霧はどっちの味方
武田軍でも軍議が続いています。典厩信繁は、
「何も焦らずとも良いのではないか。霧が晴れてから仕掛けても問題はなかろう」
と安全策を訴えます。その理由は太郎義信が血気盛んに攻めたがるのです。それを見て何か危険と感じています。ところが義信は、
「霧で前が見えないところに夜の移動はできない。それを利用するのだ。一万二千の兵を山の途中まで登らせる。霧が晴れてきた朝、上杉は我らを見つけ山での応戦を避け、逆側から山を降りるであろう。そこを待ち伏せし、山の兵も一気に駆け降り挟み撃ちにする」
と上杉なんか怖くないモードに入っています。まだ太郎義信は負け戦の経験が無いのです。晴信は最も信頼している三郎兵衞(山県昌景)に聞きます。
「霧が不安です。我らの有利を霧が消してしまう気がしております」
と、そこに三郎兵衞の兄、飯富虎昌が逆の考えを述べます。
「義信様のお言葉通りと考えます。お屋形様のおっしゃる通り、この戦は敵を殲滅しなければなりません。霧こそが天機ではないでしょうか?」
その言葉が晴信の決心を決めました。虎昌が義信の味方をしたのが意外というか嫉妬のような感じを受けましたが、この戦はケリをつけなくてはならないのです。今晩決行です。晴信は城兵にソーセージを振る舞いました。これを食べて力を出せと言わんばかりに。と、そこに早馬が突然やってきました。晴信はその使者を見て驚きました。真田源五郎だったのです。
ソーセージを焼く煙が城から上がっています。それを見た上杉政虎は今夜仕掛けてくると確信しました。おそらくあれはそせーじとかいう肉を焼く煙だろうと。いつもと違う煙の武田の決心を感じたのです。上杉軍は篝火を残したまま霧の中をゆっくりと山を降りはじめました。
「武田に山を降りた事を悟られてはならない。兵を1000名残し全軍が滞在しているように見せるのだ」
霧が濃く、篝火の灯りと残った兵のざわめきが武田軍を騙します。武田軍の馬場民部、真田幸隆が率いる1万の兵が妻女山の裏手、清野から山を登り始めました。晴信の本隊も海津城を出て八幡原に向かいます。武田軍は上杉が霧の中を進まないと信じ、上杉は武田が霧を利用すると信じて行動を起こしています。
上杉政虎が打った布石が効いたのでしょうか?実は政虎は太郎義信に目を付けていました。3年前、第三次川中島で200日お見合いをしていた時、義信の存在に気付きました。こいつが武田を滅ぼす鍵になると。義信の兵に間者を忍び込ませ、上杉は大したことない、武田の騎馬武者は天下無敵、義信様こそが天下を取るお方だ、と言いふらします。それは義信の耳に入り、徐々に俺こそが武田だ、と自分は敵なし強者だと思い込んでいきました。義信は自信満々に軍議で攻めを主張しましたが、背景には三年がかりの罠が仕掛けられていたのです。そしてその自信が身を滅ぼすことになります。
山本勘助は、塩崎城から千曲川のほとりまで来ていました。海津城の軍議には参加せず上杉の動きを見張っていたのです。
「上杉が山を降りるならこの辺りで川を渡るはずだ。まさかとは思うが念には念だ」
そして味方が山を登っている時に、勘助の目の前に何やら人の気配がします。霧が濃くはっきりとはわかりませんが、徐々にその気配が強くなっていきます。そう、上杉軍が山を降りてきていたのです。
「ま、まずい。すぐにお屋形様に知らせなければ。いや、山の馬場様が先だ。山を登ってはいかん」
勘助は霧の中を駆け出します。山の登り口は2つ。1つは今、上杉軍が降りてきた道ですがそこは通れません。もう1つは武田軍が登りはじめた清野です。武田軍は上杉軍がを山から降ろした後、清野口に戻って八幡原へ戻る予定でした。ところが、勘助が清野口に着くとそこには村上義清率いる2000の兵が山の出口を塞いでいます。
「しまった。謀られた。お屋形様にお知らせせねば」
勘助は優先順位を変えて八幡原に陣を形成中の晴信の元へ走った。
「お屋形様。勘助でございます」
「どうした?上杉は山を降りたのか?」
「すでに山を降り終わる頃でございます。おそらく一万五千ほどの兵が八幡原へ向かっています。そして妻女山に登っているお味方は、清野口を村上義清率いる信濃勢に塞がれており急がねば戦に間に合いません。それがしはすぐに馬場様の元へ駆けつけます。ごめん」
「待て、勘助。……………、もう行ってしまったか。あやつに今死なれては困るのだ。おい、10人連れて勘助を助けよ。さて、むかで衆。緊急軍議だ。皆を集めよ」
旗本に指示をした後、将を集めました。むかで衆とは、晴信の指示を各軍に伝える伝令役です。むかで衆の指示は晴信の言葉と思うようにと躾けられています。
「陣を鶴翼に敷く。いいか、防戦に徹するのだ。どうやら裏の裏をかかれたようだ。上杉は一万五千の兵を八幡原に当ててきた。我らは一万、数では勝てん」
「お屋形様。何を弱気な。武田の騎馬隊は兵が少なくても力は上。上杉なんぞ蹴散らしてくれます」
「控えよ義信。戦はそんなに甘いものではない。山の兵が着くまで凌ぐのだ。山には馬場の他にも真田もいる。必ず奴らは間に合う。よいか、いかなる時でも陣から出るな。山の味方が現れた時こそ仕掛ける時。それまでは何があっても動かぬように」
中央前面に典厩信繁隊、内藤修理隊。左翼は原隼人隊、穴山隊。右翼は太郎義信、諸角隊という布陣になった。そして徐々に霧が薄くなっていく。そして霧が消えるのに連れて武田陣の前に上杉政虎軍が現れた。




