鳴った鈴を振れという。
ほんとにもう。一回返事をしたからいいじゃないの、とブツブツ文句を言いながら乱暴に鈴を何度も振ると、数秒後に須藤くんのポケットのスマホがけたたましく鳴らされたのだった。