後始末
翌日、馬場民部は追撃戦の提案をしました。が、晴信は即答せず忍びの報告を待っています。その間、八幡原での論功行賞に向けた調査をしていましたが、各将からの報告が絶えません。誰々がだれそれの首を取ったとか、首を奪還したとか。そのほか、「敵兵の死傷者3500名」とか、地元の農民が落ち武者狩りをして刀や防具を盗んでいったとか報告が続き、1つ1つの報告に対して晴信自ら対応をしています。
「農民から武器は没収しろ、そのかわり戦で作物に影響が出た者には補償を十分に与えよ」
「海津城周辺の今年の年貢は免除する」
などと具体的な指図を行なっています。すると、忍びからの報告が入ってきました。
「上杉軍は善光寺へ引き上げた後、越後へ撤退を始めました」
それを横で聞いていた馬場民部は、
「お屋形様。今こそ追撃を。某にご命じ下されば必ずや政虎の首を取って見せましょうぞ」
馬場民部はまだ諦めていません。ところが晴信は、
「その必要はない。越後へ戻ればそれは信濃を放棄するという事だ。これを持って信濃の戦は終わりとする」
皆の前ではっきりと告げたのです。馬場民部がうなだれて席を外した後に霞又右衛門が報告にやってきました。
「お屋形様。上杉はかなり疲弊しております。ただ動きが早く追いかければ越後まで行くことになると思います」
「そうであろう。追うならとっくに追っている。今回はなんとか勝った、だが勝ったのだ。これでいい」
「気になることがございます」
「善光寺の兵か?」
「はい。善光寺からの増援がお味方の背後を突く作戦であったようです。山から馬場様が来る前に背後を突かれては危なかったでしょう」
「危なかったではない。余の首はくっついていないだろう」
あの夜、真田源五郎昌幸が勝頼の使者としてやってきた。2人で検討した結果、籠城すべきだと。攻めれば山に兵が取り残され、善光寺からの増援がくれば挟み撃ちで負けるというのだ。
「あやつらの言う通りになった。だが、余は勝ったのだ。で、あいつらが食い止めたのか?」
「恐らくは。増援は犀川を渡る前で何者かに攻められ、戻ったようでした」
「なぜだ?勝頼は500程しか連れてきていないと言っていたぞ。それでどうやって5000の兵を退けたのだ?」
「これが落ちていました」
霞又右衛門は、地面に落ちていた砲弾を晴信に見せました。
「重いな。鉄の玉か。そうか勝頼め、昔里美が言っておったわ。このような物を作っていたのか」
「わかったのでありますか?」
「ああ。あそこには塩硝もある。だがあいつが考えたのであろうか?」
晴信は戻ったら呼び出して聞き出すことにして仕事に戻りました。
晴信は諏訪隊の活躍が神がかっていた事が気になっていました。信頼する三郎兵衞に、
「例のお諏訪太鼓だが、一応調べてみてくれぬか。余は神を信じてはいるがそれだけで勝てる程戦は甘くはない」
三郎兵衞は、諏訪隊が戦っていた付近を捜索し、不思議な物を見つけました。
「お屋形様。諏訪隊が戦っていた新発田隊の兵の死体にこのような物が刺さっておりました。また、切り傷でも刺し傷でもなく、削られたような傷がある死体が数多く転がっていました」
三郎兵衞は尖った鉄の破片を手渡します。
「もしや、これも勝頼か」
「なんと仰せられる」
「諏訪を呼べ」
その後、3日ほど八幡原に居残り、上杉が完全に撤退したのを確認した後、あらためて勝鬨の儀式を行いました。これは勝利の儀式で、戦の功労者が太刀や弓を持って立ち、えい、えい、おーと勝鬨の声を上げるのです。太刀取りには馬場民部が、弓取りには信濃勢を代表として室賀信俊が任命されました。
晴信は馬場民部が今回の失敗からなんとか挽回しようと必死になっていたのを見ています。それを称えたのです。慰めの意味合いもあったのでしょう。また、信濃勢の活躍も見事でした。特に典厩信繁が倒れた後に崩れずに持ち堪えられたのは、諏訪、室賀の頑張りによるものです。諏訪ではなく室賀を選んだのは、信濃の代表者という意味でした。諏訪には勝頼がいます。真田は武田家で信頼度が高い武将です。室賀は真田と同じ小県の室賀城主ですが、信濃勢の要の武将です。この戦までは、信濃衆は甲斐衆より扱いが低く部が悪いところに配置されていましたが、晴信は、
「これからは甲信一体となって進むぞ」
と言って勝鬨を行いました。そして古府中へと戻って行きました。
高遠に戻った勝頼に晴信から呼び出しがありました。すぐに古府中へと来いと。
「源五郎、呼び出しがあった。お主も返さねばならんし、一緒に古府中へ行くか?」
「お供いたします」
「ちょっと諏訪に寄り道をしていくぞ。なあにすぐだ、時間はかからん」
勝頼達は諏訪大社に来ています。源五郎を待たせて、いつもの場所へ行き
「三雄殿。川中島の報告を」




